02.惻隠の心

 ある日私が公園のそばを歩いていると、ボールがてんてんと転がってきました。それを追いかけて子どもが公園から飛び出してきました。

 危ない、と思いました。ドラマか何かなら車が突っ込んでくるところです。

 幸い、そのような惨事は起きませんでしたが、もしそうなっていたら私は心を痛め

ていたことでしょう。


 ふと私は疑問に思います。そのシチュエーションで、どうして私は心を痛めるのでしょう?


 似たような話を高校だか中学だかの漢文の授業で習った記憶があります。孟子の惻隠の心です。

 井戸に落ちようとする赤子を見て、人は可哀想だ、と思うはずだ。人には生来憐れみの情が備わっている。

 この惻隠の心は、最大の徳の一つ、仁の始めなのである――そんな感じのお話だったかと記憶しています。性善説の論拠となる考え方でしょう。


 けれど、当時の友人は孟子の説に異を唱えました。彼女は大変な皮肉屋だったのです。


「確かに他人を憐れむ心は生来人間に備わっているかもしれない。だがそれは人間の本性が善であるからではない。単なる進化的な産物でしかなく、そこには善悪の概念など存在しないのだ」


 彼女はこんな感じのことを、かなりフランクな口調で話していたかと思います。

 チュニィという名もなかった、当時の私には友人の言葉はよくわかっていませんでした。


 あれから十年近くが経ち、改めて彼女の言葉を考え直してみます。

 彼女はこう言いたかったのではないでしょうか。

 他人を憐れむ人間が淘汰を生き延びて来た。他者の不幸を喜ぶ利己的な人間のグループは、厳しい自然競争の中で相互に助け合おうとする人間のグループよりも生き残り辛かったのだ、と。

 あるいは人間に進化するずっと以前から、助け合いの精神を持つグループは生き残りやすかったのかもしれません。そういった可能性は考えられなくもないでしょう。

 特に何百何千と子を作るような種と違い、多産でない種にとっては一匹でも多くが生き残るかどうかは大きな意味を持つでしょう。

 さらに、数を頼りに集団で狩りを行ったとおぼしき人類にとって、多少のリスクを冒してでも、危機に瀕する同胞を救おうとしたグループの方が、そうしなかったグループより生き残り安かったのではないでしょうか。


 井戸に落ちようとする赤子を憐れみ、可能ならば助けたいと思うのは、こういう事情からなのかもしれません。

 別に人間が、本来的に善なる存在だからなのではなく。

 単にそうした方が生き残り安かったから、そういう本能を持つだけで。

 もしこの結論が正しいのだとすれば、それはなんだか素敵な気もしますし、どこか悲しい気もします。


 私にはそれが判然とせず、考え込んでしまっていたのでした――背後から、けたたましくクラクションを鳴らされるまで。

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