5章 貝楼閣の夜
夕暮れどき
「早乙女?開けてもいいか?」
梅さんを見送った後。今朝日高くんに案内されたあたし専用の部屋に引っ込んで今日出された学校の課題を黙々とこなしていると、日高くんが廊下から声を掛けてきた。
「うん、どうぞ」
あたしの返事の後、日高くんは十分に間を取ってから襖を開けた。
「そろそろ腹が減ってきたと思ったんだが、夕飯を食わないか?」
「あ、もうすぐ7時なんだね。そうしよっか」
「……それにしても早乙女、こんなところで勉強してたのか?」
「うん……?」
家具が何も置いていない部屋だから、段ボールを机替わりにしていた。
「不便させて悪い。でも机が必要なら早く言ってくれればよかったのに」
「あ、でも。いちおう、これでも代わりになるし。そんな気にしなくても大丈夫だよ?」
「けどこれから一緒に暮らしていくんだから、早乙女は俺にそういう遠慮とかしなくていいよ。必要なものがあるなら何でも言ってくれていい」
さらりと言われた言葉だけど、『一緒に暮らしていく』っていう文言にあたしの胸は不必要に反応してしまう。
「う、ん。でもおいおい揃えていけばいいし、それに机ならあたしの家から折り畳みのテーブル持ってくるよ」
「いい。そんなことしなくても早乙女用の机くらい買うよ」
「でもそのテーブル、あたしの部屋で使ってたものだから、家からなくなっても誰も困らないし、今度取りに帰るよ」
「………まったく早乙女は。『見返りが欲しい』って言ってたくせに、欲がなさすぎて正直拍子抜けするよ」
「え?」
「つまりは早乙女はもっと金銭的な意味でも別の意味でも、我が儘言ってくれてかまわないってことだ」
どっちかっていうと、あたしが『花嫁役』として日高くんの我が儘をいろいろきいてあげなきゃいけない立場だと思うんだけど。日高くんは村でいちばん偉い『海来様』なわけだし。一瞬、『花嫁役』にはそんな特権でもあるのかな?って疑問に思ったけれど、すぐに思考は別のことに押し流されていく。
「あ、そだ。そういえばお隣の部屋が日高くんの部屋だよね?日高くんは普段勉強とか、どこでどうやってるの?」
昨日見た制服と鞄以外は何も置いてなかった部屋を思い出しながら聞くと、日高くんは薄く笑って答えた。
「隣の部屋はあくまでただの寝室としてだけ使ってるんだ。……ちょっとおいで」
そういって手招きされて、あたしは歩き出した日高くんの後をついていく。廊下に出るとカーテンがかかっていない窓ガラスから、夜の色に染まっていく空と海とが見える。境界をなくし、等しく闇色に溶けていくその景色もまた壮観だけど、あたしたち以外誰もいないこの家があまりにも広すぎるから暗くなっていくのはちょっと怖かった。
「………日高くん、どこ行くの?」
「秘密の場所」
日高くんは意味ありげにそんな風に言って、階段がある方とは反対方向、廊下の突き当たりまでいく。そこで行き止まりになると思っていたのに、左手には人が一人通れるくらいの細い廊下が伸びていた。その細い道をさらに奥まで行くと、外へと続く渡り廊下が伸びていて、それはあたしたちの部屋がある本館三階より一段高い『離れ』に繋がっていた。
日高くんに招き入れられて離れに足を一歩踏み入れた途端、あたしは思わず感嘆の声を上げた。
「すごい……!」
『離れ』といっても、ゆうに教室一つ分くらいの広さがあった。そしてその四方は天井まで届く書棚に囲まれていて大きな梯子もかかっていた。書棚の中には見たこともないような古書から図鑑や辞書、それにあたしでも名前を知っているような文芸作家のハードカバーに文庫本、それから漫画や週刊の少年誌までいろんなジャンルの本が所狭しと並んでいた。
「お家に図書館があるみたい……!ね、ここは日高くんのお部屋なの?」
「いや。俺専用ってわけじゃないけど、向こうの寝室がある部屋よりこっちの書庫に入り浸ってる方が多いかな?」
「……うん。なんか日高くんがここにいる光景、なんとなく目に浮かぶもん」
板張りの床には御座が敷いてあって、その上にある文机には読み止しらしい本と底に茶渋がこびりついたままの湯呑が置いてあった。仮眠を取るためなのか、丸まった大きめのブランケットまである。
「これ、今日高くんが読んでるやつ?……歴史小説が好きなの?」
あたしが文机の上の文庫本を指すと、日高くんは「ああ」と頷く。
「……なんかうれしいな」
「え?」
「司馬さんの本、うちのお父さんもすごい好きなんだ。この『燃えよ剣』なんて、うちのお父さんも読み込み過ぎて同じくらいボロボロにしちゃってるんだよ?『男にとってこれは人生の指南書なんだ!』とか言っててね」
あたしの話に日高くんは目を見張った。
「へえ。早乙女のお父さんとは趣味が合いそうだ。俺も司馬先生の作品の中でも、これはとくに好きな話なんだ」
「あたしも司馬作品、小説は読んだことないけど『花神』のDVDをお父さんと見たことあるよ」
「『花神』か。……なかなか渋いところいくな。あの話は新撰組とか坂本竜馬とかに比べるとマイナーな主人公だけど、あれもいい作品だった」
日高くんはいつもよりも声を弾ませて答える。それがうれしくてあたしもつい前のめりに話していた。
「うんっ。お父さんが夕ご飯のときに毎日見るから、最初はなんとなく一緒に見てたんだけど。なんだろ、幕末の怒涛の運命みたいなもの?それに飲み込まれながらも精いっぱい生き抜こうとする男の生き様みたいなのが、子供心にもグっときてね。あれ見て親子ですっごい泣いちゃったよ。……でもお母さんには『二人して何号泣してんの』って呆れられちゃったんだけどね……」
「なんかいいな、そういうの。微笑ましくて」
「そ、そうかな?」
「うちは父親、かなり前にいなくなったからさ」
日高くんの父親ってことは、前代の『海来様』ということなのだろうか。いなくなったっていうのは、つまり………。行き着いた結論にあたしが顔を曇らせると、日高くんはそれには気付かなかったフリをして話を続けてきた。
「俺は映像作品は見たことがないけど、原作は読んだよ。『花神』はどちらかというと地味な作品だけど、原作も読んでてここがジーンって熱くなった」
日高くんは自分の胸をトントン拳で叩きながら、どこかうれしそうな顔をして言う。その目は趣味を分かち合う純粋な喜びできらきらしていた。なんだか日高くんに心を開いてもらえたようで、ちょっとうれしくなってくる。あたしも自然とにこにこしてしまうと、あたしを見て日高くんはなぜだか照れくさそうに視線を反らした。
「……っと。悪い、当初の目的忘れかけてた」
そういって日高くんは上にあった愛読書と湯呑をどかすと、文机を両手で掴んで抱え上げた。
「とりあえず早乙女用の机買うまで、これを使ってくれ」
「え、でもそれじゃ日高くんは……」
「文机なら他にもあるから。俺は別の部屋にしまってあるのを使うよ」
「いいの?……ありがとう」
彫刻細工の入った立派な文机で結構重そうに見えるけど、意外に体つきのしっかりした日高くんはそれを軽々と運んで行ってしまう。
(やっぱこの人、ちゃんと『男』なんだなぁ……)
学校にいるときは草食とか軟弱そうとか正直そういう目で見られているし、あたしも申し訳ないことにそんな印象を抱いていたけれど。
(でも胸とか、ちゃんとがっしりした板になってたし。……線細そうに見えて、実は結構逞しい感じなんだよね……)
無意識に今朝顔面に押し付けられた日高くんの体を思い浮かべてしまい、あたしは邪念を払うようにあわてて首を左右にぶんぶん振る。人様のカラダを勝手に思い出すなんて自分がとんでもないスケベになってしまったような罪悪感があるのに、マッパの状態で日高くんに抱きしめられたことまで脳裏に浮かんできてしまい、否応なしにあたしは前を歩く日高くんを意識してしまう。
そんな自分がいたたまれなくなって渡り廊下を通って本館の方へ戻りながら、日高くんの背中から視線を外す。すると少し離れた場所にこことは別に本館の三階に繋がった渡り廊下があるのが見えた。
「ねえ、日高くん。向こうの渡り廊下はどこに繋がっているの?」
「ああ、あれは湯屋だよ。風呂場に繋がってる」
もしかして、あれが昨日ユウキさんが言ってた、三階の露天風呂がある場所なのだろうか。
「広くて使い心地がいいから、あとで早乙女も自由に使うといいよ」
日高くんは文机を抱えながら本館の扉を押し開けた。扉は押さえていないとすぐに内向きに閉じてしまうから、ほんの一瞬だけ渡り廊下に一人残された形になる。そのとき急に足元よりもっと深いところから聞こえてくる波濤の音と、外灯ひとつない真っ暗な海とが五感に迫ってきた。その荒々しさと暗闇の深さに、なぜか背筋がすうっと冷えてくる。
理屈ではなく感覚で、この海や暗闇になにか人ではない『なにか』が息衝いているのだと感じていた。そんな敬意や畏れを抱くほどに、夜の海というのは神秘的でどこかおそろしかった。
「……早乙女?どうした?」
あたしが後をついてこないことを心配してくれたのか、日高くんが開けたドアの隙間からあたしを窺ってくる。
「ううんっ。なんでもない。机、ありがと。ごはんにしようね!」
そういってあたしは慌てて日高くんの後を追いかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます