使役
※※※※
海が見える。夜の海だ。
伊津子ちゃんは切り立った崖の上で波濤の音に耳を寄せて、眼下に広がる海原を見下ろしていた。
「穢れてしまったわ……」
人形のような無表情でそう呟く伊津子ちゃんは寝間着姿で、ぐしゃぐしゃに乱れた浴衣はバスローブのように肩に引っ掛けられただけで帯すらしていなかった。風に靡いて開いた合わせ目からは白い裸体が現れる。その自分の身体を見て伊津子ちゃんは不快げに眉を顰めた。
「汚ならしい身体……わたくしたちはいつかあちらの国へ帰る竜の子なのに……人のように穢れてしまったわ……」
伊津子ちゃんは裸足のまま、海に向けて一歩踏み出す。
「わたくしたちの父なる竜主神さま……なぜ皆礼の者たちは、あなた様の血を引く竜でありながら人として生まれ、このような不自由な身体なんて持ってしまったのでしょう。人の床の営みなんてわたくしは知りたくもなかった……初めから人の肉体なんてなければ人に穢されることもなかったのに……清いままでいられたのに…………こんなものなかったら………そう、なければいいのよ………こんな醜い肉の器なんて……」
伊津子ちゃんは崖を蹴り飛ばした。その華奢な体は夜の海の波間に飲み込まれる。波濤にかき消され、その晩伊津子ちゃんがいなくなったことに気付く人は誰もいなかった。
※
淡く輝く場所で、ひとりの幼い女の子が戯れていた。
伊津子ちゃんだ。霊体の姿だった。身体の方は海に身投げした翌日に岸に打ち上げられ、早々に埋葬されていた。肉体の柵を失くして魂だけの姿になった霊体の伊津子ちゃんはなぜか童女の姿になっていて、この世でもあの世でもない不思議な場所で無邪気に笑って遊んでいた。
けれど来る日も来る日もひとりで遊んでいた伊津子ちゃんはふと退屈を覚えて、きまぐれに地上に出ていった。伊津子ちゃんはもともと強い神力の持ち主で、死後霊体になってからもその力が損なわれることはなかったので、地上に飛ぶことなんて簡単だったのだ。
久々に地上に出た伊津子ちゃんは驚いた。
こっそりと海来神社に行くと、そこにはいくらか白髪の混じった歳を重ねたお兄さんの姿があったからだ。最後に会った婚礼の日のお兄さんは若者らしい挑戦的な目付きをした精力に溢れた青年であったのに、今伊津子ちゃんの視界に映るお兄さんは目付きからはすっかり険が取れ、わずかに皺の現れ始めた顔には大人としての落ち着きと思慮が存分に備わっていた。
どうやら伊津子ちゃんがこの世ではない場所で過ごす数日のうちに、地上では瞬くような速さで時間が流れていたらしい。
神事の後だったのか、お兄さんは真っ白な装束に身を包んでいた。背後を振り返ると、印象の柔らかくなった目を細めて誰かに呼びかけた。
「
その声に応じるように、社殿からひとりの少年が出てきた。
「はい、父さん。お待たせしました」
涼やかな美声のその子は十四、五歳くらいの男の子だった。やさしげな顔立ちでとても聡明そうな目をしている。伊津子ちゃんのお兄さんは父親の顔をして、その少年に語り掛けた。
「今日はよくやった。上出来だぞ、天高。………さあ早く帰ろう。母さんがおまえの好物の天婦羅を拵えて待ってるぞ」
その言葉に、どこか大人びた表情をしていた男の子の顔が、歳相応の無邪気な子供のようにぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ。今朝は二橋の親父が美味そうなタラの芽を持ってきたからな。今頃母さんはあれで立派な天婦羅を揚げているところだろう」
好物のおかずを思ってうれしさをこらえきれずにはにかむ我が子を見て、お兄さんまでうれしそうに目を細める。親子は仲良く長い影を並べて、貝楼閣へと帰っていく。伊津子ちゃんはそんなふたりの様子を物陰から見つめていた。
(あの子が、お兄様の子……いつの間に、お兄様は御子を授かっていたのね……)
そんなことを思いつつも、伊津子ちゃんの目は兄ではなく、その息子の天高さんに釘づけになっていた。彼がまとっているとても儚い魂の輝き。それを一目見た瞬間、伊津子ちゃんの心を何か説明のつかない強烈な熱が駆け抜けていた。
(あまたか………あの子の名前は、あまたか……あまたか…)
伊津子ちゃんは何度も何度もその名前を心の中で繰り返す。その囁きは熱を帯び、顔は夢見るようにうっとりとしていた。
※※※※
ゼリーのように全身を覆っていた奇妙な感触から抜け出して、突然あたしの体は宙に放り出された。
(……きゃあっ!?)
落下するその勢いに驚いてあたしは目を覚まし、それと同時に身体は地面にたたきつけられた。
(うっ………いったぁ………)
打ったお尻をさすってると、あたしの目の前に蛍火が飛んできた。
(蛍火?よかった、やっぱここに来ていたんだ。……もうダメだよ、勝手にひとりで行ったりしちゃ……って、どこ行くの?!)
また飛び去って行こうとする蛍火を叱ろうとして立ち上がったところで、あたしはその場で固まってしまう。あたしがいる場所は半球のドーム状になっていて、あたり一面が白銀に輝いているふしぎな空間だ。でも何よりも、その中央に誰かがいることに気付いてあたしは息を飲んだ。
その人は和服を着ていて、空間の中央あたりに仰向けにふわふわ浮かんでいる。よく見れば白い和服には海来神社の神紋である竜の尾と波の刺繍が施されている。その体からはこの空間全体を照らすほどのまばゆい白銀の光が溢れていた。目はやさしく閉じられているけれど、そのうつくしい頤や目鼻立ちを見れば、人間離れした美貌の青年であることがわかる。
(……まさか………)
近付いて顔を覗き込むと、青年が穏やかな呼吸をするたびに胸が上下するのが分かる。これは生きた、生身の人間の身体だ。
(嘘……嘘、穂高くん………穂高くんの身体なの………っ!?)
思わず手を伸ばしてみるけれど、今霊体のあたしは生身のその身体に触れることが出来ない。触れることが出来ないはずなのに、横たわるその体はくすぐったそうに笑んで、それからゆっくりと目を開けた。そしてあたしと目が合うとにっこり笑い、体を起こした。
その顔を見てあたしは戸惑ってしまう。
目の前にいる青年は穂高くんのようなのに、そのあまりにも泰然とした表情や近寄りがたいほど優美な雰囲気には、いつも人懐こくて明るい“穂高くんぽさ”がまるでないのだ。うまくいえないけれど、穂高くんであって穂高くんでないような、そんな奇妙な違和感。あたしがその穂高くんらしき人を見つめていると、その人はあたしに向かって口を開いた。
『お初にお目にかかります。……あなた様はののか様ですね』
いきなり言い当てられてあたしはパニックに陥った。それに声が穂高くんの声とは似てもにつかない、低い重厚な声だったからそれにもびっくりしてしまう。目の前にあるのはどうやら穂高くんの身体らしいけれど、中身は穂高くんではないようなのだ。
(だ、誰っ………あなたは誰なの、どうして穂高くんの身体に勝手に入っているの?)
警戒しながらそう聞くと、目の前の美貌の青年は笑って答える。
『申し遅れました。私はあなた方が“
(せづな………)
どこかで聞き覚えがある名前だと思ううちに、以前日高くんから聞いた話を思い出す。
(あなたが瀬綱……瀬綱って、貝楼閣にずっと結界を張っていた、ものすごい力を持っている使役の瀬綱っ?)
『あなた様は日高比古の花嫁御寮ですね』
(なんでわかるんですか…っ)
驚くあたしに、瀬綱は神秘的な色の目を細ませて答えた。
『あなた様が宿していらっしゃる御子を見ればすぐにわかります。御子の魂は日高比古ととてもよく似た、あたたかで心地よい色をしていらっしゃる。紛うことなき親子の証に他ならない』
褒めるように言われて、なんかあたしは状況も忘れて照れくさい気持ちになってしまった。
(そうなんですか?ありがとうございます………って、そうだ。瀬綱さん、どうしてここにいるんですか?日高くんから一年くらい前に突然いなくなっちゃったって聞いたんですけど……)
『花嫁御寮、どうか私のことは瀬綱とお呼びください。……私は日高比古と穂高比古の父君であらせられる、天高比古と結んだ契約によりここに留まっていたのです』
(日高くんたちのお父さんとの契約?)
『はい。天高比古は生前、穂高比古と日高比古が天寿を全う出来るように助力してほしい、と私におっしゃられました。ですがあの日、伊津子比売が陸へあがったとき、穂高比古は海に引き込まれてしまった。
魂は先々代様の神呪により貝楼閣へと飛ばされましたが、お体の方は神呪の効力が及ばず、海に飲まれようとしていた。ですから恐れ多くも私が急ぎ穂高比古のお体に宿り、伊津子比売の手が及ばぬようにこの地に結界を張って眠っていたのです』
(だから……だから瀬綱は突然貝楼閣からいなくなってしまったんだね)
日高くんは自分が未熟で、高等な瀬綱を使役できなかったから、瀬綱に去られてしまったんじゃないかって言っていたけれど、そうじゃなくて瀬綱は使役としての役目をきちんと果たしていてくれたんだ。
(瀬綱、ありがとう。……でもどうして貝楼閣へ戻ってきてくれなかったの?日高くん、穂高くんのことこの一年ずっとずっと探していたんだよ?瀬綱が穂高くんの身体を貝楼閣まで運ぶことは出来なかったの……?)
『それはたいへん難しい問題ですね。私が預からせていただいたこのお体を、貝楼閣へ戻すことはたしかに出来ました。が、それでは穂高比古を救えません。なぜなら穂高比古は斎賀の娘を見逃してもらうのと引き換えにご自身が身代わりになるなどと、伊津子比売に約束してしまいましたからね』
あたしはつい最近見た、穂高くんと響ちゃんの過去を思い出す。穂高くんはあのとき、命でもなんでもくれてやるから響ちゃんを見逃してくれと伊津子ちゃんに懇願していた。
(もしかしてあのときの言葉が、『竜の契約』を伊津子ちゃんと結んだことになってしまったの?)
『左様にございます。私の張ったこの結界の中はあらゆる干渉を断ち、時を止めることが可能です。ですがここを一歩出てしまえば伊津子比売との契約が発動し、穂高比古はその契約により命を落とすことになる。ですから私はずっとこの場に留まり、穂高比古のお身体に宿ることで穂高比古をお守りし、お身体の時も止めておりました』
(あ……もしかして、だから穂高くんの身体、こんなに元気そうなの?)
穂高くんの身体は一年もの間異世界に留まっていたというのに、衰弱している様子もなく、健康そのものに見えた。
『ええ。私がお身体に宿り時を止めている限り、穂高比古は老いることがなければ飲まず食わずでもなんら問題ないのです。私もこのお身体を貝楼閣へお返ししたく思っておりましたが、こうしてこの場でこのお身体をお守りすることしか叶いませんでした。……ですが今日はののか様が来てくださったので、もう大丈夫ですね』
瀬綱はそういうと、何か呪文のようなものを唱える。すると視界は一気に白くなり、あたしは眩しさに目を閉じた。光りがだんだん弱まってきたところで目を開くと、目の前に奇妙でうつくしい生き物が現れた。白金に輝くちいさな人魚だ。
三十センチくらいのちいさな身体で、半裸の上半身は天女の羽衣のようなふわふわとした布を絡ませていて、下半身はまばゆい真珠色の鱗に覆われた魚のヒレ、纏うのは白銀のオーラ、肌の色は紫で彫の深い優美な顔立ちはあまりに整いすぎて作り物めいたうつくしさだ。妖精か、神話の世界に登場する生き物のような神秘的でうつくしい姿だ。
(きれい……すっごくきれい……これが瀬綱なの?)
『お褒めに与り恐悦至極にございます。……いかにも、これが私の本来の姿であります』
至高の芸術品に魅入るように思わず瀬綱の姿に見惚れてしまったけれど、あたしははっと気が付く。
(あれ、じゃあ穂高くんの身体はどこっ!?)
あたしが視線を巡らすと、さっきまでふわふわ浮いていた穂高くんの身体は地面に横たわっていて、顔はもう何度も見た穂高くんの顔つきに戻っていた。それにもう体も白銀色に発光していなかった。じゅうぶん整ったイケメンな顔だけど、さっきまでとは全然違ってちゃんと血の通った人間らしい温みを持った顔に変わっていた。どうやらさっきまでは身体に瀬綱が宿っていた影響で、瀬綱の容姿に近い顔立ちや雰囲気になっていたようだ。
(よかった……ほんとに、ほんものの穂高くんの身体だ………あっ)
安心した途端、あたしは左狐に預けっぱなしの穂高くんの霊体のことを思い出す。
(そうだ、瀬綱ッ。霊体の穂高くん、竜になってしまったの。それですぐそばにいるのっ)
『穂高比古が?……先々代様の神呪はどうしたのです』
あたしが貝楼閣に結び付けられていた神呪は破ってしまったこと、今晩急に穂高くんが竜に変化してここまできてしまったことをかいつまんで説明すると、瀬綱は渋い表情になる。
『それはとても拙い状況ですね。………恐れながら花嫁御寮。私は穂高比古のお身体をお守りするために、ここから動くことが叶いません。どうか代わりに今すぐ穂高比古の御霊をこちらに連れて来てもらえませんでしょうか』
(うん、わかった。今すぐ連れてくる!……でもどこから出られるの?)
瀬綱が片手で印を結ぶと、その途端あたしの足元にマンホール大の穴が現れた。
『どうぞこちらをお通りください』
(ありがとう、瀬綱!行ってくるね!)
『花嫁御寮。この外は人の身であるあなた様にとって良いものも悪いものも溢れております。どうかお気をつけて』
瀬綱はそういって深々と頭を下げた後、優美なその顔を引き締めてあたしに警告した。
『あなた様が義兄たる穂高比古をお救いしようとする気持ちは理解しておりますが……あなた様には御子を守らねばならない義務があることもどうぞお忘れなく』
その言葉の意味を深く考える前に、あたしは一歩を踏み出し、来たときのようにまたゼリーのような奇妙な感触の道を下に下にとおりていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます