2-12

 やがてゆきのとさおりがこの路地に姿を現した。彼女らを包んだロウシールドはやはり、あたしが離れると、さっきのめぐみと同じように突然解けてしまったそうだ。その後、広報板と並んで住宅地図が立っている場所を見つけてここを突き止めたという。


 「ここ? めぐみんち?」さおりが言った。「入らない? 入れない?」


 「入れない」あたしが代わりに答えた。鍵があって、あるいはこの門扉を乗り越えて中に入ることができたとしても、冷酷なロウシールドがどれほど過去との接触を許してくれるかは定かでなかった。おそらくは、もっと悲しい峻別が待っているに違いなく、むしろ門という、領域を分かつことを目的とした構造物がめぐみの行く手を阻んだことを感謝すべきだったろう。


 泣いている人間を前にはしゃぐほどさおりも馬鹿ではなく、気の利いた言葉が出てくるほどゆきのはアドリブが効かず、その場はやるせない空気に覆われた。お互いひとこともなかったが、さおりの目も、ゆきのの目も、おそらくはあたしの目も、もう帰ろう、と語っていた。


 あたしは、少し落ち着いてきためぐみから、ゆっくりと体を離した。めぐみをひとりで立たせる。帰るかどうか、声をかけようと、前屈みの姿勢になった。


 そのとき、うつむくめぐみの口から、言葉が漏れた。───ささやきにもならない微かな声だったので、何を言っているのか耳を近づけかけて、「Blooming up, Yellow Rose」───あたしは弾き飛ばされた。ロウシールドが当然のように発生し、あたしの視界はまた色の少しずれた不快なものに変わる。


 光の繭に包まれていくめぐみ。変身……ちゃんと知ってたのか!


 戦闘形態となっためぐみは、高く飛び上がった。門扉より高く、……ベランダへ。


 「みずきさん───」ゆきのに促されるまでもない。「わかってる! Blooming up, Rose Force!」あたしたちも変身して、めぐみを追う。それに慣れてきている自分がもっと不快だったが、少しずつあきらめの気持ちも湧き上がってきていた。


 めぐみはベランダから、窓に手を当てて、呆然と中を覗き込んでいた。表情が、また泣きそうに歪む。でも、今度は涙が出ない。


 窓と、レースのカーテンの向こう側に、六畳ほどの子供部屋。めぐみの部屋だ。ばかでかいテディベアが、あるじの二度と来ないベッドの枕元で、ナイトランプと並んで偉そうにしていた。勉強机には、ファンシー系のシールがいくつもべたべたと貼ってあり、MDラジカセが所在なさげに乗っていた。


 けれど。


 他のあるべきものがない。


 勉強机の棚。クローゼット。壁の、ポスターが貼ってあったとおぼしき日焼けの跡。それらを埋めていたはずの、彼女が日頃親しんできたであろうものがいくつも欠けていた。彼女にとって当然あるべき日常が失われていた。何が起こったのかはすぐに想像がついた。持ち去られたのだ───棺に納めるために!


 めぐみが窓を平手で叩いた。ごっ、と岩を叩く音がして、ロウシールドの向こうの窓は震えもしなかった。一度きりで、めぐみは叩くのをやめ、そしてうつむく。


 声が出なかったし、声をかけられなかった。


 やがてめぐみは飛び上がる。あたしたちは後を追いかける。次に彼女が一目散に飛んでいった場所は───自らの葬式場、大通り沿いのホールだった。


 あたしは、自分のしたことが間違っていなかったことを悟った。彼女は自らの死を取り込むために自らの意思で動き始めた。だけど、それはあまりに痛々しい姿だった。





 葬儀場は、大通りに面して五〇台程度の駐車場あり、その奥に二棟の建物があった。今日は参列者がほとんど近所の人のせいか、駐車場には車はほとんど止まっておらず閑散としていた。


 建物はそれぞれ、墓石を倒して窓をつけたように外壁に御影石が施されていて、ろうそくとおはぎが似合いそうな造りだったが、横文字でナントカセレモニーホールと銘打たれていた。片方は三階建てで、すべてのフロアが葬儀専用になっていた。平屋の別棟はより広く、多目的にも使えるらしかった。めぐみの葬儀は後者の平屋で行われていた。


 その建物は、車寄せのある玄関を抜けてロビー、その奥がホールだった。あたしたちにとってありがたいことに、玄関の扉もホールの扉も、春風が穏やかに流れ込むように開け放たれていた。三月中旬にしては暖かい日で、記帳や香典の受付係は、喪服を着て一様に額に汗を浮かべている。


 さっき、めぐみが恭子に撥ね飛ばされたことから考えるに、人の動きはあたしたちにとって凶器になりうる。頭上の高度を飛んで、ホールの中へ入った。


 ホールは広く天井が高く、床がリノリウムのせいもあって、ちょっとした体育館と遜色なかった。しかしそれでも窮屈な感じがした。ずらりと椅子が並び、ずらりと参列者が腰を下ろしている。めぐみの人望か、親の人脈か、小学生一クラス分とその親が加わっていることを考えても、参列者の数はあたしのじいちゃんのときの倍以上いた。


 右手に、親族が並んでいる。ひとこともなく経を聞いている。いちばん上座にいるのが、まだ四十にはならない、青年と呼べる男性。めぐみの、父親だろう。隣にいて数珠をぎゅっと握りしめている女性が、母親か。その隣に、うつむいている制服姿の少年───そういえばゆうたという名が表札にあったっけ。


 めぐみは、その目前へすっ飛んでいった。


 家族はまったく気づかなかった。親子の絆はロウシールドには無縁で、何の奇跡も起きなかった。身を小さく震わせる、めぐみ。眉間にしわを寄せ、唇を噛みしめる。


 父親が、後ろから葬儀社の社員に声をかけられた。葬儀中の喪主に何の用だろうか、彼は赤い目をひとつこすり、立ち上がった───懇願するようにまとわりついためぐみを、弾き飛ばしていった。あたしたちの聴覚にはがしゃんと彼女の倒れる音が聞こえたが、ロウシールドの外へは届かなかった。めぐみは黙って、誰の手も借りず立ち上がった。


 それから、参列するクラスメートたちの前へ向かう。小学生では喪服は稀で、ただ暗色の服を着ている者が多かった。めぐみは彼らの前で、挨拶するというでもなく別れを告げるというでもなく、ただ立ち尽くした。泣いている者もいる。放心している者もいる。中には、まだ悲しみに手が届かずに、そわそわと首を動かし、貧乏揺すりをする者もいる。にじみ出す日常と、区切られた世界。


 めぐみの事故の状況は後から知った。この中に、めぐみの死を直視した者もいるだろうし、めぐみとまともに会話したことのない者もいるのだろう。彼女がいなくなったことの喪失感を、いったい何人が、いつまで保ち続けるのだろう。あるいは何人が、いつまでも背負ってしまうのだろう。


 あたしは経を読む坊主の真後ろに陣取って、正面の祭壇を見つめた。覆い被さるほどに飾られた生花の中に、まぶしい歯を見せて笑いかけるめぐみの遺影が飾られている。写真はやけにサイズが大きく、彼女の顔の実寸よりも引き伸ばされていて、間近に見るとややぼけた感じがした。


 白木の位牌に墨で書かれた文字───翠芽恵萌童女。めぐみの、戒名か。

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