竜の本能
あたしの部屋の前の廊下を、蒼白く光る穂高くんが横切っていく。
眠るときは豆電球しかつけなくて部屋は薄暗いのに、あたしにはその光景がはっきりと見えた。よく考えれば今いる寝室の前には襖をきちんと閉めた私室があって、その先に廊下があるのだから、襖を全開にしていない限り表の廊下は見えるわけがない。でもあたしの目にははっきりと穂高くんが見えたのだ。
「待って……っ」
今すぐ穂高くんを追わなければいけない。そう思って勢いよく立ち上がろうとした瞬間、体にドン、と衝撃を感じて体が重力の呪縛から解放されたように軽くなる。必死で足を動かすとあたしの体は襖をすり抜けていた。どうやらまた幽体離脱をしてしまったようだ。だけど今はそんなことに気を取られている暇はなかった。
霊体の姿で廊下に飛び出すと、廊下の突き当りに穂高くんの背中が見えた。その姿はすぐに「く」の字に曲がった左手の廊下に消えてしまう。
(穂高くんっ、待って!!)
どうやら穂高くんは離れの書庫に向かおうとしているらしい。あたしが呼び止める声が聞こえないのか、静かに一歩ずつ足を進めていく。そのたびにあたしの中にある嫌な予感は決定的なものになっていく。
………穂高くんは歩くたび、すこしずつ変化していた。
力なく垂らした両手の指先は、いつの間にか三本になっていて猛禽類みたいな鋭い鉤爪が生えていた。長い足の間からはぐにゃぐにゃと何かが伸びてきて、それが一歩進むごとに鱗で覆われていき、尾になっていく。そして頭頂からはまるで稲妻のような形をした白銀の角がゆっくりと生えてくる。霊体である穂高くんの、もともと蒼く神秘的な色に輝いていたその体は、ますます神々しく輝いてくる。
穂高くんは、人ではない『何か』に変化しようとしていた。
息を飲むほどに優美で、直視することが躊躇われるほど神々しい、見たこともない美しい『何か』に。その『何か』は、たぶん竜だ。
あたしはなぜだか穂高くんが一度竜の姿になってしまったら、もう二度と人の姿には戻れなくなってしまう気がして、だんだんと人からかけ離れていってしまう穂高くんの姿に不安が込み上げて必死で叫んでいた。
(だめだよっ……穂高くんっ!!どこに行こうとしてるの?行かないでっ。元に戻ってっ)
それでも穂高くんは誰かに呼ばれているかのようにふらふらと進んでいく。渡り廊下を通って書庫の前に来るとその屋根にとん、と飛んだ。あたしも必死で追いかけると、ふわりと体が持ち上がって屋根の上に着地する。見れば屋根のいちばん高い場所に、穂高くんは立っていた。
(穂高くんしっかりしてっ!!)
穂高くんは顎を逸らして天を眺める。それからまるで恋しがるように眼下に広がる海を見つめる。そうしている間にも髪が長く伸びていき、夜風に煽られてたなびくそれが銀糸のように闇夜にきらめく。海に呼ばれるように、穂高くんは一歩一歩と踏み出していった。
(どうして………行かないでッ……穂高くん、日高くんはどうするの?響ちゃんを置いていくのっ!?)
穂高くんの大事な人たちの名前を出した途端、夢遊病者のように足を進めていた穂高くんが肩を大きく震わせてあたしに振り返った。その顔を見て、あたしは声を上げそうになった。穂高くんの顔は鱗に覆われ、その右半分はぎょろりとしたおおきな目になり、口元からは鋭い牙がのぞいていた。それはもう人ではなく、竜に限りなく近い姿になってしまっていた。だけどあたしを見るその目には人らしい憂いを帯びていて、穂高くんは儚く微笑んだ。
『……ぅ…………ああ…………ののかちゃん……』
(穂高くんっ!!よかった、正気に戻ったんですかっ。さっきからいったいどうしちゃったんですかっ、早く帰りましょう!!)
穂高くんは悲しげな顔で首を左右に振る。
『…………ののかちゃん。どうやら僕は逃れられないらしい』
自分の身に起きていることを淡々と受け入れようとしている穂高くんのその表情が、誰かのそれと重なった。天高さん。穂高くんたちのお父さんだ。今の穂高くんの表情は、日高くんの身代わりになることを受け入れた天高さんが、今際のときに浮かべていた諦めと覚悟の表情と同じだった。
『………僕はね、海来玉から生まれたわけでもないし、親父や日高に比べたら自分はずっと人に近い存在なんだって思っていた。竜の本能なんて今までほとんど感じたこともなかったよ。けど……でも今になってよく分かる。僕にはまぎれもなく海来神の血が流れているんだって。………だって僕はあちらの国がこんなにも恋しい』
穂高くんの視線の先を辿ると、いつもは闇空のような海面が延々と続いているのに、今夜はその海原の遥か遠くの一点にきらきらとまばゆく輝く場所があるのが見えた。
(あれは………まさかあの光っているのがあちらの国の入り口……?)
『………ああ、きっとそうだよ。………ののかちゃん。僕は竜の血というものをみくびっていたみたいだ。本当はね、霊体になってからは、気を抜くとときどきこの竜の姿になりそうになっていたんだ。……それでも今までどうにか人の形に保っていたけれど………もう限界みたいなんだ』
(もしかして………穂高くん、今日の儀式で力を使いすぎちゃったから?だから人の姿でいられなくなってしまったの?)
『違うよ。ののかちゃんは悪くない』
もうほとんど竜の顔になってしまった穂高くんは、きっぱりと言い放つ。
『僕の考えが甘かったんだ。竜の帰巣本能をナメすぎてた。………じいちゃんが掛けてくれた“貝楼閣に魂を結びつける契約”を破ってしまっても響を思う心の強さがあれば絶対にあちらの国へ引き摺られるわけがないって自信が僕にはあった。………だけどね……行ってはいけないってわかっているのに……あそこへ行けばもうきっと二度と響に会えなくなるって分かっているのに………それでも僕はあそこに惹かれる心を止められないんだ…………』
穂高くんの目からは静かに涙がこぼれていく。
『行きたくない。いろんなものを捨ててまで行けるわけがない。………けどまるで乾いた喉が水を求めるように、太陽を見れば眩しがらずにはいられないように、あまりにも当然すぎる生理現象みたいにあちらの国へ行きたいと思ってしまう………その衝動を抑えられないんだ…………どんなにどんなに響のことを思い浮かべても、響との約束を思っても……………行きたくないのに………行ってはいけないのに…ッ………響を置いていけないのになぜ僕は……………ごめん……ごめんな響………』
聞いてるだけで胸が引き裂かれるような悲しい声でそう告げると、いよいよ穂高くんの姿は完全に竜に変わってしまう。
(穂高くんたちは、ほんとうに神様の末裔なんだ)
こんな状況だというのに思わずそんなことを考えて恍惚と見惚れてしまうほどに、竜というのはあまりにもうつくしい存在だった。竜になった穂高くんはじっとあたしを見詰めた後、まるでごめんねを言うように頭を垂れて、それから天に向かって細長くなった体を伸ばしていく。
(待ってっ……行っちゃダメだよっ!!)
あたしは思わず蒼真珠色の鱗で覆われたしっぽにしがみついて、どうにか穂高くんを引き留めようとする。
(日高くんがきっと体を探してくれるからっ!そうしたらきっともうあちらの国になんか引っ張られないから……だから諦めないで、穂高くんっ!!)
あたしの身体ごと、しっぽはふわりと浮かんでいく。
(ダメッ!!行かないでッ!!日高くんには穂高くんがいなきゃダメなのっ、響ちゃんだって穂高くんがいてくれなきゃしあわせになんてなれないよっ!!)
あたしがどんなに喚いても穂高くんは止まらず、だんだんと足元に見えていた屋根の瓦が遠くなってくる。このままじゃあたしも一緒にあちらの国へ行ってしまうとわかっていても手を放すことなんて出来なかった。
(お願い……お願いだから竜の本能なんかに負けないでッ……日高くんと響ちゃんから、大事なお兄さんと彼氏を奪わないで……元に戻って!!)
どうにかまだ穂高くんの中に残っているであろう『人』の部分に訴えようとするけれど、あちらの国の入り口を見つめる穂高くんの目は何かに魅入られたかのように恍惚としている。
(このままじゃダメだ。どうにか正気になってもらわないと……)
しがみつきながらそんなことを考えていると。
「ののかぁぁッ!!」
突然足元から怒声のような大声が響いてくる。目を向ければ、書庫の屋根には今駆けつけてきたばかりなのか血相を変えた日高くんが立っていた。
「ののかッ、何してるんだ、こっちへ来いッ」
(でも日高くん、穂高くんがっ………)
竜になってしまった穂高くんを見て、日高くんは顔を歪めた。
「俺が………俺がどうにかする、だからののかは戻って来いッ」
日高くんは天高く昇って行こうとする穂高くんにしがみつくあたしを取り返そうとするように、神力を唱えて高く飛び上がる。すぐに追いついて、日高くんも穂高くんのしっぽにしがみついた。
「どうしてののかが霊体になっていて、こんなことに…………なんですぐに俺を起こしてくれなかったんだ」
(ごめんなさい……)
「いや、謝らないでくれ。こんな事態になっているのにのんきに眠ってた俺がいけないんだ。………ののか、今からののかにゆっくりと下りる神力を掛けるから、だから穂高のことは俺に任せて貝楼閣に戻っていて…………ッ!?」
話している途中で、日高くんの身体が下から何かに強く引っ張られた。日高くんの足元を見ると、その両方の足首に蒼く光る縄のようなものが巻き付いていてそれが貝楼閣から凧揚げの糸のように繋がっていた。
「くそっ、なんだよこれ……ッ」
(もしかして、……それがおじいさまが掛けた、魂を貝楼閣に結び付ける契約?)
「きっとそうだ……くそっ、こんなときにっ」
日高くんは勢いよく足を振って契約の鎖を無理やり引き千切ろうとするけれど、もちろんそんなことでは竜の契約は破れない。そうしている間にも竜になった穂高くんは上昇していき、上下に引っ張られる形になった日高くんの手からは穂高くんのしっぽがすり抜けてしまった。
(日高くんっ!!)
宙に放り出された日高くんは神力のおかげで屋根に叩きつけられることはなく、そのままふわふわ浮いている。でもどんなにもがいて穂高くんを追おうとしても足の鎖が邪魔をして前には進めない。
「……っ………ののか、もういい。こっちへ来い。来るんだッ」
(でも穂高くんが………)
「俺は………ののかまで失いたくない、頼むからもう穂高から手を放せッ!!」
穂高くんのことを諦めるというのは身を切られるような決断に違いない。でも日高くんはせめてあたしのことだけは取り戻そうとして必死で腕を伸ばしてくる。その悲痛な顔を見ているだけであたしまで泣きそうになって、あたしは穂高くんのしっぽから手を放そうとした。でもその瞬間、ある映像がまるで映画のフィルムの様にあたしの脳裏に映りこんできた。
◇
場所は貝楼閣。
お気に入りの場所らしい日当たりのいい縁側で穂高くんが漫画を読んでいると、学ラン姿の日高くんがむすっとした顔でやってきた。
「穂高、おまえいい加減にしろよ」
「え?何が?……あ、この新刊、先に読みたかった?やーこの漫画、健全を謳ってる少年漫画のクセにヤバいよな。触ったら揺れそうなヒロインたちの肉感がすっごいエロくってさー。絵師がいい仕事してるよね、特にこの水着ページのサービスショットがおすすめで………」
「いらんわ。見せるな変態馬鹿が。俺そういうの興味ないし、だいたい漫画より小説派なんだよ」
「へー。エロは活字派って、おまえ歳の割にマニアだなぁー」
「誰もそんなこと言ってねぇしッ!漫画より小説の方が好きって話だよッ………じゃなくて。おまえ誰彼かまわず女子に声かけてベタベタするのやめろよな。斎賀の爺に言われたぞ、今度は漁協の平田さんとこのねえさんと、松井商店の明子さんにまで『デートに行こう』って口説いてたって」
「………やれやれ田舎ってのは怖いねぇ。ちょっと女の子と仲良くなったくらいですぐに噂が広まるんだから」
漫画を閉じて肩をすくめる穂高くんを、日高くんが睨みつけた。
「わざとそう振る舞ってるクセに。……女にだらしないフリなんてやめろよ」
「フリじゃなくて僕はホントに女の子たちが好きなんだよ!いや、皆礼の家に生まれてしあわせだなぁ。村の女の子はみんなちやほやしてくれるし、妙齢のおねえさまには『穂高比古の赤ちゃんが産みたーい』なんて熱くせがまれるし。豊海にいる限り、僕は一生ハーレムの中で過ごせるよ」
「響の気持ち考えろよ。おまえは本気で響のことが好きなんだろ」
その名前を出された途端、穂高くんの顔から冗談ぽい笑みが消える。
「全部響のためなんだろ。穂高と付き合ってるのがバレたら響が斎賀の姉さんたちから今まで以上にいじめられるから……だからおまえカモフラージュのために無理に他の女子とも仲良くして女にだらしないフリしてんだろ。俺が気付いてないとでも思ったのか」
日高くんの指摘は図星だったんだろう、穂高くんは恥じ入るような困るような顔をして頭を掻く。
「これは…………まいったな」
「まいったじゃねぇよ。響はな、他の女子とおまえが仲良くするくらいなら、自分がねえさんたちから苛められるのに耐える方がずっとマシだって思ってる。だから本当に響のためを思うなら好きでもないヤツといちゃつくのはもうやめろ。……他の誰が反対したって俺は反対しないから。だから穂高も響が好きなら、周りに何を言われようといい加減腹を括れ」
「日高。……おまえはほんと、いいヤツだねぇ」
「俺はっ、ただ自分の兄貴が女子に媚び売ってだらしなくしてるとこ、見たくないだけだ。男のくせに今の穂高はみっともない」
「はは、おまえはほんと手厳しいなぁ」
「ともかく穂高は皆礼家の当主って立場だとかそんなことは考えなくていいから。もっと自分のしたいように振る舞えばいい。……俺たちだって自分が好きな相手を好きに思う自由くらい、許されるはずだ。それでとやかく言う奴がいるなら相手が誰であろうと俺が抗議してやる。文句があるならおまえが『海来神』を務めてみろってな」
少年らしい愚直さではっきりと言う日高くんを、穂高くんは目を細めてくすぐったそうに眺める。言葉にはしなくても、穂高くんが何を思っているのかはっきりと聞こえてきた。
(ありがとう日高……おまえはやっぱり僕にはもったいない弟だ)
◇
はっと気が付くと、あたしの意識は夜の中にあった。
鱗の生えた穂高くんのしっぽにつかまったままのあたしは、高く高く上昇していた。貝楼閣の屋根が遠くなりつつある。
「ののか、何してるんだッ。手を放せ、こっちへ来いッ」
足元で蒼白の日高くんが声を張り上げている。
--------もう諦めなきゃいけない。
あちらの国に魅入ってしまった穂高くんには、もうあたしの声も日高くんの声も届かない。竜の姿になった穂高くんがあちらの国へ行ってしまうのを、もう手を放して見送らなければいけない。そう思うのに、あたしの指はぎゅっと穂高くんのしっぽを掴んだまま離れてくれない。
あたしがなんの力にもならないことはわかっているのに、それでも今穂高くんから手を放してしまったら、もう永遠に日高くんと穂高くんが離れ離れになってしまうから、あたしはどうしても穂高くんから下りることが出来ない。日高くんと穂高くんは、あんなにもお互いを思い合った兄弟なのに、離れなければならないなんて悲しすぎる。穂高くんを失ってしまうことが、どうしても受け入れられない。
足元ではもう悲鳴にしか聞こえない声で日高くんがあたしの名前を連呼している。
(どうしよう……どうすればいいの……?)
そう思っているあたしの目の前に、なにか淡くあたたかな光が飛び込んでくる。
(……蛍火?)
貝楼閣からあたしを追いかけてきてくれたのか、蛍火はまるで「置いていかないで」とでも言うようにあたしの顔の周りを何回も旋回する。それから急に何かに驚いて怯えるようにあたしの胸元に飛び込んでくる。見れば足元で、日高くんが力いっぱいこちらに向けて『何か』を放り投げているところだ。
その『何か』はいつしか見た日高くんの万年筆で、中からそこを棲家にしているちいさな狐たちが飛び出してきた。
『ののか様っ!!我らが迎えに参りましたっ』
『花嫁御寮、さあ我らと共に若の元へ帰りましょう』
二匹は素早い身のこなしで宙を掻くようにして穂高くんのしっぽの先端に掴まった。
『怖くはありません。若の元へ飛び降りるのです。さ、行きましょう』
『誠に残念ですが、穂高比古がこうなった以上、もう我らに出来ることはありませぬ』
右狐と左狐がそう言った途端、しっぽがおおきくしなった。その瞬間、上昇をしていた穂高くんがぴたりと止まった。
『ちっ……まずい、遅かったか。このままではののか様がッ』
『振り落とされた方が危険だ、花嫁御寮をお守りしろっ』
急いで人の姿に変化した右狐と左狐があたしの元に寄ってきて、穂高くんのしっぽを掴んだままあたしの体を庇うように抱き込んでくる。
『ののか様、ご安心を。命に代えてでも我らがお守りいたします』
『しっかりお掴まりください』
穂高くんは狙いを定めたように、今度は急な角度で海原の向こうにある光るその場所目指して発射した。ゴウッと鼓膜を破るような轟音がして突風のような猛烈な速さで海上を駆け抜けると、あっという間にあたしの眼前にその神秘的に光り輝く場所が迫ってくる。
(これがあちらの国への入り口……?)
怖いと思う間もなく、あたしは竜の穂高くんに掴まったまま一緒に夜の海に飲まれた。その光り輝く海面を通り抜けるときに、全身を激しく叩きつけられる感覚が走り抜けた。
------痛い。怖い。
(………でもあきらめちゃだめ………かならず穂高くんを…つれて帰るんだ……)
視界は真っ暗に閉じて、意識が遠くなっていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます