9-28.オルガンの音色

 グラスが倒れる音がした。テオの手元で水をぶちまけたグラスが、弧を描いてテーブルの上を転がる。


「何のことかわからない」

「口調は冷静ですね。流石は元刑務部……と言えばいいですか」


 ダスターを持ったアリトラが駆け寄ってきて、濡れたテーブルの上を丁寧に拭いた。中身が空になったグラスを手に取り、その側面に付着した水も拭き取る。


「リコリー、オレンジゼリー食べる?」

「もう出来たの?」

「朝から仕込んでたから。美味しいよ」


 呑気に会話を始めた双子だったが、テオがテーブルを拳で叩いたことにより中断させられた。


「どういう意味か説明したまえ。私が犯人を作り出しただと?」

「どういうも何も」


 返事をしたのはアリトラだった。空のグラスを持ったまま、テーブルの横に立って話し始める。


「この事件は犯人像があまりに曖昧だった。どうしてだろうって考えてたんだけど、犯人が実在しないなら全ての辻褄が合う」

「実在しないなら、どんな行動も可能です。そして痕跡を残さないことも。現場の状況は全て、存在しない犯人に実像を持たせるためにやったこと」


 呆気に取られるテオには構わず、双子は話を続けた。


「貴方はご自分の立場を利用して、存在しない「イゴット・キンダース」を作り上げた。越境する外国人に対して、フィンは非常に寛容です。だから書類さえ整っていれば、そこに書かれている人物が本当に存在するか、なんて誰も確かめない」

「教会の名簿にも何度か名前を書いておけば、恰もその人物が存在しているように偽装出来る。何か月も前から準備してるなんて、普通は考えもしない」

「そして「犯人」を用意した貴方は、トビー・アングレオンを殺害しました。教会に入ってからすぐに」

「……馬鹿なことを言うな」


 怒りなのか焦りなのか、テオは額に汗を浮かべながら反駁する。少し骨ばった輪郭が僅かに震えていた。


「何の根拠があって、そんな出鱈目を言うんだね」

「オルガン」


 リコリーは静かに言葉を被せた。


「根拠はオルガンの音です」

「君自身が聞いてもいないオルガンの音が、何の根拠になる。まさか夢で彼の演奏でも聞いたのか?」

「生憎と音楽のセンスはなくて。でも、貴方にはあるみたいですね」

「そうそう。だってオルガンの音が止んだから異常を感じたぐらいだもん」


 アリトラがわざとらしく感心した口調で言う。テオは何故目の前にいる喫茶店の店員が、我が物顔で話に入ってくるのか、考える余裕もなさそうだった。


「被害者は調律で来てたんでしょ? 演奏が途中で止んだとしても、それが異常事態とは限らない。音が気になって再度調律した可能性だってある。どうして教会の方に近づいたの?」

「……調律中か、そうでないかぐらいはわかる。私は何度も立ち会っているのだから。彼の調律は終わっていた」

「それは嘘。調律は終わっていなかった」


 断言するアリトラに対し、テオは一度天井を見上げると、大きく息を吐き出した。その吐息には苛立ちも混じっていたが、それが人に直接放たれることはなかった。


「だったらあの日、教会の近くにいた人々に聴いてみるといい。君の安易な想像では事実は覆せないよ。新聞に目を通す習慣はつけたほうがいいね」

「『その狂いも無き美しき調べが途切れたのは、革命のやり直しをするためであったのかもしれない』」


 リコリーが新聞のコラムに書いてあった文章を、一言一句違わずに諳んじた。


「あの時、皆が聞いたオルガンの音は完成していた。それは事実でしょう。確かに事実は覆らない。だからこそ、貴方の嘘は覆るんです」

「面白いね。どうしても無理を通したいと見える。しかし、君は……」

「教会に本当に犯人がいたなら、調律出来るはずがないんです。ワイヤーオルガンの調律は、たった一人で行わなければいけないんですから」

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