明日からは花嫁修業です


「おかえりなさいませ、日高比古、ののか様」


 学校が終わって『お邸』に帰ってくると、割烹着姿の梅さんがいて玄関先で出迎えてくれた。


「響さんもご苦労様です」


 梅さんはあたしを『お邸』まで送ってくれた響ちゃんに労いの言葉を掛けるけど、響ちゃんはにこりともせず、澄ました顔のままただその場で一礼した。


「では。私はこれで」

「あっ、響ちゃん、わざわざ送ってくれてありがとうねっ」


 響ちゃんはあたしの言葉にも特に反応を示さず、そのまま神社の敷地内にある斎賀家の居住スペースへと去っていく。その様子を見ていた梅さんは苦りきった顔して呟いた。


「まったく、響さんは本当に愛想の欠片もないのだから。宮司さまも響さんのことをちょっと特別扱いしすぎているのよ。ののか様に声を掛けられたというのにろくに返事もしないなんて、海来神社の巫女としての立場を弁えているのかしらねえ」

「えっ、いえ、友だちに特別扱いとかされたくないんで、あたしが響ちゃんに普段通りに接してって頼んだんですっ」


 思わずフォローめいたことを口走ると梅さんは「まったくののか様も人がいいんですから」と呆れ顔になる。


「そんなんじゃないですよっ、ほんとにあたしが響ちゃんにお願いしたことで……」

「ののか様がそこまでおっしゃるなら、そういうことにしておきましょう。ののか様がお友だち思いだということは十分分かりましたから、玄関先でのお話はこれくらいにして、まずは日高比古に上がっていただかないと」


 お作法には厳しそうな梅さんが目を光らせたので、あたしは慌てて「どうぞっ」と日高くんを促した。


「さて、それでは私はそろそろお暇させていただきます。お夕食のお膳は用意させていただいておりますので、どうぞ召し上がってください。お風呂の支度もいつも通り『社人』の家の者が済ませましたので、いつでもお使いいただけますよ。寝間着は寝室の方にご用意してあります」

「ああ、分かった」


 梅さんが割烹着を脱いで帰り支度を始めるので、あたしは思わずその背中に声を掛けた。


「あのっ。梅さん、今日一日お疲れ様でしたっ!!……えっと、あたし今からお茶淹れますから、ちょっと飲んでいかれませんか?」


 日中ずっと『お邸』で家事を執り仕切っていたらしい梅さんに何かお礼がしたかったのだけど、言ってから気が付くことがあった。


「あっ!……と言っても、あたしまだ、このお家のどこにお台所があるのかも知らないんだけど……。でもすぐに用意しますからっ」


 言ってて恥ずかしくなって俯くと、梅さんと日高くんが笑う気配がした。


「日高比古。やさしい心遣いの出来るいいお嬢さんじゃありませんか。あなた様の女を見る目は確かなようですね」

「それはどうも。それに免じて明日から早乙女のこと、お手を柔らかに願えないか?」

「それとこれとは別問題ですよ。私にはののか様をどこへ出しても恥ずかしくない奥方に教育する義務がありますからね。恨まれる覚悟でご指導させていただきます」

「………やっぱりな。梅は安い情になんて流されず、必ずそう言うと思ったよ」


 あたしのよくわからないところで二人が会話をしていく。なんだか除け者扱いされてるみたいで居心地悪く思っていると、梅さんがにっこり笑って言った。


「お気遣い痛み入りますが、私は今日はこれにて失礼させていただきます。……『斎賀』や『社人』の家の者が『お邸』のお世話をさせていただくのは日中だけで、必ず日没までには『お邸』からお暇しなければならないのは、古くから決まっていることなのですよ」

「そうだったんですか。……引き止めしたりしてすみません」

「いえいえ。私のような下級仕えの者にまでお気遣いくださり、ののか様のお人柄になごませていただきました。私は明日からはののか様に少々厳しいことも言わねばならない立場ですが、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします」


(明日からって?どういうこと?)


 ふと『神婚』の前に響ちゃんから『伉儷の儀』をするために『お邸』に寝泊りしている間、あたしはお料理お裁縫などの家事から礼儀作法まで、『社人』の家のおばさまやおねえさまたちから仕込んでもらうのだと説明されたことを思い出した。今日は儀式が開けた一日目だったから免除されたみたいだけれど、明日からは梅さんのスパルタな花嫁修業がはじまるようだ。


「こちらこそっ。よろしくおねがいしますっ」


 自然と緊張で背筋がぴんと伸びて、そのまま深々梅さんに一礼した。


「では明朝四時半にお台所の前の『松の間』でお待ちしておりますので、身支度を済ませて定刻までにお越しくださいね」

「……四時っ?朝の!?……そんなに早くですか?」


 あたしが驚いて尋ねると、梅さんはにっこり笑った顔の下で何かを含んでいるような表情をして言った


「7時40分にご登校なさるまでに、朝食とお弁当の用意に水場の後片付け、お洗濯に寝具の収納も終わらせなくてはなりません。それにもちろん、旦那様である日高比古のお着替えや身の回りのお世話も明日からはののか様にしていただきます。四時半から始めるのは決して早すぎるとは思いませんが?」

「………う、……おっしゃるとおりです………」


 登校前にこなさなければいけない仕事がそんなにもあるのか。なんだか花嫁修業って思っていた以上に大変でガチな感じでやるみたいで、正直、もうすでに話聞いてるだけでメゲそうだ……。


「早乙女」

「……はい?」

「そういうわけだから。明日から花嫁業、がんばってくれ」


 そんなことをいいつつ、日高くんは先に自室のある階段を上って行ってしまう。なぜかその足取りは妙に軽やかに見えるし、表情もどこか上機嫌そうに見えた。


(あたしが明日から大変な思いするっていうのに、なにあの人笑ってるの……?)


「もう、日高くんってば他人事だと思って面白がって……っ!!」


 たのしそうに目元を綻ばせていた日高くんにカチンときてしまったあたしだけど、梅さんはおかしそうにくすくす笑いだす。


「日高比古も、やはりまだまだ可愛らしい思春期の男の子ですねぇ」

「え?」

「最近は気を塞いでいらっしゃることが多かったのに、あんな顔をされるなんて……」


 梅さんは日高くんが上がっていった階段を見つめながら、どこか感慨深げな顔をする。


「……正直日高比古が『神婚』を執り行うとお決めになったときは、やむにやまれぬ事情があるとはいえ、花嫁御寮をお迎えするにはまだ早すぎるんじゃないかと思っておりました……けれど今の日高比古には、ののか様がお傍にいらっしゃることは必要なことだったのでしょうねえ……」


 ほとんど独り言のように呟いてから、梅さんは思いがけないくらい真剣な顔をして頭を下げてきた。


「ののか様。私のようなものが言うことではないと重々承知しておりますが、日高比古のことをどうかよろしくお願いいたします。それと先ほどの日高比古の態度は、決してののか様のことを面白がっていらしたわけではありません。浮かれていたのですよ」

「……浮かれて?日高くんが?……なんでですか?」

「それは決まっているでしょう。あの方も年頃の男児ですからね。明日の朝食にののか様の手料理が食べられることが、今からうれしくてうれしくてしょうがないのですよ。お昼にはののか様の手作り弁当も食べられますしね」


(え。……さっきのって、イヤミとかじゃなくて、そういう反応だったの……!?)


 あたし、料理特別上手じゃないし。おいしいもの作れるかどうかなんてわからないのに。


(それなのにあんな反応してくれちゃうわけっ!?)


 そう思った途端に顔がかぁっと熱くなる。あたしは赤くなった顔を「お二人とも初々しいご夫婦ぶりでほほえましいですね」なんて揶揄われつつ、日没の暗くなる前に梅さんを見送った。






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