2-09

 四人、バルコニーに並んだ。


 サンフラワーが後についてきて、木の椅子に腰掛けた。テーブルに片頬杖をついて、歩き始めた嬰児を見守るかのように、柔い視線を投げてくる。


 その視線から目をそらし、けっ、とひとつ悪態をついた。手と拳を叩き合わせた。やるしかない。めぐみの気持ちに加えて、あたしにしてみれば思いがけず、もうふたり分の責任を負う。正直、重たい。でも、今はやるしかないんだ。


 あたしは、ついに、自分の意思で―――変身を、宣言した。


 「Blooming up! Rose Force!」


 四人の体が、一斉に光り始めた。


 今度はなんとなく、自分に何が起きているのかがわかる。自分の体はプログラミング粒子のカタマリになっている。そいつはプログラムに従って、あたしの体を別のかたちにする。蝶が遺伝子に従ってさなぎになり、そして羽化するように。


 プログラミング粒子は、あたしの体を構成することをやめ、地球人の知りうるすべての物理法則の束縛から逃れて自由に散らばる。光の繭で包まれるのは、防性粒子によるものだろうか。繭の中を踊っていた粒子たちはやがて思い出したように別の束縛を選択し、レッドローズに変わるのだ。あたしの体はそういうふうにできている。


 粒子が収束し、光がやむ。今回はうろたえなかった。


 「これでいいんだろ、サンフラワー」あたしは言った。


 「はい。よくできました」


 「じゃ、行かせてもらう」


 「ちょっと待って」


 サンフラワーはあたしの目を見ずに言った。遠くの空を見ている。「ほら、あそこにヘリコプターが飛んでいるのがわかりますか」彼の視線を追ってみると、確かに、青空と地平線の境、薄灰色の空気の帯の中に米粒が浮かんでいる。


 目を細めてその米粒がほんとうにヘリなのか確かめようとしたとき、突然視界の中に違和感が走った。この体になってからイヤというほど感じてきた違和感のどれとも違っていた。


 「それが、ロウシールドです」サンフラワーが言った。


 ───世界の色が変わったのだ。色つきのゴーグルを通しているからじゃない。視界すべてが薔薇色に変わったのだ。


 あれだ。理科の資料。光の三原色は、赤と青と緑。その、赤だけを抜き出した映像が、目の前に広がっていた。ぶっ壊れて赤しか出なくなったテレビ。生きていた頃に誰かが見せてくれたデジタルカメラの映像は、パソコン上で、クリック一発で、ふつうの画面から赤だけの画面にフィルタリングされたっけ。


 赤だけの世界だったのは最初の数秒だけだった。やがて青と緑が少しずつ視覚に戻ってくる。


 再び色が視界に蘇った。だけどそれは直に見ている感じがしない。「補正」されている感じがして、完全に元の色合いには戻らなかった。一方で、色合いがまったく変わらなかったものもある。それはあたしたち自身。四体のローズフォースと、サンフラワーの姿。


 古いフィルム映画に吸い込まれて、クロマキー合成されてしまったかのような、現実感のない別空間にあたしたちは入っていた。九階のバルコニーであることには変わりないのに。


 「ナニコレ?」さおりが言った。「このメガネ、壊れたんじゃない?」ゴーグルのレンズを拭うしぐさをしている。むろん、そんなことで色が元に戻るわけもない。まばたきしたり目を細めたりしてみても同じだった。人間は情報の八割を目から得ているという話を聞いたことがある、視覚が普段と違うというのは、それだけで不快なものだ。───これもいずれ、慣れてしまうんだろうけど。


 「みなさんにも違って見えますか」ゆきのが言った。「これが、ロウシールド? 地球と宇宙を厳然と隔てる不可侵の壁……?」


 「そうです。今あなた方が見ている色調の変化が、世界を分断するロウシールドです。正確にはロウシールドフィールドですが、それを単にロウシールドと呼んで差し支えありません。さて、ロウシールドが発生したことの意味がわかりますか、ゆきのさん?」サンフラワーの姿はそのままだが、椅子は色合いが違っていた。人間椅子でもしているかに見えてちっとも苦しそうでない。


 「あの乗員に姿を見られてはならない、そして今、彼らにあたしたちは見えていない、ということですか?」ゆきのが指差したのは、さっきの米粒だ。報道か観光か、一機のヘリコプターが、マンションの真上を飛び抜けていった。その色調は、ずっと異なって見えた。つまり、ロウシールドという壁の向こう側にいる……。


 「サイボーグ兵器なんて、地球の科学では不可能だから。もし見つかってしまったら、超常現象とか異星人襲来とか秘密研究所とか、計り知れない混乱を生んでしまう、だから彼らから見えないように、私たちを異次元へと隔てる壁が作られる……」


 「具体的にはそういうことです」


 「……今ので『具体的』になるんですか?」


 「概念としては」サンフラワーは難しいことを言い出した。「我々にとっては法律が絶対であると申し上げましたでしょう。ロウシールドは、相容れない別世界別次元の法律が一個体に同時に適用される可能性をできる限り排除します。そして強制的な排除が不適当であると判断したときには───法を変えたり、妥協したり、ねじ曲げるのではなく、『世界を分かつ』のです」


 「地球法と、宇宙法───私たちに適用される法律は、常にどちらか片一方でなければならない。そして、変身している状態の私たちは、宇宙法が適用される存在である、と」


 「変身しているときに限りません。あなた方が地球法上、死者であるという事実も忘れてはなりません。あなた方はさまざまな法的立場を持ちます。地球法のあなた方。宇宙法のあなた方。宇宙法の適用される存在が擬似的に地球に住んでいるという位置づけのあなた方───つまり、宇宙の精神体でありながら白衣を着てこの場所に座っている今の僕のようにね。いずれの立場であっても、あなた方と地球人類とが接触するとき、法の定めによってときに世界は分かたれ、ときに同じ世界を共有します。ときに自由であり、ときに束縛されます。いつどの立場が適用されるかは状況によるとしか申し上げられません」


 さすがにこの説明はゆきのにもわかりかねたらしい。「……どういうことですか?」


 サンフラワーは笑っていなした。「いずれわかります。お葬式に行くのでしょう、間に合わなくなりますよ。行ってらっしゃい」


 あたしはゆきのとサンフラワーの小難しい会話を小耳に挟みながらも、加わっている余裕はなかった。めぐみが目の色をなくしていた。感覚器官を封鎖して、何も見まいとしているようだ。立っているのも危なっかしく見え、その体を抱き寄せると、がきんと、金属のぶつかり合う不快な音がした。


 めぐみは、このサイボーグの体も、自分のものではないと拒もうとしている。この状態で、ほんとうに、さらに拒むべき現実を受け入れられるのか?


 いまさら引き返せるものかと、自分を鼓舞する。本当は、引き返すのは、簡単だ。この寿命というもののなくなった体で、永遠に膝を抱えてうずくまっていればいい。そうすればサンフラワーが、役立たずの欠陥品として処分してくれるのだろう。……そんなのイヤだし、誰もそんなイヤな目に遭わせたくなかった。


 あたしは自分で動く意志を表すことのできないめぐみを、片腕で抱え上げた。


 重くはない。自分の体と、彼女の体との重みが合わさっているのはわかる。でも、軽々と持ち上げられた。この体が筋力をも上げているのだ。めぐみは支えられようとしなかった。あたしの腕の中でだらりとぶら下がるような姿勢になり、安定が悪い。


 サルの母親は、子供が死んでミイラ化しても、死を理解せずにずっと抱いたままでいることがあるそうだ。もしかするとこんな感じなんだろうか。いやいやもせず、遠い目をしてただ顔の向く方向を見つめ続ける、めぐみ。


 「話は終わったか?」あたしはゆきのに尋ねた。尋ねるだけ尋ねて、答えを待たなかった。「行くぞ!」


 あたしはウッドデッキを軽く蹴って、空へ跳ね上がった。ジャンプの最高点で止まろうとすると、やはり簡単に止まる。やはりこのスラスタは、重力下でも、思った通りの動作を反映するようにできている。ある程度の慣性もはたらいていて、急上昇や急制動で体に負担がかかることはない。


 飛べる。自由自在に。でも、空を飛ぶのが悦びだなんて、いったい誰が言ったんだ。宮崎駿は空を飛ぶ苦しみを教えてくれない。


 バルコニーからマンション上空へと舞い上がる。あたしたちの眠っていたペントハウスが、ケーキの飾りの砂糖菓子のように最上階に据えられているのがわかる。ペントハウスは屋上の約半分の面積を占めていて、残りの半分は給水槽や空調の排気口だ。


 さらに下の方へ視線を移す。駅の方向へ向かうスーツ姿の頭だけが見える。道路のペイントがやけに細長い。ゴミ収集所の近くで、井戸端会議の笑い声が聞こえる。あたしたちのいる異空間の外───すなわち、「ロウシールドの外部」は、今日もうららかで平穏な春の朝を迎えているのだ。


 はっと気づいた。


 さっきのテレビに映っていたニュース。キャスターの、笑えない冗談。殺人事件を騒ぎ立てるワイドショー。


 この大都会は、何の代わり映えもしないいつもの朝を迎えている。


 それはつまり、世界中の誰も、月から悪意の光線が発射されたことを知らないということだ。クリスタルという異星人がこの星に降り立ったのを誰も見ていないということだ。


 ロウシールドは、敵も味方も悲しみも悪意も関係なく、ただ地球人と異星人とを隔てるために、存在しているのだ。そしてあたしたちは、異星人の側にいる。ロウシールドの意味が少しずつわかり始めてきた。


 世界は、なんて遠いところにあるんだろう。あたしたちが遠ざかったのか、世界の方が遠ざかったのか、それとも、あたしは、はじめから距離感なんてつかんでいなかったのだろうか。少なくとも今、あたしの「世界」には、人間は四人しかいない。


 さらに高度を上げる。さっき飛んでいったヘリを追いかけて、近づいてみる。見える範囲に入ったはずなのに、乗員はあたしたちにまったく気づく様子はなく、北に向かって飛び去っていった。


 「はい───はい。わかりました」


 ふと気づくと、ゆきのが独り言のように何かつぶやいている。彼女の聴覚には、誰かからの声が聞こえているらしい。


 「誰と話してるんだ?」あたしはゆきのに尋ねた。


 「サンフラワーさんですよ、他にいますか」


 「何を?」


 「みずきさん、めぐみちゃんの家がどこにあるかも知らないで出てきたでしょう」まったくだ。猪突猛進とはこのことだな。自分で自分の単純さがイヤになる。「いま住所を教わりました。私が先導します」

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