9-17.聖エルシャトン教会
至極単純な好みで言えば、アリトラはピンク色や淡いオレンジ色が好きだった。しかしそれとは別として、衣服に選ぶのは黒や灰色などのモノトーンが多い。鮮やかな青い髪と赤い瞳を十分に引き立てる色を自分の中で模索した結果であり、その濃淡も普段から拘っている。
だからこそ、今現在被っている黒いつば広の帽子は少々不本意だった。波打つようなデザインのそれは夏用に買ったものであり、まだ肌寒い季節には合わない。だがアリトラの髪や目を隠してくれる帽子はそれしかなかった。
「日差し除けなら兎に角、人目避けに使うなんて面倒」
「仕方ないだろ、昨日の今日なんだし」
不満を述べる片割れを宥めるようにリコリーは静かな声で言った。とはいえ、アリトラの言わんとするところも理解出来るので少々複雑でもある。
「昨日は運が良かっただけで、もしかしたら怪我してたかもしれないし」
「それはわかってる。でも不満は不満」
周囲に人がいないためか、アリトラは遠慮もなくそんな言葉を口にした。朝方は寒いほどだった気温も、昼過ぎとなった今は和らいでいる。
聖エルシャトン教会の周囲は殆ど人がいなかった。元は王族が所有していた教会だからか住宅地からは遠く、半分枯れた芝生が教会を中心に扇形に広がっている。事件直後には随分と人が訪れたらしく数多の靴跡が地面に刻まれていたものの、教会自体が魔法陣により封鎖された以上は野次馬も居残る理由はなくなったと見え、足跡の半分以上は風により消えかけていた。
「大きい教会。何人くらい入れるの?」
「資料によれば三百人。でも革命時に救護施設として使われたらしいから、実際にはもう少し入れるだろうね」
針のように細長い円錐型の屋根を見上げながらリコリーは言った。歴史書を読むのが好きなリコリーにとって、この教会は非常に興味を惹かれるものだった。これが仕事でなければ、あるいは殺人事件の現場でなければ、思う存分に壁や窓の装飾を眺めて過ごすところだったが、そうもいかない。
「犯人が何処に逃げたかの手掛かりとか残っていればいいんだけど」
アリトラはそう言いながら教会の向こうに広がる雑木林を見る。
容疑者はその林を使って逃げ出したと新聞などには書かれているが、今のところ目撃者はいなかった。
「……ところでリコリーはここに何の用事なの? 調査って言ってたけど」
「うーん、それがよくわからないんだよね。事件資料と現場の状態を確認して、差分がないか見てこいって話なんだけど」
「刑務部のお仕事だと思う」
「多分、犯人が捕まらないことで刑務部に対する不信感みたいなのが出てるから、それを分散させるのが狙いだろうね。あるいは、二重に調べたという実績が欲しいのか」
リコリーは淡々と推測を述べながら、閉ざされた正面の扉の前に立つ。扉には大きな錠前がかかっていて、鍵穴の周りに魔法陣が刻まれていた。現場保存のために刑務部がつけたものであり、解錠するには専用の魔法鍵が必要となる。
予め借りてあった鍵を穴に差し込むと魔法陣が明るく光り、軽い音と共に錠前を解除した。
「じゃあ中に入るけど、勝手にいろいろ触ったりしたらダメだからね」
「わかってる。人を好奇心の塊のように言わない」
「間違ってないと思うけど」
扉が外側に開き、教会の内部を二人に曝け出す。刑務部が調べた後に撒いたと思われる消毒液の少し酸味のある匂いが鼻を突いた。それと同時に足元から冷えた空気が舞い上がる。教会の床は滑らかな石材で出来ており、古い建築物にはよく見られるものだった。見た目の良さから様々な場所で使われていたようだが、冬になると異常に冷たくなってしまうことから、今の時分は滅多に見ない。
細長いベンチを並べた先には、この教会の代名詞とも言えるワイヤーオルガンが置かれていた。琥珀色に磨かれた木で作られたそれは、薄暗い教会の中で荘厳な佇まいをしている。鍵盤部分がなければ、何かの儀式で使う祭壇のようにも見えた。木製の脚が四つある他、補強用に作られたと思しき金属製の棒が胴体部と床を繋いでいる。
二人の位置からは鍵盤が真正面に見えた。つまり奏者は入口に背を向けて演奏をすることとなる。ベンチに隠れてわからなかったが、よく見れば演奏時に使う椅子が手前に横転していた。
「オルガン綺麗」
「元は王族の所有物だからね。昔は装飾品がたくさん付けられていたらしいけど、革命軍によって剥がされて換金されたって話だよ」
「オルガン自体は壊されなかったの?」
「王政末期に生まれた天才音楽家、ルグド・アイエルが革命に参加していてね。「この魔法陣を二度と作ることは出来ない。壊してしまえば二度と弾くことは叶わない」って主張して、破壊を免れたんだよ」
本で得た知識をリコリーが口にすると、アリトラは関心したように目を見開いた。
「その人がいなかったら、壊れちゃってたの?」
「そういうこと。でもまぁ、残ってたからこそ、今回の被害者が出てしまったとも言えるけどね。新聞のコラム欄にも書いてあったよ。『その狂いも無き美しき調べが途切れたのは、革命のやり直しをするためであったのかもしれない』って」
アリトラは大仰に眉を寄せて首を傾げた。
「何でそんなポエムみたいな文章なの?」
「知らないよ。事件現場にいた新聞記者が書いたものだし。殺人現場に居合わせた感激が混じってるんじゃないの?」
「悪趣味ぃ」
オルガンに近づくと、そこにはまだ殺人事件の痕跡が色濃く残っていた。倒れた椅子とオルガンの間には血痕が広がり、鍵盤の上にも飛沫がついている。人の形に描かれた線の他に、大小さまざまな円や四角が床の上に描かれていた。
「調律用の工具が散乱していたらしいよ」
「何で?」
「犯人か被害者が蹴散らしたんじゃないかって、資料には書いてあった」
「あ、その資料はアタシも見たかも」
アリトラがそう言うと、リコリーは眉間にしわを寄せた。
「どこで」
「お店で。ヴァンさんが持ってきたの」
「それ読んだの?」
「リコリー」
アリトラは片割れの愚かさを窘めるような柔らかい口調で告げた。
「アタシが難しい文章を沢山読めるわけないでしょ?」
「そうだと思ったから聞いたんだよ」
「此処に来る前にパラパラ捲ってみただけ。被害者の写真も見たけど、確かに周囲には工具みたいなのが散らかってた」
その記憶を確認するかのように、アリトラは床を見回した。被害者が倒れていた場所を中心に、十個ほどの円が確認出来る。
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