9-19.苦渋の決断

 シノ・セルバドスは胸元のネックレスの細い鎖を指で弄りながら、狭い部屋を見回した。監査委員会が所有する部屋に入るのは初めてではない。しかし、それはあくまで数人しかいない場合であり、今のように十名以上の職員がいる状況は初めてだった。少しでもスペースを確保するために部屋の隅に押し込められたデスクには、息子の名前が書かれたプレートが置かれている。


 ここ数ヶ月、リコリーは移民狩りによる不穏な空気にも全く気が付いていなかったようだが、流石に今は理解している、あるいは理解していて欲しいとシノは願っていた。双子が平和に暮らせるのはシノの最大の望みであるが、かといって愚鈍に育てたつもりもない。いつまでも親が見守る訳にはいかない以上、最低限の身を守る知識は与えたはずだった。


 恐らく双子がさほど気にしなかったのは、夫であるホースルが原因だとシノは分析していた。あの目立つ容姿で、しかも内情のよくわからない自営業を営んでいるにも関わらず、ホースルは移民狩りのことを気にも留めていなかった。最初は双子を怯えさせないためかとも思っていたが、今では違うとわかる。ホースルは恐らく、「どうでもよい」と思っている。昔からそういうところがあったのを、シノは今更に思い出していた。


「ゼンダー長官」


 部屋に集まったうちの一人が口を開く。此処にいるのは各部の責任者ばかりであり、いつもなら大会議室を使うような顔ぶれだった。

 本来であればクッションの利いた椅子に腰を下ろしているはずの彼らは、今は一様に硬い木製のスツールを使っている。


「何故、此処に?」


 その当然の疑問に対して、部屋の奥に立っていたテオは小さく頷いた。


「疑念はごもっともです。しかし、今は各部の中でも様々な意見が交錯しているでしょう。大会議室が安全な密室とは言えません」


 その場にいた全員が、テオの言わんとすることに気付いてざわめく。シノはその中で思わず挙手をしていた。


「誰かが、会議の内容を盗聴する危険があると?」

「セルバドス君か。その気になれば会議を盗聴する術などいくらでもある」

「しかしそれを防止、無効化することも可能です」

「それを言ったらキリがない。恐らく、カンティネスなんかは無効化の更に上を行く」


 シノは反論しようとして、しかし口を閉ざした。今はそれについて掘り下げるべきではない、と管理官としての理性が本能を留めたためだった。


「本題に入りましょう。招集の理由は「移民狩り」についてでしたね?」


 凛とした姿勢と声に釣られるようにして、他の人々も堅い椅子の上で姿勢を正す。

 その様子を見たテオは満足そうな表情を微かに見せた。


「昨今の情勢は制御機関と軍、そして政府の大きな課題となっている。今は監査委員会で「聖エルシャトン事件」について調査を進めているのは、皆さんもご存じの通りでしょう」


 何人かが頷いた。管理部も刑務部も法務部も、それぞれ異なる形で移民狩りの影響を受けている。

 特に刑務部は事件の増加により連日連夜の残業が続いており、シノの傍らにいる刑務長官の目の下には濃い隈が浮かんでいた。


「刑務部からの報告では、「異邦の門」は武器商人と契約を結んだそうです。そうですよね、ファゴット長官?」


 声をかけられた男は、隈の浮かんだ目を何度か瞬きさせてから立ち上がった。皺の目立つシャツには、何かのソースの汚れが付着している。


「二週間前にハリから国境を越えて入ってきたようだ。入国時の書類が国境軍に残っていた。勿論偽造だったが」

「どのような武器を扱っているかはわかりましたか?」

「ハリの方に書類に使われていた偽名で問い合わせた。どうやら主に市街戦で用いる武器を扱うようだ。例えば内戦とか暴動とかにはもってこいの品物ばかりだな」


 続けて男は武器のリストを読み上げた。刑務部以外の人間にはその半分も理解することは出来なかったが、それがどのようなものであるのかは有識者の反応を見れば明らかだった。素人でも扱えて殺傷能力の高い武器、そして火薬。もし「異邦の門」がそれを移民狩りに使えば、どうなるかは目に見えている。


「……ありがとうございました。聞いての通り、既に事態は逼迫しています。もし彼らがたった一発の弾丸でも移民の住む家に撃ち込めば、もう止めることは出来ません。軍も制圧のために動かざるを得ない。しかし、私としてはそれを事前に食い止めたい。だからこそ緊急招集を掛けたのです」


 テオが力強く言い放つ。シノはそれを真正面から受け入れるかのように顎を少し上げた。


「制御機関が武力行使することは出来ない筈ですが?」

「わかっている。軍より先に制圧しようというわけではない。あくまで防止策だ」


 シノの疑問を想定していたらしく、テオは流れるような口調で続けた。他の職員たちは、ただそれを見守っている。

 その視線の先でテオの唇がゆっくりと動いた。


「制御機関として、移民に対して避難と防衛を呼びかける」


 再び部屋の中が騒がしくなった。シノは周囲の戸惑う表情を見回した後に、その原因となったテオへと視線を戻した。


「移民狩りを行っている団体への説得などは?」

「それは軍の方に一任する」

「賛成出来ません」


 制御機関が移民に対して防衛を呼びかければ、ある意味で「異邦の門」の行為に対する容認となる。同様に軍が「異邦の門」への制圧を開始すれば、彼らの行為への否定となる。結果として制御機関と軍の方針が食い違う結果に成りかねない。


「異邦の門への説得を行うべきです」

「この数か月の間に何度も失敗したのに、まだその段階に拘るのか」


 そう零したのは横に座る刑務部長官だった。シャツに染み付いたソースを指で擦りながら、苛立ったような目をシノに向ける。


「貴女も既に知っている筈だろう。刑務部は何度も彼らに接触を試みた。最初はまだよかった。だが、容疑者を捕まえることが出来ないまま一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎ、もはや交渉するだけの駒はこちらにはない」

「ですが」

「ゼンダーの言う通り、事が起こってからでは遅い。だが移民全員を保護出来るわけではない。だったら防衛を呼びかけるのは一番手っ取り早いだろう」

「却って彼らを刺激することになったらどうするのですか」

「ではこれ以上の負荷を刑務部に背負えと言うのか」


 一瞬の沈黙が室内に流れた。


「先延ばしすることは不可能ではない。だが既に刑務部の職員にも限界が近づいている。このまま静観を続けたら、いざ問題が起きた時に何も出来なくなる可能性も考慮に入れなければならない。市民たちからは「制御機関は何もしないのか」と非難の声も出ている。その声を聴くのは事件の調査などで外に赴く俺たちだ」


 シノは言葉を詰まらせた。元々制御機関は事務作業を中心とする職員が多い。多少の荒事を対処する刑務部とて、常にそのための鍛錬を行っているわけではない。軍よりも限界を迎えるのが遥かに早いのは、容易に想定出来た。


「それとも、管理部が交渉するか?」


 苦笑交じりの言葉に、刑務部以外の職員は気まずそうに視線を逸らす。シノはそれでもなお反論できる材料を探していたが、後ろから上司に袖を引かれたことにより諦めた。

 誰も発言をする者がいなくなったのを確認して、テオがどこか諦めたような溜息を吐く。


「私とてこれが正解とは思いません。ファゴット長官もそうでしょう。ですが、最善は尽くさなければならない。それが制御機関の職員としての務めです。私情を持つなとは言いません。しかし私情に振り回されてはならない」


 そう言ったテオの表情は何処か苦々しいものだった。その奥歯で私情を噛み締めているかのようで、それを見たシノは無意識に似たような表情を作っていた。

 これまで続いていた安寧が、自分たちの決断で壊れてしまうかもしれない。その部屋にいる誰もが同じ気持ちを抱いていた。


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