9-7.事件の始まり

 建物が大きく揺れ、いくつかのデスクの上から書類が雪崩落ちた。壁に貼られた「整理整頓をしっかりしましょう」と書かれた紙すらも虚しく床へ落ちる。


「何だ?」

「何があった!」


 会議室の中から出て来た上司たちを前に、リコリーとサリルは戸惑った表情を浮かべた。


「わかりません。突然大きな音が」


 リコリーはそう言いながら、今の振動を思い出す。床から天井に伝達する、小刻みな振動。発生源は下からと考えられる。だが振動と比べると音の方が大きかったことから、震源は少し離れた場所だと思われた。

 つまり、一階。一階に何があるかなど、リコリーは考えるまでもなく知っていた。青ざめるリコリーの横で、同じ結論に辿り着いたサリルが息を飲む。


「まだ、下は営業してますよね」

「……うん」

「アリトラも、まだ帰っていないはずですよね?」


 リコリーは返事をせずにその場に立ち尽くしていた。その様子を見たサリルは、震えながらも大声を出す。


「リコリー! 何を呆けてるんですか!」


 我に返ったリコリーは、弾かれたように部屋を飛び出した。エレベータを待っている暇はないため、階段室に入って階下へと駆け下りる。

 普段から運動が苦手で積極的に外に出る性格でもないため、足を少しもつれさせながらも一階へ向かう。既に刑務部の若手が先んじており、一階の扉は大きく開かれていた。


 扉の向こうへ出たリコリーは、そこに広がる光景を見て絶句する。『マニ・エルカラム』は制御機関の建物の中にあるため、建物内に面した入口はガラス張りになっている。その硝子が全て砕けて床に散らばっており、扉は大きくひしゃげていた。


「アリトラ……!」


 中に入ろうとしたリコリーの襟首を、誰かが掴んで引き戻した。


「不用意に踏み入るな!」


 リコリーが振り返ると、そこには刑務部のヴァン・エストがいた。


「で、でも中に……」

「俺が見に行く。無闇に動くな」

「けど!」

「制御機関の人間なら、緊急時に我を通すな!」


 強い口調で叱責されて口を閉ざしたリコリーだったが、それに被せるようにして咳き込む音が聞こえた。


「中は危ないから、入らない方がいいと思う。そこらじゅう硝子とか陶器の欠片でいっぱい」


 リコリーはその声に顔を上げた。店から少し離れた、階段室の手前の壁にアリトラが寄りかかって立っていた。

 青い長い髪が四方に跳ねて、額から流れた血がそれに絡まっている。ワンピースの裾が引き裂かれ、靴も右足分しか無い。だが、少なくとも五体満足な様子を見て、リコリーは安堵の声を零した。


「アリトラ!」


 傍に駆け寄ると、アリトラは疲れたようにリコリーを見る。


「死ぬかと思った」

「よかった、無事で。怪我大丈夫?」

「あぁ、これ? 吹き飛ばされた時に、シンクの下のスペースに潜り込んだ。その時の傷」

「痛そう……。エストさん、病院に連れて行ってもいいですか?」

「そうしろ。怪我は大したことなさそうだが、若い女がそんな恰好でいつまでもいるべきじゃない。法務部には俺から説明しておく」


 ヴァンはそう言った後で、思い出したようにアリトラに問いかけた。


「カンティネス先輩は?」

「マスターなら、先に家に帰ったけど」

「君一人だったんだな?」

「うん。今日はいつもより早くお店を締めて、マスターは先に帰った。アタシだけ残って後片付けしてた」

「わかった。また明日話を聞くかもしれない」


 階段室から複数の足音が聞こえて来たため、ヴァンは手振りで二人に行くように促す。

 リコリーはアリトラに手を貸してその場から離れ、建物の外に出ようとしたところで立ち止まった。制御機関通りと呼ばれる道路には、野次馬が多く集まっていた。爆発した痕跡を見て、皆が好き勝手に憶測を並べている。

 リコリーはその様子を見て、自分が着ていた上着を脱ぐと、アリトラに手渡した。


「そのまま出たら目立つよ。変な噂立てられたくないだろ?」

「確かに、この状態で出て行ったら、明日には「血まみれの女の幽霊が見えた」なんて言われそう」


 二人は野次馬の視線が店舗の方に釘付けになっている間に、道路を横切って商店街へと入った。

 夜九時近いこともあって、殆どの店は閉まっている。飲食店の類はまだ営業しているが、それでも数は少ない。


 双子はその中の一つの商店に目をつけると、小走りにそこへ向かった。幼馴染が経営している『ニーベルト商店』は、今まさに店を閉めようとしていたようだが、爆発騒ぎのためか中途半端な状態で放置されている。

 店先では幼馴染のライツィが制御機関の方を見ていたが、双子の姿を見つけると唖然とした表情に変わった。


「アリトラ! お前、大丈夫か!?」

「なんとか。ねぇ、ライチ」

「アリトラが履けそうな靴とか、適当な服ないかな。病院に連れて行きたいんだけど、靴失くしちゃったみたいで」


 リコリーが説明すると、ライツィはそれ以上何も聞かずに店の中に戻った。商店街でも若き相談役として一目置かれている青年だが、そこには察しの良さという天性の才能が起因している。

 数分して戻ってきたライツィは、アリトラの足元に新聞紙を敷いて、その上に女物の靴を置いた。


「ストッキングと靴、ここに置いて行けよ。邪魔だろ」

「ありがとう。この靴は?」

「妹の。ちょっと小さいかもしれないけど、うちにはお前くらい背の高いのいないから我慢してくれ」

「借りちゃっていいの?」

「アリトラに貸したって言えば、文句言わねぇだろ。剣術部の先輩なんだから」


 アリトラは靴を履き替えると、何度かその場で踵を地面に打つ仕草をして感触を確かめた。


「うん、平気そう。今度返すね」

「あぁ。じゃあこれは処分しておくから」

「あ、ダメ。捨てないで」


 リコリーは慌てて制止する。爆発について何もわかっていない今の段階で、証拠品を捨てることは出来ない。


「僕が明日取りに来るから、そのままにしておいて。お願い」

「よくわからないけど、了解。それより、気を付けて行けよ」


 心配そうにする幼馴染に双子はそれぞれ返事をして、店の前を離れる。駅前広場まで出れば、病院までは目と鼻の先だった。


「エストさんが言った通り、詳しいことは明日聞くことになると思う。念のため、今日は入院させてもらおう」

「大丈夫だよ。これ、シンクの角で切っただけだし」


 血に塗れた前髪を持ち上げながら言ったアリトラに、リコリーは首を横に振った。


「あれだけの爆発だよ。内臓にダメージとかあるかもしれないし、どうせ明日は店は休みだろ。大人しくしてたほうが、母ちゃん達も安心するよ」


 親のことを持ち出されると、アリトラは引き下がるしかなかった。双子を溺愛している両親は、恐らく心配するだろう。それを更に焦燥させたり疲弊させることは、アリトラにとって本意ではない。


「じゃあ大人しくしてる。その代わりに、明日迎えに来るときに服とか持ってきてくれない? クローゼットから適当に持ってきてくれればいいから」

「前に勝手に触るなって言わなかったっけ?」

「それはそれ、これはこれ」

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