2章 嫁入り当日 【朝~夕方】

蒼真珠の彼


(あの日。7歳のあたしを助けてくれたあの男の子は、やっぱり神さまだったのかな……?)


 豊海とよみの海にはカイライ様だけじゃなくてその眷属神もたくさんいるのだと海来神社の巫女のおねえさんから聞いたことがあった。あの子もその神さまのひとりだったのかもしれない。


「…………あの子の名前、聞いておけばよかったなぁ…………」


 呟いてから、あたしは自分の声にびっくりしてはっと目を覚ます。


「……あれ、もう朝……?」


 お布団被ってそのまま二度寝しようとして。でも今日は絶対に寝坊してはいけない日なんだってことを思い出してばっと起き上がる。部屋の時計を見ると、アラームをセットした時刻のちょっと前だ。ベッドを下りて勢いよくカーテンを開けた。明け方の空は予報どおりの快晴。この家からは海は見えないけど、窓をすこしだけ開けると波の音は聞こえてくる。


(ひさしぶりに見たな。あのときの夢)


 9年前、あの男の子と出会った日。


 たしかにひとりで海に行ってあの男の子と出会ったはずなのに、あたしはいつの間にかおじいちゃんの家に戻っていたらしく、縁側で眠りこけているところを神社から帰ってきたおばあちゃんとお母さんに起こされた。海でびしょ濡れになったはずなのに、なぜか着ている服はどこも濡れていなかった。

 こんなところで寝ていたら風邪を引くでしょう、とお母さんはお説教をはじめたけど、あたしはあの男の子と会ったことが夢だったってことにショックを受けてお小言なんて聞こえていなかった。


「……っと。のんびり思い出してる場合じゃなかった……!!」


 実は今日はとても特別な日だ。大変な1日になるって村の人たちから聞いている。なんたってこの豊海村で『秘祭』といわれている数十年に一度の神事が執り行われるのだ。しかもなぜかあたしはその神事の主役のひとりに選ばれてしまっている。


「早く顔洗って、お母さんに衣裳の着付けお願いしないとっ」


 早くも緊張してきてしまったあたしは、枕元に置いてあったちいさな巾着袋型の匂い袋を手に取る。それからそれをぎゅっと握り締めながら、胸の中で祈った。


(どうか今日の『花嫁役』が無事に務められますように……)


 この匂い袋の中にはお香を詰めたちいさな袋と、あともうひとつ『あるもの』が入っていた。ちりめん生地の巾着の口を開いて逆さにすると、手のひらに『あるもの』が転がり出てくる。


 あたしの手の中で神秘的な蒼い輝きを放っているのは、大粒の『蒼真珠』だ。


 あの日、縁側で寝ていたあたしの手のひらの中に、ぎゅっと握られていたものだ。それは間違いなく、あの男の子の目からこぼれ落ちたものだった。



『ねえねえ!ののか、今日、神さまに会ったんだよっ!』


 7歳のあたしは手の中にある蒼真珠をみつけたとき、うれしさのあまり帰ってきた家族みんなにそう言って、あの男の子に会ったことが夢じゃなかった証拠に蒼真珠を見せた。でもその蒼真珠は、なぜかあたし以外の誰の目にも見えることはなかった。


『……うそじゃないもん。蒼真珠、ほんとにここにあるんだもんっ』


 あたしが泣き出すと、おじいちゃんは老眼鏡を外してじいっと目を凝らした。


『たしかに、じいちゃんの目にはのんちゃんの手の中に“何か”があるのが……丸い輪郭だけはぼんやり見えるぞ』


 そういっておじいちゃんがぱちぱち瞬きをすると、今度はおばあちゃんがあたしが持っていた蒼真珠に指を伸ばしてきた。


『あらま、ほんとうだねえ。おばあちゃんにはなぁんにも見えないけど、不思議だねえ、ここに丸い感触がするよ。のんちゃんはたしかに丸い“何か”を持ってる。……いいねえ、のんちゃんは見ることも触ることも出来るんだねぇ』

『本当になあ。神さまがくれた蒼真珠なんて、さぞきれいなんだろうね。じいちゃんも見てみたかったよ』


 おじいちゃんとおばあちゃんが信じてくれたのがうれしくて、もう一度お父さんとお母さんに見せに行ったけど、ふたりにはやっぱりどうしても見ることも触ることも出来なかった。なんでなんだろうと落胆していると、おじいちゃんは言った。


『おじいちゃんたちはな、もう側に近いから見たり触ったり出来るのかもなぁ……』


 7歳のあたしにはよく意味がわからなかったけど、そのときおじいちゃんの体は癌に冒されていたらしい。おじいちゃんを追うようにして亡くなったおばあちゃんも、そのときもう近くまで“お迎え”が来ていたのかもしれない。


 最近になって巫女さんを務めている学校のともだちに聞いたことだけど、この豊海村の村人は、天命が尽きようとしている頃になると、それまで見えなかったモノが急に見えるようになったり、聞こえたり、感じたりと、いわゆる第六感や霊感といわれるものが鋭くなるひとが多いらしかった。

 豊海村で生まれ育ったおじいちゃんたちは、たぶんそのことを知っていたんだろう。


………自分たちの命が、もう長くないことを。



「………あーもう……今日は『ハレの日』なのに………」


 だいすきだったおじいちゃんとおばあちゃんのことを思い出すと、今でも涙がじわじわ滲んでくる。神さまから貰った蒼真珠をなくさないようにと、この匂い袋を作ってくれたのはおばあちゃんだった。

 おじいちゃんもおばあちゃんも、海で神さまに会ったことも、この蒼真珠のことも、むやみやたらにひとに話したり見せたりしてはいけないとあたしに言った。


 あの男の子があたしの前にだけ現れたということは、あたしが特別に神さまに選んでもらえたからであって、神さまはあたし以外の人間に姿を見られたり存在を知られたりすることは望んでいないだろうからって。


『いいかい、のんちゃん。今日は神さまが特別に助けてくれたけど、もうひとりで絶対に海に行ってはいけないよ』

『じいちゃんとばあちゃんと約束してね。蒼真珠はいつか神さまにお返しすることになるかもしれないから、自分のものだとは思わずに大事にお預かりしておくんだよ』


 そう言っていたふたりは、それから間もなく他界した。


 この豊海村では、天国は空の上にではなく、海の彼方にあると信じられてきた。お葬式のときは、紙で折られた船に死んだ人の魂を乗せて海に送り出す。

 豊海の浜辺から紙船を流すと、まるで海のどこかにある『異界』に導かれるように船は沖へと進み、ある地点まで行くと必ずすっと海に飲み込まれていくらしい。紙船が海に飲み込まれるところを見ると、一緒に“異界”へ引き込まれてしまうから、絶対に見てはいけないと言われている。


 でもあたしはおじいちゃんを亡くしたとき、あまりにも悲しくて、おじいちゃんの魂が遠い遠い海の向こうに消えてしまうのがさびしくて、つい沖に向かう紙船から目が離せなくなってしまった。

 けれどそのとき不意に強い風が吹いて、握りしめていた匂い袋を砂浜の上に落とした。それを拾ってまた海を見ると、もうそこにはおじいちゃんの紙船はなかった。


 子供心にも、その風が吹いたのは偶然じゃないと思った。おじいちゃんが守ってくれたのか。それともあの男の子がまたあたしを守ってくれたのか。

 あたしは『守ってくれてありがとう』と『また言いつけを破りそうになってごめんなさい』と唱えながら、匂い袋を、そしてその中にある蒼真珠をぎゅっと握りしめていた。




「……なんか今朝はやたらとあの子のことを思い出すなあ……」


 あのこわいくらいきれいだった男の子とは、あれから一度も会えていない。


 海来神社にお参りに行くたびに、『もう一度会えますように』ってお願いして、『いつか蒼真珠をお返しするので、あたしのところに取りに来てください』って何度も唱えたけど、その望みは叶っていない。それでもあたしは、いまだにあの男の子のことを忘れられずにいた。だってあたしを助けてくれたあの子は、あたしの大事な大事な初恋の相手だから。


 特別な『神事』が執り行われる今日、海の神さまだったかもしれないあの初恋の彼のことを何度も何度も思い出すのは当然なのかもしれない。


 だって『花嫁役』に選ばれたあたしは、今日この豊海村で古くから海の神さまとして祀られている『カイライ様』と結婚をするのだから。






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