第五部「狂想曲第五番」(上)

 禁軍第五軍、侍大将の一人貴船きふね我聞がもんは、信守の変調を一番早く察していた。


 常に何かを思案しているようでもあり、逆に何も考えていないようでもあり、とかく読めないこの少年が、この時だけは己の感情の色を露わにしたのだ。


 黒々としたその瞳は、まるで火でも入れられた炭の如く輝き、しかしなお、救いがたいほどの昏さを浮き彫りにしている。


 彼の中で何かが壊れ、何かが死に、しかしその破壊と死を糧として、何者かが生まれた。そうとしか思えぬ、惹き付けられるような魔性が全身に宿っていた。


 言動に戸惑う諸士に代わり、我聞は前へと進み出た。


「一切の矜持を捨てろとは、異なことをおっしゃる。我らは武士。しかも帝に直にお仕えする禁軍の武士でござろう。誇りなくしてその務めが果たせましょうや」

「そう、それだ。貴船我聞。その帝のことを尋ねる者があったので、まずはそれに答えたく思う」


 本陣館の前、その階に腰を据え、信守は軽い呼吸の後、


「事実だ。アレは逃げた。間抜けたことに、己の軍を放り出してな」


 侍大将以下、その場にあって信守の答えを待っていた二千超の者たちに、衝撃がはしった。

 一つは、帝が逃げたことが事実であるということ。

 もう一つは、明らかに帝を犬の如く嘲る発言。しかも向後、禁軍の一角を担う若者の口から、ためらいなくそれは発せられたのだ。


「不敬、不敬ですぞッ! 信守殿! 父御の死に正気を失われたか!?」


 無論、そうした悪態に異を唱える者もいる。

 他でもなく、第六軍を率いていた地田である。


 ややわずらわしげに、しかし同時に明らかに挑発的な目つきをしながら、信守はあえて地田綱房を無視した。


「あの帝……あぁもう藤丘貞仁で良かろう。その親父には天下を統一する才があった。そして貞仁には父から受け継いだ権限はあっても、それを行使する器量などなかった。バカが調子こいてしくじった。まぁこの戦はその程度のこと」


 信守から見て十も年上の貴船でさえ、あまりの言葉に卒倒しそうになったほどである。

 況んや朝廷を信奉する地田など、青くなったり白くなったり赤くなったり、とかくめまぐるしく顔色を取り替えている。


「だが、そんな愚物に置いていかれた我々はどうすべきか? そこで先ほどそこの貴船と俺との話になる。禁軍として、アレの臣としての務めとは?」


 一呼吸の代わり、信守は肩を揺するように笑った。

 それは貴船我聞が初めて見る、信守の本心からの笑いだった。


「第五軍の指揮官代理として通達する。我ら第五軍だけはどんな手を使ってでも生き延びる。一切の矜持を捨てろとはそういうことだ。士道、意地、正義、大義、戦後における政治的配慮。我らが今この場を生きるために必要のない一切を省く。……下衆の臣なれば、下衆の所業こそ禁軍には相応しかろうよ」


「いい加減になされよッッッ!」

 綱房の大喝が、我聞たちを己を取り戻した。いや、今まで正気を失っていたことさえ、彼らは自覚できずにいたのだ。


「貴様は……何を考えている、正気とも思えぬ! 動揺しているのは分かるが、帝や朝廷をないがしろにするなど……」


 だが我聞の見るところ、上社信守は今まで見た中で一番の正気であるように見えた。

 普段の茫洋とした様子はかき消え、確固とした理念が、その双眸に燃えている。


 ――この人ならば……いや例え彼の思い描く策がしくじり、我ら惨めに全滅したとしても、この人であれば……


 そう思わせる求心力があった。


 そこでようやく、第六軍の大将の存在に気がついたような、そんなわざとらしいそぶりで近づいた。


「指揮権を渡されよ……拒むならば斬る!」

 刀の鍔を鳴らしながら凄む綱房の間合いに、平然と立ちながら「ほう?」と信守は眉と口の端を吊り上げる。


「俺から指揮権を取り上げて、それでどうなさる?」

「知れたこと! この場にて一兵残らず踏み留まりて、帝の軍がなんたるかを示す! 華々しく玉砕してみせるのだッ!」

「笑わせるな」


 地獄の亡者の声を代弁するかのように、信守は低い声を絞り出した。


「知れきったことだ。この場にいる全員を殺すことが最終目標の相手に、どうして指揮権が渡せるかよ? ……皆も考えてみるが良い」


 唇を噛みしめる男を、信守はもはや眼中には入れなかった。その脇をすり抜けて、将兵の中に入り交じる。

「なるほどここで死ねば、名誉は守れるだろろうよ。だがそれだけだ。これは負け戦、その後に一兵余さず手当や恩賞を下賜するだけの余力は国にはない。君主にはその器量さえない。朝廷は、死者へ報いる術を持たない。そんな輩のために、死んでやる義理はない。共に生き延びるぞ。……父、鹿信の分も」


 ――なんということだ……

 この時点で既に、この人間の集団は、建国以来の栄誉ある禁軍第五軍ではなく、上社信守の私兵ということになってしまった。

 鹿信が決して踏み越えることの無かった線引きを、その息子はたやすく踏み越え、破壊してしまった。

 だが、不思議とそれを許容できる、どことなく荒廃とした空気が、そこにはあった。


「まずはここに至る道で捕らえた捕虜と引見する。これへ」


○○○


「これが……捕虜?」

 兵たちは縄に繋がれたそのちいさな人を見て絶句した。


 ――まだ、こどもではないかっ!?


 士分ならばまだ元服してもいまい。

 ボサボサとした伸ばしっぱなしの黒髪の下で、ギラギラとした獣の目が輝いている。

 存外歯並びが良いが、むき出しになったそれらはこちらへの明らかな敵意を示していた。

 野卑な風体をジロジロと見ながら信守は尋ねた。


「敵か、味方か?」

「……っ、敵だ! お前ら敵だッ! お頭が味方だっつってたのに、お前ら攻撃してきやがった!」

「そうか、亥改水軍の残党か」

 やはりな、という言葉笑いを信守は飲み込んだ。


 道中、どちらに味方するでもなく、右往左往して迷っていたこの童を捕らえさせた己の勘は、正しかったのだと証明された。


「だが、お前らを欺き、打ち破ったのは我らを裏切った赤池、すなわち順門府よ。故に我らは敵ではない」

「そんなゴチャゴチャした事情なんて知るもんかいッ! お武家はみんなそうだッ! 国のため大義のためだとぬかして、したり顔で、下のみんなを踏んづけやがる!」


 童の声は甲高い。外周で二人のやりとりを眺めている者さえ、顔をしかめるほどであった。

 だがそんな中、もっとも近くに立っているはずの信守だけは、顔をほころばせていた。

「……まったくもって同意する。ここにいる者とて境遇は同じよ」


 その呟きの届いた者は動揺し、ざわめき、目の前の童はこの奇怪なる男の吐露に、大きく見開いた目をまばたきさせた。

 存外、睫が長いことに信守はようやく気がついた。

 彼女の縛られた陣屋の柱に回り、手ずからその拘束を解く。


「まぁ俺を信じる必要もない。お前、ついて来い」

「ついて来いったって……」

「良いものを見せてやる」


○○○


 捕虜を伴い北東櫓にのぼった信守は、周囲一帯を望見した。


 戦場では小競り合いこそあるものの、どちらも総攻撃には出ようとはしていない。

 官軍はむしろ、撤退の兆しさえ見えていた。

 あるいは敵将宗円もそれをこそ望んでいるのではないか。


 ――だが、笹ヶ岳の守備軍を逃すことはないだろう。


 逸る諸将の心を宥めるためにも、取り残されたこの軍に攻撃を集中させるだろう。


 ――そうはさせるか。


 そこにのぼったのは二人だけである。信守がそうさせた。

 幼いとは言え、凶賊の者に背を預けた主将の姿を、貴船我聞ら家臣達はハラハラと見守っていた。


わっぱ。亥改水軍の生き残りはお前だけじゃないだろう。今はどこにいる? 数は?」

 その質問に対する答えは、二言。


「いない! 皆死んだ!」

「嘘だな」


 キッとまなじりを吊り上げた童と、しばしのにらみ合いになる。

 無論それは根拠のないハッタリであったが、年端もいかない子どもから反応を引き出すには、十分であった。


 童一人を生き残らせるほど、飢えた海賊が行儀良いはずもない。

 生き汚く、どこぞに潜伏して乱取りの機を窺っているに相違ない。

 童はその物見か。


 海上は完全に赤池勢の手中に落ちていることを鑑みれば、陸に上がっているか。


 ――良い。尚更好都合だ、それは。

 信守は捕虜に見えぬよう、口の端を歪ませた。


「見えるか? あれが」


 信守が指で示した先、北東の方角の街道を、行く松明の群れが進んでいる。


 旗印はかくとは見えないが、その数と進路からして、官軍に属する諸侯が、撤退に必要なだけの兵糧を新たに購入したのだろう。


 ――逃がすかよ。

 信守は心の中で低く吠えた。

 ちいさな海賊を顧みて、腰をかがめて目線を合わせる。


「あれは、荷駄隊だ。分かるか? あれは食い物を多く囲っていて、しかもそれほど警護に回せる兵も多くはあるまい」

「はっ、だからって、なんなんだよっ!? 俺等にそれを襲えってくれってか!?」

 信守は頷いた。


「そうだ、襲え」


 場は、シンと静まりかえる、静寂と夜の帳が、将兵の顔から色を奪っていた。


「海賊に食い扶持のありかを教えてやっている。それ以外の何の意味がある?」

「バカな……っ、味方の食糧を海賊に奪わせるだと!? 正真正銘気が触れたと言うのか、信守ィッ!?」


 櫓の階に手を突いて、眼下より綱房が叫ぶ。

 信守は悲鳴にも似たそれを無視し、童の華奢な肩を抱いた。


「お前はここを抜け出し、それを身内に教える。俺たちはその分け前の一部を戴く。悪い取引ではなかろう」


 童の浅黒い顔に怒りや憎悪はなかった。それさえ上回る、目の前の男の不気味さと、対峙する恐怖が占めている。

 だが、ジワジワと、思い出したように怒りが蘇る。


「証は」

「うん?」

「あんたの言葉がホントだって証は、どこにあるってんだい!? こっちをまた騙してんじゃないのか!?」

「敵でない者を欺いて、我らに何の得がある?」


 ごく単純なその一理が、今度こそ童の敵意を解いた。


「まぁ信じようと信じまいと、お前らにもはやそれに縋るほか道などありはせん」


 それだけ言い残し、信守は櫓を下りた。

 待ち受けている綱房に、満面に笑みを浮かべた。


「ようございましたな。これで、兵糧が確保できる」


 繕い笑顔ではなかった。

 この朝廷と忠義こそが絶対だと信じて疑わぬ厚顔無恥な男の顔を、これ以上ないほどに歪ませることができた。

 それ故の、愉悦であった。


 無論それのみが目的でこのような暴挙に出たわけではなかったが、喜ぶべき成果の一つではあった。


「ふざけるなッッ! これは……こんなものが! 名誉ある帝の軍の戦いであるものかァ!」

「その通りだ。これは、海賊と官軍の戦いであることだしな」

「詭弁を申すな!」

 殴りかかってきた綱房の足を払い転ばせる。

 鉄の鳴る音を響かせながら地を滑る。

 禁軍第六の将を信守は乗り越えた。

 が、信守の配下たちたちもまた横切ろうとする新たな主君に、口々に再考を求めてきた。


「そ、そんなことをすれば、食糧の不足した本隊から略奪者が出てしまいます!」

「さよう! となれば民の反感を買い、後々の統治がやりづらくなるのは必定!」

「言ったはずだ。『戦後の配慮を捨てろ』と。そもそもまだ順門を滅ぼせる気でいたのか? と言うか、そこまで面倒見切れるか」

「で、ですが……! 自暴自棄になった味方が、玉砕覚悟で敵に挑むやも」

「良いことを言った。実にお前の通りだ、我聞」

「だったらっ!」

「だからそれが良い」


 最後に諫言した貴船我聞の前で止まり、信守は笑う。

 あるいはそれは、悪鬼の顔であったかもしれない。

 悪鬼の発想であったかもしれない。




「味方と敵に総力戦をさせる。奴らを殺し合わせ、それを以て我らの活路を見出す」




 狂うていなければ、そこに活路を見出すことなど、できていなかっただろうから。


 貴船我聞の揺れる瞳に映る、己の虚像。

 それは、今まで生きてきた中でもっとも満たされた顔をしていた。

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