異常現実アプリケーション

Ata

プロローグ

01:犠牲者A①

 「ハッ…ハッ…ハッ!」



 深夜の住宅街、スーツ姿の男性はただひたすらに全力で走り続けていた。

 

 男性の形相は凄まじいの一言に尽きる。、その顔には深い恐怖と焦燥が張り付き、涙と口から溢れた涎で汚れ、もはや凶相と言って良い程になっているし、大きく見開かれた目は忙しなく周囲を見渡し、落ち着きが無い。


 男性が走りながら器用に後ろを振り返って見れば、さきほど男性が曲がった十字路のあたりから少し高い金属音と共に、空き缶が転がっているのが見えた。


 あの辺りは自販機と、空き缶用のゴミ箱があったのではなかったか。そんな考えが頭を掠めた瞬間、背筋を冷たいものが走る。再び前を向くと男性は更に顔を歪めて足に力をこめた。


 仮に通行人が彼の姿を見たのなら、恐らく半分以上は「何かから逃げているように見える」と答えることだろう。

 そしてこの男性は答えるのだ。「俺は逃げているんだ」と。

 もしくは「助けてくれ」と。




 どれほどの時間走り続けたのだろうか。ふとそんな事を考えてずっと左手で握り締めていた携帯を顔の前に持っていく。袖口の部分は何度もぬぐったせいか涙と唾液で染みになっていた。

 

 走っている為なんとも見辛いが、携帯に表示されている時刻は既に日付を変えており、もう数十分も経てば一時を回ろうかと言うところであった。それを理解した時、この逃走劇を始めた時間も分かっていない事に気づいて無駄に消費した労力に苛立ちがつのる。一体自分は何をやっているのだろうか…と。


 増し続ける脇腹の痛みを抑えるように当てていた左手は、今ではスーツに跡が残りそうなほど握り締めている。前に出し続ける足も振り続けている手も既に鉛のように重たく、頭も上手く回らない。体の何処もかしこも男性に限界を訴えている。


 しかしそれでも走り続けなければならない―――逃げ切る為に。



 「ハァッ…ハッ、ハッ…ゲホッ……クソッ!」



 ――思えば週末だからと誘われた同僚達との飲み会を断れば良かったんじゃないか?


 ――もしくはタクシー代をケチって飲みを切り上げ、終電に間に合わせたのが失敗か?


 ――いや、そもそもの失敗は駅を出てからだ。降車駅のホームで見た月が余りに綺麗なので、普段と違うルートで帰ろうとしたのが間違っていたのでは?


 ――明日が休みだからと分かりもしない風情を感じようとしたのが愚かだったのだ。



 「ハッ…クソッ!だからッ!あんな…あんな、のがあぁァッ!」



 混乱した頭がひたすらにネガティブな考えばかり吐き出していく。同時に余計な酸素を消費している上に呼吸まで乱している事に気づいたが、今度は苛立つことは無かった。ただただ恐ろしさだけを感じていた。


 涙で滲んだ視界を視界を乱暴に拭う。辺りを照らす家屋の明かりや街灯などでは男の恐怖という暗闇を安堵の光で照らしてはくれない。今にも何処かの曲がり角から何かが現れるのではないかと慄くばかり。


 だがもう少しだ。あと少しで辿りつく。そこまで行けばきっと大丈夫だ。最後の十字路を全速力で左折しながら男は自分を鼓舞する。「もう少し」という事実が、今にも崩れ落ちそうな男の体に活を与え、踏み出す足は力強さが戻っていた。



 「ッあア!着いた!着いたぁッ!」



 男性の喉からは自然に安堵と喜びの混じった声が出た。その声はかすれているせいか、まるで唸り声のようであったが、そんな事はどうでも良かった。見慣れた周囲の風景と明かりが男性の目的地―――自宅のマンションに着いた事を告げているのだから。

 

 マンション入り口の自動ドアをくぐり、急いでエントランスに駆け込む。学生時代から付き合いのある変わらない光景が、僅かに男性の心に安堵の光を広げていった。

 エントランス隅の管理人室を横目に、マンション内部への自動ドアを開ける為に胸ポケットから自宅の鍵を取り出す。

 自動ドアの横に備え付けられた各部屋へと繋がるカメラ付きインターホンの下部、そこにある差込口に乱暴に鍵を差し込んで即座に捻る。

 滑りが悪いのか、ガァーッと少し擦るような音を立てて開く自動ドアの隙間を縫うように駆けた。


 普段なら迷わずエレベーターに乗って三階の自分の部屋まで行くが、一瞬の迷いの後、脳裏に過ぎったホラー映画の如き想像を振り切るように階段を駆け上がる。階段手前にある郵便受けは無視した。今男性が何よりも熱望しているのは郵便物ではなく、安心だった。


 さしたる時間もかからずに三階の角部屋一つ手前にある自分の部屋まで辿り付く。先ほどまでの背筋が凍るような時間に比べれば、たかだか三階までの距離など瞬きの間に過ぎないと思える。鍵を開け、胸ポケットに鍵を戻すとゆっくりとドアを開けて行き―――半分ほど開いたところで止めた。よくない想像をしたためだ。


 男性は半分ほど開いたドアから目を細めて自宅の部屋の奥を睨む。静かで、暗い、暗い、自分以外帰る者のいない部屋。

 そこは果たして本当に誰もいないのだろうか?



 「………」



 覚悟を決めて玄関に入りドアを閉めると、センサーが反応し天井からパッと柔らかい明かりが灯る。男性は部屋の奥を睨み付けながら、緊張で震える左手で今まで握り続けていた携帯を顔の前に持ち上げた。

 携帯の液晶画面には周囲の風景が透過され、無人の部屋の奥を映し続ける。それを睨む男性の顔は、映るものは何一つとして見逃すまいと緊張に包まれていた。


 そのまま十秒が過ぎ、二十秒が過ぎ、一分を越えようかと言うところでようやく男性は携帯を持つ手を下ろした。その顔からは緊張による強張りが抜け落ち、心からの安堵で満ちていく。



 「ハッ……アハハ……ハァ」



 乾いた笑い声をもらすと、疲れきった体を癒すように玄関にドッカリと腰を下ろす。正直なところもう動きたくは無かった。



 「ハァー……ここにベッドあったら寝てるな」



 安堵から間抜けな言葉が口をついて出た。理解しがたい恐怖体験は終わった。凍えるような不可思議な時間はもう終わりを迎えたのだ。




 本当にそう思ったのだ。

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