樹治名将言行録 ~鐘山環伝~

瀬戸内弁慶

第一章:開花 ~大渡瀬の脱出~

序章:黒衣の記憶

 ――その人を、祖父の死を通じて見知った。


 祖父の葬式の日、彼は母にしがみついていた。

 どうして祖父は寝たまま何日も目覚めないのか、どうして皆が嘆いているのか。


 身内を初めて喪った彼には、何故皆が嘆くのか、理解できぬ光景だった。並んで渋面を作る父や叔父を見て、「そういうものか」となんとなく流れを掴んで押し黙っていた。


 瞬間、彼の目に、彼女が留まった。

 祖父に手を合わせた後か、参列する人々とは逆方向を行く黒衣長髪の美女。微笑んでいた。彼の黒瞳には、群れのなか、逆行する雁のような異分子に映った。


 ――その人のことを、憶えていた。


 その朝まで壮健だった父の横死。家臣に突然刺殺された。

 揺れる百万石の領内。混乱する城中。

 茫然と自分を見失う彼の、青く染まった双眸が彼女を捉えたのは、そんな最中だった。


 百官入り乱れる中、粛々と別方向を歩く、黒衣長髪の美女。

 微笑んでいた。

 それは、時間が止まった中で動く特異点だった。死者の中、一人佇む生者だった。

そしてあの時と同じく、誰もが異質で異物に異を唱えることなく、その横を素通りして行く。


 ――見間違え様がない。


 あれは、十数年前、出会ったあの女だ。

 あの時と一寸たがわぬ美貌を保ち、己の前を横切った。

 たまらず、声をかけた。


「おい、あんた!」


 目が合った。


 高い鼻、薄く朱を差した頬。

 涼やかな美しい両眼が、ほんのわずかに見開かれる。

 顔立ちは若く、施した化粧は、己を歳下に見せるためではなく、まるでませた子が親の道具を拝借して塗布したようだった。


 それから、少女のごときそのいきものが、自分に優雅に笑んで、止める間もなく去って行った。


 父は、呆気なく息絶えた。自らの配下の刃によって。

 その犯人は、その場にて誅殺されたという。


 だが、それが陰謀の一端であることを、彼、鐘山かなやまたまきは己の身を以て知ることになる。

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