2-13

 焼香が始まっている。参列者がひとりまたひとり、押し黙ったまま席を立ち、遺影と位牌とに向かい合い、そして席へ戻る。坊主は椅子に座って経を読む。木魚を叩く。りんを鳴らす。


 いやな空間だ、と直観的に思った。でも、この嫌悪感は、どこから来るのだろう。


 さおりが黙っている。不機嫌な顔をしている。彼女なりに、自分の居場所でないと感じているらしい。


 この感覚は、理屈じゃない。でもあえて理屈で表すなら、ここにあるのが現世と彼岸を分かつ壁だということだ。ロウシールドによる空間の分断に似ているようで全然別種の、集団心理が形成する精神の壁。それは拒絶だった。ロウシールド以上に強い拒絶のドームだ。


 葬式は死者のために行うのではない。これから生き続ける者たちが、あるヒトがいるという現在からあるヒトがいたという過去へ移ろうための儀式だ。


 死者は二度と現在に受け入れられることはない。人を記憶する領域が脳の中にあるとするなら、死者のあらゆる情報は、これまでとまったく別の領域に納めなければならない。たとえ彼女を忘れ去るとしても、忘れられず悔いや虚脱に苦しむとしても、人間はそうしなければならない。それを刻むためのだ。人は式というものを通じて現在を過去へ送り出す。夏休みが終わって、九月一日に始業式があるのもきっと同じ理屈だ、だけどもっと厳密で、厳粛だ。


 「これが、お葬式───」ゆきのが、嘆息した。「私、人の死は、知っていたつもりなんですけど……違うんだ」


 坊さんが説明すれば、葬式とは死者の霊魂が仏門へと向かうための儀式、となる。死者の霊魂も、こんなふうに現世との別れを惜しむだろうか。そして築かれる壮大な拒絶の壁を確かめて訣別し、記憶の道筋を切り替えて、極楽浄土へ歩み出すのだろうか。少なくとも今、あたしたちはその立場にいる。拒絶されていると感じている。


 けれどあたしには、そのまま別離を別離として受け入れることに納得できなかった。どこかで引っかかりが残っていた。拒絶を拒む気持ちがあった。何かが違うと思った。……何が違う? そもそも何と何が同じだったらその相違が生まれる? 生者の側にいようと、死者の側にいようと、別離は受け入れざること能わない。なら素直に受け入れればいいのに。受け入れたいと思わない。思えない。それは生への執着か? それも違うと思う。


 あふれかえる拒絶を目の当たりにして、けれどあたしは泣けそうになかった。レッドローズになっているからじゃない。たとえ人間の姿であったとしても、泣けそうになかった。


 あたしはこれまで葬式で泣いた記憶がない。といってもあたしは、母方のじいちゃんと父方のばあちゃんが逝ったときしか葬式に参加したことがない。あたしの知る死者は、みな大往生だった。学校に電話がかかってきて、早引けさせられて、なんか女の子女の子した持って回った飾りのついた黒い服を着せられて、盆暮れにしか行かない祖父母の家に慌ただしく連れていかれた。


 彼らの葬式に参加しながら、あたしはなぜ親が泣くのか理解できなかった。きっと何かそういう教科書があって、大人は学校でそれを学んだのだろうと思っていた。あたしはそんな教科書も学校も知らなくて、ただ黙っていた。……じいちゃん。ばあちゃん。大好きだったよ。でも、あたしのスイッチは、どこで配線を間違っている?


 あたしはやがてひとつの結論にたどり着いた。


 あたしはもしかしてハナっから死人の領域にいたんじゃないのか。生ける亡者というヤツだったんじゃないのか。同じ死者同士なのに、領域が分かたれていることを不思議がっているんじゃないのか。あの人たちは拒絶されて遠くへ行ってしまうのに、あたしは拒絶すらされずに現実にとどまっている。あたしは、ブルーローズに宣告される前から死体だったんじゃないのか。


 思ったことを言葉でひとつひとつ並べてみるとすべてを拒否したく思える。そんなんじゃない。あたしは生きていた。


 でも、あたしはいま、どこかでめぐみをうらやましく思っている。あの子は拒絶されている。誰かが泣いている。苦痛とともに、過去へと送り出されている。


 あたしは今すぐしなければならないことを悟った。


 死のう。あたしも、確実な死者になろう。明確に拒絶されてこよう。受け入れられるかどうかはわからない、でも、拒絶された事実だけは刻み込んでおこう。


 どんな思いを抱くのかわからない。めぐみが抱いている痛みと等しいなんてとうてい思えない。だけど、あたしは、あたしがもう死んでいるんだってことを、誰かに教わりたい。今までは誰もそんなこと教えてくれなかったけれど、今日同じように行われているあたしの葬式でだけは、参列者たちがあたしに教えてくれるはずだ。この巨大な拒絶のドームで。


 今までのあたしは死者だったかもしれない、でも、三月八日、峠で事故った瞬間からあたしは間違いなく死者になった。家族や友達といった、所属すべき領域からは完全に切り離されたのだと。今までのように、ぼんやりと死んでいてはいけないのだ。


 やがてめぐみは自分と向き合った。祭壇の下に置かれた、彼女の身長に合わせられた棺の前に立って、その縁にそっと手をかける。化粧の施された死に顔はきれいで、穏やかだった。ブルーローズは、あたしたちの死体は脳の損傷が少なかったと言っていた───つまり、頭部に大きな傷はないということで、トラックに撥ねられたという死体を見て目を背けずにすむのは救いなのかもしれなかった。棺の中には、やはり彼女の持ち物がいくつも納められている。手垢のついた教科書。服。人形。壁に貼ってあったはずのポスター。


 その中にいる・・、彼女自身。その中にある・・、死体。


 死んでいる少女が、死んだ少女の閉ざされた瞼を見つめ、そっとなでた。


 「ありがとう」めぐみは自分をじっと見つめて言った。「ありがとう」もう一度言った。


 時間が、かかりそうだった。


 「さおり。ゆきの」めぐみの棺から離れ、あたしはふたりに呼びかけた。「───あたしも、ちょっと、行ってくる。自分の葬式。自分の死体。見てきたい」


 「そうですね」ゆきのが答えた。「めぐみちゃんだけがこんなに苦しむ道理、ありません。私も行きます、同じといわないまでも、この痛みは分かち合わないと」


 さおりは珍しく、別の覚悟を固めていた。「ゴメン、あたしはいーや」


 あたしはさおりの顔をまじまじと見つめた。


 「それでいいのか? 後悔しない?」


 「あたし、親の顔ゼッタイ見たくない。お葬式で泣かれたりしたら、キモチ悪い」ふざけた物言いにも聞こえたが、説得には応じないと目が主張していた。葬式を不要と言い切るほどの、あたしたちが想像し得ない家族との訣別を、彼女は経験しているらしかった。親の脛をかじり続けていたあたしやゆきのにはわからないことだろう、口を挟むべきではなさそうだ。


 「それにあたしの葬式、ヤバいことになってそうだから」簡単に言う。彼女の場合、痴情のもつれというやつなのだから、さもあらん。テレビカメラも遠巻きに眺めているんだろう。この状況でよくその直感が働いたものだ───だがそういえば、彼女はテレビを通じて自分の通夜を見てしまっている。ある意味、彼女はこの儀式を既に済ませているのだ。「誰か見てなきゃダメでしょ、めぐみのコト。あたし残るから。あんたら行ってきなよ」


 あたしはそれ以上彼女にねじこまなかった。


 「わかった、頼む」





 めぐみとさおりを中に残して、あたしとゆきのはホールの外へ出た。


 行こう。自分の死に、会ってこよう。そう心に決めて。


 ロビーを抜け、開け放たれた玄関扉を通ろうとした、そのとき。


 ゆきのがびくんと体を震わせた。少しうつむいて、ゴーグルの奥で目を見開いた。すぐに落ち着いた表情に戻って、「───敵襲です」使い慣れない言葉を、使い慣れているかのようにさらりと口に出した。

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