1-7.船の中の水面

 船の中にあるとは思えない広い空間を見て、双子は唖然として目を見開く。

 四方の壁は白く塗られ、天井は高く作られている。空間の殆どを締める大きなプールには並々と水が張ってあり、船の揺れに合わせて小さな波を作っていた。


「凄いね、リコリー」

「そうだね、アリトラ」


 プールサイドには防水加工を施されたソファーや長椅子が置かれていて、そこで休憩が出来る用になっている。その更に奥には飲み物を提供するバーカウンターが設置してあり、バーテンダーらしき若い男が見回り中の軍人と談笑をしているのが見えた。

 この部屋に入る直前で別れたリムが「きっと驚くよ」と言った通り、双子は驚愕を隠しもせず、プールを見回していた。


「水着があれば泳ぐんだけど」


 アリトラはプールを見て残念そうな顔をする。それに対して運動神経の悪いリコリーは眉を顰めただけだった。


「温水プールなんだよね。あったかいのかな」


 アリトラはプールサイドに近づいてしゃがみ込むと、右手をプールの中に差し込んだ。プールの縁一杯に入った水が、静かに波紋を刻む。


「あれ、そんなに温かくない」

「まぁ、今日は誰も使わないだろうからね。そんなに温度上げてないんじゃないかな」

「そうか。勿体ないもんね」


 立ち上がりながら手を抜いたアリトラは、あることに気が付いて小さな声を上げた。何事かと見たリコリーは、アリトラの視線が濡れたままの右手に注がれているのを見て、理由をすぐに悟る。


「ハンカチ、持ってこなかったの?」

「持って来たけど、客室に忘れちゃった」


 アリトラは濡れた手を、リコリーの着ているスーツに擦り付けようとする。だが既にその行動を見切っていたリコリーは、半歩後ろに退いてそれを避けた。


「やめてよ。このスーツ、新品なんだから」

「それじゃ吸水率が悪い。残念」

「そういう問題じゃないよ」


 リコリーは自分のハンカチを渡して、スーツの安全を確保する。丁寧に手を拭ったアリトラはハンカチを返そうとしたが、そのまま持っているように言われて手を引っ込めた。


「そんなビチャビチャに濡れたの返されても困るんだけど」

「じゃあ後でアタシの渡すね。まだ使ってないから」

「お前のハンカチ、どうせレースが沢山ついてるんだろ。嫌だ」

「我儘」


 そこに、静かな声が割り入った。二人が声の方向を振り返ると、先ほどまで奥にいたはずのバーテンダーが、涼しい笑みを浮かべて立っていた。


「お客様、宜しければお飲み物をお作りしましょうか?」


 今のやり取りを聞いていたと思しき距離に、双子は揃って赤面した。伯父達の代理として来たのをすっかり忘れ、いつも通りの行動をしてしまったことに気付いたためだった。


「え、えーっと……」

「じゃあ……ノンアルコールの何かを……」

「畏まりました。他のお客様もおりませんので、バーカウンターの方へどうぞ」


 決まりの悪い表情で言う二人に、バーテンダーは気にした様子もなく返す。

 二人は導かれるまま、奥にあるカウンターまで連れていかれて、背の高い椅子に腰を下ろした。


「ゼノ伯父様が見てたら、一時間ぐらいお説教だよ」


 溜息を吐きながら言うリコリーに、アリトラは口を尖らせる。


「だって気になっちゃったんだもん。あの大きなプールを前に何もしないなんて、無理」

「気持ちはわかるけど」

「でも人がいないね。折角、バーカウンターがあって、椅子も沢山あるのに」

「泳げれば、違うんでしょうね」


 カクテルを作っていたバーテンダーが口を開いた。


「プール以外には何もありませんから、皆すぐに飽きて出て行ってしまうんですよ。会長のスピーチが終わった後は、結構人もいたのですが」

「お酒を頼む人とかはいなかったの?」

「数人いらっしゃいましたよ。ただ、酔った方がプールに落ちるといけないので、此処には軽いカクテルのご用意しかないのです。だから長居をする方もいなくて」


 流暢に話しながらも手は休まない。カクテルグラスを二つ並べ、そこにジュースを丁寧に流し込んでいく。比重が異なる複数の液体が綺麗な層を作っていくのを眺めながら、アリトラがバーテンダーに尋ねた。


「此処に、緑の髪をオールバックにした人は来なかった? 知り合いで、探してるんだけど、船が広くてわからないの」

「サザー・ブラントン氏でしょうか」

「そう。お祖父様から、お会いしたら挨拶するように言われていて」

「会長のスピーチが始まった頃にいらっしゃいましたよ」

「此処からホールの様子ってわかるの?」

「見回りの軍人さんが教えてくれるので、大体何処で何が起きているかはわかるんですよ」


 ほら、とバーテンダーはプールの向こう側を歩く軍人に視線を向ける。双子が来た時には談笑相手になっていたが、今はお役御免となったようだった。


「此処は、見回りの方がこっそり飲み物を飲みにいらっしゃるんです。秘密ですよ」

「お酒?」

「ノンアルコールです。流石にそんなことをしたら、会長に大目玉を食らいます」


 三層に色が分かれたカクテルが、二人の前に差し出された。真っ先にアリトラが歓声を上げてそれを手に取る。冷えたグラスの中で液体が静かに揺れたが、色の層は崩れなかった。


「可愛いカクテル」

「本当だね。色も綺麗だ」

「レモンと林檎、グレープフルーツを使っています。縁に砂糖を乗せていますので、口の中で混ぜながらお飲みください」


 先にリコリーがグラスを手に取り、口を付けた。大粒の砂糖が舌の上に乗り、それを流すかのようにカクテルが流れ込んでくる。爽やかなレモンの酸味の中に林檎のまろやかな匂いが混じり、絞ったグレープフルーツの粒の感触が二つを絡め取るように喉へ落ちる。


「美味しいです。林檎の匂いが引き立ちますね」

「砂糖も雑味がないから、グレープフルーツをしつこい味にさせてない」

「ありがとうございます。ブラントン氏も気に入って下さいました」


 その言葉に、双子はきょとんとして動きを止める。


「ブラントンさん、これ飲んだの?」

「はい。お酒は飲めないからと仰って」

「出したのって、このグラス?」

「そうです。一杯目はすぐに飲み干してしまわれて」


 バーテンダーは、カウンターの隅に置かれたままの飲み終わったグラスを指さす。中は空で、その向こうに並べられた酒瓶が歪んで見えた。


「同じものを再びお作りしたところ、それを持ったまま出て行かれました。直後に来た軍人さんが、会長のスピーチが終わったと言っていましたから、そのあたりの時間でしょう」


 双子は疑問符を浮かべて互いの顔を見た。

 ブラントンは甲板で会った時に「酒を飲みすぎた」と言っていたが、飲んだのがノンアルコールなら矛盾が生じる。

 しかし、疑問は他にもあった。


「どうして彼は会長のスピーチを聞かないでこっちに来たんだろう。普通聞くと思うんだけど」

「その「普通」がポイントかもよ、リコリー。会長さんの挨拶の時間は決まってた。皆その時間には礼儀としてパーティホールにいようと思うはず。つまりその間、他の場所に招待客が出入りすることは少ない」

「人目を避けたということ?」

「それも違う気がする。だって人目を避けたいなら、此処でお酒なんて頼まないよ」

「となると……」


 考え込む二人の後ろに影が差した。バーテンダーが目を丸くしたことで、双子は振り返らずとも来訪者が誰か悟る。


「美味しそうなものを飲んでいるね」

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