相反する心


(伊津子ちゃんは、ひょっとしたら天高さんや穂高くん、それに日高くんのことも助けたいと思っていたんじゃないの………?)

『助けたい、だって………?』


 穂高くんは不可解そうに顔を顰める。それもそのはず、父親の命を奪われたりあちらの国に連れて行かれそうになったり、穂高くんたちはずっと伊津子ちゃんの行動に苦しめられていたのだから。あたしも悪意のない顔で天高さんの命を奪った伊津子ちゃんのことはずっと怖かった。でも断片的に伊津子ちゃんの記憶を辿るうちに、気づくことがあった。


(ねえ穂高くん。……穂高くんは皆礼のお家に生まれたこと、どう思ってる?)


 こんな状況じゃ予想もしていなかった質問だったからなんだろう、穂高くんはあたしの問いかけに面食らう。


『どうって………』

(天高さんが……お父さんが亡くなった後は、穂高くんが海来様を務めていたんでしょう?それってすごく大変なことだよね……?)


 日高くんから聞いた話では、喪が明けたとき、当時十歳だった穂高くんは正式に皆礼家の当主になったそうだ。それからは村で最高位の権威者として、穂高くんは学業の傍ら、ときには学業すら犠牲にして神事や祈祷を行い、豊海村の多岐にわたる村政に関わり、いろんな場面で村のために働いていた。

 神様として村のために尽くすのは、とても尊い行いなのかもしれない。けれどまだ遊びたい盛りの十歳の男の子だった穂高くんは、自分の置かれた立場をどう思っていたのだろう。


(前にね、響ちゃんが言っていたの。豊海村の豊かさって海来様の犠牲のもとに成り立っているんだって)


 村の人たちは海来様である皆礼家の当主を慕い敬って尽くしてくれるけれど、だからこそまるで見返りを求めるように海来様の神力の恩恵を受けられることを当然のように思っている。響ちゃんはそう言っていた。


『………犠牲、か……社人の者たちも村の者たちもよく皆礼家に仕えてくれているから、僕はあまりそんな風に考えないようにしていたけれど………』


 でも思い当たる部分があるのだろう、穂高くんは言葉を濁す。


(あのね、穂高くん。そのときの響ちゃん、なんかすごく怒っているみたいだったからあたし気になっていたんだけど……きっと穂高くんのことを見ていたからなんだね。穂高くんが海来役になったことでつらい思いしているんじゃないかって、響ちゃんはずっと心配していたんだよ)

『確かに僕は……自分が海来役になったら生涯村から出られず、その村の中でも決して他の村人たちと平等に扱われることなく永遠に神様でいなきゃならないことに、窮屈さを感じていたかもしれない。

 でもそれは皆礼家の長子として生まれた者の宿命だと割り切ることにしていた………けどそんな僕のポーカーフェイスも、響にはすべてお見通しだったんだな……』


 穂高くんは苦笑いする。


『誤解しないでね、ののかちゃん。べつに僕は豊海村が嫌いなわけじゃないんだ。海来役を務めていれば一生食うに困らないし、みんなにちやほやされれば気分も悪くない。何より生まれ育ったこの土地にちゃんと愛着もある。……でもね』


 穂高くんはいくらか躊躇うような表情を浮かべた後、ちらりと横目で伊津子ちゃんを窺う。それから今まで心の奥底にあった感情を吐露するように口を開いた。


『正直に言うと、ときどき逃げ場がないことに無性にたまらない気持ちにもなったよたとえばね。……僕は卒業後は進学したいと思っているんだ』

(大学に行きたいってことですか?)

『ああ。……神力を継承する身でこんなことを言うのは不謹慎だと分かっているけれど、僕は何の努力もなしにたまたま自分に生まれつき備わっていた神力というものにあまり価値を感じていないんだ。それよりも人が長い歴史の中で知識や創意工夫を重ねて、人間の力だけで獲得し継承し社会を発展させてきた工学の技術の方がすごく偉大で尊いものだと感じている。だから大学で工学を学んで、いつか研究者なり技術者なり、自分もこの大きな社会を動かすちいさな歯車のひとつになりたいって、そんなささやかな夢があるんだ』


 ……全然ささやかなんかじゃない。まだ高校卒業後の進路も、将来なりたいものもイメージ出来ずにいるあたしにとっては十分すぎるくらい立派な夢だと思う。


(………でも穂高くんは、その夢がかなわないって思っているの……?)


 穂高くんは曖昧に笑う。


『親父は将来のことは好きにしていいって言っていたんだ。皆礼の血筋のことなんて考えずに好きに生きろって。……でもね、豊海に生まれ育って土地にも人にも愛着と恩のある身としてはそれはなかなか難しい。村の者たちはどうせ一生海来役を務めていくことが決まっているのに大学になんて行くことはないって言う。それよりも早く実地で村政を学ぶべきだってね。その方が僕のためになるって、そう決めつけられる。

 ……村の者たちは僕を丁重に扱ってくれて頼りにしてくれる。でも村にとって本当に必要なのは僕自身じゃないんだって僕は知っている。僕じゃなくても、ただこの村を守り導く海来役さえいればいいんだ。いっそ僕は人格を持たない、みんなにご利益だけを分け与える神力を備えただけの人形であれば、村の者たちにとっても僕にとっても幸福なのかもしれないと思ったこともある』


 穂高くんの浮かべるさびしげな笑みに、あたしの胸はぎゅっと締め付けられる。海来様になるということは、夢を持つことさえ許されない立場に立たされると言うことなのだろうか。きっと穂高くんは海来役になったその日から、有言無言のうちに周囲から『皆礼家の当主とはこうあるべき』とプレッシャーを掛けられ続けていたのだろう。人でありながら人ではない、そんな特別な存在だからゆえの葛藤が穂高くんの淡々とした言葉から伝わってくる。


(響ちゃん、村の海来様のこと『籠の中の鳥みたい』とも言っていたの……きっと日頃穂高くんを見ているうちに、そういう穂高くんの気持ちを察していたんだね………)


 だいすきな穂高くんが村のしがらみに縛られて、自由に生きることが出来ずにいる姿を見て、きっと響ちゃんは胸を痛めていたんだろう。穂高くんを普通の男の子みたいに自由にしてあげたいって願いながらも、自分じゃなにも力になれないことをきっと響ちゃんは歯がゆく思っていた。だからこその怒りだったのだ。


(ねえ、伊津子ちゃん。伊津子ちゃんも『籠の中の鳥』だと思っていたんじゃないの?……穂高くん。伊津子ちゃんは、たぶん全部知ってる)

『知ってるって………?』


 あたしは伊津子ちゃんの意識と重なって断片的に『見た』、過去を思い浮かべる。



 穂高くんたちの父親である天高さんは、自分の代で血を絶やし終わらせてしまおうと思いつめたほどに『海来役』という重い責務を負うことに孤独と苦悩を抱えていた。

 穂高くんは長子であるから仕方ないと納得するふりをして、でも心の中では『海来役』を強いられ思うままに自分の人生を生きられないことに苛立ちを深めていた。

 日高くんは祖父や父親の才覚に遠く及ばない自分の神力の未熟さにいつも苦しみ、いつも劣等感に飲み込まれそうになっていた。



 伊津子ちゃんは陸へ上がるたび、皆礼の家に生まれたがゆえに苦悩する彼らの姿をこっそりと見ていたのだ。人の中に混じって生きることに絶望して自ら命を絶った伊津子ちゃんだからこそ、天高さんや穂高くんたちの抱えていた疎外感や苦悩に深く共感して、なんとかしてあげたいと心の底から願っていた。

 でも考えても考えても、海来神が人の輪の中でしあわせに暮らす様子が伊津子ちゃんにはどうしてもイメージ出来なかった。


 ----------ならばいっそ人の世から離れてしまえばいい。


 人となんてもう関わらずに、竜主神のいる『あちらの国』へ行けば、苦悩することもなくみんなしあわせに暮らせるはず。独りで思い詰めた伊津子ちゃんは、いつしかそんな極端な考えにたどり着いた。



(………あたしね、伊津子ちゃんのことが怖かった)


 なんとか自分の思いを正しく伝えられるようにと心の中で祈りながら、あたしは伊津子ちゃんに言った。


(それに昔おじいちゃんたちから聞いた、豊海の海の神様の話も怖かった)


 豊海の海は夕暮れになると異界の扉が開かれて、神様が気に入った人間を連れて行ってしまうという話のことだ。


(でもおじいちゃん言っていたの。『あちらの国』は天国みたいな素晴らしい場所で、かなしいことも苦しいこともないしあわせが約束された神様の国なんだって。だから神様がときどき人を海に連れて行ってしまうのは、人を怖がらせたり苦しめたりするためじゃなくて、ただ人を苦しみから救うため、人を憐れんでしていることなんだって。

 ……ねえ穂高くん。だから伊津子ちゃんも『あちらの国』へ連れて行こうとしたんじゃないの?天高さんや穂高くんたちがもう地上でかなしい思いをしないように、しあわせになれるように、神様の国へ連れて行こうとしたんじゃない。……違うかな?)


 無理やりあちらの国へ連れていこうとする非情にしか見えなかった伊津子ちゃんの行動は、おそらく伊津子ちゃんなりの正義に突き動かされてしたことだ。伊津子ちゃんの記憶に触れているうちに、あたしはそんなことに気付いていた。


(ねえ伊津子ちゃん。あたし、今もあなたのことがちょっと怖い。……だけど伊津子ちゃんが天高さんや穂高くん日高くんを大事に思う気持ちは、ちょっとはあたしにもわかるつもりだよ……?)


 伊津子ちゃんはじっとあたしを見る。それからはっと息を飲むほど儚くうつくしい笑みを浮かべてゆらゆらと姿をくゆらせる。そのゆらめきと一緒に伊津子ちゃんの背が伸びていき、顔立ちもより女性らしくうつくしいものに変化していき、気が付けばあたしの目の前には世にもうつくしい美少女が立っていた。これは伊津子ちゃんが亡くなった頃の、あたしと同じ年頃のときの姿だ。


(…………きれい………)


 伊津子ちゃんに釘づけになったあたしは、状況も忘れて呟いていた。伊津子ちゃんは目を細めて、まばゆい美貌に微笑みを湛える。


『ふふ。ののか、あなたは面白い子ね。人でありながらわたくしの感情に寄り添おうとするのね』


 呆けたように見惚れてしまったあたしに、神々しくうつくしい伊津子ちゃんは苦笑する。


『わたくしの顔、日高に似たところがあるから目が離せなくなってしまうのかしら?あなたはこの皆礼家の顔がとても好きなのね。……でも人の世に暮らすなら、この顔は福音になんてならなかったわ。人として生きようとしていたわたくしに多くの苦しみを与えただけよ……わたくしは永遠に幼い少女のままでいたかったわ』


 美貌を陰らせながら伊津子ちゃんは続ける。


『ねえののか。あなたの言う通りよ。この土地にいて生き神として村の者たちをしあわせにしても、皆礼の家に生まれたわたくしたちは決して自分自身をしあわせにすることが出来ないの。神様なんて呼ばれていても、所詮は都合のいいにえ。人に利用され、人に自身の人生を消費されるだけの存在。わたくしたちは人々から崇められ、敬われ、そして搾取される竜。たとえ人と共存しても、永遠に人とは相容れないのよ』


 淡々と語るその言葉には、隠しきれないほどの深い失望とかなしみが感じられた。はじめは警戒して伊津子ちゃんと対峙していた穂高くんも、今は伊津子ちゃんに呼応するように表情を翳らせる。


『伊津子比売。僕はあなたが何か強い恨みを持っていて、復讐心で皆礼の血を引くものに仇をなそうと思っていたのかと考えていたけれど………あなたは豊海の土地に縛り付けられた竜主神の末裔を、たったひとりで解放しようとしていたんですか。そんな使命感にも似た愛情を抱いていたというんですか。だから父さんを……そして僕や日高もあちらの国へ連れて行こうとしたんですか』


 伊津子ちゃんはそれには答えずに、ただ微笑む。


『もしそうだとしても、あなたのやり方は受け入れ難いし、響まであちらの国へ連れ去ろうとしたことは到底許せることじゃない。けど。……けれど………僕もあなたと同じく皆礼の家に生まれた竜の末裔、あなたの気持ちが分からなくもない……』

『現世ではわたくしたちが特別であり、異端な存在だと穂高も自覚しているのでしょう。もうこれ以上皆礼の者たちが苦しむ必要はないのよ。だからわたくしと一緒に行きましょう。……ののか、あなたも一緒に来てくれるわよね?』


 伊津子ちゃんは慈愛に満ちた聖母さまみたいな笑みを湛えて、あたしにその華奢な手を差し伸べてくる。


『ののか。出来ることなら生きている間に、わたくしはあなたと出会ってみたかったわ。あなたとだったらもしかしたら友達と呼び合う関係になれたのかもしれない。……あの忌まわしい夜の後も、わたくしが生を投げ出さずに人として生きていくための示唆を、そんな言葉を、あなただったらわたくしに掛けてくれたのかもしれない。そうしたら、わたくしにももっと別な生き方が』


 伊津子ちゃんは言葉を切ると、力なく左右に首を振った。


『………いえ、今はもう何を言っても無意味ね……さあ穂高、ののか。行きましょう。あなたたちみたいな濁りのないうつくしくやさしい魂の持ち主こそ、あちらの国でしあわせに暮らすに相応しいわ。大丈夫、肉体を捨てる苦しみなんてほんの一瞬のことなのよ』

『比売ッ。この子には手を出すなと言ったはずだッ』


 穂高くんが鋭く言い放つと、その体に蒼い光が満ちて急激に竜の姿に戻っていく。見ればお腹の辺りに貼られていた日高くんの呪符が少しずつ破れ始めていた。


(やめて、穂高くんっ。無理に神力を使ったら、きっとまた竜に戻っちゃうよっ)

『いいんだ。そうだとしてもここで君を守れなきゃ僕は人でいる意味がない。ののかちゃんは日高の大事な人だけど、僕にとっても本当に大切な女の子なんだ。………お願いだ、伊津子比売。せめてののかちゃんだけでも陸に返してあげてくれ。僕は血縁であるあなたとは争いたくない』

『そもそもわたくしたちに争う理由がないわ。なぜ穂高はわたくしの気持ちをわかってはくれないの。ののかはわたくしの思いを理解してくれたのに』

『そりゃなんたって、ののかちゃんは僕の自慢の弟が選んだ、とびきりやさしいとびきりいい子だからね。あなたの境遇に深く同情してくれただろう。……けどあなたの気持ちを理解したからって、あなたの行動を肯定したわけじゃない。彼女は地上で日高としあわせに暮らすんだ』

『その日高も一緒にあちらの国へ行けばいいでしょう。それですべてが円満に納まるわ』

『だめだ。それだけは許さないッ』


 相容れない二人の感情が、伊津子ちゃんと穂高くんとの間で激しく火花を散らす。


(やめて、伊津子ちゃん、穂高くんっ!)


 どうしてあたしはただの人間でしかないんだろう。神呪を唱え合って攻防する二人を止めることが出来ずに、どうして見ているだけしか出来ないんだろう。日高くんの大切な人のために、なんであたしは何も出来ないんだろう。



 --------日高くん……っ。



 自分の無力さがあまりにも歯がゆくて、心の中で祈るようにその名前を強く呼んだ。そのときだった。唐突に、あたしは自分に向かって何かが急激なスピードで近づいてくるのを知覚した。お腹がその『何か』に呼応するようにジーンと熱くなったかと思ううちに、視界いっぱいに蒼い光が満ちてきてそのあまりのまばゆさにあたしの視力は奪われた。


(………な、なにっ!?何が起きたの??)


 目が眩んでなにも見えないまま手探りで自分の周囲を探ると、指先に何かが触れた。固くて温かい。そして蒼真珠のように指先を滑るなめらかな感触。あたしが間違えるはずもない、これは日高くんの鱗。日高くんの感触だ。


(日高くん………日高くんなんでしょ!?来てくれたんだね……っ)


 安堵のあまり思わず飛びついてしまったけれど、なぜかあたしがまわした両腕に日高くんの身体がうまく収まらない。不思議に思って痛いくらい強烈な光の中、ゆっくり目を開いていくと。


 あたしの眼前には、まだ見たこともなかった姿をした日高くんが、神々しい光を全身から放ちながら佇んでいた。






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