2-2.落書きされた本

 リコリーが気に入っているのは、二階の西側にある一人掛けのソファーである。

 背もたれが扇状に広がったアンティーク風の形状をしているが、実際にはそれほど古くはない。ひじ掛け部分の木材に細やかな彫刻が施されているが、常に綺麗に磨かれているのも綺麗好きのリコリーの性に合っている。

 椅子に腰かけて本を読み始めると、リコリーの意識はそれに全て集中されて、周りの音などは遮断された。

 期待していた新作だけあり、ページをめくる手は止まらない。内容は歴史物で、フィン民主国が王政だった時代を舞台とした魔法使い達の話だった。

 リコリーがこの作者を好むのは時代考証が細かいことと、登場人物の内面描写が明確に記されていることである。それを細かすぎるとする評論家もいないわけではないが、リコリーには関係のないことだった。

 半分まで読み進めた頃、外界を遮断していた聴覚が鐘の音を捉えた。正午を知らせる鐘の音に、リコリーは急に空腹を覚える。

 しかし新刊を一度手放してしまうと、誰かに読まれてしまう可能性もあるし、借りて帰るには読み進め過ぎてしまっている。

 あと一時間ぐらいで読み終わりそうな量だったため、リコリーは空腹を押してそのまま読み進めることにした。

 再び本の世界に没頭してから、数十分後。次にリコリーを現世に引き戻したのは肩を叩く誰かの手だった。

 驚いて本から目を上げると、サリルが苦い顔をして立っていた。


「どうしたの?」

「君は本当に昔から、本を読むと周りが見えないんですね」

「ごめん」

「謝らなくてもいいです。少々聞きたいことがあるのですが、この図書館では本に落書きをするということが多々あるのでしょうか」


 サリルの質問の意図が掴めずにぼんやりしていると、その眼前に本が突き付けられた。

 それは高名な学者が書いた、水素魔法に関する論文だったが、丁度中間の見開きとなるページに赤いペンで大きく「×」と書かれていた。


「これだけではなく、他の書籍にも似たような落書きが見られました」

「落書き被害なんて、聞いたことないけどなぁ。此処って子供向けの本は別館にあるから、子供が入ることもないし」


 リコリーはそのバツ印を見ながら、ふと左側に比べて右側が薄いのに気付いた。

 よく見れば、それはバツの形となっているが、二つの線を交差させて書いたのではなく、左側に半分だけ書いて本を閉じたことによる形のようだった。


「ん?」

「どうしました?」

「いや……。他の本も被害にあってるの?」

「えぇ、私が発見しただけで三冊はありました」


 サリルは小脇に抱えていた二冊をリコリーに差し出した。読んでいた本を椅子のひじ掛けに置いて、それを受け取る。

 いずれも同じ著者の水素魔法に関する書物だった。


「サリルって水系の魔法苦手だっけ」

「苦手というと語弊があります。確かに君には負けますが、平均的なレベルは超えているつもりです」

「そうだね」


 あっさりと認めたリコリーは、他の二冊の落書きも確認した。

 一冊目は見開きの部分だったが、特にそれが決まりではないようで、二冊目はかなり最初のページにあったし、三冊目は中央と後ろの二か所に同じような落書きがあった。


「この著者って、アカデミーの教授だよね?」

「そうです。母がよくお世話になっている方で、丁度その著書をみかけたので手に取ったらこの有様。全く酷い話です」

「母ちゃんがそういえば前に言ってたなぁ。水素魔法研究の若きホープだって」

「リコリー、前から思っていたのですが貴方のその呼び方はどうにかならないのですか」

「え、何が?」

「仮にも貴方はセルバドスの血を引く人間でしょう。それが下町の子供のような呼び方をするのは如何なものかと思いますが」

「あー、でも癖だし。両親も何も言わなかったし」

「どうせライツィ・ニーベルトの影響でしょう。あのガサツな男に私は何度嫌がらせを受けたか」

「嫌がらせって、川泳ぎする時にライチが水引っ掛けたこと?それともそれにびっくりしたサリルが川に落ちちゃったこと?」


 サリルの浅黒い顔がわずかに赤くなる。


「そういう細かいことまで覚えてなくていいんです」

「直してほしいならアリトラにも言ってくれないかな。僕たち二人ともそういう呼び方だから」


 アリトラの名前を出した途端に、サリルの顔色が更に変化した。


「そ、その、それは。私は、君に言っているのであって」

「僕たち同じ屋根の下に住んでる兄妹だから、片方だけ呼び方変わるの違和感あるんだよね」

「ア、アリトラが、その、私の言うことに耳を傾けるかどうか」

「その前に話しかけられるの?」


 図星を刺されたサリルが黙ってしまった間に、リコリーは落書きを再度観察する。

サリルは昔からアリトラに惚れている。

 生真面目で礼儀正しく、どちらかと言えば無口なサリルと、自由奔放で活発、口の回るアリトラではどう考えても上手くいきそうにない。

 しかしサリルからすると惚れた弱みなのか恋愛錯覚なのか、アリトラが清楚でおしとやかな女性に見えるらしい。

黙り込んでいるサリルの顔色より鮮やかな赤のインクを指でなぞると、すっかり渇ききっていた。

 だが、反対側にインクが映るほど濃く塗って本を閉じたのなら、開くときに紙同士が接着されて破れてしまうはずである。

つまり、一度インクで印を書いて本を閉じ、再び開いて乾燥させてから棚に戻したと考えるのが妥当だった。


「本を損壊したいだけなら、もっと簡単なやり方はある。これだと、誰かにこのページを開いてほしかったと考えられるね」

「確かにそうですね。しかしこれは何を指すのでしょうか? この内容が気に入らないから読むな、ということでしょうか」

「だったらわざわざ乾かさないよ。僕だったらインクベッタリ塗って、パタンと閉じて、棚に戻しちゃうね」

「確かにそうですね。極端な話、読ませたくないなら千切ったほうが楽です。それに見たところ、そのインクですが市販のものではなさそうですよ」

「え?」

「此処の照明が絞ってあるのでわかりにくいのですが、発光性物質が混じっています」

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