06.はらわたをぶちまけた蛙

 道ばたで蛙が死んでいるのを見つけました。

 どうやら車にでも轢かれてしまったのか、見るも無惨にはらわたをぶちまけています。


 それを見て、私は遠い昔を思い出していました。


 私がまだ中学生だった頃の、暑い夏の日のことです。

 駐輪場に自転車を駐めて、ヘルメットを脱ぎふと地面を見やると、アスファルトの上でミミズが干からびて死んでいました。


 その時私はこう思ったのです。


「ああ、可哀想に。ここが土の地面だったなら死ぬこともなかっただろうに」


 翻って現在です。人類が自動車というものを発明していなければ死んでいなかったかもしれない蛙を私は目の前にしていました。


「お前達はそんなに偉いのか?」


 そう、蛙が言ったような気さえします。


 さて、私はどういう感情を抱けば良いのでしょう。憐れみでしょうか?

 けれど、それはなんだか違うような気がします。それこそ「そんなに偉いのか?」という話でしょう。私はこの蛙に触れることすら出来ないのですから。


 命は尊い、とよく言われます。けれどそれは本当なのでしょうか。もしかして、命の前に「人間の」を補って読むべきなのでしょうか。


 私はつい先ほど、メンチカツバーガーを食べたところです。

 生きるための殺生は仕方ないのだ、なるほど、そういう言もあるでしょう。

 けれど、ある自由律の俳人はこんな句を詠みました。


「合掌するその手が蚊をうつ」


 私は幾度となく蚊を殺してきました。単に不快だからです。まあ蚊も舐めてると伝染病を媒介して人を殺す可能性もありますが、その時の私の感情としては、単に不快だから、しかありません。


 人間にとって――、いや、私にとって不快であれば殺して良いのでしょうか。


 都合が悪ければ、人間は割合他の生命に容赦はしません(他の生物もそうであるように)。

 自分の都合でアライグマをペットにして、害獣として駆除します。あるいはブルーギルも。

 田畑を荒らすような動物は駆除してしかるべきでしょう。生態系の保全も進められるべきと思いますし、種間の遺伝的汚染は戒められなければならないと思います。

 なぜならその方が長期的に見て人間の利益に、翻って私の利益になりますから。


 私は蚊を叩き殺すことを否定しませんし、この蛙のことも仕方のないことだった、として済ますでしょう。

 ただ、それに無自覚だった今までの自分が、どうにも気に食わなかったのでここに書き残しておきます。


 結局のところ、私はどこまでもエゴイストなのだ、ということを。

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