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三月一〇日 一六時三一分
病室の窓の下の道を、けらけらと声をたてて笑いながら少女たちが通っていく。制服がかわいいことで有名な女子高校がすぐ近くにあるのだ。
ゆきのは、せめてその姿を見ていたかった。自分が同じ姿で、街路樹の下を駆けていく光景を何度も夢想していた。が、もう体は動かなかった。ただ遠い目をして、ぼやけた天井を見つめていることしかできなかった。
視力は昔から弱かった。出歩くとき、メガネは手放せなかった。聴力は人並みにあったと思う。でも今はそれも弱まっているとわかる。
何より今はもう、―――体が動かない。
しくしく泣いている人がいる。謝罪の言葉が繰り返される。何度も何度も手を握られ、触覚が、ぬくもりが、伝わってくる。それらの行為に反応することが、彼女にはできなかった。五感はあるけれど、反応して動くはずの筋肉を、何ひとつ自分の意識で動かせないのだ。
三年前、中二の頃から、この病室で暮らしていた。心臓が生まれつき弱く、生まれてずっと入院と退院を繰り返していた。体が大きく成長すればするほど、そのポンプの能力の弱さが体に負担をかけた。追い打ちをかけるように体をむしばみ始めたいくつもの病魔に、何の抵抗もできなかった。何度も繰り返された手術、投薬は、命を延ばしこそすれ、病魔の根絶には程遠い効果しかもたらさなかった。
そもそも病を退ける体力など持ち合わせていないことを、彼女は知っていたけれど、気づかないふりをしていた。親や医者や看護師、大丈夫だよといつも励ましてくれる人たちに感謝しながら、心のどこかで疎んじていた。そんな自分が、いやでたまらなかった。本を読み、テレビを観、ネットを泳ぎ、病人としては恵まれた環境で情報を取り込み続けながら、彼女の心の天秤は、揺れ動き続けた。
そして今、彼女の体はもう動かない。二週間前から、植物状態に入っていた。手を動かすことも、首を振ることもできず、流動食や点滴を強制的に流し込まれ、だらしなく排泄した。
しばらく前に鏡で見た、自分自身の姿が忘れられない。その鏡を隠してほしいと、自分を担当している看護主任の手のひらに、弱った指先の力で書いた。もしかしたら、自分の発した、最後の意味のある言葉だったかもしれない。青白くつやの失われた肌、やせこけて骨の浮き出た頬、薬に耐え続けてほとんど抜け落ちている頭髪。それが自分であること、自分が自分であること、醜悪な怪物、それでも生きよと望まれていること。すべてを、映し出す。
爪先の方角の壁には、あの高校の制服が吊り下げられている。行くはずだったのだ。行きたいと心から望んでいたのだ。本当なら、去年の春から自分は高校生だった。なのに、一年間耐えに耐えて、やってきた結末がこれだった。
必ず来ることは、悟っていた。けれどそれがいつかを考えられるほどの悟りを開けるはずもなかった。その先を考えるほど老いてもいなかった。自分には未来があるのだとあてもなく信じていた。信じて、いたかった……。
しくしく泣いている人がいた。親と、ずっと世話をしてくれた、主任さん。限りない感謝の思いと、生への欲望と、そして―――諦念。入り混じったまま、ぼやけたままの天井を見つめ続けた。
「お願いします。───娘は、もう、十分、生きました」父親の涙声。───ぼやけたままの、天井。
医師の手によって、生命維持のための装置がはずされた。
顔に誰かの手が当たり、目が、閉じられた。
彼女は、死を欲する意志を誰かに漏らしたことはない。密室で行われた、法的には認められない、慈悲殺。きっと医師は、病死の死亡診断書を書くのだろう。
桜の下を、制服を着て駈けてゆく夢を見た。そして、二度と
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