君を愛する


 ………ののか、ののか。


 何度も何度も呼びかけられても、あたしは顔を上げることなんて出来なかった。見たものが衝撃すぎてあたしには受け止められなかったのだ。

 崩れ落ちた足元からはひたひたと悲しみと絶望が満ちてくる。それは言葉になんてならず、ただただ涙に姿を変えて両目からこぼれていく。あたしは頬を伝うそれを拭えもせずに茫然としていた。


 ののか、頼む。泣かないでくれ。


 日高くんはやさしく語り掛けてくれる。でもそのやさしさも今は余計にあたしを苦しくさせるだけだった。


(………でも……だって日高くん…………ねえ、ほんとに………ほんとうにもう一緒に帰れないの?そんなの嘘なんでしょ……?)


 あたしの縋るような問いに、日高くんは竜の目をどこかさびしげに細めて項垂れた。


 俺にはもう体がないんだ。陸へは帰れない。


 その言葉が、その事実が、鋭い刃になってあたしの胸を刺し貫いた。あまりの痛みにあたしは堪え切れずに嗚咽した。


(……いや………いやっ…!!そんなの絶対にいやだよ……っ!!)


 目の前に日高くんはいるのに。たしかに日高くんはここに存在しているのに、その体はもうないなんて。


 いつもあたしに笑いかけてくれたやさしいあの顔も。目が合ったらもう二度と逸らせなくなってしまうんじゃないかと思うほど熱い眼差しも。ときどき意地悪を言ってあたしを翻弄してくるあの口も。不意にぎゅっとあたしを抱きしめてくれたあの腕も。触ってもいいかとおそるおそるあたしのお腹に触れてきたあの指先も。もうどこにもない。日高くんのすべては、まるで霧のように跡形もなく散ってしまった。もう永遠に失われてしまったんだ。


 ………もう二度ともとには戻れない。


(………あたしのせいだ……あたしがでしゃばったりするから………っ。だからこんなことに………全部あたしのせいだ………!!)


 違うッ!!ののかのせいじゃないッ!!それだけは絶対に違うッ。


(……でも………でもっ!!)


 ののか。頼む、聞いてくれ。


 日高くんはゆっくりと神力であたしを自分の目線の高さまで持ち上げた。あたしはこらえきれずに日高くんの鼻先に抱き付く。温度はない。不思議な感触だ。ここにあって、ここにないような。そんな心許なさにますます涙が滲んできた。


 ののか、俺は今こそののかに運命を感じる。やっぱり俺はののかに出会うために生まれて来たんだ。………だってののかを助けられたことが、こんなにもうれしい。


 そういって髭を揺らすと、なぜかあたしの胸にはひどくあたたかな気持ちが溢れてくる。……これは、この喜びは、きっと日高くんが感じている気持ちだ。それがあたしの心にも流れ込んできている。そのあたたかな気持ちが訴えてくる。


『ののかが無事でよかった』


 身体を失ってしまった苦しみや悔しさや悲しみなんて簡単に凌駕してしまうほどの、その圧倒的な安堵の感情。偽りなく今の日高くんの心はそれだけで満たされている。ただただ彼はあたしの無事を喜んでくれている。あたしをあたし以上にこんなにも思ってくれる、その思いの深さにあたしは悲しみとはまた別の理由で涙が溢れてきた。


(………あたしも思うよ。あたしはきっと日高くんに出会うために生まれて来たんだって。日高くんをもっともっと好きになるために生きているんだって。日高くん以外に運命を信じられる相手がいるわけないもん………)


 日高くんはあたしを見詰めて、しあわせそうに微笑む。同じ気持ちをシンクロさせて共有しあうこの瞬間、あたしが感じていたのはたとえようもないしあわせだった。でもその時間は長くは続かない。日高くんは穂高くんを見下すと、突然「ののかを頼む」と言い出す。


(待って、日高くんっ)


 日高くんの神力でふわりと持ち上げられていたあたしの身体はゆっくりと下りていき、それと同時に視界が金色に染まっていく。下に着地したときには、ずしりとその体の重みを感じて驚いて自分の両手を見ると、それは霊体の半透明の身体ではなくちゃんと生身の身体になっていた。


 …………いつまでも霊体のままでいて、なにか障りがあると大変だからののかの身体を貝楼閣から呼び寄せたんだ。


 日高くんはこともなげにいう。それがどれほどの高度な神力を用いるのかは、大きく息を飲んだ伊津子ちゃんの反応から窺えた。


『日高。……穂高とののかを陸に返すの?』


 ああ。伊津子比売、あなたとは俺が共に行こう。だから二人を返すまで待っていてくれ。


 日高くんは神力を発動させようとしているのか、その髭が輝きはじめた。



「待ってくれッ!!」


 日高くんが体を失ってしまったことに打ちのめされて項垂れていた穂高くんが、突然立ち上がって日高くんの前に立ちはだかった。


「僕は帰らなくていい。…………日高ッ。おまえにこの体をやるッ」


 その言葉に驚いたのは、日高くんだけじゃなかった。


『穂高?あなたは何を言い出すの』

「僕があなたと共に行くと言っているんだっ。……比売なら分かるだろう、僕の身体を日高の依代にすればいいと言っている。……僕の身体ごときでおまえの魂を支えてやれるか分からないが、おまえには今その強力な神力がある。それでまた影封じをすれば、僕の身体におまえの魂を定着させることが出来るかもしれない。試す価値はあるはずだ。……日高、僕の身体を器にするといい。そしておまえはののかちゃんと一緒に豊海に帰るんだ」

「待って………穂高くん、そんなことをしたら穂高くんはどうなるの……?」


 震えながら尋ねると、穂高くんはにっこり笑う。ちょっと不敵でやさしいその笑み。日高くんを見守っているときのやさしい“兄”の目だ。


「ののかちゃん、依代というのは実体がない神を宿らせる器だ。中身が空っぽの方が都合がいいんだ。………どうせ僕は一度は死にかかった命、それを日高に助けてもらったならせめてこの命は日高のために使いたい。伊津子比売とは僕がいく。だからおまえはののかちゃんやお腹の赤ちゃんのためにも豊海の村に帰ってくれ」


 兄としての矜持がそうさせるのか。穂高くんはどこか晴れやかな顔でそう言い切る。深く嘆くその裏で、とっくに自分の身体を差し出す覚悟を決めていたのだろう。それほどまでに責任を感じて、悔いて。そしてなにより弟の日高くんを思っていたのだろう。


「ののかちゃん。最後まで勝手ばかりのダメなお兄ちゃんで本当に………本当にごめんね」


 穂高くんが口にしたその「ごめん」は、たぶんあたしだけに向けた言葉じゃない。決意を込めたその目の奥に、隠しきれない感情が揺れている。穂高くんはその感情に捕らわれないうちにとでも思ったのか、神呪を唱え始めた。たぶん唱え終わったら、また穂高くんの魂と体はばらばらになってしまう。あたしが止めようとすると、それより先に詠唱が止まった。


「グッ…………ひ、…日高…っ………頼む…ら……僕を止め……くれるな……ッ」


 苦しげに喉を抑えながら声を絞り出す穂高くんに、日高くんはきっぱり「止めるに決まってる」と言う。


 穂高、馬鹿なことはするな。……響はどうするんだ。


「響には……本当にすまないと思っている。けれど………それでも……ッ」


 響は今もおまえが無事に戻ってくることを祈ってずっと待ち続けているんだ。それを裏切るのはあまりにも酷だ。


 響ちゃんのことを持ち出されるのはおそらく穂高くんにとっていちばん辛いことなんだろう、顔が苦しげに歪んだ。


「そんなことは分かってるッ………僕の所為で響を不幸にするわけにはいかない……でも、ほかに方法はないだろ!………元はと言えばすべて僕の所為なんだ。なのに自分だけが助かるなんて、そんなことは僕には耐えられない。僕はずっとずっとおまえに庇ってもらって生きてきたというのに、そんなおまえを犠牲にして、おまえの好きな子までどん底の不幸に突き落として、そんな業を背負って生きていくなんて、出来るわけないだろッ!!」


 それでもだ。耐えられなくても、苦しくても、どうか穂高は地上で生きていてくれ。


「嫌だッ。…………頼むから。兄貴としての最期のわがままだ。お願いだから聞いてくれ」


 どんなに穂高の頼みでもそれだけは頷けない。こうなったことは俺が俺自身の意志で選んだ結果なんだ。穂高が悪いわけじゃない。


「だけどッ」


 食い下がる穂高くんに、日高くんはなぜかとてもやわらかく微笑んだ。


 …………兄貴。


 その呼び方に、穂高くんが痛みを感じたように目を細める。


 だったら兄貴のほうこそ、弟の我が儘をきいてくれ。俺は穂高が思うよりずっとずっと嫉妬深いんだ。……たとえ魂が俺だとしても、穂高の身体でののかに触れるなんて、そんなことは到底許せない。俺はののかを他のどんな男にも触れさせるつもりはないんだ。そんなことをしたらきっと嫉妬に狂って発狂する。たとえ兄である穂高だとしても半殺しだ。だから穂高の身体なんて俺はいらないよ。


 穂高くんは驚いたように目を見開いた後。かなしげに眉を下げる。


「ほんとうにおまえは………どうしようもない嫉妬魔だな。惚れられたののかちゃんも大変だ………」


 これ以上の説得は無理だと悟ったのだろう、穂高くんは口元を覆って俯く。そんなやりとりを、あたしはどこか現実感のないまま眺めていた。


 すまなかった、ののか。ののかをこの皆礼の家のことに巻き込んで。………最後まで勝手でごめん。でも離れていても俺はこの海を………ののかのことを守るから。これからもののかのしあわせを誰よりも願い続けるから。だからどうか元気で……笑っていてくれ。穂高。…………ののかを頼む。


 あたしと穂高くんの身体の周囲に、陸に送り出そうとする温かなエネルギーがじわじわ集まってくる。避けられようもない別れの予感に、あたしは駆けだしていた。


「あたしは豊海に帰らない!!」


 今のあたしに、これ以外の選択肢があるわけがなかった。


「日高くんと離れることなんて出来ない!!………だからあたしも連れて行ってッ。あたしも日高くんと一緒にあちらの国へ行く!!絶対に行くの!!」


 ののか………。


「だって約束だもんッ。日高くんはあたしをお嫁さんに選んでくれたんでしょう?……大人になって、いつかほんとうに夫婦になりたいって、そう言ってくれたよね?だったら最後まで責任取ってあたしをひとりになんてしないでッ!!」


 必死に訴えるあたしの意識に、なぜか唐突にお父さんとお母さんの顔が鮮明に思い浮かんでくる。




『君がこんな遅くに晩酌だなんて珍しいな………何を見ているんだい?』


 どうやらあたしの家の映像らしい。食卓にしているテーブルの上、お母さんの手元にあったのは分厚いアルバムだった。生まれてから半年までの期間に撮られた写真を収めたそのアルバムには、家族三人の笑顔と思い出が詰まっていた。


 お母さんが目を止めていたのは、あたしが生まれた直後の写真。分娩を終えたばかりでまだ顔を紅潮させてベッドに横たわるお母さんと、その隣で真っ白な産着を着せられた新生児のあたしを恐々と抱いて緊張のあまりにこりと笑うことも出来ずにいるお父さん。これはあたしたち家族の、はじめての家族写真だ。

 東京にいた頃にお父さんお手製のフォトフレームにも入れてリビングに飾っていた写真で、ことあるごとにお母さんは「産んだ自分より立ち合ったお父さんのほうが疲れてきって真っ青になっていた」と揶揄かっていた。


 でも今のお母さんは口元を無理やりに笑みの形にして、写真の中のちいさなちいさな赤ちゃんをじっと見つめている。


『本当に、子供が成長するなんてあっという間ね。あの子が神事と言えど、もうお嫁さんの役だなんて。……意外とそそっかしいところがあるから、皆礼さんの家で粗相してなければいいんだけど』


 憎まれ口みたいな口調とは裏腹にさびしげな顔をしていることに気付いたのか、お父さんが珍しく真向かいじゃなくて隣の椅子に腰を下ろしてそっとお母さんの肩を抱いた。


『もうすこしだよ。あの子はちゃんと僕たちのもとに帰って来るんだから。……だからののかが帰ってきたら、いっぱい失敗談を聞いてあげよう』

『それもそうね。あの子教育係の梅さんたちにこってり絞られて毎日ヘコんでるかもしれないしね』

『帰ってくる日には僕たち二人でののかの好物をたくさん用意しておいてやらないとな』

『唐揚げの甘酢がけに、春巻き、具だくさんのオムレツにかぼちゃのポタージュ、マッシュポテト。それにレアチーズケーキね』

『それは全部君の好物だろ』

『あら、ののかだって大好物よ?親子だもの、好みが一緒なの』


 二人は目を合わせると笑い合い、それがおさまるとぽつりとこぼした。


『…………意外に長いものね、三ヶ月って』

『ああ。……だけどどれだけ娘が成長したのか、待った分だけ再会が楽しみだろう』

『そうね。待ち遠しいわ』






「………いや、やめて………」


 あたしの帰りを待ち焦がれているお父さんのお母さんの姿なんて見たくない。でも目を閉じても耳を塞いでも、直接脳に送り込まれてくる映像はしまう。





 別の晩。


 お父さんとお母さんがお互いに作品を持ち寄って、出来栄えを品評しあいながら晩酌をしていた。はじめは作品のことや芸術論について熱く討論していたはずなのに、いつの間にか話の中心は話はあたしのことになっていた。


『ののかはいい子に育ったなぁ』

『あなたってば、いきなり何よ』

『いや、この前ね、立花さんところの旦那さんに褒められたんだ。あの年頃で父親を邪険にしないで仲良くしてくれる女の子はなかなかいないって。東京育ちの女の子ってもっと冷めた感じの子かと思ったのに、お宅のののかちゃんはほんとうにいつもにこにこ笑顔でいいですねって。……うちじゃ普通のことだと思っていたから、まさか褒められるとは思わなかったよ』

『まあうれしそうな顔。でもそれ、ののかには絶対言わない方がいいわよ。思春期の娘にそんなこと言ったら間違いなくウザがられるもの』

『そうかなあ?僕はこの先もののかと仲良くやっていける自信があるよ』

『ののかにボーイフレンドが出来た時も同じことがいえるかしら?』

『…………まったく、ほんとうに君って人は意地の悪いことをいうんだな』

『ののかも年頃の女の子ですもの。いつそういう相手が出来てもショックを受けない心構えが必要よ、お父さん?』





「やめて………もうやめてぇ!!これ以上見せないでッ!!」


 あたしはたまらなくなって悲鳴を上げた。それでもまだ両親の姿が次から次へと脳裏に思い浮かんでくる。何度振り払おとしても強制的に日高くんが見せているのだ。あたしの決心を揺るがすために。


「お願い、もうやめてッ。こんなことしなくても、わかってるよ……ッ」


 あたしは初めて心の底から憎らしいと思いながら日高くんを睨み上げた。


「あたしがあちらの国へ行ってしまったら……このまま二度と豊海に帰らなかったら、お父さんとお母さんを悲しませるって分かってる。……ううん、お父さんたちだけじゃなくて響ちゃんや学校の友だち、いろんな人をかなしませるって、そんなことわかってるッ」


 でもどれだけ心を揺さぶられようと、あたしの気持ちは決まっていた。その決意が覆ることがないことをいちばんよく分かっていたのはあたしだ。


 …………お父さん、お母さん、ごめんなさい。


 あたしはたぶんもう会うことが叶わない二人に心の中で謝る。あたしはきっとふたりにとっていちばん親不孝なことを選ぼうとしている。ふたりはあたしを信じてくれているのに、最低の娘だ。自分のことしか考えてない我が儘だ。身勝手だってわかってる。でも。


「それでもダメなの……だって日高くんと離れる方がもっとつらい。日高くんがいなきゃあたしは生きていけない。………だからいかないで。ひとりにしないで。あたしもつれていって。あたしは日高くんのことが好き。世界でいちばん好きなのは、もうとっくに日高くんなの。日高くんが家族より、誰よりも、むこうにある地上の世界よりもっと大切になっちゃったの。同じ気持ちでいてくれているならお願い、あたしを置いていかないで」


 ののか………。


 魂がふるえてしまうほど切なげに名前を呼ばれて、本当は同じ気持ちでいてくれているんだということが痛いくらいに伝わってくる。でも日高くんは未練を無理にでも断ち切ろうとするように、苦しげに目を閉じる。



 でも………でも俺は、ののかをあちらの国へ連れていくために竜になったんじゃない。……今好きだと言ってくれたことも、さっきののかが伊津子比売に言ってくれた言葉も、すごくうれしかった。俺と一緒に生きていきたいといってくれて頭が溶けそうになるくらい、ほんとにほんとうにうれしかったんだ。

 ののか。同じ気持ちなんだ。

 俺もののかが陸で元気に生きていく姿を見ていたい。たとえあちらの国へ行けば永劫にふたりで幸せになれるのだとしても、ののかから地上で生きることを取り上げたくない。人の生は儚くて、それゆえに尊く大事なものなんだ。手放せば、たとえ生まれ変わろうとももう二度と同じ形の生は手に入らない。

 俺は今目の前にある、唯一無二の『早乙女ののか』という女の子のことが好きなんだ。だから世界にただひとつしかないその子の命を俺は守りたい。大事にしたい。その子が寿命をまっとうするまでに得るはずだったあらゆるものを、俺の手で取り上げたくなんてない。

 だって俺はののかが好きなんだ。ののかのことだけじゃなくて、ののかがこれから出会う人もいろんな経験も過去も未来もすべて、ののかを取り巻く世界のすべてが俺には愛おしくてかけがえなくて大切なんだ。

 ののか自身のことを思うだけじゃ足りないくらい、ののかのことが好きでたまらない。……こんな気持ちをきっと愛してるって言うんだと思うんだ。離れていてもこの気持ちは絶対に変わらない。そうこの名に誓う。


 だからお願いだ。どうか俺にののかを………このまま愛させてくれ。



 日高くんから伝わってくるのは、どこまでもどこまでも深い果てのない愛情。もうこれ以上はこぼれないと思っていたのに、涙はあたしの頬を濡らしていく。

 竜の日高くんとは心がシンクロして、日高くんの思いは言葉以上に伝わってくる。あたしに「一緒にいこう」といってしまえば簡単なのに。こんなに悲しく切なくつらい気持ちになんてならずにすむのに。それでも日高くんは、あたしを丸ごと愛おしんでくれて、それゆえに離れ離れになることすら受け入れようとしている。自分だってつらいくせに。本当は地上に返したくないと思っているくせに。

 あたしを好きだと言う一念だけで、そんな自分の感情をすべて封じてしまおうとする。その深くて広い愛情に、あたしはとうとう白旗を上げるしかなかった。


「……もぉ………勝手だなぁ日高くんは………日高くんが迎えに来てくれるまで、七十年も八十年もおばあちゃんになるまでたったひとりであたしに生きていけっていうの?………そんなのさびしくてさびしくて、あたしにほかに好きな人が出来ちゃったらどうするの……?」


 泣き笑いでわざと意地悪に尋ねれば、日高くんは困ったように黙り込んでしまう。あまりにも素直な反応に、かなしくてたまらないのに笑みがこぼれる。


「………うそだよ。……誰も日高くんの代わりなんてなれるわけがないよ………世界でいちばん大好きだよ、日高くん」


 ツキン、と思い出したように突然お腹が痛み出して、あたしははっと息を飲んだ。そうだ、あたしには日高くんとの赤ちゃんがいるんだ。もしあたしがあちらの国へ行ってしまえば、この何の罪もない儚い子も、ちっちゃんと同じく地上に生まれてくることは出来なくなる。それを思ったときに、あたしはとうとう悟って天を仰いだ。


 あたしの人生には、まだきっと生きなきゃいけない意味が残されている。そう訴えてくるように、ちいさな命はあたしにちいさな痛みを知覚させて信号を送ってくる。「生きて」と。ただ「生きて」と。


「……そっか、あたしはもうママだったんだね………この子を産んであげることが今のあたしのいちばんにすべきこと、唯一日高くんのためにしてあげられることなんだよね……?…きっと……」


 自分に言い聞かせるように、あたしは言葉をつづける。


「………日高くんと離れ離れになるのは嫌だけど。そんなのぜったいぜったい嫌に決まってるけど……っ……日高くんの赤ちゃんを死なせるのもイヤッ。………だからね、日高くん。あたし、一度ちょこっとだけ豊海に戻ってみるよ」


 あたしはわざとまるで「ちょっとおつかいに行ってくる」とでもいうような口調で、日高くんに明るく笑いかけた。


「それでね、がんばってこの子、産んでくる…………あたし頑張るから……日高くんが安心できるように頑張るから………だからきっと、早めに迎えに来てね?約束だよ?たくさん待つのはイヤなんだからね?あんまり待たせたりしたら、そのときはあたし海に飛び込んで自分から日高くん探しに行っちゃうんだからねっ!?」


 あたしが竜の鼻先にぎゅと抱き付くと、日高くんはあたしを抱ける腕はないから代わりに髭をやさしく絡ませてくる。それが今の人間のあたしと竜の日高くんの違いをまざまざと実感させられて切ない。でも離れてしまうのはもっと辛いから、ぎゅっと腕に力を込める。


 そうしていると、やっぱりあたしは日高くんが好きなんだという思いがあふれてくる。


 決心したはずなのに。

 赤ちゃんを守らなきゃいけないのに。


 でもこうして寄り添っていると、もうあたしの一部になってしまった日高くんを失うことが怖すぎて揺らいでしまう。


「…………ごめんなさい……でも、やっぱりどうしてもイヤだよ……だってあたし、日高くんとまだキスもしてないんだよ?なのにもうお別れだなんて、そんなの出来ないよ………!!」



 ---------ごめんね、日高くん。


 困らせたいんじゃないの。離れ離れにならなきゃいけないって、ほんとはもうわかってる。ちゃんと帰るって心の底では決めている。


 でも今だけ泣かせて。


 せめてお別れを現実のものだとしっかり受け止めて、いつかちゃんと前を向いて歩いて行いていけるように。いまだけはしっかり悲しませて。


 あたしがわんわん泣きじゃくると、日高くんの目元からも涙がこぼれてそれが水晶のような玉になる。それが光をきらきら反射させながら、いくつもいくつも足元に降り注いでいく。あまりにも幻想的でうつくしく、あまりにもかなしい光景だ。


「こんなに好きなのにね………どうしてもう一緒にいられないんだろうね……?」


 力なく笑いながら、あたしたちは迫る別れの予感にただ体を震わせることしか出来ずに抱き合っていた。






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