10 過去

「あの、トイレならこの部屋にもありますよー?」


 エドが去る直前。チェリーは薄暗い部屋にある扉の1つを指差して、既に扉を閉めかけているエドを呼び止めていた。

 しかし、エドはその声に答える事無く部屋を後にしてしまった。


「空気を読め、チェリー」


 クロアこと『俺』は、エドがいなくなったベッドの上で、いつも着ている白衣からハンカチを取り出し、口元に付いたソースを拭い取る。深く座り直しながら、エドが出て行ったドアを眺めた。


「でも。わざわざ遠くに行かなくても、此処に」

「だから、空気を読め。エドは仮にも効率優先の帝国の人間だ。この部屋にトイレがある事は知っているだろうから、あれは1人になりたいとか、そういう事だろう」

「……この1秒の間に、何を考えていたのでしょうか?」


 エドが『帰る意味が無い』と言ってから1秒が経過し、エドは立ち上がって部屋を出て行った。一瞬だけだがエドの口元に力が入っているのを見たし……。

 帝国で起こった事の中でも、嫌な類の記憶を思い返していたようだ。軍内最弱である事に、俺達が想像も出来ないほど大きなコンプレックスを抱えているに違いない。何せ、相手はかの帝国だ。弱者は即座に切り捨てられるからな。

 だが、そこであの年齢まで生きてきたのだ。何かしらの支えはあったのだろう。シュレイド、だったか。帝国の人間の中でもエドが口にした唯一の人名だ。それに、その名を口にする際には、エドの表情が僅かに緩む。ほぼ間違い無いだろう。


「あまり思いつめないで欲しいのだが」

「そうですね。ケガは治っていますけど、さっきの情報は少なからず心の方にダメージを負わせるでしょうから。というか、あんな情報、何処から仕入れたんですか?」

「帝国からの使者。ではいけないか。とある人物の安否を確認しに来た。だから情報交換と、ちょっとした契約を結んだ。その時に手に入れた情報だ」


 昨夜の事だ。俺が寝ようとしていると、突如として誰かが尋ねてきた。

 守護班の連中をどうやってかかいくぐったらしい。年老いた執事のような人が、部屋の前でノックをしていた。背筋がぴんとしていて、杖が必要無さそうだったな。

 ただ足をケガしていたようで、杖が無いと不安だと言っていた。正直、それ以上に何か聞きだす事も無いだろうと思い、それは気にしない事にしたが。

 その人が心配していたのは、エドとは違う人間だった。そしてその人の情報を帝国へ流さない代わりに、エドの情報を求めてきた。



『私にはどうしても、あの子が死んだとは思えないのです』



 そしてその情報と引き換えに、ある忠告もしてきた。



『では、彼を帝国の誰の目にも触れないようにしてください。特に―― 』



 言うだけ言って、喋らせるだけ喋らせて、ご老人は帰っていった。一瞬で姿を消し、誰にも悟られぬように細心の注意を払いながら。

 機械では現在再現不可能とされている魔法の1つ、空間移動『テレポート》だった。おそらく安否確認の為に何かしら、エドたちの誰かに細工をしていたのだろう。居場所が分かるようにしていたのだ。

 空間移動とはつまり、離れた2点を行き来する魔法なのだ。ただ行ける場所には制約があり、まず、向かう場所に思い入れのある物がある事。が最低条件となる。また使用魔力の量がとんでもなく、使用する事が出来る魔力の性質も限られるらしい。

 空間魔法。最も難しいとされる属性魔法の1つだ。まぁ、豆粒程度の狭い範囲での空間移動なら、俺もかなり使っているが。人くらいの大きさになると、使用魔力も集中力も桁違いに必要だ。

 あのおじいさん、只者じゃない。


「……シュレイド君もおそらく、彼が死んだと思い込んでいるでしょうね。帰る意味が無い、なんて事は、無いと思いますが」


 あのおじいさんは、見るからに口の固そうな人だった。帝国で稀に見る誠実そうな、まともな人の目だった。おそらく、エドの親友であるシュレイドにもエドの安否を伝えないだろうな。


「たしかに、本当に彼等が親友なら、死んでいないと信じてくれそうだ。まぁ、こればかりは直接聞かないと信じられないだろうな。相手は帝国だ」


 昔から戦争ばかりしてきた帝国は、国民に小さい頃から友人をあまり作らないよう教育する。戦争で友人が死に至り、精神状態が狂わないようにする為だ。

 その所為でより一層亜人反対思想が根付いているのは皮肉な話だな。

 友を知る者は、亜人に対して好意を寄せる。相手が人間であるとしっかり認識している分、絶対的に仲良くなる自信がそこにあるからだ。

 一方、友を知らぬ者は、亜人に非難を浴びせかける。親から与えられる子に対する愛情は知っていても、周囲から与えられる友情は知らないためだ。友を得た時に得られる幸福を、初めから知らずに育つのだから当然と言えば当然だろうな。

 帝国から1歩外に出れば、そこにはもう亜人がもうたくさんいる。この世界にいる人間の大半は亜人だ。亜人の事をよく知らない帝国民、特に、亜人が完璧に排除された首都生まれの首都育ちの帝国民であれば、帝国の外では息もしづらくなるだろう。

 何せ、帝国だ。

 俺も一応帝国の人間だったが、実を言うと帝国に居た頃の記憶は全く無い。殆ど、ではなく、全く無い。自分でも不思議だが、此処に引き取られる前の記憶が丸ごと抜け落ちているのだ。

 不思議なくらいに何も覚えていないのだ。自分の名前も、何故帝国の外で逃げ回っていたのかも。覚えていた内に入るか不明だが、かろうじて機械いじりが好きだという事が判明した程度か。本来なら感じるであろう孤独感やおいてけぼり感は、この機械いじりのおかげで紛らわす事が出来たな。

 覚えている中で最も古い記憶の中に、ずっと年上の女性が出てくる。その女性は俺に笑いかけるが、今、その女性はいない。

 FLCがこの土地に来るよりも前、ずっと遠くの土地で活動していた時に、俺はその女性と共にFLCへと辿り着いた。帝国から追われていたらしく、帝国が使っていた言語が通じにくい事で苦労していた記憶もある。だが幸いな事に、帝国と同じ言語を使う団員がいたのだ。

 それは俺よりも5歳ほど年上で、いつも朗らかに笑う男性だった。記憶は無かったが、兄がいたらこんな感じなのだろうか、とも思えるくらい良い人だった。

 だった、というのは、もうその人が此処にいないのだ。

 チェリーが、個人的に忌み嫌う帝国人が、チェリーが此処に来たばかりの頃に起こった事件によって、命を落としてしまったのだ。

 何を隠そう、俺と共に来た女性も、この時亡くなってしまった。後で聞いた話だが、事件とその女性との繋がりは全く無い。


 ……それにしても、エドは何処に行くつもりだろうか。

 あまり遠くへ行きすぎると、FLCの姿を隠すカモフラージュの結界から外に出てしまう。遠くから見ればただの森が広がっているだけに見える代物だ。

 出てしまうと、特殊な道具を持っていないと見えなくなるのだが……大丈夫だろうか?

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