1章 出会いの海

9年前の夏

《 9年前の夏 》


「せっかくおじいちゃんのお家にきたのに、誰もあそんでくれないなんてつまんないっ」


 7歳のあたしは、その日ひとりフテ腐れて夕暮れの小道を歩いていた。


 小学校に入ってはじめての夏休み、あたしはめったに会えない田舎のおじいちゃんの家に来ていた。お父さん方の祖父母が住んでいるのは、あたしの家がある東京からは遠く離れた海辺にある豊海村とよみむら。自然豊かなこの村へ来る日を、あたしはずっとずっと楽しみにしていた。


 あたしを可愛がってくれるおじいちゃんと、いつもやさしいおばあちゃんに会えるのはもちろんうれしいけれど、同じくらい豊海の海が恋しかった。豊海村の浜辺から眺める海はとてつもなく壮大で、ただただきれいで、あたしは一目見たときからだいすきになっていた。

 新幹線や電車を乗り継いでいる間も、早くみんなと海に遊びに行きたいな、浜辺で砂遊びをしたいな、磯の方で小魚とかヤドカリを捕まえるのもいいな、でもやっぱり海で水遊びするのがいちばんたのしいよなって、ずっとそんなことを考えてわくわくしてた。


 なのにこの年は村に到着するなり、あたしはおじいちゃんの家でひとりぼっちにされてしまった。というのもあたしたちが到着する一日前、ちいさな豊海村でなにか事件が起こったらしく、いつものどかな村はどこか異様な雰囲気につつまれていた。

 あたしの家族も血相を変えて『なにか』を報せにやってきた村のおじさんに呼ばれて、子供のあたしを置いてみんな慌てて出て行ってしまった。

 おじいちゃんは『寄合よりあい』という村の話し合いをする会に参加するため集会所へ。お父さんは村の自警団や消防団なんかの役割をしている『若衆組』って呼ばれている青年団の本部へ。おばあちゃんとお母さんは、この村の守り神である『カイライ様』が祀られている海来神社へ。


 おじいちゃんたちだけじゃなく、村の大人たちはみんな怖い顔をして村のあちこち走り回っていた。何かただ事ではないことが起きているようだけど、子供のあたしに説明してくれる人はいなかった。


 一度おばあちゃんがあたしに昼食用のおにぎりを届けに来てくれたけど、あたしが「なにがあったの?」って聞いても、「のんちゃんは、お家でいい子で待っててね」とだけ言ってまたすぐに神社に戻ってしまった。


 お気に入りのうさぎのリュックに詰め込んできた夏休みの宿題のドリルも読みかけの児童文庫もパズルゲームにも飽きてしまって、いい加減退屈でしょうがなくなったあたしはおじいちゃんの家から飛び出した。そして村の大人たちの言いつけを破り、ひとりですぐそばにある豊海の海に向かった。


 あたしはちいさい頃から、おじいちゃんたちからもお父さんたちからも『子供一人では絶対に海に行ってはいけない』ときつく言われていた。まして夕暮れの時刻、『黄昏』の時間を迎えた海には決して行ってはいけないと。


『なんでだめのなの?』


 前にお母さんに聞いたときは、砂に足を取られて転んで溺れそうになったり、突然起こる高波にさらわれたり、海は思わぬ事故が起こりやすい場所だからだめなんだと言われた。


『まして夕暮れ時は周りが暗くなって足元がよく見えなくなるから、ののかみたいなまだまだちいさな子供には危ないんでしょうね』


 お母さんはそう言っていたけど、豊海村で育ったひとたちはみんな、都会育ちのお母さんが言ったこととは別の理由で『夕暮れの海』が危ないのだと言い、豊海の海をおそれていた。


『あのなぁ、のんちゃん。豊海の海はね、昔から神様のいる“異界”と繋がっていると言われているんだよ』


 あたしを膝の上に乗せて、そう教えてくれたのは、生まれも育ちも豊海村のおじいちゃん。


『イカイ?ってなあに?』

『人間がいるこの世とは別の場所にある、神様がいらっしゃる世界のことだよ』

『へぇー。じゃあ豊海の海のどこかに、神さまが住んでいるんだね!だから豊海で見る海はどこの海よりきれいなんだね!』


 あたしの無邪気な言葉に、おじいちゃんは苦笑した。


『ああそうだよ。普段は異界へ続く入り口は固く閉ざされているから、誰もその入り口がこの広い海のどこにあるのか知らない。けれどその入り口は夕暮れ時にだけ、ちょっとだけ開くと言われているんだよ』

『そうなんだぁ。ののかも見てみたいなぁ、だってその入り口からのぞいたら神さまがいる世界がののかにも見られるんでしょ?』


 竜宮城のような場所を想像してあたしがそう言うと、途端におじいちゃんの顔が強張った。


『ののか!そんなことは絶対に口にしてはいけないよ!』

『えー。なんで?』

『海の神様たちの中には気に入った人間を自分たちの世界に連れて行こうとする神様もいるからだよ。だから黄昏時の海には決して近づいてはならんのだ。ましてののかみたいな神様も一目で気に入ってしまいそうな可愛い子供は絶対にダメだ。夕暮れの海には一人で行かないとおじいちゃんと約束しておくれ』


 その話は、幼心にもとても怖い話だった。


『………海の神様って、大鳥居のある奥の神社のカイライ様のことだよね?悪い妖怪じゃなくて、そのカイライ様が海の向こうに人間を連れて行っちゃうの?』


 学校で読む昔話や怪談に出てくる人間に悪さをするものの正体は、たいてい鬼とか妖怪とか祟り神とかだ。なのにこの豊海の海では、村のひとたちが昔から大事に神社に祀っている海の神さまが人間を海の中にさらってしまうなんて。

 カイライ様ってなんてひどい神さまなんだろうと、あたしは怒りがわいてきた。


『ののか、カイライ神社のきれいなお守りも、カイライ様の夏祭りも、いままでだいすきだったけど、もうきらいッ。カイライ様って、人間をゆうかいする悪い神さまなんじゃんっ!!』


 神さまに怒りをぶつけるあたしに、けれどおじいちゃんは諭すように言ってきた。


『ののかは、“異界”はどんな場所だと思うかい?』

『え?神さまの国?…………わかんないよ』


 あたしの言葉におじいちゃんは笑った。


『おじいちゃんもな、まだ“お迎え”が来ないからがどんな場所か分からない。けれど古い言い伝えではね、カイライ様たち海の神様が暮らしている異界というのは、竜宮城のようにうつくしくて、極楽浄土のように素晴らしい場所だといわれているんだよ』

『……それって、豊海の海より、もっともっときれいな場所なの?』


 おじいちゃんは頷く。


『だからきっと海の神様はね、この苦しみにあふれた人の世を哀れみ、せめて自分の目に留まった者だけでも争いや苦しみのない“神の国”に連れて行ってやろうと、そういう慈悲の心で人を攫って行かれるんだよ。……決して人を怖がらせたり悲しませたりするためになさっているんじゃないんだ。だからこの村の守り神様を嫌いだなんて言っちゃいけないよ』


 おじいちゃんにそう説明されても、あたしはやっぱり釈然としなかった。だっていきなり家族とも友達とも引き離されて全然知らない世界に連れて行かれるなんて。そこがどんなに平和でうつくしい場所だとしても、あたしなら絶対に嫌だからだ。



「おじいちゃんやおばあちゃん、お父さんやお母さんに二度と会えなくなるなんて、そんなことがしあわせであるわけないよ……!」


 そう強く思ったところではっと気が付く。


(え?波の音がする………!?)


 思わず顔を跳ね上げると、あたしのすぐ目の前には海があった。遠く沈んでいこうとする夕日に照らしだされた、暗くて赤い海。それは昼間の太陽の光が降りそそいで輝いているときとは、全然別物のように見える。


「あれ、うそ、なんで………??」


 あたしは物思いに耽っているうちに、いつの間にかおじいちゃんの家の近くの道から、浜辺まで歩いて来ていたらしい。本当は砂浜まで下りずに、国道から遠目にちょっとだけ海を眺めておじいちゃんの家に帰ろうと思っていたはずなのに。気付けばあたしは砂浜の中にいた。周りには誰もいない。


『ののかが豊海の海を気に入ってくれているのはとてもうれしいんだけどね。そういう子ほど、ことがあるといわれているから、よく気を付けるんだよ』


 突然、前におじいちゃんにいわれたその言葉を思い出す。言われたときは意味がよく分からなかったけど、あたしはその意味を正しく悟って背筋を震わせた。


-------だってあたしは今、いる。


 まるであたしと海とがたくさんの見えない糸で繋がれていて、その糸を誰かの手がぐいぐいと手繰り寄せているかのように、あたしの足は勝手に海に向かって動いていた。


「な、なんで……?」


 あたしの体はどんどん海に引き寄せられていった。


「……いや……どうして…?………いきたくないよ……っ」


 心とは裏腹に、あたしの足は海へ海へと向かって進んでいく。あたしは止まることも出来ずに波打ち際まで来て、スニーカーを履いた足は海に踏み入っていく。


「ひっ……!!」


 夕暮れの海水は無慈悲なほどつめたく、あたしの身体はますます震えていく。


「………だ、だれか……っ…」


 助けてって叫びたいのに思うように声が出てくれない。そうしてる間にも足は勝手に海へ向かっていく。足首が水中に沈み、それでもまだ止まらずに沖を目指すように足が進んでいき膝までも完全に海の中に浸かった。そのときだった。


「っきゃあッ!!」


 いきなり誰かに足首を掴まれてあたしはその場に転んだ。慌てて海中で手をつくと、今度はその手も掴まれる。


「やだぁッ何なのッ!?」


ここ、海の中だし。誰かに足首とか手首を掴まれるとか、ありえるわけないのに。でも海水の中であたしを掴んでいるのは、たしかに人の手だ。海水よりももっと温度の低い、心臓がぞっとするほどつめたい手。その手の指が一本一本あたしの足首と手首に巻きついている。

 目を凝らして見つめても水中には何も見えないし、そこには透明な海水と波に巻き上げられた砂や水泡しか見えないのに、あたしを海の中へと引きずり込もうとする手の感触ははっきりとする。


「………やめてぇッ……離してよっ…」


 あたしを海に引き込もうとする力が強すぎて、足先がずるずると海の中の砂に飲み込まれていき、あっという間にふくらはぎまで埋まってしまう。長く伸ばしたポニーテールの毛先が海面に触れると、それも見えない手に掴まれて水中に引っ張られる。

 あたしを掴む無数の手が、あたしを“異界”に連れて行こうとしているのは間違いなかった。


(いやだよっ……おとうさん、おかあさんっ……助けてっ)


 おそろしさのあまり声が出ないし、体も動いてくれない。


(………言いつけを守らなくてごめんなさい、おじいちゃん、おばあちゃぁん……っ!!)


 胴体までがどんどん砂の中に引き摺り込まれていく。


(いやだっ、こわいよぉっ……あたしは行きたくないっ……連れて行かないでッ!!)


 ついには顎から下が海中に取り込まれた。ぼろぼろこぼれる涙で濡れた顔が水中に沈もうとした、その直前。


「『去れッ』」


 すぐ傍で鋭い声が発せられた。凛とした、きれいな声だと思った瞬間、あたしの体は完全に海の中に沈んだ。けれどそれも束の間。海水と砂に埋まりかかっていたあたしは、誰かに腕を強く掴まれ、すぐに海から引き揚げられた。

 あたしとあたしを助けてくれた誰かは、海から上がる勢いのまま、一緒に砂浜の上に転がりこんだ。


「ごほッ……うッ……ごほッ……っ」


 海水を飲んでしまったあたしは浜辺に蹲ったまま咳き込みまくった。でもそれが落ち着くとあたしは正面にいるあたしを助けてくれた相手に視線を向け、その瞬間おおきく息を飲んだ。あたしの目の前にいたのは、ぞっとするほどきれいな男の子だ。


 艶やかな黒髪。左右対称の大きな目、品のあるかたちの眉に、瑞々しい色味のくちびる。均整のとれた手足は長く、なめらかな肌はまるで内側から光を放っているかのように輝いている。

 男の子は和服に似た形の長着に、きれいな瑠璃色の帯を締めた神秘的な服装をしていた。背格好だけ見れば、歳はたぶんあたしと同い年くらいだ。


 その顔立ちのきれいさも、着ているもののうつくしさも、あまりにも人間離れしていて、霊感だとかそういう力が一切ないあたしでも目の前の男の子が人間ではないと見抜けてしまえた。それほどまでに圧倒的な、おそろしいくらいのうつくしさだった。


(………こわい)


 そう思うのにあたしの目は男の子に釘付けになっていた。だってあたしは1度視界に入れてしまったら2度と目が離せなくなるような、そんな彼の美貌に一瞬にして虜になってしまっていたから。

 おそろしいめにあったばかりだということも忘れてうっとりと見つめ続けていると、男の子と目が合った。彼の方も、なぜかあたしから目を逸らしたりせずにじっと見つめ返してくる。


 そのきれいな目を見ているうちに、不思議と心がしあわせな気持ちでどんどん満たされていく。

 指を一本一本絡めて手を繋いでいくように、あたしの視線と男の子の視線がしっかりと結ばれていき、あたしと男の子との間で視線だけではない『なにか』が繋がっていくのを感じた。

 それは言葉では説明のできない、すごく不思議でしあわせな感覚だった。ただお互いに見つめ合っているだけですべてが満たされるような。そんなうまれて初めて経験する感覚にあたしは夢中になっていた。


 しばらくしてあたしは、この子がこわいけど、おそろしいのはこの子のうつくしさであって、あたしはこの子自身のことが怖いわけじゃないってことに気付く。


(この子はこわい目なんてしてないし。それにこの男の子は、“異界”に連れていかれそうになってたあたしを助けてくれた)


 そんな彼にどうしてもお礼がしたくて、あたしは話しかけていた。


「その目、どうしたの?」


 目の前にいるこわいくらいきれいな男の子の目は真っ赤になっていた。この目は、ずっと泣き続けていたときの目だ。


「……なにか、かなしいことがあったの?だいじょうぶ?」


 彼の顔を覗き込むと、男の子はきょとんとした顔になる。それもそのはず、助けられたあたしが助けてくれた彼を心配するなんて、なんかセリフがあべこべだ。


「あの、そうだ。……ののかのこと、たすけてくれてありがとう!えっと、ひとりでないてたの?だったらののかがそばにいてあげるから、もうだいじょうぶだよ!あとね、またなきたくなったら、これを使って!」


 そういってスカートのポケットに入れてあったハンカチをはりきって取り出す。けれどお気に入りだったウサちゃん柄のそれは、当然、海水にひたってびしょびしょになっていた。


「あ、ごめん。これ、使えなかった………」


 あたしががっくり肩を落とすと、その様子が面白かったのか、男の子はぎこちなくだけどあたしに笑ってくれて、あたしの手から濡れたハンカチを抜き取った。

 男の子がそれを自分の目頭に当てると、うるんでいた彼の目から涙がこぼれた。きらりと光ったそれは、彼の頬をすべり落ちる間にまんまるの形になり、宝石のようにきらきら輝きだす。

 それは彼の手の中に落ちると、豊海の海だけで育つと言われている翠碧貝すいへきがいから生まれる『蒼真珠』とそっくりな結晶になった。男の子はその結晶を指でつまんで、あたしの目の前に突き出して見せてくれる。


(きらきらしてて、なんてきれいなんだろ)


そう思うのと同時にあたしは確信する。


(なみだが『蒼真珠』になるなんて、やっぱりこの男の子は人間じゃないんだ)


でもあたしはやっぱりこの男の子のことがこわくなかった。


「すごくきれいななみだだね」


 あたしがそういって笑うと、男の子もにっこり笑ってくれる。あたしは彼を見つめる。彼もあたしを見つめる。ずっとずっと、あたしたちは夕暮れの海辺で長い時間そうしていた。



この時間がずっと続けばいいのにと願いながら。








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