07.おなかがすいた
お腹がすきました。甘いお菓子でも食べたいものです。
ふと、なぜお腹がすくのだろうかと思いました。
お腹がすく、という機能がなければ、私はエネルギーが足りていないことに気づかずに活動を続け、倒れてしまうかもしれません。
そう思うと、この体はよく出来ています。
お腹がすいた、そう思ったのはこの私ですが、それを知らせたのはこの私――チュニィではなく、私の体です。
そう思ったとき、ふと、私の中にもう一人の私がいるような錯覚を覚えました。
無意識下に存在して、私の行動を操っている本当の私。
思えば無意識に行動することのなんと多いことか。
思わず心にもないことを喋った経験の一つや二つ、誰にでもあるでしょう。
言語を処理して声に出すことさえ、無意識のうちに人間は出来てしまうのです。
通い慣れた通学路なら、考え事をしながらでも歩くことが出来るでしょう。意識せずに鍵穴に鍵を差し込み施錠し、バランスをとることを意識することなく自転車を漕ぐことが出来ます。
目の前に猫が飛び出てきたなら、考えるよりも先にブレーキをかけるでしょう。その際、体の筋肉のどこを収縮させればいいのか、私は知らないにもかかわらず。
意識的に行動することの、なんと少ないことか!
あるいは、手を上げようと思って上げないことが、私には出来ます。心で強く手を上げよう、そう思っても手を上げないことが出来ます。
意識的であるとはどういうことなのでしょう?
そもそも、私の体を動かしているのは、この私の意識なのでしょうか?
無意識でも体は動くというのに、意識的に体を動かさなければならない道理がどうしてあるのでしょう?
意識的になる前に、思わず言葉を口に出してしまうことがあるなら、無意識の思考がないとどうして言えるのでしょう?
意識せずに言語的な処理や思考が可能だとすれば、意識的な作用の大半は無意識にも可能なのではないでしょうか?
無意識で行動に説明がつくなら、意識の介在を考える必要はありません。それが節約の原理、オッカムの剃刀です。
意識的な作用に思えることも、実はそれは意識的だと思い込んでいるだけだった、いや、その思い込みこそが意識なのだとしたら?
チュニィはこの備忘録を、チュニィ自身の意志で書いているのでしょうか?
この体から、チュニィという主観的なこの私が抜け落ちたとしても、客観的には普段通り暮らしていけるのではないでしょうか。
全ては無意識の産物で、この手を動かしているのは単なる自然法則でしかなく、チュニィという意識は単に自らの意志で手を動かしていると錯覚しているに過ぎないのではないでしょうか?
もしそうなら、チュニィは単なる傍観者です。あるいは、物語を読むだけの存在です。
この世の全ての客観的な事実に因果関係を持てない、あるいは、物語に介入できない、チュニィ=私だと錯覚しているだけの存在でしかなくなります。
もしもチュニィがそういう視点的な存在に過ぎないなら、それは少し恐ろしくもあります。
そんな恐れをここに書いたのも、本当は無意識の私であって、チュニィではないのかもしれないのですから。
チュニィとは、いったい誰なのでしょう?
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