破られた封印


--------カラダガナイ?


 伊津子ちゃんが言ってることの意味が理解出来なくて、その言葉が何度も何度もあたしの頭の中で繰り返される。分からないはずなのになぜかあたしの身体は悪い予感に震えはじめていた。


『ののかを助けるために必死だったのね。それで日高は身体を捨ててきてしまったのでしょう』


 やっぱり全然意味が分からない。でもあたしの傍で穂高くんが「クソッ」と聞いたこともないほどに声を荒げて肩を震わせる。なんで。なんで穂高くんは泣いているんだろう?穂高くんは自分を責めるように、固く握りしめた拳で地面をでたらめに殴り続ける。まるでそうしないと溢れてくる悲しみに押し潰されてしまいそうだというように。


(どうして……?なんで?あたしたちは三人で豊海に帰るんじゃないの?)


 あたしの目からは、なぜか勝手に涙がこぼれていた。


(……いやだよ。日高くんだけ帰れないなんて、そんなことあるわけないよ。嘘に決まってる。……ねえ、日高くんそうでしょう?……お願い、何か言って日高くんっ。あたしぜったい信じないんだからッ)

『ののか。日高を責めないで。日高のこのうつくしい姿を見たあなたは本当は分かっているのでしょう。日高はもう人ではなくなったのよ。………日高、あなたは“影破り”をしてしまったのね』

(カゲヤブリ………?)

『“影封じ”と対を為す神呪よ。“影封じ”はお兄様が日高のために編み出した封印の神呪で、その封印を解くのが“影破り”。………日高、このままではたぶんののかは納得しないわ。あなたの記憶をののかに見せてあげなさい』


 伊津子ちゃんの言葉に応じるように、日高くんが長い髭を揺らす。そこに光が満ちていくのを見ているうちに、あたしの意識はどんどん遠くなっていった。





気が付けばあたしは誰かの記憶の中に飛び込んでいた。





 赤ちゃんが泣いていた。


 とても元気な男の子だ。体表がやわらかそうなうつくしい鱗で覆われている以外は、ごく普通のかわいい人間の赤ちゃんだ。だけどその子を取り囲んでいる三人の大人たちはみんなとても難しい顔をしていた。


「赤子でありながらこれほどまでに強い神力を宿しているとは、末恐ろしいほどです。先祖返りとはまさにこのことを言うのですね」


 苦しげな表情でそう言ったのは、神主姿の男の人。その顔には見覚えがあった。海来神社の宮司さんだ。ただあたしが知っているその顔よりすこし若く見える。


「私と父さんの力で押さえつけるにしても限界がある。これではこの子の身体も私たちの身体もいずれもたなくなるでしょうね……」


 苦渋の表情を浮かべているのは、日高くんと穂高くんのお父さんである天高さんだ。


「やむを得ん。やはり日高の神力は、私の神呪で封じてしまおう」


 重々しくそう言った初老の男の人は、おそらく日高くんたちのおじい様だ。おじい様は赤ちゃんを抱き上げると、呪文がびっしり書き込まれた半紙の上にそっと寝かせた。半紙の上で手足をぱたぱたさせる赤ちゃんを見ると、天高さんはやるせなさそうに呟いた。


「ですが父さん。本当にこれが最善の策なのでしょうか。神力を封じたら封じたで弊害もありましょう」

「ああ、だろうな。天高、おまえの心配も最もだ。神力が弱まれば穂高のようにこの子も異形に付け狙われるようになるやもしれん。が、まずはこの子を生き延びさせるが大事。わかるな?」


 おじい様の言葉に、天高さんは拳を握り締めて項垂れた。


「はい、その通りです。………狙われるなら守るだけの話でしたね。私が我が子たちを、命を賭してでも……」

「馬鹿者が。命を掛けるなどと滅多なことを口にするものではない。そのような覚悟は自身の胸の内にありさえすればよいのだ」

「…………申し訳ありませんでした、父さん」

「これから先この子らを守り導くのは父親であるおまえ以外にはいない。余計なことを気負わず、精々私のように長生きすることだな」


 おじい様は厳しい言葉の裏に息子である天高さんへの隠しきれない情を滲ませながら、赤ちゃんの影に触れた。


「では今から『影封じ』の術を掛けよう。……この幼い日高のために」



天高さんと宮司さんが頷くと、それからすぐに封印の儀式がはじまった--------。





 あたしの意識が、また記憶の海に放り出される。たくさんの映像が過っていく中、あたしはひとつの場面にたどり着く。





 そこは夜の貝楼閣。


 書庫の屋根で日高くんがもがいている。その頭上では竜になった穂高くんとその背にしがみつく右狐と左狐、それにあたしの姿があった。これはついさっきの映像。日高くんの記憶だ。


「ののかッ!!……クソッ………こんなものッ!!」


 日高くんは足首に巻き付いた神呪の鎖を無理やり引き千切ろうとするけれど、どんなに力を込めてもおじい様が日高くんを守るために掛けた神呪はびくともしない。


「もっと力が、強い力があればすぐに助けに行けるのに………ッ!!こんなもの引き千切ってやるのにッ」


 何度も何度も繰り返しても、神呪の鎖は緩みもほころびもしない。爪が欠けて剥がれて両手がボロボロになったところで、力なく書庫の屋根瓦を見つめていた日高くんは唐突にあることを思い出す。幼い頃、書庫でかくれんぼをして遊んでいるとき天井裏で見付けた古い筆記帳だ。その表紙には見慣れたおじい様の字で『禁書』と書かれていた。興味を持ってページをめくろうとすると、すぐにおじい様がやってきて「どこで見付けたんだ」と烈火のごとく怒り出した。

 そのあまりの剣幕に驚いて日高くんが泣き出すと、おじい様は我に返ってぎゅっと日高くんを抱き締めた。そのときおじい様は日高くんに言っていた。


「こんなものは見てはいけない。………願わくば永劫に日高には必要のないものだと信じていたい」


 いつもの豪胆なおじい様らしからぬそのやるせなさそうな表情に、日高くんは幼心にもその筆記帳がもう二度と触れてはいけないものだと悟った。それからは天井裏にある筆記帳を見ることも触ることもせず、そうしている間に筆記帳そのもののことをすっかり忘れてしまっていた。


--------第六感のようなものだった。


 急にそのときの筆記帳のことを思い出した日高くんは急いで書庫に下りて、乱暴なほどの勢いで天井裏を開けてそこに変わらずに保管されていた筆記帳を見付ける。それから緊張したように息を飲み込むと『禁書』と書かれた表紙をめくった。


「…………『影破り』……?」


 ざあっと目を通していくと、その術のページで目が留まる。


「竜の魂の解放の仕方?……もしかしてこの術を使えば………」


 内容を読み込んでいくたびに日高くんの表情はますます険しく厳しいものになっていく。けれど日高くんは何かを決心したのか目を閉じると神呪を唱え始めた。


『我が身は彼の遠つ海より来臨せし、遠海勢玉来蒼大竜主神に娶されし八重の腹より顕現せり、この地を竜主神の聖光たる通力に依りて、永きに守り、潤し、幸を導きせし神等の縁ありて、豊海と名付けたる山海を治めるもの、名は遠海勢玉来日高比古也』


 日高くんの身体の周りにエネルギーが集まりだし、そのあたたかな波動が竜巻のように日高くんを取り巻いていく。日高くんは自分の影に触れながらさらに唱える。


『この名を持ちて命ずる。我が影よ---------』


 影に触れている手が印を結ぼうとしたとき。


『おやめなさい、日高比古』


 書庫には誰もいないはずなのに、誰かの声に日高くんが唱える神呪が突然遮られる。不可思議なことに日高くんは背筋を正して正座しているのに、すぐ傍にある日高くんの影はゆらゆら不安定に揺れていた。日高くんがじっと見つめていると、影はにゅるりとその形を変えて日高くんの前に立ち、深々と頭を下げてきた。


『お初にお目にかかります、日高比古』

「………おまえは何者だ」

『私はあなた様の影。そして祖父君があなた様に掛けた封印、人格を持った神呪、神呪から生み出された使役でございます。あなた様が生まれた時より私がこうして常にあなた様に寄り添い、身を滅ぼしかねないほど強力なあなた様の力を抑えておりました』


 そう、天才と呼ばれた日高くんのおじい様は、日高くんの肌身から決して離れることがない影に、日高くんの神力を抑え込む封印の神呪を編み込んでいたのだ。


『あなた様は私を破ろうとなさっているようだが、私を消滅させれば封印が解けてしまう。強大な力を手にする代わりに、あなた様自身の竜神の力があなた様の人間の身体を食い破ってしまいます。それほどまでにあなた様の神力はあまりに強力で生身のお身体には危険なのです』

「俺の力が、強力だって…………?」

『あなた様はこの山海を治めるに相応しい竜主神の愛し子。今まで私があなた様の力を封じておりましたからご自覚されたことはなかったのでしょうが、あなた様はあの祖父君すら凌駕する神力の持ち主なのです』

「その話は本当なのか?……俺はてっきり、自分が一族始まって以来の劣等生なのかと思っていたが……」

『とんでもございません!あなた様こそ海来の名を継ぐに相応しい、我々使役を統べるお方だ』

「まさかいきなりそんなことを言われても信じられないが………いや、今はそんなことはどうでもいい。強い力が得られさえすれば」


 日高くんは影の静止も聞かずに、影破りの儀式を続行するため目を閉じて意識を集中させていく。


『おやめなさい。影のない人間など存在しません。つまりあなた様と私の命は表裏一体なのですよ。私を破り消滅させればあなた様も死ぬ』

「………それは人としての生が終わる、という意味なのだろう。魂が死ぬわけじゃないならいいんだ。身体を失うことなんてののかを失う苦しみに比べたらたいしたことじゃない」


 日高くんの言葉に固い決意を感じ取ってなのか、影は諦めたようにため息をついた。


『やれやれ、あなた様はもう腹を決めてしまわれたのですね。……いいのですか。たとえ花嫁御寮をこの陸に返すことが出来ても、魂だけになってしまってはあなたはもう人である花嫁御寮と添い遂げることが出来なくなるのですよ』

「かまうものか。俺はののかを守ると約束しているんだ。……俺の身ひとつでののかを救えるなら安いものだ」


 突然影がゆらりと笑った。


「なんだ?」

『いいえ。それほどまでにあの人間の娘に深く懸想されているとは、聞きしに勝る青臭さだと思いまして。ですが私もあなた様のそんなところが嫌いじゃありません』

「…………そうだ影、おまえは今までずっと俺の神力を押さえてくれていたのに、感謝の言葉もなく消し去ろうとするなんて身勝手で残酷な話だったな………すまない」

『よいのです、日高比古。私はあなた様に使われるために生まれた命。主人たるあなた様と共にこの命を散らせることが出来るなど光栄の極み。………さあこの影にご命令ください』


 神呪を唱える前、日高くんは自分の手のひらをじっと見つめる。これまで自分を自分たらしめていた身体を深く記憶に刻むように見つめていくうちに、不意に頭に思い浮かんできた。



 この身体を産んでくれたお母さんの顔。

 うまれたときからずっと一緒に過ごしてきた穂高くんの顔。

 いつもやさしく見守ってくれたお父さんの顔。

 厳しいところもあったけど物知りで朗らかだったおじい様の顔。

 豊海村に住む者たちや、自分を慕ってくれた使役たち。


 ………それから最後にあたしの顔。


 ちいさく「すまない」と呟いた後、日高くんは鋭く言い放った。




『我が影よ。--------散れ』


 影が日高くんから引き剥がされて弾けた。その途端、そこから猛烈な勢いで力が噴き出してきて貝楼閣じゅうが蒼い光に包み込まれる。その迸る神力が一斉に日高くんの身体めがけて怒涛の勢いで流れ込んできた。


「ぐぅ………………ああッ……!!」


 あまりにも膨大な神力を前に、人の身体はあまりにも儚かった。細胞のひとつひとつに無限に送り込まれていく神力に体がいびつに膨れ上がり、膨らみ過ぎた場所からは裂けて血が飛び散りすぐに全身がズタズタになっていく。あまりの力に手が吹っ飛び、足がもがれ、みるみる日高くんの身体は人としての形を為さなくなる。


 でもそんな苦痛の中でも目だけは揺るぎなく、強い光を宿していた。


 ----------ののかは俺が守るんだ。


 その強い思いを試すように、神力はますます勢いよく日高くんの身体に流れ込み。そして耐えきれなくなった体はついに弾けて四方に散った。






 つぎに日高くんが意識を取り戻したとき、その体は恐ろしく軽くなっていた。それもそのはず、日高くんを地上に縛り付けていた肉体は、もうどこにもなくなっていたから。あるのは神々しい神力を湛えた竜の魂のみ。

 人の身体なんてもとから存在しなかったかのように、竜の魂は日高くんの意識になじむ。全身に溢れるような力を感じると、日高くんは夜の海に飛び立った。



 自分に呼びかける声の元に向けて。






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