第一話:黒衣の尼僧(1)

 草鞋も、袴の裾も、赤い泥にまみれていた。


「はぁ、はぁっ! はぁっ」


 息を切らして、環は山中を駆けていた。


 順門府百数十万石、最大の動員兵力は三万。その次の主と目されていたこの青年の供は、長年連れ添った老僕一人だけだった。


 そんな二人の前に、険しい勾配が立ちはだかる。

 強行すれば進めないこともないだろうが、蓄積された疲労と、いずれ追いつかれるという推測がそれを許さなかった。


 思わず立ち止まり、忌々しげに舌打ちする。

 彼らの背後で、風音。


「若!」


 え、と振り返る。

 瞬間、環の視界には虚ろな老爺の顔があった。

 突っ伏した後頭部から、矢が生えていた。

 別れの言葉も死別の余韻もなく、幼少より自分を世話したその人は、呆気なく主を残して死んだ。

 そして追ってくる刺客は、涙を流す時さえ与えてくれなかった。


 馬蹄が地を鳴らした。

 騎馬武者は二、三。後に続くのは彼らの家臣数十名。


 闇の中で蠢くそれらを、環は険しい眼光を失わずに睨み返した。


「環殿」


 闇の中で馬から降りた男は、主筋に対する敬意を感じさせない冷えた声を発した。


「お父上のことはご無念でありましょう。しかし、かの御仁は外部においては敵を作り、内においては混乱を作った暴君。そしてこの度の弥七郎やしちろうの凶刃は、御仁の悪政が招いたもの。そしてその科とがはその子たる貴殿にも及ぶものでござる」


「科? 科だと? じゃあ聞くが、その罪科つみとがはその男の弟には及ばないのか? 佐咲ささき渥美あつみ


 叔父の差し向けた二人を睨む。

 家中でも歴戦の豪の者たちだった。

 闇夜からぼんやりと浮かび上がる両名の相貌は、暗殺者には似つかわしくない、堂々たるものだった。


宗善むねよし公はこの国に秩序をもたらす英傑。あの方なくして順門府の平穏はなりませぬ」

「いちいち白々しい。親父殿を殺した下手人は、あの叔父にそそのかされたんだろ。じゃなければこうも素早い行動ができるものか」


 だが彼らの弁にも、表情にも、揺らぎはない。

 本気で、謀反方にこそ正当性が存在するのだと、彼らは確信している。

 いや、むしろ被害者である環親子に対する、積年の恨みさえ感じられた。


「もはや言葉は無用。腹を召されるというのであれば、介錯つかまつる」

「いやだね」

 べっと唾を吐いて、環は拒絶する。

「情の欠片もない奴らに、俺の首を任せられるか」

「ならば、無理にでもその首級、頂戴する。やれぃ!」


 佐咲の怒号に背を押されるように、足軽が二人、槍を構えて突きかかる。

 環は腰に差さった家宝の脇差ではなくその裏に隠された二本一対の手鎌を取り出した。


 『蟹鋏かにばさみ』と銘打たれている。

 反りの浅い鎌で、一つに重ねると蟹のハサミを思わせる姿になるのが名の由来である。


 彼はその刃を、突き出された銀穂の付け根にがっちり食い込ませた。

 もう片方の手を振り下ろし、その持ち手を断つ。

 ぎゃっと悲鳴が起きた。

 その大きさと生々しさに顔をしかめつつ、返す刀でもう一人の腹にそれを突き立てた。

 胴を貫き、足で押すようにして引き抜いた。

 内臓が確実に損傷したであろう彼が、くぐもったうめき声と共に崩れた。


 それを見ていた二人の猛将は、ぬぅと唸った。


 だてにお坊ちゃんしてたわけじゃないんだぞ、と環は二人に言いたかった。


 ――自分を守る武技ぐらい、教わっている。荒事にだって慣れている。


 だが、それがなんだというのだろう?

 と、次から次に迫り来る敵に苦労し、無力さを痛感する。


 人より殺しの術が二手三手長けているというだけで。

 人より二人三人多く殺せるというだけで。

 単騎で数十倍の敵を相手どらなければならない現状では、なんの意味もなかった。


 自然追い詰められ、包囲は狭まる。

 逃避行に続き、矢継ぎ早に攻め立てられては、身体が保たない。


「ぬぅん!」


 包囲の外から、飛び出てきた佐咲。その手には大身長柄の槍が握られていた。

たくましい上腕から繰り出された一撃を、辛うじて両手の双鎌で受け止める。

だが、その瞬間、醜い金属音が耳を衝いた。後頭部を、鈍い衝撃が貫いた。

 ひとりでに翻った身体。自分の背後に、もう一方の刺客が手にした金砕棒が見えた。


 土の柔らかく、濡れた感触が頬に接している。

 傍に、無残な老人の屍肉があった。

 遠からず、そうなる己の姿を想像し、身をよじる。


「渥美、お主が決めたのだ。見事討ち取り手柄とせよ」

「何をいうか。佐咲、一番槍を仕掛けたのはお主の組下であろう。その仇を討ってこそ、彼らも本望であろう」


 死傷者を前に和気藹々と会話をする彼らの影。環はそこに、武士といういきものの業、狂気を見出した気がした。


 ――ともあれ、見栄を切ってこのザマか。この結果は予測し得ただろうに。必要のない片意地を張る俺も、所詮はオヤジ殿と同じく、酔狂者の血縁ということか。


 親子二代にわたって朝廷に背き続けた祖父と父の姿を思い、彼は心で吐き捨てた。


 痛みも感じず、ただ血が冷えていく。

 鼓動が弱まって行く。

 薄れる視界に、無数の影が蠕動していた。


 彼の時間は緩慢に推移していく。

 そのせいで、己の意識が正しく機能しているのか、環には確証が持てなかった。


 まして、その緩やかな動きの中、ごく普通の歩速で横切る黒衣の女の、くっきり浮かび上がる姿を見ては。


 ――あぁ、そうか……。


 と、環は悟る。

 死に瀕した自分のみに認識され、誰もがその存在に気づかない。

 とあればそれは、死神であろう。


 だから父や祖父の死に際、変わらぬ姿でそこにいたのだろう。


 ――それでも救いは、迎えにきたのが地獄の鬼じゃなく、美女だってことかな。


「では約束通り、その首頂戴する」

 そんな男の低音も、どこか遠い。




「それは困ります」




 幻影の女が、口を開いた。

 ……本当に、幼い。

 舌っ足らずな、幼女のような、飴のような、蜜のような、甘やかな清音。


 彼女のほっそりとした指先には、黄金の杖が握られていた。

 歩くたびに、先端に取り付けられた、鳥の羽をあしらった金属片が、


 しゃらん


 と、鈴のように鳴る。


「切り離すにはもったいなきお顔。濁らせるにはもったいなき青き目。止めてしまうにはあまりにもったいなき、その命の脈動」


 むさい男たちの間に並ぶ女に、佐咲と渥美はギョッと顔を歪めた。


「要らぬと言うのであれば、残さずわたしが頂きましょう」


「な、なんだ貴様は!?」

 どうやら、死霊の類ではなく、この女はれっきとしてこの世に存在しているらしい。

吠えた佐咲に、


 しゃらんと、音を立てて杖が迫る。


 佐咲が、空中を舞った。


 ――あれ? 人間って、あんな風に回るものだっけか?


 ぼんやりと、思ったのも束の間。


「ぬうぉ!」

 裂帛の気合を発しながら、女の杖の倍の太さの鉄棒が彼女に向けて振るわれる。


 しゃらんと金が鳴る。

 ギィィィィィ、という残響が、木々と葉を揺らすようだった。


 渥美文之進ぶんのしん

 先年、隣国桜尾さくらお家との一戦で敵先鋒、桜尾元隆もとたかを討ち取り、勝利を決定づけている。


 剛勇で名を馳せた男の攻めは、同様に女の首を吹き飛ばすこと、能わず。

 涼やかな顔で、防ぎ止められた。


「その黒服、その妖しげなまでの容姿、力! 貴様……いや貴殿はまさか!?」


 しゃらん


 女の腕が、猛威の一撃をはね返す。

 退いた渥美の顔は、夜の闇、樹木の影に隠されている。表情はうかがい知ることができない。

 それでも、自らの剛力が通用しないという事実と、女の正体に対する衝撃が、ありありとわかった。


「貴殿は……勝川かちがわ舞鶴まいづる殿か!?」

「はい。いかにその舞鶴に」


 最高級の遊女のごとき艶やかな名は、いかにもこの妖しげな女に似つかわしい。


「おのれ! 世捨て人が何を迷うたかっ!?」


 いきり立つ渥美が再度武器を振り上げるのと、女の空の左手が持ち上げられるのは、ほぼ同時だった。


 瞬間、夜天から矢と、光と、爆発音が降り注いだ。


「て、敵襲!」


 と誰かが叫んだ。


「矢だけではない、鉄砲!?」

「しかもこの音、十や二十ではありません!」


 部下の悲鳴、報告を聞き、渥美は苦い顔をする。

 樹上から飛来する矢の一本を弾き返すと、昏倒した朋友の肩を担いで、

「退け!」

 と鋭く命じた。


~~~


 事は、済んだ。

 追っ手が遠ざかって行く。


 残されたのは舞鶴なる女と、いくぶんかの死傷者と、そして頭の鈍痛だけだった。


 意識をなんとか繋ぎ止めている。

 だが、横たわった彼の世界はじんわりと、時間が経つほどに歪んでいった。


 その中で、黒衣から伸びた白い左手だけは、くっきりしていた。


「鐘山環どの。お祖父様、お父上の死に目にお目にかかりましたが、覚えておいでですね」


 こくりと、頷く。


 ――やはりあれは、この女だった。

 それも、向こうもこちらを見知っていた。

 そのことに、環は奇妙な感動を覚えて、胸を震わせた。


「さぁ、お手を」


 誘われるまま、捨て犬のようにその手に縋る。


 ふふっ、と。

 くすぐったげに笑う。

 転がるようなその笑声と、


「これで貴方は、わたしの君主モノです」


 その後の契りの言葉が、強烈に響いた。

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