7章 穂高比古
君は誰
日高くんに「もう遅いから休んだほうがいい」と言われて部屋に返されてから、お布団の中でずっと考えていた。あたしが日高くんのために出来ることって何だろうって。
竜の血を引いていようと、神力という超能力を備えていようと、日高くんは歴史小説が好きで興味のない授業のときはいつも眠たげな顔をしている、どこにでもいるごくフツウの高校生だ。豊海村では海来様として誰からも特別な存在として扱われているけれど、あたしは神様としてではなくあくまでもフツウの男の子として日高くんに接したい。あたしと一緒にいるときだけでもお役目を忘れて寛いでもらいたい。
(……あんまり得意なことなんてないけど、とりあえず今あたしはお料理とか家のことやるのがいちばんかな?日高くん、なんだかんだ言ってあたしの作ったスープとか喜んで食べてくれるし)
あたしは目を閉じながら考える。
(……最近具合が悪くてお料理もお洗濯もみんな梅さんとか社人のおばさまたちに任せっきりだからなぁ。いい加減シャキッとして、日高くんのお弁当くらいは作りたいな。日高くん、唐揚げとかミートボールとか意外にお子様メニュー好きなんだよね。あんなにもりもり食べてくれるなら、また作っていっぱい食べてもらいたいなぁ………)
そんなことを考えているうちに、あたしの意識は眠りの世界に溶けていく。
どれくらい経っただろう。眠っていたあたしは、閉じた瞼越しにちいさな光がちらつくのを感じた。眩しいと思うにはあまりにも淡くて優しい光で、あたしはゆっくりと目を開ける。目に映ったのは代わり映えしない灯りの落ちた寝室の天井と、それから円を描くようにくるくると部屋の中を飛び回っている蛍火。
(あれ………あたし、眠る前に閉じてもらわなかったっけ………?)
おやすみの挨拶をして部屋の前で別れるとき、日高くんに「神経が疲れてゆっくり眠れないかもしれないから」と気遣われ、視界を閉じられたはずだった。
(なのになんで蛍火のことがまた見えるようになってるんだろ?)
そんなことをぼんやり考えながら、あたしは近くに寄ってきた蛍火に手を差し出そうとする。でも体はまるで布団に張り付いたかのようにピクリとも動かない。
(………あれ、なんで?今あたし、夢を見てるのかな………?)
俗に言う金縛りという状態のようだけど不思議と怖いと思う気持ちはなかった。だからこのまままた深い眠りに誘われるのを待とうとのんびり構えていると。
『夢じゃないよ』
突然あたしの部屋のどこかから声がする。部屋には人の姿はみえないし、蛍火以外の気配もないのに。
(………今の誰…………誰なのっ!?)
金縛りで口が動かないから心の中で問うと、くすくすと笑うやわらかな声がしてきた。
『大丈夫。僕は君に害を為すモノじゃないよ。だからそんなに怯えないで。……それよりも、このオレンジ色のちいさな子、人懐っこくてカワイイね。君は随分この子に好かれているみたいだ』
正体不明の誰かは凛としたよく通るきれいな声で、神力を使った直後の日高くんの声によく似ている。けれど日高くんの声よりわずかに低くて、澄んだ瑞々しさの中にもどこか落ち着いた雰囲気を感じる。あたしはこの声の主が誰なのかどこにいるのか姿を見たいと思ったけど、体は動いてくれないし、目も宙の一点に向けたまま動かすことが出来ない。歯痒く思っていると、誰かはあたしに語り掛けてくる。
『君はこの子のことを“蛍火”って呼んでいるみたいだね。……この蛍火が見えるようになったのは、眠っているわずかな合間にも君の霊感がどんどん鋭くなっていってる証拠だよ。あとは強いて言うなら、日高の術がまだ未熟な所為かな?』
(……えっ……日高くんのことを知っているんですか……?)
『ああ、よく知っているとも。たぶん今は君よりももっとずっと』
あたしの両目に、何も触れていないはずなのに急にひと肌のような温かな感触がした。
『へえ。未熟は未熟だけどちゃんと閉じてある。あいつには碌に神呪を教えてやらなかったけど、我流にしてはなかなかいい線いってる』
どこかうれしそうなその声に日高くんへの親愛の情が感じられて、あたしはますますこの声の主が誰なのか気になってしまう。そんな気持ちを察したように、声の主は言った。
『自己紹介もまだだったね。ちょっと待ってて。姿を見せないままだと申し訳ないから、今僕の魂を具現してみるよ………“姿を成せ”』
突然寝室が青い光に包まれ、部屋の四方から真ん中へとその光が集まっていく。それはちょうどあたしの視界の中央の辺りで捩れ合い、一本の糸のようになり少しずつ像を結んでいく。まずは裸足の足元、それから着物のような長衣、瑠璃色の帯、腰のあたりまで届く長い髪に、そして顔。その相貌を見たとき、あたしは口も動かせないのに喉の奥で息を飲んだ。
あたしの前に現れたその人は、ものすごくきれいな顔をした男の人だった。寸分の狂いもなく左右対称に整ったその顔があまりにもうつくしかったことに驚いたけど、それよりもその顔が日高くんによく似ていることにもっと衝撃を受けた。ふわふわと宙に浮いている彼は、あたしの前に来るとにっこり笑う。
『こんばんは。初めまして。いきなりこんな見下ろす形で話し掛けてごめんね』
光で編まれた彼の体は半透明で向こう側が透けて見えていた。まるで幽霊みたいだけど、幽霊にしては光輝く彼の姿はあまりに神々しい。
『いきなり無断で女の子の寝室に入り込んだりしてごめんね?でも非常に遺憾ながら今の僕は目の前にかわいい女の子が無防備な寝顔を晒していても手も足も出せないから、どうか安心してね』
半透明の彼は冗談めかしてそんなことを言う。どうやら見た目は日高くん同様人間離れした美貌だけど、中身はかなり砕けた人みたいだ。
『急にどこかから声が聞こえてきたから思わず話し掛けてみたんだけど、君には僕の声が聞こえているみたいだし、この姿も見えているみたいだね』
(はい、見えます……)
『そっか。……………日高も、斎宮の爺さんも響もダメでもう諦めかけていたのにな。まさか僕の声が聞こえる人が見つかるなんて思わなかった』
(………あ、あの。あなたは?)
『名乗る前に君の名前を僕が当てて見せよう。…………君は早乙女ののかちゃん。違うかい?』
言い当てられたことに驚いて言葉が出てこなかった。もしかしたらなにか特別な力であたしのことを見抜いたのかと思っていると、彼は端正な顔に似合わないやたらと人間くさい笑みをニヤッと浮かべる。
『やっぱりののかちゃんなんだ!……なんで分かったんだって顔だね?それは年の功ってヤツだよ。何しろ昔から日高は隠し事の下手なヤツだったからね。隠そうとしていることがあっても簡単に僕の誘導尋問に引っ掛かってくれるし、何より決定的だったのはあいつが後生大事に隠し持っていた名前入りのウサギのかわいいハンカ、』
そこまで言いかけて、急に半透明の人は言葉を詰まらせる。
『っと、まずいまずい、喋りすぎた。これ以上言ったらさすがに日高に激怒される。あいつ普段が温厚な分、本気で怒らせると根に持っていろいろ面倒なタイプなんだよね。………ああ、それで僕の正体だったけ?今は霊体だからどうしてもこっちの姿がデフォルトになってしまうみたいなんだけど、あっちの姿になった方が分かりやすいかな?………“直れ”』
彼がそう言うと、半透明の姿がすぐさま四方に解けて、続けてものすごいスピードでもう一度光の糸が像を編んでいく。人の形になったそれを見て、あたしはまた驚きの声を上げた。
(うちの学校の、制服……?)
現れたのは、襟足がきちんと整えられ、黒い詰襟を着込み、知的でありながらおしゃれで印象的なアンダーリムの眼鏡をかけた男の人。顔立ちはやっぱり日高くんに似ているけれど、物静かな雰囲気のある日高くんとは対照的に人好きのする快活な印象の人だ。でも年はあたしや日高くんよりいくつか上なのか、柔和な笑みの中に穏やかでどこかどっしりと構えた余裕を感じる。あたしは無意識に頭のなかで呟いていた。
(………もしかしたら……
眼鏡の彼はにっこり笑って頷いた。
『ご名答。でもののかちゃんみたいなカワイイ子にそんな他人行儀な呼び方されたくないなぁ』
『穂高』という名前は、今まで何度か日高くんの口から聞いたことがあった。話していた内容からして、どうも日高くんは『穂高さん』にコンプレックスと共に憧憬を抱いてるようだった。とても身近な人であるようだし、『穂高さん』が誰でどんな関係のどんな人なのか聞いてみたいと思っていたけれど、お父さんのこともあったので、なんとなく日高くんの方から話そうとしないうちはむやみに触れてはいけないことだと思っていた。
(でもこうして穂高さんの方から来てくれたのなら、遠慮なく聞くことが出来る……!)
あたしがそう頭の中で思っていると、目の前にいる穂高さんは口の端をニッと釣り上げた。
『僕に興味を持ってくれてるなんて光栄だな。でも『穂高さん』って固い呼び方はいただけない。僕としては呼び捨てでも構わないけど、それだとあのヤキモチ男がうるさそうだし、やっぱののかちゃんみたいな可愛い子からは一度でいいから“おにいちゃん”って呼ばれてみたいな。もう日高は僕のことを“おにいちゃん”どころか“兄貴”とすら呼んでくれなくなったからね』
(…………穂高さんって、日高くんのお兄さんなんですか?)
『うん、そう。僕あの子のおにいちゃん。不肖の弟がいつもお世話になっています』
日高くんのことを『あの子』呼ばわりした穂高さんは、いきなり『ののかちゃんって、あいつのお嫁さんなんでしょ』などと聞いてくる。
(おっ、およめさんっていうか………)
『いやぁ、前から妹がほしいなぁって思っていたんだけど、まさかこの歳で願いが叶うなんて感激だよ、夢を叶えてくれてありがとう、ののかちゃん!君は僕の可愛い可愛い
穂高さんは明らかにあたしの反応をたのしんでいる。冗談すら滅多に言わない日高くんとはやっぱり対照的な人みたいだ。
(…………兄弟なのに、日高くんとは全然違うんですね)
『ああ、それ!よく言われるよ』
当人である穂高さんも十二分に自覚があることらしく、うんうん頷いてくる。
『僕は祖父に似ていて小器用で村人からのウケもいいんだけど、腹立たしいことに結局人望を集めるのはパフォーマンス上手なお喋りより、親父や日高みたいな口数少なくて淡々と仕事こなしてるタイプの男なんだよね。昔っから社人の女中役たちも鶴子さんも日高贔屓でさ。何もしないでぼやっとしてるだけのクセに天然で母性本能くすぐりまくってるんだよあいつは。狡いんだ』
憎まれ口を叩きつつもその口調はむしろうれしそうだ。あたしはひとりっ子だからきょうだいがいる感覚って想像しか出来ないけれど、なんかいいなって思う。身近なところに自分の味方になってくれる人がいるのってうらやましい。
(でもどうして穂高さんはこんな姿なんだろ?皆礼家の人ってことは、穂高さんも『海来様』ってことなのかな?なんで今まで姿を現さなかったんだろ?どこか別の場所に暮らしているとか?どう見ても幽霊みたいで身体がないようだけど、どうしてなんだろ?……聞いても大丈夫かな……?)
お兄さんを前に聞きたいことがあまりにも多すぎて、なかなか次の言葉が出てこない。すると穂高さんの方から打ち明けてくれる。
『ええっとね、実は僕、一年くらい前から幽霊の真似事をしているんだ。いや、望んでそうなったわけじゃなく、突然魂を身体から引っぺがされて、こんな姿になってしまったんだ。僕のこの霊体には妙な力が作用しているらしくてこの貝楼閣から出ることが出来ないんだ。で、仕方なく魂だけの姿で貝楼閣に住み着いているんだよ』
ものすごくあっけらかんと話しているけれど、それって結構大変なことなんじゃないかと、聞いてるあたしの方が心配になってくる。
『おまけにね、どういうわけか日高の意識に干渉することが出来ないんだ。日高に協力してもらって早く体に戻りたいと思うのに、日高には僕の声も姿も何もかも知覚することが出来ないらしい。だからたぶん僕は今、行方不明扱いになってると思うんだけど、ののかちゃんは何か僕のことを聞いたことがある?』
あたしが「日高くんから名前しか聞いたことがありません」と頭の中で念じると、穂高さんは声を立てて笑って、すこしの悲壮さもない顔で『あはは、じゃあひょっとして僕は今、死亡扱いされてるのかな?』なんて言い出す。
(そんなっ……穂高さん、いったいなんでユーレイになっちゃったんですか)
『あー、まだ死んだかどうだかわからないから、幽霊とも限らないんだけどねぇ。………ちょっと身内の揉め事に巻き込まれたというか、うっかり可愛い女の子にお痛をされてしまったというか………』
(あのっ。だったら穂高さんが元に戻れるようにあたしが協力します!あたしはなんでなのか、こうやって穂高さんと話すことが出来るし。あたしに出来ることがあったら何でも言ってください!)
『ありがとう。ののかちゃんはやさしいね。………それにやっぱりあれかな?日高のためにも僕の力になりたいって思ってくれてるのかな。愛だね、愛されてるねあいつ』
(揶揄わないでくださいっ、あたしも穂高さんのことが心配なんです!………でも日高くんの方がもっともっと穂高さんのこと心配してると思います………)
『うん、知ってる。あいつ認めようとしないけど、結構兄ちゃん子なところがあるからね。僕もまだまだ未熟な日高についててやりたいんだけど…………………っ!?』
言葉の途中で穂高さんは鋭く息を飲み、急に後ろを振り返る。その視線の先にあるのは日高くんの寝室へ続く襖だ。そこをじっと凝視すると、穂高さんは『あの馬鹿……ッ!!』と苛立たしげに声を荒げる。
『危険だからもう二度とやるなって、あれだけしつこく言い聞かせたのに……あの馬鹿弟が……っ』
穂高さんは慌てて日高くんの寝室に行こうとして、でも襖の前でぐっと両手の拳を握りしめる。
『僕じゃダメだ。何もしてやれない。…………ののかちゃん!!』
穂高さんはすごい勢いであたしの眼前に迫ってきた。
『お願いだ、あいつを止めてくれっ。日高が馬鹿なことをしようとしているんだっ』
穂高さんの必死さに、何か大変なことが起きようとしていることがわかる。でも急いで起き上がりたいと思うのに、体は金縛りのままピクリとも動いてくれない。
『待って。今俺が目を覚ましてあげるから。だから日高のことを頼むっ!!』
そういうと、穂高さんが左右に大きく腕を広げてから、パンッ、と胸の前で手のひらを打ち合わせる。その瞬間、あたしの全身が痙攣したかのようにビクンッと震え、視界が暗転した。
目が開くと、あたしの頭は混線したかのようにいろんな情報が飛び交って、今何時なのかどこにいて何をしていたのか分からなくなってしまった。
「………あれ…あたし……今…………?」
呟いてからスムーズに声が出たことになぜか驚いてしまった。あたしの目にはオレンジ色の豆球の灯りだけが映る。さっきからずっとこの景色を見ていたような気もするし、何か大切なものが足らないような気もする。なんか妙な気分だ。
「……………夢でも見てたのかな………?」
目覚める直前までたしかに何かを見ていた気がするけれど、どんな夢を見ていたのか思い出せない。でもその夢の名残りなのか、妙な胸騒ぎを感じていた。頭は重たくてぼんやりするけれど、じっとしていられなくて布団の中で半身を起こす。視線を向けた先には日高くんの寝室へと続く襖が見えた。どうしてなのか、やっぱりすごく嫌な予感がする。一刻も早く日高くんのところへ行かなくてはいけない気がする。
(でもいきなりあたしが寝室に乗り込んできたら、日高くん驚くだろうしすごくイヤだよね……)
手元にある目覚まし時計を見れば、もう深夜の二時になろうとしている。こんな時刻に寝室を訪ねていくなんてあまりに非常識だ。あたしは変な胸騒ぎを見過ごそうかと思い、でもやっぱり何か悪い予感に追い立てられて思い切って布団から抜け出した。
(大丈夫、日高くんはぐっすり眠ってるよ。その顔だけ確認したらあたしもさっさとまた寝直せばいいだけのことじゃん)
そんなことを考えながら、あたしははじめて日高くんの寝室へと続く襖に手をかけた。
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