第二話:異形の才花(4)
夜の松林の中に踏み込んだとき、渥美はえも言われぬ不安感に囚われた。
戦人の勘、とも言って良かった。
追撃の最中、足を止めた胞輩の異変に気づいた佐咲が軍馬を止めて「どうした」と問う。
「いや、妙だと思わんか」
「妙?」
夏、巳の月のぬるい風が頬を撫でた。
この辺りの土地は水はけが悪く、数日前の雨の湿気が、まだ土に蓄積していた。
ざわざわと揺れる赤松の樹により、道は二つに枝分かれしている。
そのどちらかを敵が通ったとしても、いずれも中橋街道という大路に続く。このまま一気に突っ切れば、環を捉えることができるはずだった。
それでも、渥美は嫌な予感を拭いきれずにいた。
――場所が悪すぎる。
閉所暗所で見通しが悪く、兵を展開させる空間的余裕さえない。
それに敵には勝川舞鶴がついているだろう。希代の軍師が、ここで何か仕掛けてこないはずがない。
「あるいは進路に兵を伏せているのやもしれん」
「……ありえるな」
顎をつまんで佐咲は同調した。
「しかし伏兵いたとして何ほどのことやあらん。一気に突破してしまえば良いではないか」
「……それも手だが、敵には鉄砲がある。一方の我らは敵が小勢と侮り、出し惜しみしてしまった。もし舞鶴がこの隘路に鉄砲部隊を潜ませていたら」
脳裏をよぎるのは、最初に環を取り逃がした時のこと。
同様の光景を思い出したのか、佐咲もまた、苦い顔をしていた。
「そして何より、地面を見ろ」
「……っこれは」
足跡を見れば逃走路は判明するはずだった。
問題はその足跡だ。
両方にある。
「これをただやみくもに二手に分かれたと見るべきか?」
「……いや、軌道に迷いがなさすぎる。計画されたうえでのことだろう。確実に何かを仕掛けてくる。で、佐咲。お前はどちらの道に伏兵がいると思う?」
左の道の足跡は多く、右は少ない。
――ふつうに考えれば兵を動員した分足跡が多い左に兵がいて、環がそれに守られている。だが、その伏兵そのものが足止めであり、環自身はそこから分離していたとしたら、あるいは伏兵は陽動で、右の道から脱出していたら? あるいはその両方……いやそれはない。安全を期してそうするならば、両方に同数の兵を二分しているし、なにより兵力を分散させることになる。そんな下策をあの舞鶴が採るとも思えない……
渥美の沈着な思考は続く。
――こうして我らを逡巡させ、時間を稼ぐことこそ本来の目的で、環自身はとうにこの林を突破しているか? ……偵騎の報告によれば、確かに二集団が先行して脱出をはかっているという報があるが……
渥美はずぶずぶと深みにはまる思考の中、強く瞑目した。
さっさと結論を出さなければならなかったが、慎重を期さねばならない。
だが、その鼻先に異臭がチラついた時、瞼の裏でカッと閃光のようなものが瞬いた。
「ふ、はははは……っ、生ける伝説衰えたり! 伏兵右道にあり!」
にわかに大笑し、確信した同朋に、佐咲は不審の目を向けた。
「わからんか? 右の道から漂ってくる火薬……火縄の臭いを」
佐咲は鼻を動かし「確かに」と呟いた。
「銃が発する異臭にも気づかんとはな。やはり山に引きこもっていれば流行の玩具を手にしても扱いはわからないらしい。それに足跡をよく見てみろ。一見して数は少ないように思えるが、その足跡の上からさらに何度も踏みつけたようにも見える」
「だが、とすれば肝心の鐘山環はどちらの側にいるだろうか? あるいは既にこの場から離れているのではないか?」
「……いや」
寸刻の思考のうえ、彼はそれを否定した。
「聞けば環はあの市で馬を奪うべく突出してきたという。まだまだ血気にはやる小童、民の殿軍を気取ってまだ林にいる可能性が高い。……それに、だ」
渥美はその太い指で再び土の一点を示した。ただ一つ残った、馬の蹄の痕跡を。
「だが、確かにお主の言うことにも一理ある。万難を排しておくとしよう」
「ならば、どうする?」
「こちらも兵を二手に分ける」
自分たちの背後、ずらりと並んだ騎兵を眺めながら、渥美は言った。
「一手は俺、一手は佐咲、お主が指揮をとれ」
「おう、承知した」
「ただしその手勢を割いてもらいたい。そうだな、お主が三、俺が七割の兵を率いる」
剛直な佐咲の、花崗岩の如き顔の色が怒りと不満で赤く熱する。
それをやんわりと手で制止、渥美はその理由を説いた。
「いや、我が身の命惜しさに言うのではないぞ。むしろ俺が、その伏兵に対処しようというのだ。お主はむしろ本隊として軽兵を率いて環を討つ。あるいはこちらに環がおればそのまま敵の陽動部隊なりを突破し、愚民を蹴散らしながら背後に回り込んで挟撃する。そうすれば、我らもこの隘路を十分に活かすことができるというわけだ。どうだろうか?」
「うむ。それは良い案だ。……しかし良いのか? その大功を頂いても」
「なぁに、最初に約束したではないか。『お主に環の首級を譲る』と。もっとも、もし伏兵の中に環が潜み、直にその指揮をとっていれば、そのまま俺が討ってしまうがな」
「こやつめ」
佐咲が冗談めかしく渥美の具足を叩く。その顔色に、先刻までの不満は残ってはいなかった。
そして彼らは頷き合い、七と三の手勢を率いて、林の闇へと立ち向かう。
~~~
……幡豆由基は闇と木々と土の臭いに包まれて、そこに隠れていた。
羽虫がその周りをうろつくが、神経を研ぎ澄ます由基はまるで意に介さない。
羽音を縫って、馬の足音が聞こえた。
――数から見るに、舞鶴殿の読み通り、か。
手探りでえびらの中より、矢を抜いた。
手にした弓は竹製ではなく、牛角、牛筋を主体とした伝来の合成弓。
古来より順門府一帯は自生する竹が異様なまでに少なく、一部隊の弓兵の比率は他国に比べて著しく低いとされている。
だが生産性に乏しいというだけであり、それがそのまま弓兵の脆弱さにあたるということにはならないが。
――もっとも、それも銃とやらに取って代わられつつあるがな。
何しろ鉄砲に必要な上質の鉄や木材は豊富に手に入るし、射程も遙かに長い。どのみち手間がかかるということであれば、こちらに力を注ぐだろう。
だが、物は使いようだろう、と由基は思う。
――特に、オレの弓はどんな名器にも勝る。
……瞼を開き、世界は開く。
弓兵の見る光景は、目を閉じる前のそれとは大きく異なっていた。
闇の中にあったその松林はさながら蛍の灯りに照らされたかのように下からぼんやりと明るく発光し、隅々まで見通せる。
そしてその薄明かりの中を、より目映い一本の軌道が、弧を描いて目に映り込んでいる。
それが幡豆由基だけが見ることの適う、幻想的な光景だった。
環の目が青いように、
舞鶴が不老であるように、
あるいは銀夜が銀髪であるように、
この神官の子には、それに相応しい、特殊な知覚を持っていた。
幡豆由基には、矢の向かう先が視覚として読み取ることができた。
弦や淵をしならせ、握力の強弱によって、目安の飛距離の長短が決まり、わずかな風向きの変動さえ、その視覚は取り入れて細かい方向修正までしてくれる。
こうした特異な体質の持ち主は
覚醒する時期は先天的に、あるいは十歳前後に後天的に、と二つに分けられるが、この神子の場合は前者だった。
武を司る盤龍神を崇める幡豆家においても、おそらくは歓迎されるべき体質だろう。
だが由基はその力の存在を流天組はおろか、実家にも話してはいなかった。
――こんな力、人殺し以外の何に利用できるってんだ。そんなんで神様扱いされるなんて、ごめんこうむるね。
とは内心の弁。
――だったら有効な場でそれを使うだけだ。例えば、こんなところでな……
援軍がいるか、という舞鶴の申し出に対し、「一人で十分だ」と断ったのは由基自身だ。
――それにもしオレがしくじってここで斬り殺されたとしても、あいつが……ん?
あいつとは、誰のことだろう? 自分は今、誰を思い描いた?
だが由基がその答えを見出す前に、神子の『弓矢』はすでに敵を捉えている。
その狙いに、寸分の狂いもない。
さながら彼らは長蛇であったが、鉄の鱗で覆われた蛇であった。
その重量ゆえに本来機動的な陣形は、鈍重にズルズルと、地面を這って進む。
五騎並ぶのがやっとの道幅を、神経を尖らせながらその一団は進んでいた。
長蛇の陣と言えば聞こえは良いが、狭い道である以上は細くなって進むよりほかないがゆえの陣形であった。
だがもし敵の伏兵が両脇から討って出てきたとしても、容易に分断できないように中心を精鋭で固めていたし、斥候を飛ばして警戒していた。
松明を手に暗がりを照らし、敵兵の有無を探りながら
「良いか、周囲に必ず兵が伏せられている。木々の闇という闇に目を凝らし、これを見つけ次第蹴散らせ。ただし深追いをする必要はない」
「いっそ大渡瀬同様にこの林を焼いてしまうべきでは?」
という部下の進言に、渥美は首を振った。
「そしてまた炎に紛れて環が逃げるか。……ここで逃がせば、奴を広大な大地に放つことになる。万全を期すべきだ」
そこに、先に駆けていた早馬が隊列の隙間を逆送して戻ってきた。
そしてそれを率いる渥美の元に参じると、馬を下りて一礼した。
「どうした?」
「はっ! 前方に妙なものを発見しました」
「敵の痕跡か!?」
「い、いえっそれが……」
「ちゃんと説明しろっ」
にわかに視線を外し、口を濁す伝令に、やや焦れた調子で続きを促す。
「鉄砲ですっ!」
「敵方に鉄砲があることは既に先の戦闘で判明している。何を不思議がることがある?」
「それが、奇妙な置かれ方でっ!」
要領を得ない奇怪な報に、とうとう渥美は自ら先陣に乗り出してその目で確認することにした。
件の奇妙な鉄砲とやらがあるのは、彼のいる場所からさらに数間、少し開けた場所の中央にあった。
それ自体は紛れもなく、何の変哲もない火縄銃だった。
しかし、その銃身は木々の枝と縄とで繋がれて、宙に浮いたようになっていた。
すでに発砲を行った形跡があり、銃身に触れてみると熱しており、硝煙の臭いが残っていた。
だが暴発したようでもなく、意図的に撃たれたもののようだった。
決して逃げ出した伏兵が放り出したものには、見えなかった。
ただ、それが一挺。
「……っ! 急ぎ林を抜ける! 佐咲と合流せねばっ!」
「は!?」
「わからんかっ! 我らはおびき出されたのだ! 本命はあちらだ! ここに伏兵はおらんッ」
ひゅっ
風切り音が、彼のすぐ耳元で起こった。
木々の間を吹き抜ける風に煽られたか、上体が大きく揺れる。
だが次の瞬間、渥美は眼下の配下たちが惚けたように、自分に一身に視線を集中させていることに気がついた。
「……どうした?」
だがその声は、ひゅうひゅうともの悲しい風音になるだけで、声にならなかった。
……おそるおそる、その手を首筋に当てる。
ぬるりとした感触、そこから生えた硬い感触。
生ぬるい熱の中に指をひたしているのに、その指先が、徐々に冷え込んでいき、力が失われていく。
あっという間に馬上で全身を支える力は失い、渥美は落馬し、背を打った。
首の中心に穿たれた穴から、呼気と血液が漏れだしていく。
自らを呼びかけ慕う声も、どこか彼には遠く聞こえた。
自分が首を射られたと悟ったのは、死ぬ間際のことだった。
「……とまぁ、こうして疑似餌につられた渥美を討つのはたやすい」
と、はっきりと黒衣の尼僧は言った。
「仮にも順門きっての重鎮三戸野家の、二枚看板の片割れ。ワナにハメたとして、それを簡単に殺れますかね。すぐにこちらの意図に気づくんじゃないスか?」
「そう。そこです」
にこやかな顔をズイと寄せられては、猛虎の如きこの神子もまた、たじろぐしか術を知らなかった。
「一度、自らが踏み込んだ場所が陽動だと気づかせるのです。そして彼は部隊に通達するはず。『伏兵などいない』と。……その彼の宣言を否定する一矢を、幡豆殿には放ってもらいたいのです。彼の注意が右道からも、そして自身からも外れる、その一瞬を突いて」
「……なるほど。で、一矢を放って、それからどうするんです?」
その時の勝川舞鶴の笑顔は、まるで悪童が純真な幼子にイタズラを教えるようなものだった。
~~~
闇の中、矢の続く限り由基は弓を執った。
つがえた矢は、三本ずつ。
凡人が真似すればあらぬ方向に飛んでいくはずのそれは、由基の超常能力の下、確実に敵の人馬の致命的な部位を貫いていく。
それ以上の同時発射は流石に困難だし、ただでさえ短い飛距離も失われる。
できるだけ多数に見せかける。
それが基本方針だ。
「て、敵だァ!?」
「やっぱり伏兵はこっちにいたんだっ!」
「ええい落ち着けぃ! 敵などおらん! いたとしても小勢だ! ……ぐわっ」
灯りが土の上に落ちる。
その残り火を踏むことすらためらわず、馬のいななきは天を驚かせ、蹄で倒れた主を踏みにじったりした。
「幡豆殿、次は、敵を分断してもらいます」
「……単騎で、スか」
「と言っても文字通りの意味ではなく……この時点で敵は二説の派閥に分かれています。『伏兵などいない』派と、『伏兵はやっぱりいる派』とでもしましょうか。その両者に意志の統合をさせる間もなく、ひたすらに矢を撃ち続けてください。できれば間を置かず、まばらな方向へ。そうして両者の対立を煽りながら……『伏兵などいない派』を減らしていく。おそらくは彼らの大半は渥美に次ぐ権限を与えられた副将、各組頭でしょう。彼らを討つことによって指揮系統も混乱し、末は……」
崩壊。
その二次は、今暗中の名射手の目の前で起こっていた。
自らの手によって。
「……そンで、その矢を射込む場所は、どこか良いでしょうかね? 大事なのは、渥美を討つまで居場所がバレないことだと思いますが」
「……幡豆殿、もしあなたが指揮官だとして、『伏兵部隊』が自分たちの頭上にいると、考えますか?」
――何が伏兵だ。これじゃ暗殺者じゃねーか。
たった一人の『伏兵部隊』がいたのは、七十の敵がうごめく林、その樹上だった。
最後の一矢が、目に見える軌道に沿って流れていき、騎馬武者の兜の下の眉間を突いた。
「っ、若木様っ!?」
「もうダメじゃあ! 逃げろっ、逃げろォ!」
算を乱して逃げ惑う敵兵を、由基は追わなかった。
追おうにも矢は尽き、敵にこちらの実態を晒させるような愚行だからだ。
そして無人となった林間、自ら築き上げた屍の上に、射手は降り立つ。
宙づりになった鉄砲を「もったいね」と取り除き、肩に担ぐ。
そしてもう一方の、もはや何の役に立たなくなった自身の獲物を見ながら思う。
――これはアレか? 舞鶴殿はオレに日陰者に徹しろと、あくまでお前は鐘山環の配下なのだと、そう言いたくてこんな指令を?
そうじゃないだろう、と由基は己の胸に沸いた疑念をかき消した。
――こんな芸当ができんのオレぐらいだ……今はそれに頼るしかなかったんだろう。生ける伝説に頼られたってのは、悪い気はしない。
しかし、とも思う。
相次ぐ府公の反乱と独立、
誰が作ったかもしれずいつの間にか伝播していた火縄銃、
そして生ける伝説の再臨、
――ただのガキのケンカの延長戦のようなものだったこの戦もそうだ。……何かが変わりつつある、いや、始まりつつある。その中でオレが担える役目とは、一体……?
夜が白み始めた。
さながら宝玉の欠片の如く、陽光が顔を覗かせる。
幡豆由基は弓を強く掴み、前へと進み出す。
~~~
「むっ!?」
遠くで聞こえた人の声のようなものに、佐咲の武士としての勘働きが反応した。
戦いが、始まっている。
――やはり渥美の考えは当たっていたかっ!
同朋の慧眼に舌を巻きながら、彼は手綱を強く握りしめ、馬腹を蹴った。
「急げっ! ここを突破し、渥美と合流するぞっ」
猛将の号令に、近習たちが「おう」と同じる。
彼らは昂揚と熱気を渦巻かせ、風を身体で切りながら突き進む。
それゆえに、彼らは気づくことがなかった。
ぬかるんだ泥の上、彼らの進路に黒い突起物が拡散していることに。
それを踏みつけた馬が大きくのけぞり、甲高い悲鳴をあげた。
「おぉっ!?」
一番先頭にある佐咲が、手始めにその被害に遭った。
鞍から転がり落ち、浅黄の陣羽織に土をつけた。
「御大将!?」
あわてて傍にいた者が駆けつけるが、彼らが左右に広がったために、進軍は妨げられ、前方は彼ら二、三人が守るのみとなってしまった。
しかもその彼らも、
「ぐぅ!?」
……と、残りの障害物を足に、あるいは膝に突き刺しもんどり打った。
「な、なんだこれは!?」
「忍がよく用いる蒔き菱のようです……!」
「ええい、こしゃくな足止めを……っ」
ざり
土を噛む足音。
草鞋で蒔き菱を除けながら、その男は立っていた。
見るからに、無頼の輩と知れる風体、肩に担いだ抜き身のダンビラ。
「よぉ、御大将」
知っている。
あの名も知れぬ密告者と共にいた男。
欲に駆られた小物と違い、そしてその小物を言葉を尽くして止めようとした男。
「仇、とらせてもらうぜ」
逆さまに向けられた刀の刃先が、ためらいなく突き立てられ、佐咲はくぐもった断末魔をあげた。
今まで誰にも与えられることのなかった、死へ至る一撃。
いつかはこうなると覚悟して、主君のため、天下の秩序のために常在先陣の心得で戦場を巡ってきた。
――だがっ、だがこんな名も知れぬ雑兵に殺されるというのか!? この佐咲助角が!? 尊敬に値する猛者との一騎打ちでもなく、天下分け目の大戦でもなく、主君のためでもなく、こんな道ばたで犬のように!?
「やれ」
また、別の男の声がした。
――鐘山環。
闇から、松林の隙間から、彼らの縦列を挟み込むように銃口が伸びて、一斉に火を吹いた。
順門府の先陣を彩った歴戦の勇者は、骸になっていく己を自覚した。ばたばたと崩れていく味方に折り重ねられて、ついにはどこにいるのか分からないままに、その命を消滅させた。
~~~
霞の如き白い煙幕が薄らぐ、
少数精鋭三十のうち、死者は二十名。
残る数名は逃亡し、残る一名は……仲間の死を背に、平伏して助命を乞うていた。
敵の首魁、鐘山環を前にして。
「な、なにとぞ……命だけは……っ」
「お前らは俺の命を奪うことが役目だったようだが、俺の役目はお前らの命をとることじゃない」
と、彼は膝を折る。
それこそ刀に手を伸ばせば届きそうなぐらいの至近で、鐘山環は尋ねた。
「お前、名は?」
「へ、へい!
「知っている。前の戦で雑兵首二つ、まずまずの手柄だったそうじゃないか」
「へ!? あ、あっしをご存じなんで?」
「……いやまぁ、酒のツマミに聞いた話ってだけさ」
何かをごまかすように頭を掻きつつ、環は言った。
若者らしさを感じさせる純朴な振る舞いに、甚兵衛は
――本当に、自分たちの殲滅指示を下した人物と同じなんだろうか?
とさえ思った。
「そうか。それじゃあ、行っていい。近くにいるお前の味方と合流でもすれば良い」
「お、お許しいただけるんで?」
「許すも何も、戦は終わった。もうお前を殺す意味がない。俺の後味が悪くなるだけだ」
それだけ言い放つと立ち上がり、さっさと身を翻し去っていく。
甚兵衛は、呆然と、仰ぐように見送るしかなかった。
亥改大州と、彼と共に伏兵として働いた魁組、いつの間にかひょっこり戻ってきた勝川舞鶴を連れて、危機のなくなった林を抜け出る。
その途上、「ほらっ」と、懐から袋を取り出し、環はそれを大州に投げ渡した。
それを紐解き、中にあった
「売買で金はなくなったはずじゃないのか」
「どうしてこんな大金を自分に?」
という、声なき二点の質問に対し、環は口答した。
「ドサクサに紛れて奴らからかっぱらってきた。俺を殺す前金か、それともお前の兄貴に払うつもりで惜しくなった金か。とにかく命を張らせた駄賃だ。由基に見つかるとうるさいから、受け取ってくれ」
やや、じっとその金袋に目を落としていた大州だったが、
「……つまりこの銭を褒美として受け取りゃあ、俺らの働きは『協力』ではなくなり、結果として俺はあんたの下風に立つってわけか」
という一言が、周囲を凍り付かせた。
鬼の如き形相で、魁組十数名が環に向けた目をいからせた。
ゆっくりと刀を鞘走らせる者さえいる始末だった。
「ちょっと待った! 俺はそんなつもりじゃっ……」
「気に入った」
「な……え!?」
「あんたと一緒に行ってやる」
思いがけないその答えと共に、魁組の要人は懐に賃金をしまい込んだ。
「あんた、気前が良い。人の清濁って奴を、腹と頭でちゃんと分かってる人だ」
「だ、大州さん、良いんですかい!? いくら殿様の息子だからって、何も流天組の下っ端に」
彼の兄の部下が吐いた言葉は正論だ。
今まで自分たちの組と敵対していた相手、かつその中の三下相手の組下に入ると、この男は言っているのだ。
正体の知れない凶悪な笑みを浮かべて、ダンビラを担いで詰め寄る。
視線が外せない。いや目を逸らしてなるものかと、環は睨み返す。
すると男は不敵に鼻を鳴らして、環の肩胛骨の辺りを拳で叩いた。
「この面構え、流天組に収まる器かよ。あのアホどもはそれを承知してねぇ、あるいはできねぇから下に置く。だが、俺には分かる」
「……大した自信だな」
「そう褒めるな」
「皮肉で言ってんだよっ!」
「そこな御仁、大した自信ですが、確かな眼識をお持ちですよ」
そう口を挟んだのは、笑顔で成り行きを見守っていた舞鶴だった。
「何しろ、この美しすぎる伝説! ……のお墨付きですので」
「…………色々混ざってるぞ、お前」
「それにほら、彼らも」
袂を持ち上げて指さした先、この林の出口、黒い塊のようなものが、太陽の逆行を浴びて近づいてくる。
敵かと身構える一同だったが、すぐに警戒を解いた。
おぉい、おぅいという憚りのない声、ばらばらと秩序のない足音。
とても宗善配下の兵のそれでは、なかった。
既に先行していた民の集団、その一部だった。
「お前ら……どうして」
「増援」
彼らと共に離脱していた流天組の良吉が、無表情に、淡々と、歯切れ良くそれだけ言った。
――増援?
確かに、彼らの大半は大の男が占めていて、手には包丁やどこかで拾った木の棒、あるいは鍋や石ころさえ携えていた。
「舞鶴の作戦は伝えたはずだろ!? なんで」
「んー……まぁ確かにそうすりゃ命が助かるって話だったけど、なぁ?」
「そだ! だからって全部あんたに任せるってのも後味悪いし、第一なんか頼りねぇ! 俺らが助けてやんなきゃって思っただ!」
……という身も蓋もない答えに、環は喜んで良いのやら怒って良いのやら呆れて良いのやら、その全部か……とにかく微妙な表情をしている。
そんな自分を見て、大州も、舞鶴も、ニヤニヤ笑っている。
たく、と毒づく彼を「殿」と呼ぶ舞鶴。
「覚悟は、お決まりですね?」
相も変わらず、一方的な決めつけ。
だが今の環には、それを否定する気持ちも、根拠もなかった。
自分が生きるため、あるいは民を生かすため、
彼が弁舌を振るい、彼らを扇動したのは事実なのだから。
「……大渡瀬の惨劇を見たでしょう? 宗善殿の治世は、秩序は、あくまで彼と、彼を取り巻く武家の自己満足でしかないのです。正しさだけが残る国、それは、朝廷に背いた貴方のお祖父様やお父上が望んだ在りようでしょうか?」
「親父は関係ない。祖父宗円公も」
帽子を上から強く握りしめる。
強く、もっと強く、頭の中が真っ白になるぐらいに、強く押さえつける。
「だが、俺が胸クソ悪くなっのは、確かだ」
鐘山環は正面を、民の後で輝く旭日を見た。
――何かが終わろうとしている。
理屈でなく、感性が環に叫んでいる。
それは順門本家の消滅か、大渡瀬か、あるいは反朝廷の体制か、……己か、
あるいは宗善か、銀夜か、彼らを含めた、順門府の現在か、あるいは……
自然、首が南東に向いた。
半島と入り江、そして桜尾家の
――とすれば、それを終わらせるのは、俺か、舞鶴か、宗善か……? それとももっと、大きな、別の何かか?
……沈みかけた顔を上げる。
昏睡していた時間がどれほどのものかは知らないが、久しぶりの、日の光だった。
「俺を突き動かすのが何であれ、舞鶴、お前であれ、とにかく生き抜いてみようって気にはなった。俺に生きて、戦って欲しいと、そう願う人のためにも」
闇の続く林を抜けて、一歩、土を足で掴む。
道の見えないほどの、輝きの向こう側へと。
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