日高くんが見る世界


 廊下に出ると、ガラス窓の前で日高くんが聞いてきた。


「ののか。何かいつもと違うものが見えたりしないか?」

「いつもと違うもの………?」


 日高くんの隣に並んで眼下に広がる夜の海に視線を向けようとすると、日高くんは急に何か思いついたように「ちょっと待っててくれ」と言って自分の私室に向かう。日高くんの寝室の襖は狐たちがイタズラをしているせいでちっとも開かなかったけど、廊下と接している私室の襖はノーマークだったらしく日高くんが引いたらあっさり開いた。


「ののか、その格好だと冷えるから」


 すぐに私室から取って返した日高くんは、手にパーカーと茶羽織ちゃばおりを持っていた。若草色の茶羽織は肌寒い日なんかによく日高くんが浴衣の上から羽織っているもので、日高くんはそれをあたしの肩に掛けてくれる。あたしが羽織るにはちょっと大きすぎるんだけど、そのぶかぶか加減に『これはいつも日高くんが着てるものなんだ』ってことを強く意識してしまって、なんだかうれしいようなはずかしいような気持ちになってくる。


「寒くないか?」

「……うん。あったかいよ。ありがとう」

「足元も冷えるから、これ敷くといいよ」


 パーカーはてっきり日高くんが自身が羽織るために用意したものだと思っていたのに、日高くんは板張りの床の上に敷いて「この上にどうぞ」と促してくる。


「だ、だめだよっ、汚れちゃうし、日高くんの着る物踏みつけるなんて出来ないよっ」

「俺がいいって言ってるんだ。ののかは体冷やしたらまた具合が悪くなるかもしれないんだし。かまわないから、ほら足先が冷える前にどうぞ」


 有無を言わさぬ口調で言われて背中を押され、結局あたしは日高くんのパーカーを下敷きにしてその上に立った。申し訳ない気もするけれど、ひんやりとした床板に裸足で立っているとどんどん熱を奪われていく感覚があったから、パーカー一枚敷いてもらったことが素直に有難かった。


「ありがとう。なんか、ごめん……」

「いいって。気にすることじゃないよ」


 いくらなんでも日高くんはやさしすぎだ。これでは花嫁もカノジョも通り越してお姫様扱いだ。男子に素でこんなに丁重に扱ってもらえるなんて、どきどきするなと言う方が無理がある。日高くんはよくあたしのことを叱ってくるけど、いつも振り回されているのはどう考えたって日高くんじゃなくてあたしの方だ。あたしだけ無自覚天然タラシな日高くんに翻弄されるのは、なんかくやしい。


「ののか、どうだ?」


 あたしの気持ちなんて知らない日高くんは、隣に立つと窓の外を指し示した。あたしは何気なく視線をそちらに向けたけど、その途端思わず息を飲んでしまった。

 この貝楼閣の三階、建物の海側には大きなガラス窓が廊下の端から端まで続いていて、そこからは豊海の海が一望できる。太陽の光が降り注ぐ朝はとてもきれいだけど、夜は海と空の境が分からないくらいに真っ暗になるから、なんだか怖くていつもはじっと見ることがなかった。けど今じっくり眺めてみると、あたしの目にはなにか不思議な光景が見えてくる。


 海の水面のあたりが淡く光っている。人工の灯りとは違って、まるで呼吸をするようにその光は強くなったり弱くなったりを不規則に繰り返している。なにか生き物のようだけど、とてもぼんやりとしていてあたしの目にはそれが何であるかをはっきり見ることが出来ない。歯痒く思って視線を上げると、そこには海と同じくらい深い漆黒の空と無数の星が瞬いているのが見える。その満天の空にもがいる気配がする。いや、海や空だけじゃない。この貝楼閣の中にも何か無数の命が蠢いている。でもあたしの目はそのを知覚することが出来ない。霊感が備わっていないからだ。

 悔しくてじっと窓からの景色を見詰めていると、日高くんが急に「目を閉じて」と言って、あたしの瞼に指で触れてきた。その瞬間、両目にちりっと痛みが走る。


『もう開けても大丈夫だ』


 凛とした清らかな声に誘われて恐る恐る目を開くと、隣には淡く体を輝かせる神々しい日高くんの姿があった。浴衣の袖口から覗く腕は蒼真珠のような色をした鱗で覆われていて、あたしを見つめる目も同じ色に輝いている。くちびるはますます瑞々しく潤み、頬や額は陶器のようになまめかしい艶を纏っている。まさに神さまの化身というべきそのうつくしい姿に、あたしはうっとり見惚れてしまう。


『目、痛くないか?』

「あ。そういえばすぐに開けたのに全然大丈夫。あれ、でも今、日高くん神呪唱えたっけ?」

『………唱えなくても神力を使えるくらい、今はこの身に神力が満ちてきているみたいだ』


 そう言って日高くんが窓の外を見る。あたしもそれを追いかけて視線を再び海に向けると、あたしの目の前にはまるで別世界のような光景が広がっていた。海には光の残影を描きながら蛇のように体をくねらせた細長い生き物たちが泳ぎまわり、断崖には打ち寄せる波濤の飛沫しぶきから光の粒のようにきらめく羽虫が無数に生まれて、でも上昇する途中でどれもしゃぼんだまのようにその身を弾けさせ、ちいさな命を儚く散らせている。

 空を見上げれば半透明の人面鳥のような生き物が貝楼閣の周りを飛び回り、全身から菌糸のように細く粘る糸を無数に垂らす半裸の天女が夜空を舞い踊り、海との境の岩場には甲殻類の顔に動物の体をした鼠のような生き物が断崖を駆け上がったり下りたりを繰り返していた。そして今あたしたちがいるこの廊下の窓にも、尺取り虫のようにうねりながらつたが無数に這ってきて、それはぽたぽたと光る粘液のようなものを垂らしながら窓枠の上下に伸び、でも成長する端からすぐに枯れていき触れる間もなく空中に霧散していく。


 あまりに異様な光景。


 でもなにもかもがいびつでおそろしくありながら、目が離せなくなるほどに神秘的でうつくしくもある。夜に息づく異形のモノたちは、その命をこの深い深い闇に輝かせていた。それらはずっとこの豊海の地に存在しながらも今まであたしが見ることが出来なかった、そして日高くんはずっと前から見ていたであろうもうひとつの世界だ。


『ののか。………大丈夫か?』


 まるで魔に魅入られたかのように視線を剥がせなくなってしまったあたしに、日高くんは気遣うような声色で聞いてくる。


「……だい、じょうぶ…………ちょっと、びっくりしてるけど…」

のが辛いなら、視覚を閉じようか?』


 あたしはすこし考えてから首を左右に振った。


『でも怖いんだろう?』


 たしかにちょっと………ううん、かなり怖い。ガラス一枚隔てた向こうには無数の異形のモノたちが蠢いていて、ときおり窓際までやってきたソレはあたしと目が合うとニタリと笑ったりするんだから、怖くないわけがない。でも。


「……このままあたしの霊感が鋭くなっていったら、いつかこれが見えることが当たり前になるってことなんだよね?」

『ああ』

「じゃあ今は見ておく。……正直はじめて見るから怖いし、ちょっとキモチ悪いのもいるけど……でもっ、ずっと見て見て見まくっていたら、そのうち見慣れてそんなに怖くなくなるかもしれないでしょ?だからこのままでいいよ。何事も慣れだよね、慣れ!」


 多少の強がりを含みつつもあたしがそう言いきると、日高くんは蒼く輝く目を何か眩しいものでも見るように細めた。


「あたしひとりのときならともかく、今は隣に日高くんがいてくれてるしね。だから今のところはも大丈夫だよ!」


 それに日高くんが普段見ているものを、この目でちゃんと見ておきたかった。所詮あたしはただの人でしかないけれど、日高くんが見てる世界を見ることで日高くんのことがもっとわかるようになれるんじゃないかって思うのだ。


「だからもうすこしこのまま、この景色を一緒に見させてもらってもいい?」

『………ののかは強いんだな。俺は初めてこの光景が見えたとき、自分がおかしくなったんじゃないかと思ってこわくて、不安で不安でたまらなくなったのに』

「え、日高くんって、生まれたときからいたわけじゃないの?」

『俺はもともと、神力なんて備えてないも同然のレベルだったんだよ。皆礼家の生まれとはいえほとんどし、ちいさい頃はちょっと感覚が鋭いだけのどこにでもいるただの普通の子供だった』


 てっきり海来様の末裔である日高くんは、生まれたときから人とは違う特別な力を持っていたのだとばかり思っていたから、その話には驚いた。


「じゃあ今はどうして………?」

『ちょっとしたきっかけがあって、急に身体に神力が宿るようになったんだ』

「きっかけって?」

『それは、その………』


 日高くんは言い淀み、唇を噛みしめる。それから顔を強張らせて何かを言い掛けては言葉に出来ずに飲み込む。それはたぶん、何か話すのも躊躇う記憶に触れているからだ。だからあたしは(ごめんね、無理になんて話さなくていいんだよ)と目で訴えながら、日高くんの腕をそっと掴む。あたしの視線を受け止めた日高くんは、でもかえって後押しされたように口を開いた。


『俺が小学生のとき、父親がいなくなったんだ。……ほんとうに突然のことだった』


 日高くんはその日起きたことを、淡々と話し始めた。


『俺の父親は先代の海来神で、先々代の祖父が“海来神の再来”とも呼ばれた気分屋の天才肌だとしたら、父はその真逆の生真面目な努力家タイプだった。いつもうちの書庫に置いてある神呪の式書を黙々と読み込んで、その中のどの神呪が豊海を治めるために有用なものなのか、一人で研究していたよ。

 祖父ほどの神力は備えていないから異形のモノたちから侮られることも多かったようだけど、いつも穏やかでどんな些細なお務めにも文句も言わずに応じていたから、村の者たちからは祖父以上に慕われていた。……それが子供の俺にとってとても誇らしいことだった』


 なんとなく、話で聞く日高くんのお父さん像は、日高くん自身の性質たちとリンクする部分が多い気がする。だから日高くんは今もお父さんの存在を心の拠り所にしているんだって、そんな気がする。


『そんな父が、前触れもなくいなくなった。前の晩は一緒に夕飯を食べていつもどおり家族で過ごしていたはずなのに、朝になったら忽然と姿を消していた。

 祖父と違って放浪癖のある人じゃないし、むしろどこへ行くよりも家でのんびりしたがる人だったんだ。自分で望んで家を出て行ったとは思えなかったし、何より母さんを置いて黙って出掛けてしまうなんて、あの父に限って絶対にありえない。きっとなにか普通ではないことが起きたんだって、すぐに俺たち家族も斎賀の者たちも悟ったよ。だから早朝から俺たちだけじゃなく社人の者たちや青年団を招集して、村人総出で豊海のあちこちを探し回った。けどその数時間後だったな。…………船上から捜索に参加してくれていた漁師が、海で父を見つけた』


 当時の日高くんには相当ショックなことだったということが、事実だけを述べようとする抑えた声から伝わってくる。まだ日高くんの腕を掴んだままだったあたしの指先に自然と力がこもった。


『………いや、あれはもう父さんじゃなかった。ただの抜け殻だった。魂はもう遠い遠い海の彼方の異界へ行ってしまったと一目でわかったよ。だって海来神だった父さんは霊感のない俺ですら何か特別な“気”を纏っていることが分かった。けど、あのとき漁師たちに運ばれてきた父さんは、神力の名残すらその身に宿していなかった。

 ………死んで海来神としてのお役目を終えたから、体はただのふつうの人間になってしまったんだって、棺に納まった顔を見たらいやでも思い知らされた』


 日高くんの話し方が淡々としている分、今もお父さんを失った行き場のないかなしみが癒えていないことがわかる。だからただ聞いているだけのあたしまでどんどんつらくなってくる。


「…………日高くん。もう無理に話さなくていいよ。でも……あたしでいいなら、あたしが聞いていいなら………日高くんの話、きかせて?」


 つらい話をさせたかったわけじゃない。その日何が起きたのか野次馬根性で知りたくなったわけでもない。ただ今も日高くんがつらい記憶を抱えているのなら、あたしにもその記憶の一部を分けてもらいたかった。そんなことしかあたしには出来ないから。日高くんは一瞬、泣き出す子供のように顔を歪めて、それからきれいな顔をくしゃっと笑み崩した。


『……ののかといると、いちいち抱き締めたくなるのを堪えなきゃいけなくなるのがつらいところだな』


 あたしがその言葉になにかリアクションをするより先に、日高くんは静かに切り出してきた。


『ありがとう。俺はののかに救われてばかりだ。………お礼に昔話を教えるよ。これは皆礼家と海来神社に伝わる海来神の伝説の最後の部分だ』






 人と婚媾こんこうおかにとどまることになったうつくしい青年と、その妻である漁師の娘は、子供にも恵まれ長い間しあわせに暮らしていた。だかいつまでもうつくしいままの青年とは違い、妻は人の世のことわり通り次第に老い衰えていき、ついには最期の時を迎えた。遺された子供たちが母の亡骸を葬ろうとすると、青年は言った。


『おまえたちの母の身体はこのまま朽ちようとも、その魂は永劫に私と共にある。私はかさねの魂を連れて、この海の向こうにあるへ帰ろう』


 その途端、青年はうつくしい人間の姿から蒼く輝く竜へと変化した。それこそが青年の本当の姿であった。竜はその背に女を乗せていた。それは若くうつくしい頃の妻かさねの姿であり、亡くなった妻の魂が具現した姿であった。


 竜になった青年が妻の魂と共にこの地から去ろうとすると、彼の利発な子供たちがそれを止めた。


「お待ちください、父上。すでにこの海も山もあなたが治められたあなたの国だ。国主たる父上を失うなら、この国や私たちはこれからどうやって暮らしていけばよいのでしょう」


 すると竜になった青年は、長く優美な髭でその子らの頭を撫でた。その途端、子らの体は蒼く輝きだす。


『今おまえたちに私の力の一端を授けた。これは親から子へと継がれていく力である。よこしまな野心など持たず、清く正しい心でこのうつくしい山海を守りなさい。

 そしていずれおまえたちがこの地の守り主としての役目を終えこの世を身罷みまかるときには、後に遺されるおまえたちの子らのために、その力をこの地に置いていくのです。おまえたちがそうしてただの人の子に戻ったとき、私はの戸を開けておまえたちの魂を迎い入れよう。……その日までつつがなく暮らしなさい』


 そう告げると竜は天高く舞い上がり、海の彼方へと飛び去っていった。


 後に青年は古くからこの地の伝説で語り継がれていた海の異界に棲まう竜神であると語られるようになり、『海からいらっしゃった尊い方』という意味を込めて『海来様』と呼ばれるようになった。この海来神の子らは『この地を永劫に豊かな土地にせん』という誓いを込めて父の治めた山海を『豊海』と名付け、山を拓いて作った田畑で土地を豊かにし、海に棲む異形のものたちに祈祷をあげて海の幸に恵まれるように尽力した。


 その子らの子孫が現在の皆礼家であり、海来神から授けられた神力は今もなおその者たちによって親から子へと受け継がれている。






「ちいさい頃から、何度も何度も斎賀の爺から聞かされた話だ。けど俺には神力なんて備わっていなかったから、全然ピンとこなかった。でも父がいなくなった日の明け方………父の不在にもまだ気付かず眠っていた俺の体に、突然『何か』が流れ込んで来たんだ」


 日高くんは自分の皮膚の上をまるで血液のように隅々まで巡っていく蒼い光をじっと見つめる。それは日高くんがその身に宿している『神力』だ。


「……自分の部屋でいつものように眠っていたら急に体が異常に熱くなった。全身が不気味に輝きはじめて、体じゅうの神経を焼かれるような猛烈な痛みに見舞われた。布団の中でその苦しみにのたうちまわっているうちに、それまでは見えなかったモノがだんだんと見えるようになっていったんだ……」


 そのとき見えたのが、物の怪や土地神などの異形のモノたちだったんだろう。あたしのように前もって予告されたわけでもないのに突然ようになってしまったなんて、きっと恐ろしい体験だったに違いない。


「……だから本当はあの日、俺は父が海で見つかる前からわかっていたんだ。父さんはもうこの世界からいなくなって、魂は遠い『異界』に行ってしまったんだって。

 あの朝、伝説通り父さんの体に宿っていた力が俺に受け継がれたんだ。俺の身に流れ込んできたこの力は海来神だった父さんが備えていた神力であり、父さんの命そのものでもあったんだろう。

 ………俺はずっと神力が備わっていないことがコンプレックスだった。ろくにこともこともことも出来ず、皆礼家に生まれたのになんで俺だけなんの務めも果たせないんだって悔しかった。けど、あんな形で力を得ることなんてすこしも望んでいなかった……」


 日高くんの神力はとても便利なものだ。あたしの視界を自在に『開く』ことも出来るし、バス停までワープで近道することも出来る。豊海村の豊穣や安全を祈り、異形だって祓うことが出来る。すごい超能力だ。でもそれは日高くんがお父さんの命と引き換えに得たものだった。そう思うと言葉がなかった。


『うちは父親、かなり前にいなくなったからさ』


 以前あたしにそういったときの、目の奥にどことなくさびしさを押し隠した日高くんの顔が急に思い出される。高校生になった今でもお父さんの不在に気持ちの折り合いがつけきれていない日高くんは、その死に遭遇した小学生のときどれだけ苦しんでいたのだろう。


(……小学生のとき………?)


 何かが引っ掛かり、あたしの脳裏に数年前の記憶がいっきに駆け巡っていく。小学校に入ってはじめての夏休み。楽しみだった帰省。誰もいないおじいちゃんの家。怖い顔をして村じゅうを行き来する大人たち。夕暮れの海。遭遇したきれいな男の子。泣き腫らしたような赤い目。


「……………ねえ、日高くん。もしかしてその日って、」


 あたしは顔を跳ね上げて隣にいる日高くんを仰ぎ見る。日高くんはあたしを見つめて静かに微笑んでいた。日高くん越しに窓の外には満天の空が見えて、まるでそれが日高くんを飾りたてるだけに生まれたうつくしい宝石のようだ。その姿を見ているうちに思う。


(聞いたりしなくたって大丈夫だ)


 日高くんに確かめたりしなくても、あたしはもうその答えを知っている。そんな確信がある。あたしの中にある大事な記憶は、きっとあたしひとりだけのものじゃない。あたしと日高くんの胸の中には、夕暮れの海辺で見つめあった、同じ絵があるはずだ。


『だいじょうぶだよ。ののかがずっとそばにいてあげる』


 そういって倒れこんできた男の子を抱き留めたとき、あの子はうれしそうにあたしに微笑んでくれた。最前にどんなつらいことが起きていたんだとしても、あのひとときだけはたしかに穏やかで満ち足りた時間が流れていた、そのはずだって信じたい。


(あたしにとってかけがえのない出会いの夏の日が、日高くんにとってつらい記憶だけの日じゃありませんように)


 そんなことを祈りながら日高くんを見つめ返す。そんなあたしのことを、日高くんもやさしく見つめ返してくれる。まるであの日にタイムスリップしたみたいに、胸がじわりとあたたかくなってくる。


(大丈夫。言葉で言わなくても、通じる思いってきっとあるんだ)


 その証拠にあたしたちは今自然とお互いに手を伸ばし、触れた指先を絡め合っていた。あたしは今触れているものが何よりも大事なものだと確信しながらぎゅっと日高くんの手を握る。


(あたしは日高くんのことが好きだ)


 ごく自然にその思いを受け止めている。初恋の男の子だからじゃない。日高くんのやさしさも、あたしのことを気遣いすぎてときどき周りが見えなくなる不器用なところも、日高くんのすべてがあたしにはいとおしい。いつの間にか家族よりももっと近い場所に、日高くんを感じている。

 お役目なんかじゃなくて、あたしはあたしの意思でこれからもずっと日高くんの傍にいたい。……でもまだ今はそれを伝えられなくていい。あたしが『花嫁御寮』のお務めを果たすことが日高くんのためになるのなら、今はニセモノでもいい。今は触れている指先だけが確かなもので、余計な言葉なんかで日高くんと共有しているこの空気を壊してしまいたくなかった。


 二人で無言で夜の豊海を眺めていると、すぐ傍の窓枠には、また光る粘液を垂らす蔦が伸びてきた。ガラス窓の向こうでは、波の音に混じって弦をつま弾くような不可思議で幻想的な音も聞こえ、空や海にはいろんな動物や虫を象った歪でうつくしい異形たちが蠢いている。そして隣に立っているのはフツウの人じゃない、あまりにもうつくしく、蒼く輝く神力を身に纏った竜の血を引き竜の鱗を持つ半神半人の男の子だ。でも怖くない。今まで見ることが出来なかったこの景色が、今日からあたしが生きていくもうひとつの世界になるんだ。


(あたしはこれからほかの人には見えないものを、日高くんがいる世界で生きていきたい)


 あたしは胸の中でそっとそんなことを祈る。





 空にはますますたくさんの異形のモノたちが飛び回っていた。山伏のような恰好をした鳥顔の異形が、窓辺に佇む日高くんに気付くと仲間を引き連れてうれしげに日高くんに話し掛けてきた。


『おお、日高比古。我らが主さまっ』

叢雨むらさめたちか。久しいな」


 日高くんは叢雨と呼んだ鳥人たちに話し掛けると、彼らは一斉に頭を下げた。


『お久しゅうございまする、日高比古』

『おやおや、今宵はなんと愛らしい娘を連れていらっしゃる』

『口を慎め、驟雨、このひよっこめ。このお方は日高比古の花嫁御寮であらせられるぞ』

『なんと!日高比古がこんなに愛くるしい花嫁を娶られていようとは。これでこの豊海はますますの安泰といえよう。いや、めでたやめでたや!』

『ご成婚誠におめでとうございます、日高比古。祝言には間に合わずに申し訳ございません』

「いや。おまえたちが俺から離れた後もこの豊海をよく見回ってくれていることは知っている。こちらも祝言を挙げることが急な話になって申し訳なかった」


 日高くんの言葉に、鳥人たちは口々に『勿体ないお言葉です』と恐縮の言葉を繰り返す。


『ご懐胎を急がねばならぬ事情は察しております、主様』

『我らはいつでも日高比古の呼びかけに応じる準備が出来ております』

『どうかまた我々をお召しくださりませ』

「ああ。…………ありがとう」


 異形のモノたちに日高くんが声を掛けると、その誰もがその喜びに体を震わせる。日高くんは彼らを見つつ、あたしにそっと耳打ちしてくる。


「彼らはもともとは俺の使役だったんだ」

「あんなにいっぱい……?」

「ああ。代々この皆礼家に仕えてくれた古参の者たちで、この豊海の守り神たちでもある。でも俺の神力では養いきれないと思って、不自由させるのも悪いから一年前に使役の『役』を外したんだ」

「………でも、この貝楼閣から離れようとしないで、また日高くんが使役として呼びかけてくるのをずっと待っているんだ?……慕われているんだね」


 たとえ人じゃなくても、日高くんを認め、味方になってくれるモノたちがいることがうれしかった。あたしが窓の向こうで飛び回る鳥人たちに手を振ると、彼らは口々に『おお、花嫁御寮』『わしに呼びかけてくださっている』『ぬしにではなく私にだ、このうつけものめが』『いやわしにだ』『手を振る姿のなんと愛らしいこと』『阿呆が、愛らしいなどという月並みな言葉ではとても言い表せぬわ』と互いに言い合いだす。その中でいちばん年長らしい叢雨と呼ばれた鳥人が、あたしの目の前に舞い降りてきて深々と首を垂れた。


『花嫁御寮、御名を伺いたいと思うておりましたが。もしやあなた様はののか様ではありませぬか?』

「えっ………はい、ののかです。早乙女ののかといいます………?」

『おお、鈴のようなお声』

『なんと楚々とした花嫁であろう』

『耳にまで愛らしい御方だ!』

『これ静まらんか、おまえたち。……日高比古、ののか様を娶られるとは、ついに幼年の頃よりの本懐を遂げられたようで何よりでございます』


 叢雨の言葉になぜか日高くんは耳朶を赤くして、なんだか決まりの悪そうな顔をする。


『今一度、日高比古のご成婚のお慶び申し上げます』

『どうぞこの愛らしい花嫁御寮を慈しみ、末永くお幸せに過ごされますよう我らも願っております』

『おふたりの御子のご誕生を心待ちにしております』

『その際には是非に我らをお呼びくださりませ。産後の肥立ちに良い妙薬を揃え、参じますので』


 オコっていうのはつまり赤ちゃんのことなんだろうけど。……ほんとの夫婦なわけじゃないのに、そんなこと期待されてもなんだかすごく反応に困る。でも鳥人たちはみんな心の底から『神婚の儀』を行ったことを祝ってくれているみたいだから、ぺこりと頭を下げる。すると彼らは返礼してうれしそうに夜の海に飛び出していった。最後の一羽まで飛び立ったのを見送ると、日高くんは感心したように言ってくる。


「ほんとうにすごいな、ののかは。彼らと普通に言葉を交わすなんて、たいした順応力だ」

「……そうかな?」

「そうだよ。正直俺よりも海来に向いているかもしれない」


 冗談めかしていいながらも、日高くんは「でもほんとは怖かったか?」とあたしを気遣うように聞いてくる。


「ううん。怖くないよ。今もちいさい頃も、豊海はあたしにとってとても大事で大好きな場所だもん」


 あたしの言葉に、日高くんはまるで自分自身を褒められたかのように唇を綻ばせ面映ゆそうな顔をする。


「………前はね、すてきな男の子がくれた蒼真珠があって、持っているだけでいつも何かに守ってもらってるような気持ちになれて安心出来たんだ」


 あたしは記憶の中の男の子と目の前にいる日高くんを重ねながら、言葉を紡いでいく。


「その蒼真珠はもうなくなっちゃったけど、でも今は日高くんがいてくれるからあたしはちっとも怖くないよ。だから日高くんが見ている世界を、あたしも見えるようになりたい」


 そう告げると、日高くんはそっとあたしの体を抱き締めてきた。


 キスしてもらえなくてもいい。

 まだ好きだということが出来なくてもいい。

 今はただ、このままでいたい。


 あたしはあたしを包み込む日高くんの腕の感触にうっとり身を任せた。






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