9-30.五年前の憎しみ

 ロンギークは後ろからリコリーの声が聞こえた気がしたが、気のせいだと判断して更に足を速めた。


 数学の試験の最中、廊下から中を見ていた男と目があった瞬間から、ロンギークは問題が一つも解けなくなった。五年前に母親を殺し、自分に消えない傷をつけた憎い相手は、あろうことかロンギークに手を振って笑った。


 半分以上白紙のまま、試験用紙を教壇に置いて教室を飛び出したのが数分前のことで、校舎の外に出るまでの廊下や階段をどう通過したかも覚えていなかった。


「……いた」


 五年前と同じ、薄気味悪い笑みを浮かべたままバドラス・アルクージュはロンギークの前方にいた。生徒棟と管理棟の間にある中庭を抜け、普段は陸上部が使っている広い練習場に出る。


 試験の最中であるため、いつもの賑やかさは其処になく、まるで自分と相手だけが世界にいるような、そんな錯覚をロンギークに与えた。


「逃げるかと思ったのに」


 練習場の中央に立ち止まったバドラスが振り返る。痩せこけた顔は土気色で、赤茶色の髪は栄養が行き届かないのかところどころ白いものが混じっている。まだ三十代前半であるはずの男は、草臥れた老人のようにも見えた。


 緑色の目は右目の焦点が外れている。それがシスターの副作用であることを、ロンギークは数年前に読んだ新聞で知っていた。


「父さんの店を壊して、母さん達の石碑を壊して、よくも笑ってられるね」

「お父さんは今日はいないのかな? いないだろうね」


 バドラスは楽しそうに笑う。


「いると厄介だからね。彼のせいで五年も汚い場所に入れられたんだ」

「お前のせいだろ。父さんのせいじゃない」


 ロンギークは精霊瓶を握り込んだまま相手を睨み付ける。


「あの時、お前は俺を殺すつもりだった。母さんが最後の力を振り絞らなかったら死んでただろうね。だからお前がいつか出て来たら、俺を殺しにくることは知ってたよ」

「そうかそうか、それは感心」


 首を横に傾けて、バドラスはおどけた調子で言う。その右手には紙に書かれた魔法陣が握り込まれていた。


「でも一人で飛び出してきちゃうあたりは、お父さんにそっくりだね。折角、お母さんが助けてくれた命を捨てちゃうようなものだよ」


 バドラスが手を開き、魔法陣を一つ摘み上げる。魔法陣が白く発光された時、ロンギークの後ろから一つの影が滑り込んだ。


「ロン、下がって!」


 魔法陣から小さな爆撃が放たれたが、それを氷で出来た壁が防ぐ。熱により少し表面が解けたが、壁は壊れない。ロンギークは自分を庇うように立ったのが誰かわかると、目を見開いた。


「リコリー兄ちゃん!」

「待って、って言ったのに速いんだから……。一人で出て来たら駄目だろ」


お世辞にも運動神経が良いとは言えないリコリーは、肩で息をしながら途切れ途切れに声を出す。


「だ、だって……俺……」


 続いて二つ目の爆撃が壁に衝突する。先ほどより威力が高く、即席で作った壁は粉々に砕け散った。


「なんだ、邪魔者が出て来たね」


 バドラスはリコリーを見て眉を寄せる。


「制御機関の人間か。また俺の邪魔をするんだね」

「別に制御機関だから邪魔しているわけじゃない。バドラス・アルクージュ。貴方を緊急捕縛します」

「……やってごらん」


 別の魔法陣がその左手に握られる。それは今までの二つに比べて精巧な作りをしていた。

 発動しないとどんな攻撃がくるかわからない。リコリーがロンギークを庇いながら、一瞬の隙も見せまいと気を張りつめる。


「その子は俺の標的だよ」


 バドラスが魔法陣を発動させようとした時、その後ろから誰かが走ってくる音が聞こえた。静かな練習場に高らかなヒールの音が響く。

 振り返ったバドラスは、想像よりも遥かに距離を狭めている一人の少女を見た。


「はぁぁあああ!」


 気合の入った息吹と共に、その手に握られたレイピアが宙を裂く。バドラスの右手を突き、魔法陣の束が半分ほど地面に零れ落ちる。

一年前の全国大会の決勝戦、劣勢を一気に立て直して優勝を掴み取ったアリトラの剣は、未だ健在だった。


「まだまだぁ!」


 ヒールを履いているとは思えぬほど機敏な動作で、連続の突きを放つ。バドラスは驚いた表情で防御体勢を取りながら、まだ残っている魔法陣から一枚を起動した。


 小さな旋風が二人の間に発生し、互いの距離が一度離れる。だがアリトラは油断した様子もなく、構えを取りなおした。素人とは思えぬ動作に、バドラスが困惑を浮かべる。


「何だよ、次から次へと……。これじゃ黒騎士様が言ったことと違うじゃないか」

「言っておくけど」


 アリトラは間合いを保ちながらバドラスに告げる。


「剣はお洗濯より得意なの。下手に動いたら刺すよ」

「……そのようだね」


 素直にバドラスは認めたが、しかし魔法陣は手放さない。口元には再び歪な笑みが浮かんでいた。


「では下手に動かないようにしよう」


 そう言った直後に、練習場に魔法陣が浮かび上がる。


「しまった……!」

「既に仕込んでたのか!」


 緑色の光を放ち、巨大な魔法陣が起動する。リコリーが防御用の魔法を詠唱するが間に合わない。


「黒騎士様の言葉通りにすれば何もかもうまく行くんだ!」


 バドラスは高笑いをして、身体を捩じる。愉快で堪らない、と言いたげな笑い声に混じり、金属が擦れあうような音が聞こえる。魔法陣から無数の刃が飛び出そうとしているのを見て、双子の顔が強張った。


「まとめて死……」

「死ぬのはてめぇだよ」


 低い声が高笑いを消し去る。それは上空から聞こえて来た。

 練習場のすぐ傍に建てられた部室棟の上に、大きな剣を持った一人の男が立っていた。


「くたばれ」


 屋根から飛び降りた男は、剣を軽々と振り上げる。美しい金髪は地面から生えた刃物より、遥かに鋭利な光を持っていた。


 剣は落下による空気抵抗など物ともせずに振り下ろされ、地面ごと魔法陣を真っ二つに切り裂く。起動中の魔法陣はそのまま消滅し、地面から突き出した無数の刃も乾いた泥のように粉と化した。

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