第九話 夜空より遠く
そうして試験勉強を進めていく。教わった中で最も興味深かったのは「ガイムは人間のみを捕食する」ということだった。ゾーンの外は人間にとって危険地帯だが、人間以外の動物にとってはそうでない。街の外には豊かな自然が広がっているのだ。
「ふわぁ〜……二人ともよくがんばるね。ボクもう眠いや」
あくびを漏らしたルークが眠そうに目をこする。だが、まだ寝るには早い。食堂の壁に掛けられたガイストーン製の時計は、八時を指していた。
「――やったねオズくん! 全問正解だよ!」
「お、マジで!?」
オズはセナが出した問題を解いていた。これで終わりかとオズは気を抜くが。
「じゃあ、つぎは復習のテストをやるよ!」
セナの笑顔が突き刺さる。オズは「はい……」とうなずき紙を受けとった。いつになったら勉強は終わるのだろう。
「じゃあ、今から三十分で解いてね」
「了解です……」
オズはテストを解き始めた。あと、三十分の辛抱だ……。
――しばらくすると、セナは「あっ、そうだ」と立ち上がり厨房へ向かう。ミダに用事だろうか。
「ふわぁー、つかれたー」
姉がいなくなるのを見計らったかのように、ルークはぐっと伸びをした。持ち込んだ参考書の中から、ごそごそと一冊の本を取り出して眺め始める。
それは写真集だった。この世界にはガイストーンから作られた写真機があるのだ。タイトルは『マーガレットちゃんの休日』。熊の顔をした獣人の女の子が、まぶしい笑顔を向けていた。
ふんふん、と鼻から息を吹き出しながらページをめくるルーク。そういえば、バスタージムで猫獣人の受付嬢に話しかけていたな、と思い出し。
「ルークは獣人の女の子が好みなのか?」
「ぐふ。この毛並みがたまらないよね。いったいどんな匂いがするんだろう、ハァハァ……ってオズ! この写真集は貴重なんだ! そんな顔したって見せてあげないからね!」
「――ちげーよ! これは引いてる顔だ!」
目の前の少年は、ケモノ娘フェチの変態だったようだ。よだれを垂らしながら写真集を眺める姿が、整った顔立ちを台無しにしている。
オズは疲れを感じながらも勉強を再開した。
やがてセナが戻って来る。ルークはサッと写真集を隠し、参考書を開いた。無駄にいい動きである。
「オズくん、お腹すいてない? 夜食にサンドイッチ作ったんだけど……」
見ると、セナはサンドイッチを盛りつけた皿を持っていた。不安げな様子でオズに顔を向けている。
「おお! 食べる食べる!」
ちょうど小腹がすいていたので、オズは喜ぶ。
「ホントに? ちょっと自信ないけど、オズくんがきのうおいしいって言ってた〈ブノ〉の肉でサンドイッチ作ったんだ。――あ、ちゃんとルークの分も作っといたからね」
「――い!? いやいやいやいや! ボクは遠慮しとくよ! 夕食がまだお腹に溜まってるんだ!」
引きつった笑みを浮かべ、ルークはザザッとあとずさった。そんなに言うほど食べていただろうか。
「じゃあ、ルークの分も食べていいか?」
「あ、ああ! 言いとも! 全部あげるよ!」
「マジか! やった!」
オズは頬を緩ませながらサンドイッチに手を伸ばす。ルークがぼそりとつぶいた。
「ご、ご愁傷さま……」
「ん? なんだって?」
「い、いやぁ、なんでもないさ。あはは……ボ、ボクちょっとトイレ」
ルークは風のように走り去っていった。その様子を不思議に思いつつも、オズはサンドイッチを口に運ぶ。
ぱくり。サンドイッチを頬張る。おお、けっこうおいし――
そこまで考えて、オズは固まった。
ビリビリとした刺激が爆発し、口内を蹂躙する。“うまい”の対極に位置する不快な味覚が、オズの脳を圧迫した。
――なんだこの殺人的な味は! マ、マズすぎるッ!
「ど、どうかな……?」
セナが上目づかいで聞いてくる。吐き出すのを寸前でこらえ、オズは一思いに飲み込んだ。涙がにじみ出てくるが、オズは無理やり笑顔をつくると。
「め、めちゃめちゃおいしいよ。サイコー」
「――ホント!? よかったぁ!」
胸に手を当て、セナはホッとしたように笑う。この瞬間、オズは覚悟した。セナの笑顔を見られるのなら、これしきのマズさ、たいしたことではないのだ……ッ!
それからオズは「残してはわるい」とサンドイッチを口に運び続けた。刺激的な味に、涙と鼻水が止まらなかった。心配するセナに「泣くほどうまい」と言ったところ、いたく感激したようで、「じゃあ、また作ってあげるね!」というありがたいお言葉をいただいた。
オズは戦慄した。
* * *
オズは蜂蜜食堂のテラス席で夜空を眺めていた。結局あれからバルダに酒を飲ませられ、すでに閉店時間をすぎている。しかし、店内は残った常連客でいまだ騒がしかった。今オズは夜風に当たりに来たところである。
綺麗な夜空だった。一面に無数の星屑が散りばめられている。日本で見た夜の星空は、いったいどんなだっただろう。この世界の夜空は、元の世界と変わらないように見える。自分は日本で生きていた時、こんな風に夜空を見上げたことがあっただろうか。
オズは嘆息した。俺がいた世界は、この夜空に浮かぶ星々よりも、さらに遥か遠くにあるんだ――
「――オズくん、酔って気持ちわるくなっちゃった?」
店内からテラスへ、セナがやってくる。「外の空気を吸ってたんだ」とオズは肩をすくめた。セナはそっかと微笑むと、隣に歩み寄る。そしてオズと同じように夜空を見上げた。
「もしかして、なにか思い出した?」
「いや、なにも。……けど、気づいたっていうか」
「本当? なにに気がついたの?」
セナは空から視線を落とし、オズへ顔を向けた。
しばし逡巡して、オズは決心した。――話そう、自分のことを。
「夜の空を見上げて思ったんだ。……俺は、ずいぶん遠いところに来ちゃったんだなって」
この世界は美しい。でも、だからこそわかる。
空気が、匂いが、光が。自分のいた世界とは根本から異なることに。
「俺はこことは違う、別の世界の人間なんだ」
「――別の、世界?」
「ああ。ガイムも
「そんなところが……」
突拍子もない話のはずなのに、セナは真剣に耳を傾けてくれているようだった。オズは強ばった肩の力が抜けていくのを感じた。
「でも、これだけはわかるんだ。俺の記憶が戻ることはないし、どんなにがんばっても、元の世界には帰れないって。……俺は、この世界で生きてかなきゃいけないんだ」
一拍の後、オズは自分の手に温もりを感じた。テラスの柵を握りしめるオズの手を、セナの華奢な手が包み込んでいた。
「大丈夫だよ。オズくんが自分の居場所を見つけるまで、わたしが一緒にいてあげるから」
慈愛に満ちた笑顔をたたえ、セナは鈴の音のように澄み渡った声でそう紡いだ。オズはそんなセナの目を見つめた。月の光に照らされて、セナの碧眼が淡く輝く。
「どうしてそこまでしてくれるんだ? ついきのうまで、見ず知らずの他人だったのに」
オズが尋ねると、セナは一瞬硬直し、それから手をぱっと離して視線をさ迷わせた。
「そ、それは……! そ、そう! 命の恩人だから! それにオズくん、この世界のこととか知らないことばかりだろうし……わたし、ほっとけないっていうか、その……えーっと」
セナは慌てた様子でまくし立てる。その様子がなにかおもしろく感じて、オズは小さく吹き出した。そんなオズを見て、セナは紅潮した顔を一瞬きょとんとさせる。そして、恥ずかしそうにしながらも、オズにつられてくすくすと笑い出した。
そうして二人はひとしきり笑い合ったあと、夜の星空に目を戻した。吹き渡る夜風が二人の髪を揺らす。星屑の海の中、ひとすじの流れ星がきらめいた。
少年と少女はしばらく、並んで夜空を眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます