9-4.容疑者は移民?

「容疑者は既にいるんですよ」


 サリルはそう言いながら、湯気の立つコーヒーカップに口を付ける。


「そうなの? でも新聞には載ってないね」

「恐らく政府から止められているのでしょう。先日のバドラス・アルクージュの脱走にしたって、原因は新聞や雑誌が面白おかしく過去の事件を掲載したからだ、と言われていますし」

「あれは僕達がロンに……」

「わかってますよ、そんなこと。でも対外的にはそうなっているんです」


 リコリーの言葉を遮り、サリルはそのまま続ける。


「刑務部が調べたところ、一人の容疑者が浮上しました。半年前にフィンに来て、教会に何度か出入りをしていた浮浪者です」

「移民ってこと?」

「えぇ。一応、正規の手続きはしています。「イゴット・キンダース」という二十五歳の男性です。出身はハリ共和国……とありますが、私としては半信半疑です」

「どうして?」

「書類があまりに汚れていまして。どうやら沢山書き直しをした結果のようなんです。ハリ共和国なら、フィンと同じ西アーシア語を使います。識字率もそう乖離していません。だからちょっと怪しいな、と」

「その容疑者は、事件の時には?」

「目撃情報はありません。恐らく教会の屋根裏に住み着いていた可能性が高いです。特に交流関係のあった人間もいないのに、教会で炊き出しが行われる日だけ、参拝名簿に名前を残していたそうですから」


 サリルはそこまで話すと、溜息をついた。


「リコリー、お願いですから大人しくしていてくれませんか。君はまた、お得意の好奇心で事件に首を突っ込みたいようですが」

「そんなことしないよ。でも暇なんだよね」

「余計に性質が悪いです。この前だって充分に肝が冷えましたよ。君と来たら単独行動で学院まで行ってしまうんですから。緊急措置が認められたから良いものの、下手すれば減給でしたよ」

「でも」

「でも、じゃありません。組織において単独行動が許されないことぐらい君だってわかっているでしょう」


 叱責するサリルに対して、リコリーは申し訳なさそうな表情を浮かべたが、その後に少し口元を笑みの形に変えた。こうして面と向かって指摘してくれるのが、サリルにとっての友情の証だと知っているためだった。


「心配させてごめんね」

「心配なんてしていません。大体君は、普段は日向ぼっこ中の犬みたいにのんびりしている癖に、アリトラといると彼女の行動力が伝染したように……」


 愚痴はまだ続きそうだったが、それを一つの影が遮った。二人の席の後ろに、上長にあたる女性が立ったためだった。四十を目前とした法務部長官補佐は茶色い髪を短く切り、常にパンツスーツと高いヒールで歩き回っている。


「楽しそうなところ失礼するよ」


 二人は慌てて背筋を伸ばす。女性は二人の姿を交互に見てから、リコリーの方に視線を合わせた。


「別に私語を咎めに来たわけではないから、そんなに固くしなくてもいい」

「何か御用でしょうか」

「辞令を渡しに来ただけだ」


 そんな簡単な言葉と共に、リコリーに一枚の紙が渡された。そこには法務部の魔法紋様とは別に、見慣れない紋様が浮かび上がっている。黒いインクで書かれた内容に目を通したリコリーは、驚いて目を見開いた。


「これって……」

「リコリー・フォン・セルバドス。本日付で監査委員会への出向を命じる。所定期間内の一切の管理は監査委員会長官のテオ・レバス・ゼンダー長官に委ねるものとする」


 唖然とするリコリーに、周囲の目が突き刺さる。本来は監査委員会には中堅以上の職員が出向することが多い。まだ一年目の、それも特に目立った業績もない法務部職員が選ばれるのは稀だった。


「どういうことだ?」

「ほら、例のことで監査部が動くらしいって刑務部が」

「そうじゃなくて、何でセルバドスなんだよ」

「移民の血が混じっている職員を使ったほうが内外に「公平」をアピールしやすいからでしょ。それに……」

「セルバドス管理官の息子だもんな」


 気弱なリコリーはそんな会話を耳にして気まずそうに俯く。法務部に来てから暫く経ったものの、未だにリコリーのことを「管理官の息子」としか見ない者は多い。それも今の腫れものに触れるような扱いに影響を及ぼしていた。


「ゼンダー長官は君をお待ちかねだ。委員会の事務室の場所は?」

「四階でしたっけ?」

「その通り。まずはご挨拶だけしてくるといい」


 出向の手続きに使う書類を追加で渡されたリコリーは、それを抱えたまま不安そうに上長を見た。


「えーっと、戻ってきたら席がないってことはないですよね?」

「何を言っているんだ、君は」


 呆れたように女は眉尻を下げた。


「自己評価が低いのは美徳とは言えないぞ。お母様を見習いたまえ。彼女は昔から自信満々だ」

「善処します」


 書類を落とさないように注意しながら、リコリーは自席を離れて部屋の外へ向かう。好奇心と羨望と、あと少しの害意を持った視線と声は、敢えて気付かない振りをした。

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