10章 運命の夜

伊津子の記憶 【十六の婚礼】


 夜の海に飛び込んだあたしの意識が、深く沈んでいく。


 遠くに人が『見えた』。その誰かの意識とあたしの意識がゆっくり重なりあっていく。



※※※※



 誰かが鏡の前に立っていた。


 まだ高校生くらいの年頃の子だ。彼女がすこし浮かれた様子で姿見を覗き込むと、そこには婚礼衣裳に身を包んだ姿が映り込む。衣裳は鶴や吉祥の文様が描かれた見る者の視線を奪うほどに華やかなものだ。けれどもその豪華な衣裳よりもさらに美しいのが彼女の顔立ちだ。

 蒼味を帯びた神秘的な色合いの大粒の目に、思わず触れたくなるほど艶やかなさくらんぼの色の唇、高貴な印象の華奢な顎、庇護欲をそそる可憐でほっそりとした身体。人間離れしたとんでもない美少女で、間違いなくあと何年かすれば「絶世の美女」と讃えられるであろうほどの美貌だ。その美少女が自分に近づいてきた人に気付いて振り返った。


直高なおたか兄様」

「すっかり準備は整ったみたいだな、伊津子いづこ

「ええ。これでわたくしも、義姉ねえさまみたいなしあわせな花嫁さんになれるのね」


 美少女は……伊津子ちゃんはにっこり笑って答える。でも伊津子ちゃんのお兄さんはその言葉に顔を曇らせた。


「でもおまえは本当によかったのか?まだ恋も知らないまま、こんなに急に結婚を決めたりして」

「お兄様ったら今になって何をおっしゃるの。お兄様だってよい縁談だとおっしゃってくださったでしょう?嫁ぎ先として申し分のない家柄の、立派な御方だと」

「ああ。おまえももう十六になったわけだが、いささか性急過ぎやしないかと思ってね。……伊津子がこの結婚に不満や不安がないのならいいのだよ」

「ふふ、ありませんわ。だってわたくしはずっとずっと運命の方と巡り合うのを楽しみにしていたのよ?」


 伊津子ちゃんは夢見る乙女そのものの目をして、うっとり言う。


「●●さんは良い方ですけど、たしかにわたくしはまだあの方に運命というようなものは感じておりません。ですけどわたくしのもとに縁談の話が舞い込んできたということは、きっとご縁があってのことでしょう?きっと●●さんがわたくしの運命のお相手で、わたくしはこれから●●さんと運命の恋に落ちるのよ」


 伊津子ちゃんはそういって、上機嫌で鏡を覗き込みながら唇に紅をさし直す。


「お兄様、運命の恋っていったいどんな感じなのかしら?わたくしこの皆礼の家に生まれてから、いつかきっと自分も海来神やお父様やお兄様のように運命の相手と恋に落ちるのだと夢に見ていましたの。

 ………胸が焦がれて苦しくて、でもそれ以上の幸福感で胸が熱くとろけそうになるのでしょう?●●さんはわたくしを思うといつもそんな気持ちになるとおっしゃっていたわ。そしてわたくしもいつかきっとそんな気持ちにしてくださると約束してくださったのよ!」





 十六歳の伊津子ちゃんは純粋な普通の女の子だった。


 見た目こそあまりにもうつくしすぎておそれをなすほどの美貌だけど、中身は初めての恋を夢見て、結婚相手と仲睦まじく愛し合う将来に無邪気に胸をときめかせる、ごく普通の女の子。


 だったらなんで日高くんのお父さんを無理やりあちらの国へ連れて行ってしまったり、あたしの首に神呪の鎖を巻きつけたり、恐ろしいことをする子になってしまったのだろう。





 あたしの意識が飛んで、今度は真っ白な布団の中にいた。



 金糸の刺繍が施された、豪華でふかふかのお布団だ。この婚礼布団に身を沈めているのは、その日婚礼を終えたばかりの伊津子ちゃんだった。伊津子ちゃんは布団をめくって隣に身を寄せて来ようとする男の人に驚いて、顔を強張らせた。


「●●さん?……ここはわたくしの寝床じゃなくて?」

「伊津子比売。………いや、もうあなたは私の妻の伊津子だ。これからは私たちはしとねを共にするのです。そして心も体も夫婦になるのですよ」


 自分に覆い被さってくる大きな男の身体に、伊津子ちゃんは恐怖を感じて身を竦める。


「おやめになって。……だってわたくし、まだあなたに“運命”を感じていないのよ?」

「それはこれから如何様にも私が責任を持ちましょう。………あなたは感じたことがなくても私はずっと思っていた。あなたは私の運命の相手で、私の女神だ。羽衣を抱いて神の国に帰っていった天女のように、うつくしいあなたがいつか豊海からあちらの国へ去ってしまうのではないかとずっと不安だった」

「…………何をするの……いや……わたくしに触らないで………」

「もう大丈夫です。竜神の棲まう国へ行ってしまわぬよう、今宵私があなたをただの人の女にしてさしあげましょう。……伊津子。あなたが私のものになるこの日を、どれだけ待ち焦がれていたことか」

「そんな……わたくしは、このようなつもりは………」


 伊津子ちゃんの夫になった男の人は怯える伊津子ちゃんが止めるのも聞かず帯を解き、嫌がる伊津子ちゃんの着物の合わせ目を無理やり左右に開いていく。幼い妻への慈しみなんて感じられない、あまりに強引な振る舞いだ。


「いやよ………結婚とは、こんな汚らわしいことをするものだったの……?」

「汚らわしくなどありません。夫婦の、人の男と女の当然の営みです。すぐにあなたにも馴染みましょう」

「触らないで……やめて、穢れてしまうわ………お願いやめてっ!!」


 伊津子ちゃんの懇願も耳に届かないのか、男の人はうっとりとした顔で伊津子ちゃんの唇に自分の唇を重ねた。


「震えているんですね、伊津子。愛しい我が妻。……初夜に泣くことは恥ではない。存分に泣きなさい」


 まだ誰にも荒らされたことのない、純白の新雪のような肌に触れられて伊津子ちゃんは悲鳴を上げた。でもどれだけ悲鳴をあげ続けても伊津子ちゃんの純潔を散らす手は止まらない。


 抗い、叫び、もがき。


 けれどついに伊津子ちゃんは逃れられないことを悟って、力なく天井を見上げた。涙に濡れた目は曇り、もうなんの感情も映してはいなかった。


「そう、あなたはもう私の妻だ。妻は夫のすることに大人しく従っていればいい」




※※※※




『ののか様……ののか様』


 誰かがあたしの体をとんとん叩いていた。


(お願い……やめて)

『大丈夫です、しっかりなさってください』

(触れないで……汚らわしい……)

『……ののか様?どうしたのです』

(いや……穢れてしまう………こんな体ではもうわたくしは竜の子ではなくなってしまう……いつか魂だけになってもあちらの国へは帰れなくなってしまう……いやぁあっ触らないでぇッ!!)

『ののか様?』

(………わたくしはただ、お兄様たちのように恋を知りたかっただけなのに……なんでこんなひどいことをするの?いやよ……もうやめてぇっ……!!)

『ののか様っ!!お気を確かに!!』


 体を大きく揺さぶられて、そこでやっとあたしははっと目を覚ました。目の前には心配そうにあたしの顔を覗き込む右狐がいる。あたしは伊津子ちゃんじゃない。乱暴されたのはあたしじゃない。そうわかった途端、あたしはわあっと声を上げて泣き出していた。


『ののか様っ!?どこか痛む場所があるのですかっ』


 痛い。痛い。痛い。けどひどく痛んでいるのは体じゃない。心だ。あたしの意識はいつしか日高くんと穂高くんのお父さんの最期をときのように、伊津子ちゃんの過去を追体験していた。その中で伊津子ちゃんであるあたしは乱暴されていた。

 オンナノコにとっては、たとえ大好きなカレが相手だったとしても、ハジメテするときは体が緊張で震えたり、どんなにやさしくされてもちょっと怖かったりするものだろうに。

 旦那さんになった人とはいえまだ好きになってはいなかった男の人に、自分の意思とは無関係に無理やり体を奪われることは、十六歳の女の子にとってどんなにつらくて苦しいことだったのだろう。


 今さっきまで伊津子ちゃんの意識と重なっていたから、そのとき伊津子ちゃんが感じていた悔しさとか悲しさとか恐ろしさとか、そんな絶望の感情がまるで自分の身に起きたことのように感じられて、伊津子ちゃんの体を無遠慮に触る指の感触まで生々しく思い出してしまう。吐き気が込み上げて来て蹲った途端、右狐があたしの背中をやさしくとんとんしてくれる。


『大丈夫。大丈夫ですよののか様』


 その労わりに満ちた声にほっとして、あたしの目尻に涙が滲んできた。……伊津子ちゃんはあの後、誰かにこうして慰めてもらえたのかな。伊津子ちゃんはあんなことがあった後、いったいどうやってすごしていたんだろう。もしかしたら結婚初夜の屈辱的でかなしい体験が、普通の女の子だったはずの伊津子ちゃんを変えてしまったのだろうか………?




 涙がおさまってようやく吐き気も引いてきたところであたしはゆっくり顔をあげて。辺りを見渡した途に、頭の中が真っ白になるほど驚いてしまった。


(ゆ、……右狐、ここはどこっ!?)


 あたしは竜になった穂高くんに掴まって夜の豊海の海に飛び込んだはずだ。なのにあたりはとても明るくて、今あたしの全身を包んでいる水はとても温かい。しかも海底には天女の羽衣のような薄い紗状の海草が極彩色に輝きながらゆらゆらと揺れ、真珠のような気泡がときおり浮かび上がっては不規則に光を散らす水面にぶつかって宝石のように眩く輝いていた。すぐそばでは虹色に輝く魚のような海蛇のような不思議な生き物が泳いでいて、人の足のようなものが生えた貝は固いはずの殻をグニャグニャ変形させながら海底を歩いて行く。見渡す限り続くのは、そんな不可思議で幻想的な光景。

 しかも水の中にいるはずなのにあたしの息はちっとも苦しくない。今あたしは霊体になっているのだから苦しくなくても不思議はないのかもしれないけれど……それにしても目の前の景色はあまりに異様で珍妙だった。あきらかにあたしがいた世界とは別の世界に来てしまったとしか思えなかった。



(ねえ右狐……ここって……………『あちらの国』………なんだよね?)

『いいえ、違いますよ』

(え……ええっ、違うのっ!?)

『あちらの国は、おそらくもっと向こうの方ですよ』


 そういって右狐が指示した方向には、まるで刷毛で描いたようにまばゆい光が一直線に伸びていた。


『あの光の道をそのまま行けば、きっとあちらの国へ着くのでしょうね。ですがここはまだその手前。あちらの国とも現世うつしよともつかない、その中間のような場所にございます。……もしここが神々が棲まう清らかな“あちらの国”ならば、我らのような穢れた物の怪は即刻浄化されて姿形も泡と消えていましょう。まあここも十分、我らには居心地の悪い場所にございますが』

(そうだ……穂高くんは……穂高くんはどこにいるの?!)

『ご安心を、花嫁御寮。こちらにございます』


 答えたのは左狐だった。声が聞こえた方に進んでいくと、海底に倒れ込んでいる穂高くんと左狐の姿があった。穂高くんは完全な竜の姿ではなく、指先や顔の所々が人間のそれに戻っていた。


(穂高くんっ穂高くん大丈夫なのっ)


 あたしが呼びかけると、左狐が『お待ちください』と静止してくる。


『穂高比古は無事です。ようやく若の呪符の効力が全身に及んだのです。起こしてはなりませぬ』

(日高くんの呪符?)


 穂高くんの背中をよく見るとそこには見事な筆さばきで何かの文字が書かれた御札が貼り付けてあった。


(左狐、このお札は?)

『我らを宙に放ったとき、若はこの呪符も一緒に投げていらしたのです。父君の天高様が研究なさっていた神呪のひとつで、竜の力を抑え込む効力があるとか』

(じゃあこれがあれば穂高くんは人に戻れるの?)

『いえ、それはなんとも。実際にこの呪符が使われたことがない以上、効力は未知数にございます。あとは穂高比古の“人”の部分を信じるほかないかと』

(そっか……)

『目覚めればおそらくあの光の道を辿ってまっすぐにあちらの国を目指すでしょうから、このまましばらく眠っていていただくのがよいかと思われます』

(うん、わかった)

『それはそうと。左狐よ、まずは我らはこれからのことを考えねば。今は穂高比古のことより、いかにののか様を現世の日高比古の元にお返しするか、だ』

『言われなくともわかっておるとも』

『ならばおぬしにはなにか妙案があるのか』

『それを今考えているところじゃ。偉そうに、おまえさまこそどうなんじゃ』


 左狐と右狐が言い合いを始める横で、あたしも考える。勢いだけでこんな場所まで来てしまったけれど、ただのふつうの人間でしかないあたしに出来ることなんてあるのだろうか。穂高くんのことは絶対連れ戻したいし、あたしだって日高くんの元に帰りたい。でも状況があまりにも現実を逸脱しすぎて何も思い付かないのだ。


(どうすればいいんだろう………)


 その呟きに応えるように、あたしの胸元がゆらゆら揺れて淡い光が飛び出してくる。


(あ、蛍火!そういえばあなたも一緒に来ちゃったんだね……君も戻りたいよね、もとの世界に)


 いつも人懐っこくあたしに寄ってくる蛍火だけど、あたしの顔の前で何度か旋回した後に突然飛んで行ってしまった。


(え、待ってっ、離れないで!ひとりで行ったら迷子になっちゃうよっ)


 背後で狐たちが静止するのも聞かずにあたしは慌てて蛍火を追いかけた。蛍火はどこか目指している場所があるのか、迷いもなくすっと飛んでいく。


(ねえ、いったいどうしたの?こっちへ戻っておいで)


 あたしが呼び止めても、先へ先へと急かされるように飛んでいく。


(どうしよう……蛍火のこと放っておけないけど、穂高くんをあのまま置いていくわけにもいかないし……)


 蛍火を追いかけるのか、それとも穂高くんの元に戻るのか迷いはじめたときだった。蛍火が飛んでいった後の場所が、なにかゆらゆらと揺らめきだす。その陽炎のような揺らめきは、あたしが見ている間にも人影のような形になっていく。


(なに……あれ………)


 何か異形のようなものが現れようとしているのかと思って身構えていると、人の姿の輪郭をもった揺らめきは『あっちだよ』とでもいうように蛍火が飛び去ったほうを指さした。その姿を見ているうちに、あたしははっと気づいて息を飲んだ。


(もしかして……おじいちゃん……?それにおばあちゃん……?)


 ゆらゆらと揺れる人影は、ふたつ並んでいた。あくまでぼんやりとした輪郭だけなので、はっきりと顔や背格好は見えない。だけどあたしより少し背の高い人影と、それに寄り添うようにして立っている小柄な人影は、記憶の中の懐かしいおじいちゃんたちの姿に重なる。


(おじいちゃんっおばあちゃんなんでしょっ!?)


 ふたつの人影はまるで笑ったかのように揺らめいた。間違いない。この人影は、紙船に乗って豊海の海の果てにあるという天国へ行ってしまった、あたしの大好きなおじいちゃんとおばあちゃんだ。


(ねえあたしだよ、ののかだよっ………ずっと……ずっと会いたかったよぉ……っ)


 あたしが涙声で駆け寄った途端、人影が水彩を重ねていくようにすこしずつすこしずつ濃くなっていき、あたしの目の前でぼんやりとした像を描いた。


『……ののか………』

『……のんちゃん…』


 微かにその懐かしい声が聞こえてくる。あたしを見て微笑んだ後、ふたりはきゅっと表情を引き締めた。それはあたしを叱ったり諭したり、何かとても大事なことを言い含めるときの顔だ。


『行きなさい』

『……向こうよ、のんちゃん……』

(向こうって……あたし、蛍火を追いかければいいの?)


 あたしの言葉に安心したように、ふたりは微笑んだ。


『いい子ね。そうよ行きなさい』

『さあ早く……気を付けるんだよ』


 あたしが頷くとふたりは満足そうに目を細めて、それから唐突に姿を消した。


(待ってッ……おじいちゃんっ……おばあちゃんっ……!!)


 慌てて駆け寄って左右を見渡すけれど、ふたりの姿はもうどこにもない。せっかく会えたのに。もっとゆっくり、いろんなこと話したかったのに。泣き崩れそうになったけれど、ぐっと下唇を噛み締める。

 きっとほんの一瞬しか会えないとわかっていて、それでもおじいちゃんとおばあちゃんはあたしの前に現れてくれたはずなのだ。だったらあたしはおじいちゃんたちが伝えてくれた言葉をきちんと受け止めなきゃならない。


(わかったよ………あたし、行くね。だから心配しないで)


 あたしはぎゅっと目を閉じて胸の中で念じるようにそう話し掛けると、蛍火のほのかな光の残像を追っていく。すると背後から誰かが追い掛けて来た。右狐だ。右狐はあたしに並走してくる。


『お待ちください、ののか様』

(右狐……左狐は?)

『穂高比古のことを任せております。それよりどちらへ向かわれるのです』

(わからない。……けどおじいちゃんたちがあっちへ行きなさいっておしえてくれたの)

『ののか様、たしかにこの場所はさまざまな人の思念が留まり易い場所のようですが……ここには多くの得体の知れぬ異形も跋扈しております』


 右狐はそういって警戒するように辺りを見渡す。


(うん、心配してくれてありがとう。………でもね、きっとあれはきっとホンモノのおじいちゃんとおばあちゃんで、あたしを騙そうとする邪悪な何かじゃないと思うんだ)

『ののか様がそうおっしゃるならよろしいのですが………おや、これは』


 蛍火の光の残像が、いきなりふっつりと途切れた。足元を見れば、マンホールくらいの大きさの水溜りのようなものがあって、そこには周囲の海水とは混じりあうことなく、白銀に輝く水がたまっていた。蛍火の残像はその中央くらいに消えている。


(なんだろう、この不思議な水溜り。蛍火はこの中?……ひょっとして入れるのかな?)

『ならばまず私めが先に偵察に参りましょう』


 そういって右狐が白銀の水溜りに足を踏み入れようとすると、すぐに中から強い力で弾き返されてしまう。


(右狐、大丈夫っ!?)


 吹っ飛ばされて尻餅をついた右狐に駆け寄ると、右狐は不可解そうに顔を歪めて呟いた。


『ののか様。どうやらこれは誰ぞが張った結界で、中に何者かがおるようです』

(結界?)


 今度はあたしがおそるおそる片足を伸ばしていくと、弾かれると思ったつま先は白銀の水溜りにすぅっと吸い込まれた。


(わぁっ………ほんとにこれ結界?なんかあたしは通れそうなんだけど……)

『なりませんっ。もしや伊津子比売の根城であるやもしれぬのに、こんな得体の知れぬ場にののか様を行かせるなど』


 右狐の心配はもっともだ。だけどこんな異世界にまで来てしまった以上、おとなしくじっとしているわけにはいかなかった。おじいちゃんとおばあちゃんの導きがあったのなら、何がこの先にあるのかちゃんと自分で確かめたい。


(ごめんね、右狐……っ!)

『ののか様っ!?』


 止めようとする右狐の手をすり抜けて、あたしは思い切って白金のちいさな水溜りに飛び込んだ。水溜りは思った以上に深いようで、あたしの体はあっという間に飲み込まれた。白銀の水の中は極彩色に輝いていて、体はまるでゼリーの中を通り抜けるような奇妙な感触と共に下へ下へと落ちていく。いったいどこへ辿り着くのか不安だけど、なかなか落下は止まらない。目の前で弾ける色彩に思考までチカチカしてきて、あたしの意識はまた遠くなる。


(こんなときに……気を失ってる場合じゃないのにっ………)


 自分をそう叱りつけるけれど、またあたしの意識は遠退いていった。






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