第五部「狂想曲第五番」(中)
北東より上がる火の手を、信守は砦の櫓より覗き見た。
赤々と照らされたその炎の赤が、その謀の主には何よりも美しく見え、昼間の攻めを防ぎ、疲れた心身を優しく癒す。
「どうやら海賊連中が始めたようですな」
現れた貴船我聞を背越しに見返しながら、「あぁ」と守将は頷いた。
「ですが、手遅れを承知で申し上げます。この策は無駄になりましょう」
信守以外の何物にも聞かせたくない、と言わんばかりに声を低め、今や砦防衛軍の副将となった男は進言した。
「第一に、今こそ襲っているようですが、容易に貴重な食糧を奪取できるとも思えません。第二に、得られたとしてそれは微々たるもので、三千名以上の食を一日とてまかなえるものではありますまい。第三に、陸に上がった海賊の残党に、この宗善の包囲網を突破できるとも思えません。また、そうした危険を冒してまで連中が律儀に約束を果たすでしょうか?」
「さすがは父の懐刀と称されし貴船我聞よ。そうした危険性があるも、なお愚行を決断した俺に、別の目論見があると見、あえてここまで公言しなかったか? 本来は野戦での攻めを専らとする父上がこの砦を保てたのは、ひとえにお前の助言によるものか」
「……お戯れを。拙者など、新たなご主君の一挙一動に惑う愚物ゆえ」
だからさっさと本当の狙いを吐け
と我聞は言外に訴えている。
信守は肩をすくめて櫓を降り、副将はそれに続いた。
「お前の言う通りよ。前日説明したような、そんな都合の良い運びにはなるまい」
「ならば、何ゆえ」
信守は答えず、己の考えを己でまとめるように独語する。
「海賊の兵糧など最初から期待してなどおらぬ。味方を消耗させられれば良かった。いや、最悪海賊が襲うことさえなくても良かった。戦略の一環ではあったが、決定的にはならぬ。あの場でそれをほのめかすことさえ出来れば良い」
呆気に取られる我聞をそこで初めて直視し、
「いずれ説明する。本陣から救援が来るその時にな」
と言い足した。
○○○
策は策として、上社信守は正攻法での駆け引きでも、その非凡さを発揮したと言って良い。
宗善勢は一度六軍の離脱によって開いた穴より再度攻め上がり、改めて正門にあたる大木戸の制圧に成功。
信守は門周辺の守備には固執せず、さっと諦めるや、水の手は差し押さえたままに、そこを中心とした第二防衛線を形成。
追撃して伸びきった宗善の戦線に一撃を加えて押し返した。
このような感じで、亡父鹿信の頃には見せなかった柔軟性に富んだ用兵は、幾度となく寄せ手を翻弄した。
敵陣の動きの変化を敏感に感じ取ったか、宗善もまた包囲を少し遠ざけて慎重を期した。
と、それに呼応するが如く外部にて動きが起こる。
機を待ち、構えていた禁軍第四軍および桜尾勢である。
今や討伐軍の主軸となった両名は合わせて五百の手勢を実氏、瑞石に率いさせて包囲網の一角に攻撃を集中させる。
数日分とは言え、兵達を食わせるに足る糧秣を無事、砦に運び入れることに成功したのである。
「わざわざの援軍、かたじけない」
援軍と食料到着に沸き立つ兵達を借景として、信守は顔を知りたる両将に頭を下げた。
その隣には、不平面を繕い切れていない地田綱房がいる。
「いやなに、実は大殿と直成殿が協議のうえ、『笹ヶ岳砦を起点に戦略を立て直す』ということになりましてな。砦を捨て駒にはせぬ。安心されよ」
「……さようでございましたか」
意味ありげな笑みを含ませる信守を、実氏は口の形はそのままに「おや?」という目つきで見返した。
己の心境の変化を別段隠しているわけではない信守ではあったが、この男独特とも言える、こちらの心に浸透して本心を看破してくるような瞳の色は、どうにも好きにはなれない。
第六軍、地田綱房もまた、前に出て初対面の二人に挨拶をしようとした。
おそらくはその後、信守の悪行を暴露するつもりでいたのだろう。
だが信守は、その機先を制した。
「……ところで、例の海賊は如何なりましたか? 実氏殿」
「……はて? 海賊?」
実氏はあからさまにふしぎげに、首を傾けた。瑞石もまた、要領を得ないという顔つきで、口をつぐんだ。
それもそのはず、本当に両名は、ここで行われた信守と亥改水軍残党との契約など、何も知らないのだから。
信守はいかにもそれで良い、と言った風に大仰に頷いた。
「なるほど『その兵糧』は、直成殿が苦労されて各所よりかき集められたものでした。……そういうことですな?」
「は、はぁ……さようでございますが」
瑞石でさえ理で解しかねる妙な言い回しと念押し。
だが、分かるものには分かってしまう。
いや、分かってしまうような錯覚に陥らされるのだ。
――これが、信守と海賊と桜尾、佐古の両名が共謀して、他所の味方から強奪したものなのだ、と。
事実、馬鹿正直な六軍の愚将はそういう風に受け取ったようだ。
あからさまな驚愕と失望と、義憤に顔を白くさせたり、赤くさせたりする。
「では、さっそく皆にこれを供しよう。……気高き禁軍第六軍の大将殿も、ご一緒にどうですかな?」
あえて煽るような言い方をされて、はいありがたく、と受け取るようであればもっと救いのある人物であっただろうし、父も命を救われたはずであろう。
だが、綱房はあくまでも愚直で、清廉で、信守にとっては嫌悪と嘲笑の対象者でしかなかった。
「い、いらぬッ! さような不浄なもの、受け取りたくもないっ」
意地を張る綱房ではあったが、その瞳にわずかな理性の揺れが見て取れた。
何しろ、もう、三日もまともな飯が届かぬ。
信守は、そこまで見通すことができた。信守は、底まで彼を見下した。
足音荒く立ち去る義将のその背に歪な笑みを浮かべ、その表情をとり繕わぬままに、副将に命じた。
「遠慮するな。数日分全て使い尽くすが如く、盛大にやれ。第六軍の屯営の目の前でな」
事の経過を半ば夢見心地でポカンと見守っていた両者ではあったが、やがて
「……ははぁ」
と、実氏が得心したように唸った。
「……なにか?」
「何か企まれておりますな。信守殿。我らは共犯者ですか」
互いに苦笑する。
瑞石はやや一歩遅れた。ハッと我に返ると共に、策謀の匂いを感じ取ったようだった。
その二人の反応の差を見て、信守は思案する。
――どちらを、この場に残すべきかな。
等と。
別段、瑞石が反応に遅かったから実氏より劣っているというわけではあるまい。
ただ、苦労をしている分、人情の機微に聡い実氏の方が信守の考える策に理解を示したのだと、それは分かった。
知恵者とて、それぞれ種類というものがある。
信守や実氏は一から構想するのが得意ではあるが、瑞石は主が立てた基本的な戦略を己の発想や機転を助言により、さらに高密度に、より有効に盛り立てていくのが得意なようだった。
――何よりこの真に清廉な男が、了承こそすれ賛同するとは、思えぬ。
自らのうちで判断を下した信守は、
「瑞石先生」
と、改めて軍師へと向き直った。
「申し訳ないが、亡父と配下の亡骸、重傷者を、宗善が包囲を再開する前に下山させていただけないか?」
そこで両将は顔を見合わせ、禁軍第五の将が死に、目の前の怪人が後を継いだことを知った。
二人が、まして機微に長けた実氏がここまでそうした事情を察し得なかったのは、信守がそうした態度、悲壮感をおくびにも出さなかったが故だろう。
「と同時に、瑞石先生には俺がこれからお伝えすることを、直成殿とご主君にもお報せいただきたい。……これより『禁軍第五軍は』、笹ヶ岳を放棄する、と」
○○○
夜間、数名の哨戒のみを残した砦、かくと目覚めているのは、上社信守ぐらいだろう。
わずかな灯火を頼りに、父の位牌を手慰みに彫る。
地元の僧侶なり仏師なりを呼んでやっても良かったが、今までしてきたこと、これからしようとしていることを思えば、薄ら寒い気がした。
例の海賊が信守の寝所に忍び込んだのは、無銘の位牌に手を合わせる前だった
軽業師もかくや、と言う身のこなしにもさして驚かず、瞑目し、合掌した。
「ふぅん、人でなしかと思いきや、仏は敬うのか」
「敬うのは慈悲と言いつつ人に報いぬ神仏にあらず。修羅道に堕ちても子を救わんと欲した、我が父よ」
そして手を合わせるのは、亡父に己の悪性を詫びるからでも、武運長久を願って縋るためでもない。
――やりますぞ、父上。
ただそれを表明し、己に父との決別を促すため。
目を閉じたまま「で」と童に尋ねた。
「お前は何をしにきた? まさか顔も知らぬ男の位牌を拝みに来たわけでもあるまい?」
あるいは己の口封じに来たか。
それでもなお童を視界にさえ入れない。あるいはここで殺されてもそれはそれで一興であろう、と悪性の虫が囁くゆえだった。
だが、童の見せた言動は、それとは対照的なものだった。
「……すまん」
と、詫びる。振り返る信守が見たのは、額を地につける童の姿であった。
「ウチは、約束を果たそうとしたんだよ。でも、お頭が許してくれなかった」
「呆れた小娘だ。わざわざそのために、敵の包囲をかいくぐってやってきたか」
という信守の言葉に、童は……少女は目を見開いた。
その瞳孔は細く、陽光の下の野良猫を思わせる。
「気づいてたのかい?」
信守は答えず、鼻で嗤った。
腰刀に手をかけると、少女は怯えたように顔をきしませた。
だが信守は鞘ぐるみでそれを引き抜くと、そのまま犬の餌の如く投げ与えた。
「お前、名は?」
「……よもぎ」
「よもぎ、それは土産だ。路銀の足しにでもせよ」
「えっ……?」
「なお不足があるならば戦後、それを持って都の上社家を訪ねよ。女だてらに海賊に入っているのだ。その程度の世渡りは容易かろう」
「でも、そいつの遺品だろう?」
「俺には必要ない」
それは、父の意志を正しく引き継いだ者にこそ譲られるべきものだった。
だが嫡子信守は父親の遺言により、父とは決別して己のとるべき道をとる。
そんな己には、必要のないものだった。
「いずれここは死地となる。用が済んだら、さっさと行け」
「……でも、ちょっと気になってるんだけど」
「何が?」
「今砦に飯を炊いてる煙があがってるんだ。食はなかったんじゃなかったのかい?」
「…………そうか」
信守はこみ上げる愉悦に、思わず歪な笑みを隠しきれなかった。
よもぎなる娘が怯えるので、苦労して押し殺す。
なるほど、なるほどと繰り返し心中で繰り返した。
――それはぜひとも、見物に行かなければな。
上社信守は、よもぎを使いに貴船我聞に同伴を命じた。
○○○
自分が思い描いたとおりの光景に、信守は死ぬ思いで笑いを噛み殺していた。
貴船我聞にも、よもぎにも手で制して静寂を強いた。
決して笑声など漏らしてはならぬ。足音一つ、衣擦れ音一つ立ててはならぬ。
気づくまで、この浅ましくも珍妙な連中を、せいぜい鑑賞して、愛でてやろうではないか。
台所に尻をつき、己らで炊いた白飯を手づかみでむさぼる禁軍第六軍を、
そして彼らと同じく至福と恍惚の表情で食べている、地田綱房を、
『味方から強奪した糧食』をほおばる、誇り高き朝廷軍の大将殿の、この見事な道化ぶりを!
やれ帝の大事だやれ武士道だなどとほざいていながら、こちらの存在にさえ気がつかずかくも醜態をさらす、この憂国の志士たちの清廉たる振る舞いを!
ようやくひと心地ついて、ほっと己を取り戻した綱房は、ようやくにして背後より伸びて己らを覆う、三つの影に気がついたようだった。
幽霊でも出くわしたかのような青白い顔、その口髭に米粒がついていて、とうとう信守はこらえ切れずに、腹を抱えて指をさし、狂笑した。
涙が出るほどに笑うことは、今生の中で初めてかもしれぬ。
「なるほどなるほど、確かに貴方は帝の臣だ! 俺以上に帝と藤丘朝がいかなる存在か、家臣として身を以て示してくださった! 条件は同じであったはずなのに、それほどまでに畜生に堕ちることは、流石の俺でも出来ないわ!」
……もはや、綱房は殴りかかったり、刀を抜こうとする気力も大義もなかった。
顔を伏せ、覆い、奇声を上げながら部下と共に逃げていく。
彼らが横切る際に目尻の涙を指で切り、呼吸を整え振り返る。
「裏門の警備は手を抜いてやれ」
その時にはもう、信守の目から喜怒哀楽は抜けていた。
「ヤツの空腹同様、その矜持もまた限界であろうよ。近いうちにアレは行動を起こすぞ」
兵糧の一件から続く綱房への加虐は、すべてそのためのものだったのだから。
「……ですがこの策、綱房様が多少、いえかなり哀れではありますが……」
「ヤツが無自覚なまま負った負債を支払う時が来ただけ、自業自得よ」
そして、いずれは砦から脱する。
味方の本陣に訴えに出るか?
否、それはない。
この信守と癒着している――と本人は思っている――桜尾典種と佐古直成が主戦力となったところに文句を言いに向かっても、所詮は一笑に付されるだけ、そう本人は考えるだろう。
ならば、向かう先などおのずと知れよう。
「我聞」
「は」
「膳立ては整った。丁重に客人をお迎えして差し上げろ」
「……かしこまりました」
老執事の如き我聞の一礼を受け取り、信守は、綱房が駆け去った闇を振り返った。
凶相でせせら笑い、言葉を投げかける。
「清く正しい忠臣殿には、お望みどおり死して帝に報いてもらおうではないか」
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