2-02
がらりと引き戸を引く音がして我に返った。南西の部屋から、大きな百合の花がデザインされたパジャマを着たままで、水沢さおりが出てきたのだ。何度かきょろきょろした後、バルコニーのあたしを見つける。
「あのさぁ」さおりもバルコニーに出てきて、椅子の背もたれに手をかけて言った。「ここ、どこ? あんたの家?」
「違う。全然知らんトコ」あたしは答えた。「東京タワーがあれだから、大田区ってとこじゃないかな。田園調布か、大岡山か、もう少し東かな?」
「田園調布ならちょっとイイかも」そういう問題かよ。「……で、あんた誰? これ、なんなワケ? もしかしてヤバくない?」さおりは不機嫌に、しかし脳天気に言った。あたしがさっきまで自分でいろいろ思いを巡らせたあたりを、全部他人から聞き出してすます魂胆だろう。あたしがあまり好かないタイプの人間だ。
「これって何よ」
「あれ」
「だからあれって何」
「ゆうべのヤツ」
「……いま初めて悩み始めたってツラしてんね、あんた」あたしはもう一度手首を振った。今度は、いつこの女を殴ってもいいようにやった準備体操。
「てゆぅかさぁ」さおりはこういう話し方しかできないらしい。別に話題が変わるわけでもないのに『てゆーか』を使うんじゃないよ。「あれ。あれ。ハリウッド。映画」
「スターウォーズとか言いたい?」
「ふるぅ」
「スターウォーズで古い話?」
「あれ。あるじゃん。アルマゲドン」
「もっと古いわ。それとも何か、あんたのスターウォーズはエピソードⅣか?!」こいつの思考能力と速度に合わせていたら日が暮れる。「つまりなんだ、できの悪いSF映画を見てきたような気分だ、と」
「ん~、ちょっと違うんだけどねー。ま、そっかな」こういうヤツの『ちょっと違う』はたいてい図星という意味だから、放っておく。
映画ならどんなにいいかな。あたしはもう一度手首を振った。喉元にいらつきが走った。あたしは結局手が出なかったけど、こういうとき、気取ったヤツならタバコを吸って気を落ち着けるんだろう。ものに頼るのもなんだとは思うが、せめて、炭酸でも飲みたいところだ。
と思ったら、「おはようございます、みなさん」高岡ゆきのが、ペットボトルとグラスを持って、部屋の中から手招きしていた。「いろいろ、ありますよ」彼女は、襟のある縦縞のシャツに、ストレートのジーンズ。ただでさえ細い体がよけいに細く見える。細ければ細いで広げて見せるテクニックを、心得てはいないようだ。
どうやら彼女は、あたしとさおりがここでぼーっとしている間に、部屋の中を探索していたらしい。
四隅に八畳間があって四LDKという、東京都内のマンションとしては尋常ならざる豪勢な間取りに間違いはない。マンションの屋上に、それだけの広さの平屋が山小屋のように乗っかっている造りだ。
LDKの北側にキッチン、その横のガラス窓のはまった扉を抜けると通路があり、玄関に通じている。その通路の途中にバス・トイレ・洗面所の集まったサニタリースペースに入る扉がある。玄関の扉を開くとすぐ外にエレベーターがあり、ここは九階だったそうである。石鹸シャンプーリンスタオル歯ブラシ食器洗剤その他もろもろ、個人の部屋以外はどれも安物ながら生活用具がひととおりそろっている……。
「外のエレベーターはちゃんと動いてますから自由に外に出られます。別に私たち監禁されているわけではないようです。それに―――」リビングに戻って、壁に取り付けられていたリモコンをはずしてスイッチをぽんと押すと、ベランダへの窓を隠すような位置に天井から何か棒のようなものがするすると下りてきた。棒と天井の間にはラップみたいな薄い膜があって、そこに何か映っている。「これ、テレビです」映画やスライド映写用に使うスクリーンは白だけれど、これは透明だ。膜の上には、貼りついた笑顔のNHKアナウンサーとニュースの解説員が浮かび上がり、いつものように笑えない冗談を言っていた。「情報が封鎖されているわけでもありません」
その顔を、ぱちんとリモコンで消して、ゆきのはこう結論づけた。
「つまるところ、四人で暮らしてね仕様になっているんじゃないかって、私、そう思うんですけれど」
「電話はあんの?」あたしは訊いた。
「モジュラージャックだけです。電話機があればつながると思います」
ずいぶん細かいところまで調べている。機械にされたこと、死んで妙なところに連れ込まれたこと、あたしが今必死に整理つけようとしている状況何もかもを、どうしようもない必然として受け入れているように見えた。本気でこの部屋で暮らすつもりらしく、そうして腹をくくっている彼女に納得がいかなかった。ましてそのクソ丁寧な口調を気に入るわけもなく。
あたしはゆきのに言ってやった。
「楽しそうだね、あんた」
あたしはこのとき、ゆきのがかつてどんな環境にいて、どんなふうに死んだかをまだ知らなかったから、かなりイヤミっぽかったと思う。
ゆきのは意にも介さず、にこやかに答えた。
「私、体がこうして自由に動くだけで、楽しいんです」変なやつだ、とそのときは思った。「楽しいんですけど、だから、その、ケンカはしたことなくて。ゆうべは何もできなくて、ごめんなさい」
ゆきのは小さく頭を下げた。シトリンとの戦闘のことを言っているらしい。なんとなくむずがゆくて、それ以上イヤミを言う気にはならなかった。
「いいよ、そんなの。できることだけすれば、いいんじゃないの」
「そう……ですか。じゃあ、できることをします。朝ごはんの、準備とか」
ゆきのは、キッチンの戸棚からスナック菓子を取り出してきて、どさどさとちゃぶ台に置いた。
「それですませるしか、ないんですけどね。さすがに生ものはありません」
「ハダに悪そー」さおりが言った。
―――明るかったゆきのの声が、その言葉に対する答えだけ、とても醒めたものに変わった。「そんなこと、もう気にしなくたっていいじゃありませんか」
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