名もないちいさなもの

 気まずい雰囲気で別れたから、しょんぼりしたまま頭からお布団を被った。そうしているうちにだんだん眠たくなってきてあたしの意識が深く沈んでいこうとしたとき、何か言い争うような声が聞こえてきた。


『まったくうじうじと思い悩んで情けのない。日高比古、あなた様ははそれでも皆礼家の男児ですか』

『先々代様の直高様は欲しい女は誰に言われるでもなく自ら口説き落とされておりましたのに。若には惚れた女子おなごを手中にしようという男児としての気概がないのですか』


 話し声は隣り合った日高くんの寝室からするみたいだ。あたしは半分眠りかかっているし、お互いの寝室の間にある襖はぴっちりと閉じ合わさっているから、中で何を話しているのかまではよく聞こえない。けれどどうも使役の右狐と左狐に、日高くんがまた何かねちねち嫌味を言われているみたいだ。


『今度と言う今度は呆れ果てました。なぜ先ほどの花嫁御寮の話を聞いたとき、その探し人は自分であると名乗り出なかったのです』

『ののか様も再会を熱望されているご様子でしたのに。なのになぜ若は躊躇われた』

「……どうだっていいだろ。小言なら明日にしろ。眠れないからいい加減黙っててくれないか」


 ひどく苛立ったような日高くんの声がするけれど、狐たちの口はその程度の制止で止まるわけもなく長々と何か喋り出す。


『いいえ、日高比古のことで我らにとってどうでもよいことなど、何ひとつありませぬ』

『若は何をそんなにお悩みか。ののか様に思い慕われるのはそれほど煩わしいことなのですか』

「そんなわけないだろ。………けど、俺が名乗り出るわけにはいかない。ののかをがっかりさせることになる。和合の儀で会ったときも、ののかは全然俺だと気付いていなかった。所詮神力を使っていないときの俺なんて何もかも凡人以下だからな………高校の入試で見掛けたときだって、一方的に俺だけが会えたことを喜んでいたわけだし……」

『花嫁御寮は霊感の欠片も持ち合わせてはおりませぬ』

『だから気付けぬのも仕方のないことでしょう』

「けれど。………それはつまり、俺のことなんて眼中になかったから気付かなかったってことだろ。……今突然ののかが探していた相手が俺なんだって言い張ったって、信じてもらえるかわからないし、なによりひどくがっかりさせるだけかもしれない。ののかにとっては“忘れられないヒーロー”なのに、あまりにもその理想像と違った現実を突き付けるなんて出来るわけが、」

『やれやれほんとうにあなたさまは、呆れを通り越して憐れに思うほどに青臭い』

『父君の天高あまたか様が我らを穂高比古ではなくあなたさまの使役に付けさせたのも納得です。瀬綱さまに子守をさせるわけにはいきませんからねぇ。穂高比古には瀬綱さま、日高比古には我らが適任ということなのでしょうな』

「………わかったから、もう放っておけと言ってるだろっ」


 ずっと日高くんたちの声が聞こえていたけれど、眠りの中にいるあたしの耳にはやっぱり何を話しているのかまではわからない。


『放っておけるものですか。つまり日高比古はののか様を気遣うようなことをおっしゃりながら、その実の花嫁御寮に失望されるのが恐ろしいだけではありませぬか』

『それどころかののか様に気付いてもらえなかったことをいまだに恨みがましく思い、いじけているのでしょう。まったくの風上にも置けぬ意気地のなさ。口説き落とし、振り向かせるくらいの気概がなくてどうします』


 どうやら狐たちの言い負かされそうになっているらしく、日高くんが言葉を詰まらせる。


「………もういいだろっ。だいたいおまえたちはののかのことが気に入らなかったんじゃなかったのか?なぜ急に後押しするようなことを言うんだ?」

『それとこれとは話が別。若もそのような手巾しゅきんなぞ、後生大事に眺めている場合ではございませんぞ』

『あの小娘の肩を持つ気はさらさらございませぬが、あなた様のあまりの意気地のなさを見続けるのも腹に据えかねますゆえ。日高比古には今から男気とやらを見せていただきましょうか、ほれ左狐』

『応、右狐よ』

「ちょ、おまえたちなにして、」


 バタバタと暴れるような物音がする。


「返してくれっ!!」

『この桃色の手巾は浜辺で出会った娘を思い出すよすがになさっていた、あなた様の大事なものですからねぇ、勿論お返ししますとも。その代り日高比古、今から花嫁御寮のねやに参られませ』

『ののか様に“おまえが幼少より懸想する相手は自分であるから、これからも思う存分思い慕うがいい”と、はっきり告げてやるのですよ』

「はっ……そんなこと、言えるわけないだろ。……おい、何馬鹿なことを。よせっ!!」

『馬鹿はあなた様の方でしょう。女一人意のままに出来ぬようでなにが海来神ですか』

『お叱りを覚悟の上、あえて申し上げます。…………欲しい女を手にせんとする男気も見せずに嫁をめとろうなど、10年早いわ、小童こわっぱがッ』

「うわッ!!」


 ひときわおおきな悲鳴と一緒に、どすん、という物音がしてまどろんでいたあたしは驚きで目を開けた。


「………な、なんの音……………?」


 眠気で重たい頭を押さえながら上体を起き上がらせて見ると、あたしの寝ているお布団からちょっとだけ離れた場所に、日高くんが顔面から畳に突っ込んだ形で転がっていた。


「え…………?ひ、日高くん、いったいどうしたのっ!?」


 布団から抜け出して日高くんにかけよると、普段は決して開かれることがない、日高くんの寝室とあたしの寝室とを隔てている襖が開かれていることに気が付く。その向こうには人のなりに変化した右狐と左狐が立っていた。二人はあたしと目が合うと、ニヤっと口の端を持ち上げて物の怪じみた笑みを見せ、すぐに開いていた襖をぴしゃりと閉じてしまう。


「……こ、こら、右狐、左狐ッ」


 日高くんが慌てて立ち上がって襖を開けようとするけれど、日高くんがどんなに力を込めても襖はぴくりとも動かない。


「開けろと言ってるだろッ!!おまえたち、たまには俺の言うことを聞けッ」


 もちろん狐たちからの応答はない。日高くんはしばらく開かない襖と格闘していたけれど、事の成り行きをびっくりしつつ眺めていたあたしに気付いて手を止めた。


「………寝ているところをいきなり起こしてごめん。その、驚かせて悪かった」

「ううん、べつに平気だけど………右狐と左狐と、喧嘩でもしたの……?」


 日高くんはすごく不本意そうにむっと黙り込んでしまう。


「喧嘩というか………またあいつらが人をおちょくってきただけ、」


 言葉の途中で日高くんは、まるでおそろしいことに遭遇したかのように大きく息を飲んだ。その視線の先、畳の上に何かが落ちている。寝室は蛍光灯を落としていてオレンジ色の豆電球しか点いていないからよく見えないけど、あたしの目にはなにかちいさなハンカチのようなものに見える。なんだろうと思ってあたしが拾おうとすると、それより先に素早く屈みこんだ日高くんがものすごい勢いで拾い上げてそれをくしゃくしゃに握り込んで手の中に隠してしまった。意地でもあたしの目から遠ざけようとする、その過剰なくらいの反応にピンときた。


「…………日高くん、それってもしかして……」


 以前書庫で日高くんが大事そうに見ていたハンカチだろうかと思って聞くと、日高くんはいかにも触れてほしくない話題だとばかりに顔を顰めてしまう。気になると言えば正直気になるけれど、無理に見せてもらおうとは思わないから、そんなに警戒しなくてもいいのに。そんなことを思いつつあたしは立ち上がって、日高くんの寝室へと続く襖に手を掛けてみた。


「うわ。固い。なにこれ全然開かない」


 襖はよほど強固な力で止められているのか、左右に引いてもびくともしない。


「右狐と左狐の仕業なの?日高くん、寝室締め出されちゃった?」

「締め出されたというか、けしかけられたというか………」

「こんな夜中に災難だったね。ほんとあのふたり、人をイジるの好きだよね」

「……まあ、なんといっても狐だからな。人を化かしておちょくるのが性分だよ」

「でもあの狐たちは日高くんの使役なんだよね?……日高くんの神力で押さえつけて、『ここを開けろ』って言うこと聞かすことは出来ないの?」

「いや、やろうと思えば無理やり服従させることくらい出来ると思う。俺も海来の端くれだから」

「でもしたくないんだ?」

「……………なんかそれは違うなって思うからな」


 あるじとしての苦悩があるのか、日高くんは神妙な顔をする。


「祖父が生きていた頃はさ、右狐と左狐は神呪で縛り付けるまでもなくとても素直で従順だったんだ。あいつらはいつもうっとりした目で祖父を仰ぎ見ていたから、心底祖父を慕っているのが子供の俺にもわかったよ」


 性悪ではない素直な右狐と左狐なんて全然想像も出来ない。でも日高くんの口ぶりからすると、日高くんのおじいさまはあの狐たちを心身共に屈服させるほどの神力やカリスマを持ち合わせていた方だったみたいだ。


「対して俺は今いちおうあの狐たちの主ではあるけれど、それも自分の力を認めさせて使役に下らせたわけじゃなく、ただ先代から譲り受けたに過ぎないんだ。………本当に従うべき相手と見定めたのなら、あいつらも俺を小馬鹿にするような態度なんて取らないはずだ」

「……右狐たちの態度が悪いんじゃなくて、自分が悪いって思ってるの?」


 あたしの言葉を肯定するように、日高くんは薄く笑う。


「右狐と左狐は自分で主を選べるわけではないんだし、それはそれで気の毒なことだよ。だから俺は無理やり言うことを聞かせるんじゃなくて、自分の行いや力で俺が主なんだとあいつらに認めさせなきゃいけない。じゃなきゃ筋が通らないと思うんだ」


 いつも狐たちに一方的に揶揄われている日高くんが、そんなことを考えていたなんて思いもしなかった。


「…………日高くんって、なんかあんまり向いてなさそうだね、『主』とか『海来様』とかには」

「ああ。実は俺もずっとそう思ってた」


 あたしの指摘に日高くんは自虐的に笑う。でもあたしが言いたいのは、批判的な意味ではなく。


「日高くんは何かを従えたり王様みたいに振る舞うにはやさしすぎるんだよ」

「………それって褒められているのか駄目出しされているのか、いまいちわからない言われ様だな」


 日高くんはそういって眉を下げて微笑する。あたしは誤解されたくなくて「褒め言葉だよ」とすこし早口で告げる。


「日高くんのそういう器用に立ち回れないところ、右狐も左狐も分かってると思う。だからきっと日高くんのこと放っておけなくて、ついついかまっちゃうんだよ。右狐も左狐も日高くんのことが好きだから」


 日高くんはなんだか気恥ずかしそうにあたしから視線を反らした。


「どうかな?右狐も左狐もただいつも俺に鬱憤をぶつけているだけの気もするけど」

「うん。もしそうなんだとしても、それはそれで日高くんは日高くんなりに狐たちから信頼を得ているってことでしょ?あのふたり、食べ物も人間も好き嫌いがはっきりしてるから、本当に日高くんのことがどうでもよかったらかまったりしないでもっと無関心なはずだもん」


 狐たちは日高くんにねちねち嫌味を言ったり困らせているとき、とてもたのしげで目を生き生きと輝かせている。あたしの目には、そんな右狐と左狐の態度は、子供が意地悪なことをして好きな子の気を引こうとする態度に重なって見えることがあった。


「右狐と左狐があたしに意地悪なことしてくるのも、あたしが気に食わないってこと以上に日高くんを取られるのが嫌でヤキモチ焼いてるって感じだし。狐たちなりに日高くんのことを認めてるんだと思うんだ」

「ヤキモチ?」


 日高くんはあたしの言葉に、なんともむず痒そうな顔をする。


「うん。絶対そうだよ。あたしのことは無視してばっかだけど、日高くんに呼ばれたときはすぐ出てきてなんかいつもうれしそうな顔してるもん」

「………そうか?俺にはとてもそうは思えないけど……」


 日高くんがぼやくから、あたしは「絶対そうなんだってば!!」と言い切る。


「だからつまりね。日高くん、いつも学校通いつつ、あたしのお見舞いもしてくれつつ、海来様としてのお務めを十分がんばっているんだし、今までの海来様とは違うところがあってもいいんじゃないかな。少なくともあたしにとって日高くんは立派でやさしい海来様だよ?おじいさまと比べなくても、日高くんは日高くんなりのスタンスでいればいいよ、絶対に!あたしはそう思…………ひっ…………日高くんっ!?」


 “日高くんは日高くんのままでいい”ってことをなんとか伝えたくて必死で言葉を紡いでいると、いきなり日高くんがあたしの体をぎゅっと抱き締めてきた。あまりにも唐突過ぎてあたしの声が裏返る。


「ど、どどどどうしたのっ!?」


 あたしよりもずっと背が高い日高くんが身を屈めて、両手いっぱいの力であたしの体を抱き込んでくる。


「急にこうしたい気分になった」


 そうささやいて、日高くんは体だけではない何かをあたしに預けようとするように、あたしに寄りかかってくる。


「ありがとう」

「え?」

「………誰に褒められるより、ののかに認めてもらえるのがいちばんうれしい」

「う、うん……。あたしもそう言ってもらえるとうれしいよ……?『花嫁役』冥利に尽きるっていうか……」


 ちょっと重いけれど、日高くんの重さを体いっぱいで受け止めることは、あたしにふしぎな感動を与えた。まるで日高くんに、今までよりももっと近い場所まで歩み寄ってもらえた気分だ。


「……あの、日高くん……」


 その感動に浸っていたかったけど、なぜかあたしの口はつい余計なことを聞いてしまう。


「こういうスキンシップ的なことも、『花嫁御寮』のお役目のうちだったりする………?」

「………だとしたら?ののかは大人しく受け入れてくれるのか?」


 試すように聞かれて、日高くんと密着しているせいですでにどきどきしまくっていたあたしは完全に頭の中がまっしろになる。もしあたしのことが好きだからじゃなくて、神事の『お役目』だから夫婦っぽい触れ合いをしてみただけなのだとしたらかなり切ないものがある。でも初恋の相手だと思い定めてる男の子に甘えられるようにぎゅっと抱き締められていると、そんな切なさも懊悩もはるか彼方へ追いやられてしまう。あたしはおそるおそる手を伸ばして、日高くんが着ている浴衣の袖口をきゅっと掴んだ。


「うん。…………いいよ」


 まだこのしあわせな体温を手放したくなくて、あたしは消え入りそうなほどに小さい声で答えた。


「いいって何が」

「……その、…日高くんの、…………好きな感じにして……」


 あともう少しだけでいいから日高くんにぎゅっと抱き締められていたくてそう告げると、日高くんは緊張したように体を強張らせ、続いてなんとも悩ましげにため息を吐いた。


「ののか………いくらなんでも聞き分けが良すぎるし、その爆弾発言なんなんだ。人の脳みそフッ飛ばすつもりか」


 日高くんは憎たらしいとでも言いたげに、あたしのことを叱りつけてくる。


「え、と……?」

「…………………俺はののかとキスがしたい」


 日高くんのその発言の方がよほど破壊力があって、あたしは照れや恥ずかしさを感じるまでもなく思考が弾け飛ぶ。そうしてる合間にも日高くんはますます身を屈めてきて、あたしのおでこに自分のおでこをコツン、と当ててきた。


「いいのか」

「え、え?」

「ぼさぼさしてる場合じゃないだろ、この近距離じゃ何が起きても不思議じゃない。ここは物理的にも心理的にも思いっきり引いとくところだ。俺も自分で何おかしなこと言ってるんだって思うし」

「…………べつに引かないよ。日高くん、変なことなんて言ってないし」


 あたしがそう言った途端、日高くんのおでことくっついてる部分にぐっと圧が掛かる。


「いたいよ、日高くん」

「痛くしてるんだよ」

「ひどい。なんで?」

「…………ののかに弄ばれたくないから」

「全然言ってる意味、わかんないんだけど」


 ちょっと苛立った顔をする日高くんが、ますます強く額を押し付けてくる。


「日高くん、いたいってばっ」

「ののかの自業自得だよ。自覚がなければ人のこと振り回しても許されると思うのか?」

「………だからもっと噛み砕いて言ってくれないと、何がいいたいのか全然わからないんだけどっ」


 言い返しながら、あたしもぐっとおでこを突き出して押し返す。ごりっと額の骨を当てながらお互い押し合うのは痛いけど、なんかこれはこれでまるですごく仲のいいカップルがじゃれあってるみたいだ。好きにしていいっていったのはあたしなんだけど、さすがにちょっとはずかしい。だけどへんな対抗心みたいなものがメラメラ沸いてしまって、あたしは自分から引くことが出来なくなってしまっていた。それは日高くんも同じようで、意外に負けず嫌いっていうか意地っ張りなのか、おでこをくっつけたまますこしも引こうとしない。子供のケンカみたいにおでこを押し合って全然色気のないことをしてるわけだけど、お互いの吐息がかかる距離でじりじりしているのはなんだかすごくキワどい。


(……でも。さっきの言葉はジョーダンだよね、まさか本気でこのままキスしたりしないよね……)


 そう思って今のはずかしい状況を平気な顔して乗り切ろうとするのに、すぐ間近にいる日高くんがあたしの唇をじっと見つめていることに気付いてしまった。そのあまりに無遠慮であからさまで熱っぽすぎる視線に、触れられたわけでもないのにあたしのそこは何かを期待するように疼いてくる。


(あれ……まさか本気……?)


 日高くんはふざけた表情なんてしていない。日高くんとあたしは形式的にしろ、今は『夫婦』なわけで、もしかしたら日高くんはよりホンモノっぽい『夫婦』のフリをしようとしているだけなのかもしれない。


(で、でも。キスって、好きな人とするものじゃないの……?)


 あたしはファーストキスはいつか好きになった人とカレシカノジョの関係になって交わすものだとひそかに夢見ていたから、形式的な神事のお役目ですませてしまうのはあまりにせつない。でも今あたしの目の前にいるのは、ずっと会いたかった蒼真珠の男の子の面影をはっきりと残した人で。そんな人にじっと見つめられてしまえば拒めるわけがなくて、それどころか『はじめては日高くんがいい』なんてそんなことまで考えてしまう。


「………日高くん……」


 日高くんに呼びかけた自分の声を聞いて、ものすごく恥ずかしくなる。出そうと思ってそんな声になったわけじゃないのに、今のはまるであたしの方からキスを催促してるみたいな甘ったれた声だ。


(なんだ、自分。すごいはずかしいやつ。日高くんのカノジョでもないくせにバカじゃないの……っ)


 そうやって自分を責めてると、日高くんが押し合っていたおでこを離してあたしの頬に手を添えてきた。その手のあたたかさに、もうすべてを日高くんに任せてしまいたくなってそっと目を閉じた。甘く淡い期待を抱きながら次に起こるかもしれないことを待ち続けていると、あたしの耳に再び日高くんの「はあ」という重いため息が聞こえてきた。

 あまりにも苦悩に満ちたそれに驚いて目を開けてしまうと、日高くんがひどく弱ったような、なにか痛みでも我慢しているような険しい顔をして頭を抱えていた。


(あれ、もしかして揶揄われただけ………?あたしがその気になっちゃったから、日高くん困ってる………?)


 いたたまれなくてちょっと本気で泣きそうだ。そんなあたしに気付いて、日高くんがますますうろたえる。


「ののか………えっと…………すまない……」

「……なにが『すまない』なの……?」

「……えと、だから………その、」


 日高くんはさらに言葉を詰まらせる。


「………ほんとうにすまない。『花嫁御寮』のお役目にかこつけて、ののかに無理強いするつもりなんてなかったんだ。怖がらせるつもりでもなくて……」


 日高くんは言葉がうまくまとまらないのか焦った顔をする。その顔を何ともいえない気持ちでじいっと見ていると、突然チラチラと何かちいさな光のようなものがあたしの視界を横切った。それはあたしと日高くんの間とを行ったり来たりして飛び回る。まるで蛍のようにちいさくはかないその光には見覚えがあった。あたしが右手を宙に差し出すと、その蛍火は小鳥のようにあたしの手のひらに寄ってきてそのすぐ上でくるくると飛び回る。


「ののか、それが見えるのか?」


 あたしが手の中で蛍火を遊ばせていると、日高くんが驚いた顔をして聞いてくる。


「うん、見えるよ。……この子は日高くんの使役か何か?」

「………いや、違う」

「でも悪いモノじゃないよね?」


 人懐っこくあたしに寄ってくるこのちいさな光は、『和合の儀』の夜、蛇女から逃げようとするあたしを三階の寝室まで導いてくれたあの蛍火だった。ちいさくて弱い光だけど、とてもあたたかな色をしている。霊感なんて上等な感覚は持ち合わせてないけれど、この蛍火は怖いモノなんかじゃないってことだけはわかる。ちいさな光の粒みたいなものだけど、あたしにはこの子が守ってあげたくなるかわいらしいモノに見えた。


「ああ、確かに悪いものなんかじゃない。とても儚いけれど、いつもののかを守るようにののかの周りを飛び回っている子だよ」

「いつも?……この蛍火、ずっとあたしの傍にいたの?」


 日高くんはちいさな光を見詰めながら頷く。


「すくなくとも俺が以前ののかを見掛けたときからずっと、この子はののかのそばにいた。ののかは随分と慕われているみたいだ」

「え……そうなの?……君、前にもどこかであたしと会ったことがあるの?」


 聞いてみても、蛍火はもちろん返事なんてしない。ただあたしの手の上でふわふわ浮いている。


「なんでかわからないけど………ありがとう?ずっと傍にいてくれたなんて、なんかうれしいな」


 あたしが蛍火に向かって頭を下げると、蛍火もそれに応えるように上下に大きく振れる。まるでよろこんではしゃいでいるかのようだ。


「……なあ、もしかしてののかの家は……」

 

 日高くんは何かを問いかけて、でも首を左右に振って「なんでもない」と打ち消す。


「なに?どうかしたの?」

「………いや、無理に正体を暴くこともないかと思って」


 この蛍火が何者なのか、なんであたしの傍にいてくれるのかは気になるところだけど、日高くんと同じく無理に探ってみようとは思わなかった。


「そうだね……でも不思議。日高くんは神力があるからずっと前からこの子のことが見えていたみたいだけど、なんであたしの目にも急に見ることが出来るようになったんだろう?」


 和合の儀のときは、たぶんいつもと違う酔っぱらった状態になったことで霊感のスイッチが入ってしまい、異形の神さまや蛇女、そしてこの蛍火のことも見えるようになってしまったんだと思うけど、今はなんの前触れもなかった。ほんとうに唐突に、蛍火が見えるようになってしまった。なんでだろう。


「それはたぶん、ののかも変化をしているからだよ」

「変化?……あたしが?」

「ああ。その影響でののかの霊感も鋭くなりはじめたのかもしれない」

「えっ。……それってもしかして『花嫁役』として神事に参加してるから?霊感も強くなるの?」

「まあ、そういうことだな」

「霊感って強くなるとどうなっちゃうの……?まさか怖いモノとか見えるようになっちゃう?」

「さあ。それは人それぞれだと思うけど、見え過ぎるのが嫌なら俺の神呪で鋭くなりすぎたののかの視覚をことも出来るよ」


 どうする?と視線で問われてあたしは口ごもる。


「イヤっていうか。……………ごめん。まだどうしたいのかもわからない」


 怖がりだからあまり物の怪みたいなモノは見たくないと思うけど、あたしに懐いて飛び回ってるかわいい蛍火が見られなくなってしまうのはなんだかさびしい。そんなことを思っていると、日高くんは急に体を反転させて歩き出した。


「ののか。ちょっとこっちにおいで」


 日高くんはあたしの私室へと続く襖の方に手を掛ける。そちら側の襖はいつものようにすんなりと開いた。日高くんはあたしの私室を進み、その先の廊下へと出て行く。あたしもその後を追い掛けた。






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