竜神日高比古


 あたしの目の前にはうつくしい生き物がいた。


 優美にうねった長い体。その体表を隙間なく覆う蒼真珠色の輝く鱗。頭から生えた稲妻の形をした角。絹糸のようになめらかな髭を蓄えた顔は蛇に似ているようにも鰐に似ているようにも見えるけれどそのどちらでもなく、目は獣のものでも人のものでもない深い知性を湛えた温かな色をしている。


 これは竜だ。とてもうつくしい竜。


 その姿のあまりもの神々しさに、あたしは立っていられなくなってその場に跪くように膝を折った。たぶん人はあまりにも尊く圧倒的な存在に遭遇したとき、魅入ることも感動することもおそれを抱くこそすら出来ずに、ただただ頭を深く下げることしか出来なくなるのだ。


(ああ、でもこのお方は。……この竜は、間違いなく日高くんだ)


 あたしの抱いた確信に呼応するように、日高くんからあたしの心に直接いろんな思考が流れ込んでくる。


 ののか。顔を上げてくれ。怖い思いをさせてごめん。迎えに来るのがすっかりおそくなってしまった。怪我がないようでよかった。………ほんとうによかった。


 竜になった日高くんは言葉を喋らない。でも言語を超越した方法で意思の疎通が取れるのか、言葉を介さなくてもただ傍にいるだけで日高くんの思いは伝わってくる。これが神さまと呼ばれる存在の力なのだろう。


(ううん、あたしは結局なんの力にもなれていないの。……それよりも日高くん、その姿はどうしたの?……すごく……すごくきれい。だけどなんか、きれいすぎて見ているのが苦しいよ)


 あたしの気持ちも言葉にしなくても通じるようで、日高くんは苦笑する。


 俺もののかの傍にいるときはずっとそんな気持ちだった。ののかの場合はきれいっていうより、かわいすぎて。


 日高くんからダイレクトに伝わってくる「かわいい」に恥ずかしくなって、あたしは何も考えられずになってしまう。日高くんはそんなあたしを見た後、すこし離れた場所で結界を張っている使役に呼びかけた。


 瀬綱。もういい。穂高の身体をこちらに。


 日高くんが長く伸びた髭を震わせた。すると突然日高くんの身体に光が満ちて来て、それが一直線に霊体の穂高くんめがけて飛んでいく。続いて黄金の竜巻のようなものが巻き起こって穂高くんを飲み込み、その風が収まると中から穂高くんが出てきた。


「うっ………」


 そのうめきは、生身の身体から絞り出された穂高くんの肉声だった。


「……あれ………僕は………?」


 穂高くんはもう霊体の穂高くんじゃなかった。瀬綱の結界の中で見た生身の穂高くんだ。その事実に一番驚いているのは穂高くん自身らしく、自分の身体の感触を確かめるようにしきりに両手で身体をさすっている。


「………これは僕の身体………?どうして……伊津子比売との契約の鎖も切れている……?」


 響ちゃんの身代わりになると伊津子ちゃんと契約して、伊津子ちゃんの神呪の鎖が身体に巻き付いていたはずなのに、穂高くんの身体のどこにもそんなものはなかった。


「日高……日高だろっ、おまえが僕を助けてくれたんだなっ。………いや、そんなことはどうでもいい。おまえ、その姿は………」


 遥か頭上にある日高くんを見上げて、穂高くんが絶句する。


「……なんてことだ…………」


 なぜか穂高くんはみるみる表情を翳らせてその場に崩れてしまう。日高くんの神力のおかげでようやく無事に生身の身体を取り戻したというのに、両手で顔を覆って震えるその姿は深く悲しんでいるようにしか見えない。そんな穂高くんの姿を見るうちに、あたしもなんだか不安になってきてしまう。


(穂高くん?………いったいどうしたんですか)

「………ごめん……ごめんよ、ののかちゃん…………僕はどうやって詫びればいいのか…………」

(そんな、あたしに謝らなきゃいけないことなんて何もないですよ?……ほら穂高くん、立って。早く響ちゃんが待ってる豊海に帰りましょう。日高くんと穂高くんとあたし、三人でいっしょに)


 言いながら辺りを見回すと、すこし離れたところにあった珊瑚色の巨岩が目に入る。そこには伊津子ちゃんが後ろ手に縛り付けられていた。日高くんがこの場に到来した瞬間、伊津子ちゃんはあの岩まで跳ね飛ばされて日高くんの神呪の力で縄で括られたように動きを封じられてしまっていたのだ。


『……素晴らしい力ね、日高』


 圧倒的な力で自由を奪われているのに、なぜか伊津子ちゃんはうれしそうな笑みを浮かべて恍惚と竜の姿の日高くんを見つめていた。


『わたくしなど足元にも及ばない、この圧倒的な神力。やはり日高は人などではなく竜だわ。とてもうつくしい、神の国に生きるべき存在よ』


 日高くんは何も答えないけれど、伊津子ちゃんのことをじっと見つめ返す。微かに感じていた不安がふくらんでいくのを感じて、あたしは二人の間に割って入っていた。


(ねえ、伊津子ちゃん。お願い聞いて。………このままあたしたちを、豊海に帰らせて)


 たぶんお願いしなくても、竜になった日高くんの力があればこのまま伊津子ちゃんをここに残してあたしたちだけで帰ることができるはずだ。でもあたしはどうしても伊津子ちゃんに伝えておきたかった。


(あたし、どうしても日高くんと穂高くんと一緒に豊海に帰りたいの)

『………なぜそこまで陸にこだわるの?あちらの国へ行けばもう苦しいことなんて何一つもないのに』

(うん、伊津子ちゃんと一緒に行ったら手っ取り早く幸せになれるかもしれない。天国みたいな素敵な場所でずっとずっとしあわせに暮らせるのかもしれない。………でもね、そうだとしてもあたしは豊海に帰りたい)


 伊津子ちゃんを説得する自信なんてないし、説得するつもりもない。ただあたしの気持ちを知ってほしくてあたしは訴える。


(………伊津子ちゃん、あたしにお嫁に行った夜のことくれたよね……?あのとき、すごく怖かったよね……?伊津子ちゃんとはちょっと違うけど、あたしもすごく怖いんだ)


 言いながらお腹に手を当てていた。今は霊体だけど、お腹に触れると生身の身体の方に宿っている赤ちゃんの気配が、その生命のエネルギーのようなものが伝わってくる。あたしは確かに日高くんの赤ちゃんを宿しているんだと感じながら、伊津子ちゃんの目を見つめる。


(はじめてのことって、きっとどんなことでも怖いよね。あたしもこれから赤ちゃん産むの、怖い。きっとすごく大変だしすごく痛いだろうし、産んだ後どうやって育てていけばいいのか想像もつかないし。………産んだら心も体もあたしをとりまく環境もいろんなことが今とは変わってしまうだろうし、それを自分がどうやって受け入れていけるのかわからない。……赤ちゃんのこと、あたしのこと信じてくれているお父さんとお母さんになんて説明すればいいのかって考えると逃げ出しちゃいたくなるし……)


 日高くんから戸惑うような申し訳なさげのような思念が流れ込んできたから、あたしは心のなかで(大丈夫)と念じて頷いた。日高くんのことを責める意図はないのだと。


(もしかしたら『あちらの国』へ行ったら、そんなことも全部心配しなくてよくなるのかもしれない。でもね、それでもあたしは豊海村に帰りたい。あたしもひとりだったらめげてると思うけど、日高くんならきっとあたしを支えてくれる。あたしもそんな日高くんのことを支えていきたい。

 人の世界で生きている限り苦労することかなしいことたくさんあると思うけど、一緒に苦労したらきっとその分今よりもっと日高くんのこと分かってあげられるし、今よりもっと仲良くなれると思うの。

 豊海はあたしと日高くんが出会えた場所で、日高くんがずっと守ってきた日高くんの大事な場所なの。あたしは日高くんが大事にしてきたあの村で、日高くんが守ろうとしているものを一緒に見て、一緒に守って、一緒に大事にして、一緒に生きていきたい。

 日高くんがあたしを選んでくれたことを後悔しないようにがんばりたい、がんばります。伊津子ちゃんが心配しなくていいくらい、あたしが絶対日高くんをしあわせにしますッ。だからちょっとの間でいいの。あたしたちが人生をまっとうするほんのひととき、いつかくるその日まで、先に『あちらの国』で待っていてもらえませんか)


 思いがちょっとでも伝わるように、あたしは思いっきり頭を下げて勢いづけて言った。


(どうかお願いしますッ!!)


 頭を下げ続けるけれど、伊津子ちゃんの返答は何もない。もしかしたらただの人間の分際で日高くんをしあわせにするだなんて、調子に乗ったこと言ってると思われたのかもしれない。でもあたしにも言葉以上の相応の覚悟がある。


(あたしたちを豊海に帰らせてくださいッ!どうかあちらの国で少しの間見守っていてください!!)


 さらにぐっと頭を下げようとして無理な体勢になったためか、あたしはバランスを崩して不格好なでんぐり返しをするように頭から地面に転げてしまう。


(きゃあっ)

「ののかちゃん、大丈夫!?」


 助け起こしてくれようとしたのかすぐに穂高くんが駆け寄ってくるけれど、その前にあたしの身体がふわりと持ち上がる。見れば神力をたたえた日高くんの髭がまたまばゆく輝いていた。


(あ、日高くんありがとう)


 神力でやさしくあたしを持ち上げてくれた日高くんに心の中でお礼を言うけれど、日高くんは何も答えてくれない。その蒼い目はなんだか拗ねているようにも見える。


「………まったく日高はこんなときにまでヤキモチか………自分の好きな子に触れるのは、血を分けた兄ですら許せないっていうのかよ……」


 穂高くんの呆れたようなぼやきに、あたしが恥ずかしさでかあっとなったときだった。不意にくすくす笑う鈴のような可憐な声が聞こえてくる。見れば伊津子ちゃんが岩に括られたまま華奢な肩を震わせておかしそうに笑っていた。


『あなたたちは面白い子たちね。……あなたたちといれば退屈することはなさそうだわ』


 あたしが警戒してきゅっと身を固くすると、伊津子ちゃんは首を振った。


『そうじゃないわ、ののか。まだ連れていきたいという気持ちはあるけれど………。でも今はただあなたたちといればたとえ地上でも楽しく生きていくことが出来たのかしらと、そんなことを思っただけよ』


 その言葉に隠しきれない孤独を感じて、あたしの胸までぎゅっと締め付けられた。


(…………伊津子ちゃん………)

『わたくしは人間の愛と言うものがわからなかったわ。今もよくわからない。……でもののか、人だ竜だということを越えてただ日高と生きていこうと言う、あなたのその揺るがない情こそきっと愛なのね。わたくしが知ることがなかった運命の恋というのは、こんな強い思いで結ばれた二人のことを言うのね。………わたくしはあなたに謝らなければいけないわ』

(え?)

『それに日高にも』


 静けさの満ちたその目に、あたしの胸の中にあった不安が爪を立てる。伊津子ちゃんはあたしを、それから日高くんを見るとまるで懺悔をするように呟いた。


『日高はあなたとは一緒に帰れないわ。………だって日高、もうあなたには体がないのでしょう』






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