第三部「信守初陣」(上)

 そして、天下に並ぶ者なき天子の軍は、順門府に至った。


 対する鐘山宗円の軍は合わせて三万。

 国中の兵を総動員したうえでの人数であった。


 さらに宗円は自らの息子である宗流、宗善へと軍を分け与えた。

 宗善率いる七千五百が、北部の笹ヶ岳ささがたけ砦に入り、宗流率いる一万二千はその南、海岸沿いの隘路に着陣。

 自らは残りを率いて本陣を御槍城に置き、そこを指揮所としたという。

 また、賊軍に同調した、亥改いかい水軍なる海賊衆が海上に展開し、侵攻を阻む。


「一戦も交えずこちらを領内に入れてくれるとはな」

「しかもただでさえ少ない兵力を三分し、あまつさえ遊兵を作るとは」

「老人め耄碌しとるわ」


 二つの敵陣が見える距離に布陣した帝の本陣内、軍議の場でそう言う楽観が漏れ聞こえた時、


「我らを領内に引き入れたのは平地での決戦を避けたがため。兵力を三分させたのは要所を固めるため。自身が遊軍を率いるのは南北を大きく迂回しようとするこちらの別働隊を防ぐためよ」


 という帝の言葉が、一同から驚嘆を引き出した。

 この征服者の興奮と怒りの峠は、征旅の中で越えたらしく、ことの他冷静であった。


 そも、帝は持ち前の癇癪、先達や親族に対する劣等感さえなければ、十分に王者の器を備えた人物である。


 そうでなければ、この大陸初めての統一王朝の後継など、十年以上務めおおせるものではない。


 こう言っては身も蓋もないが、その労苦は当人しか真に理解し得ないものであり、余人があれこれと言えるのは、その重圧と責任がない気楽さ故だろう。


 末席にあって密かにそう評したのは、禁軍第四軍の大将、佐古直成である。


 元は藤丘家に敵していた王族の末裔である。

 その国の滅亡後、残されたその赤子を哀れに思った先帝が、側近くに置いた。

 今の帝とも兄弟同然に育てられたが、成人し、己を知り尽くした者が近くにいると、かえってうとましく思えるらしい。

 直成が軍務に就いた辺りから帝は距離を置くようになったし、直成もまたその兄代わりの胸中を察し、家臣として一線引いた所に身を置くようになった。


 彼に代わるように近くにあるのは星井文双であり、その男が都にて政務を預かる今、この軍議の場においては孟玄府公、天童章虎あきとらがいる。


「皆、心配するには及ばん。我らは大義ある官軍であり、大軍であり、何より朧月秀がいる」


 と居丈高に前置きをする皇族と、それを否定もせず得意げに受け取る秀才。その主従に、他の者は良い顔をしなかった。


「では義弟よ。今後の戦略を諸君に説明して差し上げろ」

「はっ。では」


 やや傲岸さが滲み出た軍師の口から、戦略が滔々と述べられた。


「まずこちらも、部隊を四つに分けます。笹ヶ岳方面。そして宗流方面。宗円方面。そして、亥改水軍の方面。四ヶ所を同時に攻め、敵の疲労を誘います。いかに敵に地の利があろうと、それぞれ三倍する兵力の攻勢に耐えうるはずもない! 必ずやいずれかの方面に綻びが生じ、自ずと崩れましょう!」


 と、本人の自慢げな様子と、奇才という本人の名声とは裏腹に、その戦略は手堅いものであった。


 ――なんとも芸のない……


 という軽い落胆が、諸将の顔にはありありと浮かんでいたが、直接それを言葉にすることはなかった。


 それを勝る戦略が彼らの頭にはなかったのもあるだろうし、もしケチをつけて、実現不能な奇策に奔られても困る。


「いかがでございましょうか? 鹿信卿」


 と、朧はあえて名指しで、上社鹿信に意見を求めた。


「いかが、とは? 異などない」

「ならばよろしい。いやはや、先日のように欠点をご指摘いただけると思っていたものでね」


 そのやりとりを見て、朝臣は皆、顔をしかめた。

 先日、桜尾家の関係で両者の間にいざこざがあったことは、周知の事実であった。

これはその意趣返しと言ったところであろう。


 だが、渋面を作った皆が皆、鹿信に同情したわけではないだろう。


 大軍の運用方法としても、さして問題があるわけではない。


 そこに異があるとすれば、


 ――何故、府公の陪臣如きに命ぜられなくてはならん?


 ということであろう。


 そんな諸将の心の声が聞こえているのかいないのか。

 満面のしたり顔で朧月秀がを発表し始める。


 笹ヶ岳方面には、彼を含めた孟玄府軍と、それに連なる大小の府軍。総勢三万五千。

 宗流に当たるのは、同じく皇族の支配する中水ちゅうすい府の軍勢と、禁軍の第一、第二、第三、第六軍。合計三万。

 第四軍、第五軍、桃李府軍は帝の指揮の下で遊軍として、宗円の本隊に動きあらばそれと相対することとなる。これが二万八千名。

 ……もっともこれは戦功を立てられることを、朧らが恐れての意図があるのは明白であった。

 また、『海の府公』とも称されるほどに精強な水軍を持つ赤池あかいけ家の軍艦五隻、小早舟二十数隻が亥改水軍を圧迫する。

 そして、後詰めとして帝の弟、藤丘御坂宮みさかのみやが一万を率いて桜尾家の港湾都市名津なつに駐留。

 長期戦に備え、大量の兵糧をかき集めているという。


 まさに、風祭府軍の離脱を除けば、現王朝における最強の布陣と言えた。


○○○


「はぁー、腰、いったいのぅ」

「お疲れ様です」


 身体を左右に揺すり動かしながら陣所を退出した直成を待っていたのは、家臣、荒子あらこ瑞石ずいせきであった。

 直成の背に、小姓が臙脂の陣羽織を打ちかけ、居並ぶ兵が道を開く。


「移動じゃ。これより帝に従い北に陣を移す」

「と言うことは、作戦は四方同時攻撃。我らは遊軍ですかな。殿」

「流石、流石。瑞石は何から何までお見通しだの」


 軍師は、艶々と輝く黒髪を、音もなく左右に揺らした。

 後ろ姿のみ見れば、女のようにさえ見える華奢な男に、直成は数歩前で振り返った。


「ところで、朧はぬしの兄弟子であったか」

「は」

「えらい対照的だわ。御師についておった頃も、奴さん、さぞ学友から憎まれたことだろう?」

 瑞石は目だけを細め、それに対しての意見は差し控えたようだった。

 だがそれこそが、問いに対する何よりも雄弁な肯定であった。


「だが戦の理屈としては間違ってはおらぬ。何しろ敵は少しでも数の不利を補おうと、山や隘路と言った軍の展開が限られている場所に陣取っておることだしの。一つに戦力を集中しても、有効とは言えぬ。それどころか各所の別働隊が背後を襲う可能性もあるわけじゃ。反攻の目を潰し、奇手に出る隙を奪う。華も面白みもへったくれもないが、それ故に上策よ」

「……小生といたしましては、味方の性格よりも敵の心理こそ気にかかるところ」

「うむ?」

「敵は何故、防戦の体勢なのでしょうか?」


 ふむ、と直成は唸る。

 両者の間を、山から吹き下ろす突風が駆け抜けていった。


 何故、防戦するのか?

 決まっている。それしか大軍に抗しうる術がないからだ。

 ひたすらに堪え忍び、こちらの力をある程度削いでのち、講和を持ちかける。


 ……とは、確かに名君名将と褒められた大国の府公のする思考ではない。


 ――時間稼ぎ? 稼いで、どうなる?


 食料は名津において潤沢に用意されている。

 頼みとしているのは風祭府の反乱? それも、風祭康徒の帰国により鎮圧される。少なくとも、際だって宗円の助けとなるような動きはできないはずだ。

 そもそも他国の動向に自国の盛衰を託すのは、宗円でなくとも忌避すべきところであろう。


「うーむ。分からん。瑞石には、海千山千の老将の考えが読めておるのか?」

「……さて。海にせよ山にせよ、千の深さを見るには実際踏み入って見なくては」

「やってみなくちゃ分からん、と」


 瑞石は首肯した。

 敵の意図は掴めない。あるいは自分たちの買いかぶりで、朧秀月の戦略が上手くハマるのかもしれなかった。


 だが、あの厚顔な男の策に禁軍第四軍の命運を全て託すには、気が引けた。


 ――朧月秀にゃ、己しか見えておらん。天下無双の軍師だかなんだか知らんが、他者をないがしろにするゆえ、瑞石のような一歩踏み込んだ思考ができん。


 浅慮の者は、軍師や参謀などというものは冷徹、冷酷で、非情な人間がするものだと吹聴する。

 だが実際は、彼らほど人の機微に聡くなければならない人種もいないだろう。

 でなければ敵の企図するところを察し、油断を誘うどころか、己の身さえ危うい。


 とまれ、今はその軍師失格の軍師の言を用いるしかない。

 悲しいかな、己はもはや、帝に声を届けられる所にはいないのだから。


「……宗円公には、散々に悩ませられそうだの」

「そのようですな」


 とは言え、自分を囲う大軍を見て思う。

 苦戦はさせられるだろう。

 だが、よもや敗北することは、この時点ではさしもの二人も、いやこの軍にいる誰もが考えてもいなかったし、考えてもならないことであった。


○○○


 ……討伐軍の誰もが短期戦を望んでいた。

 だが、春花が散り、葉が茂り、そうして一月が経過してもなお、彼ら十万人の足は、未だ順門の地に留まり続けていた。


「怯むな! 退くな、それでも孟玄の将兵かッ!? 帝の忠臣らかッ」

 笹ヶ岳方面は、未だに鐘山宗善勢を抜けずにいる。

 王争期以来、鐘山家最大の特色とも言えるのは、その防御の巧みさであった。

 兵、逆茂木、櫓、水堀空堀……

 老獪の限りを尽くした防御方法は剛柔いかなる攻め手にも、攻め方にも対応し、凌ぎ続けた。


 しかし、それは朧秀月、天童章虎のみの醜態ではなかった。

 他の持ち場でも同様、苦戦が強いられていた。


 中水府を主軸とする連合部隊は、南方の宗流らの前に敗退を繰り返していた。

 酷い時には、討って出た宗流の勢いに押されに押され、隘路の口まで追い詰められ、崩れること幾たび。


 桃李府と禁軍の残留部隊は、それらの敗軍の援護に追われて背後へ迂回するどころではない。

 むしろ宗円の本隊こそ、友軍として二人の息子の攻勢や防戦を援けて、戦線を維持し続けた。


 だが、その中で活躍を見せる者もいた。

 南方の海を進む、赤池水軍である。


 彼らは自慢の投げ焙烙を駆使して敵の海賊衆を切り崩していった。

 今は逃げる残党を追撃する形で、敵の本拠、板方城の喉元にあたる港湾、大渡瀬おおわたせの町に侵攻しているという。


 広く見れば、『敵のほころびに付け込む』と言う当初の目的は成就していたが、天童にせよ朧にせよ、この戦果に満足してはおらず、むしろ面白くもなかった。

 何しろ、肝心の自分たちは何ら武勲を立ててはいないのだから、赤池水軍の躍進を、喜べるはずがないのだ。


 そこで主従は語らい、帝に異動を進言することとなった。

 陣替えである。


「上社卿、佐古殿。前線が疲労しているので、未だ無傷の貴軍らを笹ヶ岳攻略軍と入れ替える。突破した後は、十分に休息をとった我ら孟玄衆が、改めて敵と当たるゆえ、心置きなく全力を注がれよ」


 ――つまり『お前らはさっさと金庫を開けろ。ただ中身は俺たちに取らせろ』ってことか……


 上社鹿信は、同じく召喚された佐古直成と、苦い顔を見合わせた。

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