Episodi 11 天秤と十字

 ヘロが名乗りを上げた途端、天秤は、ヘロから見て右に大きく傾いた。皇太子は、表情をピクリとも動かさないまま、玻璃でできた錘を持ち上がった方の皿に乗せていった。一つ、二つ、三つ……七つ、八つ、十、十一……。

 けれど、どれだけの錘を乗せても天秤はそれ以上ぴくりとも動かなかった。皇太子は笑みを深めた。

「ほう……これはこれは」

 皇太子はすっと目を細め、ヘロを見つめた。ヘロは瞬きも忘れて、身を固くした。

「ヘロ=ナファネ。そなたは玻璃に酷く愛されているようだね。実に興味深い。そなたは珠玉の勇者として、歴史に名を残すのやも知れないな」

 ヘロは何も言えず、目を伏せてそっと掌を開いてシクルを見つめた。シクルの表面は僅かに曇っていた。シクルは小さな声で、『ふん』と呟いた。

「楽にしてよいぞ」

 皇太子の一声に、ヘロは緩慢な動作で立ち上がった。皇太子はつり合いを取り戻した天秤の縁をそっと指で撫でた。

「この【サタンの天秤】はな、巡礼者の資質を量る、実に性格の良い神器なのだ。我々皇家の務めの一つが、巡礼者の資質をこの天秤で量り取ること――そして それに応じて、巡礼者に課す責務の大きさを調節するのも皇家の務め。神器が選ぶとはいえ、巡礼者も千差万別の能力を有する原石だ。身に余る責務はやがて、 巡礼者自身を蝕み、世界の理から彼を弾き飛ばしてしまうだろうからな。だが……ヘロ=ナファネ、そなたは恐らく、歴代でも最も素晴らしい資質を備えてい る。これならば、我が皇家が――そしてこの連合星全体が、焦がれに焦がれ、夢にまで見た世界の真実の探求を課しても、余りあるだろう」

 皇太子はますます目を細め、楽しげにそう言った。息を細く吐いた後、皇太子は視線だけを上げてジャクリーヌを見た。

「それで……次は【魔道士】の番だな。名を述べなさい」

「はい」

 ジャクリーヌは頭を垂れると左の膝を床につき、右の膝を立てて、ヘロと同じように指を組んだ。ヘロはそれを複雑な思いで見つめていた。【魔道士】はジゼ ルだと言うのに――そしてこの儀式は巡礼者の力量を量る為のものなのに、ジゼルは量るほどもないと判断されてしまうくらい世界に見下されているんだろう か。そう思ったら、忘れていた憤りが、またふつふつとわき上がってヘロは無意識にシクルを親指で撫でていた。シクルは溜息を零した。ジゼルを可哀相だと思 う心は、恣意的なのかもしれないけれど。

 やがてヘロは、ジャクリーヌが目蓋を閉じて頭を垂れる横顔に見惚れた。艶めかしい黒髪がさらりと流れ落ちた。ふと顔を上げると、皇太子がジャクリーヌの 姿に目を細めたのが見えて、ヘロは少しだけ嫌な気持ちになった。ジャクリーヌの所作は完璧で、美しかった。彼女はきっとこれから、神器に選ばれなかった悲 劇の少女としていつまでも語り継がれてしまうのだろう。それが彼女の錘になっていることもヘロはなんとなくわかっていた。けれど不思議なことに、今もジャ クリーヌのことを守ってやらなきゃ、とは一度も思わなかった。そう思うことは、かえって侮辱だとヘロは思っていた。自分で生きる道を探してもがく、ジャク リーヌの心の新芽を摘み取ってしまうことになる。

 それなのに、ジゼルに対しては不思議なほどに、可哀相だとか守ってやらなくちゃとか、庇護欲に近いものが安直に、さらさらと心から流れ出るのだった。ジ ゼルに、自分自身を重ねてしまっているという自覚はあった。杖に選ばれたジゼルがその顔に浮かべていた怯え。それが目の中に色として飛び込んできた瞬間、 ヘロは自分自身でさえ忘れよう、とか見ないようにしようだとか、考えないようにしようだなんて心の片隅に追いやっていた自分の心の琴線を、簡単に手に取っ てしまった。まるで懐かしむように。葬り去った自分の心の原石を、もう一度磨きたくなってしまったのだ。またいつか、自分の心が音を奏でられるように。そ の心の変化は、ヘロにとっては甘美だった。

 人々に否定され続け蔑まれるジゼルは、両親からも星の大人たちからも抑圧され、封じ込めるしかなかった自分自身の夢や願いや幸せをぐちゃぐちゃに捏ね回 して作った泥人形と、似ている気がした。ジゼルの手を引いて旅に出る――自分だけは彼女の手をとりたい、と願うことで、心は簡単に高鳴るのだ。ヘロはジゼ ルの勇者である自分に、自分でも怖くなるくらいに惹かれていた。

「我が名はジャクリーヌ=ヴァルソア。アポロに訪れ、アポロに見限られし者」

 ジャクリーヌは凛とした声で名乗りを上げた。ジャクリーヌの紡いだその言葉に、ヘロは眉をひそめた。見限られし……だなんて、誰がそんな言葉を教えたんだろう。それとも、ジャクリーヌが自分で考えたんだろうか――

 ふとジャクリーヌの漆黒の睫が揺れて、目の端でヘロを捉えた。ジャクリーヌは微かに口角を吊り上げた。どこか寂しそうに。ヘロは思わず、目を逸らしてしまった。

「ふむ。話には聞いている」

 皇太子は目を伏せて、天秤を凝視した。天秤はほんの一瞬、ヘロから見て左に傾きかけ、けれどすぐに均衡を取り戻して動かなくなった。皇太子は感嘆にも似た溜息を洩らした。

「ジャクリーヌ=ヴァルソア。そなたの名で、この天秤は一度傾こうとした。これはそなたの素質が高かったであろうことの、何よりの証拠なのだよ。よほどのことがない限り、神器に選ばれなかった者の名がこの天秤を惹きつけることなどないのだから。さあ、楽にしなさい」

 ジャクリーヌは一礼をして立ち上がった。

「実に惜しいことをしたものだ……」

 皇太子は顔を歪めて、顎を撫でた。ジャクリーヌはただ花が咲くように微笑んでいるだけだ。ヘロはジャクリーヌをちらと横目で見て、再び皇太子に視線を戻した。

「神器が彼女を【魔道士】に選んだ理由には、確証はないが心当たりならあるのだよ」

「皇太子様、恐れながら」

 ジャクリーヌは柔らかく言葉を紡いだ。

「神器の選択は神聖なものです。私は私が選ばれなかったことについて、口惜しく思ってはおりません。ましてや、彼女を恨んだりもしていないのです。私は、この運命を受け入れる覚悟はできております」

「ふむ。そなたは実に美しい心を持っている」

 皇太子は柔らかく笑った。目が細まって、殆ど開いていないようにさえ見えた。けれどヘロには、皇太子がその淡い色の目で今も鋭く自分を観察しているように思えてならなかった。背筋が、僅かに寒く感じられる。

「しかしな、ジャクリーヌ=ヴァルソア。これはそなた一人の納得ですむ問題でもない。そしてそなたは勘違いをしているよ。実に深い誤解を抱えて研鑽を積んできたのだろう」

 皇太子は口角を吊り上げた。そのどこか酷薄な笑みに、ヘロは眉をひそめた。

「かつて人が神の支配を逃れ、神を滅ぼし自由を勝ち取ったことは知っておろう。神を手にかけた魔法を人間は彼方に封印し、神のいた痕跡を全て消し去ろうと した。原始の巡礼者の責務とは、各地に残った女神の証を全て消し去ることを目的としていたのだよ。時が巡りても尚、彼らは【巡礼者】として星々を歩き続け た……。人の力で一度の巡礼では消し去りきれなかった女神の印を消し続けるために。そうして何度も何度も地を削り星を耕し、我々人間は神の痕跡を少しずつ 少しずつ、消してきたのだ。やがて完全に消し去ってからは、再びその印が生えていないか……生えていたならばまた消した……それが巡礼と言うものなのだ よ。この八つ星はかつて女神の一部だった。消せども消せどもやはり時が経てば印は芽生えていく……。気が遠くなるような無駄極まりない作業だ。しかしそれ が、人間にとっては己の生死よりも重要な問題であり、人間はそれに抗い続けなければならないのだ。凄惨な過去を繰り返さぬためにもな。我々に他の安住の地 などないのだから」

 皇太子の言葉に、ヘロとジャクリーヌは顔を見合わせた。ジャクリーヌの顔は、表情ひとつ動かなかった。ただ、目だけが硝子玉のように見開かれ、揺れていた。

「ふむ」

 皇太子は顎を撫でて虚空を見つめた。

「そなたらは、【ではなぜ、神器を手放さないのか】と考えているだろうね? 神器は全て、元は女神の一部から作られた。そして女神の印が世界に芽吹くごと に、女神の印との共鳴力の高い者を呼び寄せる仕組みなのだよ。まるで、女神を復活させようとでもしているようじゃないか? 実に愚かしいことだ。しかし神 器がそれを選ぶことにより、我々は女神の印が地上に再び芽吹いたことを知ることができ、それを消すことができるというわけだ。女神の印と共鳴力が高ければ 高いほど、印を消すことも容易いのだよ。要は、【巡礼者】に選ばれ、また力が強いと言うことは、彼がそれだけ女神に近しい魂を持つ者であると言う証明にな るのさ。だから世界は彼ら【巡礼者】に【巡礼】という形で罰を与えるのだ。真に悔い改めたものだけが人として生きることを許される。悔い改めると言うこと は即ち、女神の印を全て消し去ると言うことだよ。これが【巡礼】の真実――王家と限られた研究者しか知らぬ世界の真実だ。民は長い間【巡礼者】に選ばれる ことは名誉だと思い続けてきたようだがね。だからね、ジャクリーヌ=ヴァルソア。そなたは実に、神器に選ばれなかったことを幸せに思うべきなのだよ。そな たは人間でいられるのだからね」

「なっ」

 ヘロは悲鳴にも似た声を上げた。皇太子は口元を手で覆った。まるで笑ったのを、隠したように見えた。

「そうそう、【魔道士】に選ばれたジゼル=フェルフォーネだがね、あの子は能力もそれ程高くはないそうじゃないか。それなのにあの子は神器に選ばれた。潜 在能力の高いヴァルソア嬢を差し置いてだ。そして彼女はなにやら奇妙な首飾りを常に身につけているね? 聖なる五芒星よりも棘の一つ多い――あれは六芒星 と言ったか。彼女の持つあれは、女神の禁忌に触れるものではないかというのが私の仮説だ。だからこそあの娘が【魔道士】として選ばれた。あれの真実に触れ る何かを彼女が有しているのか……調べはしたのだが、どうやらあの子は幼い頃のことは記憶にないし、実の親も居ないようだね。育ての親ゲルダ=フェル フォーネは我々にとっても曲者でね。のらりくらりと交わすばかりで何も重要なことは告げてくれないのだから、こうして仮説に留まっているのだがね。他の者 はあの娘のことを懸念しているようだが、私は逆に、好機ではないかと考えているのさ」

 ヘロは、表情を変えないようにすることで必死だった。皇太子の口から告げられる事実の羅列に、頭がついていかない。

 俺は、お前達は最も女神に近しい、罪人だと言われたのか。生まれながらにして、世界の罪を抱えて生きていたのか。それを、能力が高いからと喜ぶ親のために、苦しみながら努力してきたのに、それさえ罪の色を濃く染め上げただけだったと言うんだろうか――?

 ヘロは、唇を固く結んだ。ジゼルは土から生まれた、人ではないものなのだとアポロは言っていた。今は混乱するばかりで、何も考えられない。けれど、少な くとも、この男にジゼルの真実だけは死んでも告げてはいけないと言うことだけはわかった。心臓が激しく鼓動している。俺は罪人か。罪を償うために、これか ら女神の印を虫を潰すように消していかなければいけない――アポロが言った意味が、ようやくおぼろげにわかったような気がした。

 ――『今後、何があっても、あの子からあのペルフィア(ペンダント)を取り上げてはならないし、あの子があれを外そうとしたときには死んでも止めるんだよ。君にできることなんてそれくらいさ』

 もし、あの印が……あの六芒星が、女神の印なのだとしたら――

 ヘロはぞっとした。ジャクリーヌが身じろぎしたのがわかったけれど、ヘロは今、ジゼルのことで頭がいっぱいだった。自分が罪人だったことよりも、ジゼルを守らなければならないと急くように感じていた。

 俺は、どうすればいいんだろう。

「つまるところ、女神の印がこうも摘めども摘めども雑草のように芽吹き続けるのは、世界から【種】が消えていないからなのさ。女神の印を地上に芽吹かせ る、魔法の核とでも言うのかな。そしてそれが何かは、あの独立戦争から数百年経った今も尚、わかってはいない。けれどね、私は【ウラノスの地図】が怪しい のではないかと踏んでいるのだ」

「ウラノスの地図は……神器ではありませんか」

 ジャクリーヌが震えた声で問いかける。その横顔は蒼白で、心なしか肩も震えているように見えた。それなのに、凜として表情を崩さない。本当に、心の強い子だとヘロは思った。自分は、自分の表情を動かしてぼろを出してしまわないように堪えるだけで精一杯なのに。

「そう、神器の一つ。そして謎に包まれた唯一の神器なのだ」

 皇太子は人差し指を唇に這わせ、にこりと微笑んだ。

「歴史に名を残していながら、今日こんにちまでそれを見た者は、誰一人存在しない。確かにあるはずなのに、どこにも残されていない。隠し続けられているのだ。英雄ウラノスが意図的に隠したのだよ。人間の手の及ばぬ場所にな。……それがもしも、【種】だとしたら?」

「だけど、ウラノスは英雄なんだろ。人間の味方についた、神に抗った英雄なんだろ」

 ヘロは唸り声を漏らした。何故かはわからないけれど、どうしてもその先を聞きたくなかったのだ。

 ああ、だけど。

 アポロはジゼルを匿っていたじゃないか。英雄なのに。【アポロの縄】よりもジゼルを手元に置いていた。英雄には隠し事が多いって、俺、さっき知ったばかりだ。

「もちろん、ウラノスが裏切り者だと決め付けているわけではない。のっぴきならぬ事情があったのかも知れぬ。しかし、理由やきっかけはともあれ、【ウラノ スの地図】が世界の歪みを引き起こしている可能性は充分にあるのだよ。だから我々はそれを探し出し、遺された謎を解明しなければならないのだ」

 皇太子は淀みなくそう言った。

「あのさあ、」

 ヘロは低い声を零した。握り締めた手の中で、爪やシクルの角が皮膚に食い込み、血が滲むのがわかったけれど、気にしている余裕もなかった。

「なんで、そんなに【女神を消す】ことに躍起になるわけ? 別に特に何の不都合もないだろ。一体どんな不都合があるってんだよ? 歴史も学ばせない、理由 も教えない、そんな風に躾けられた子供が、全員馬鹿みたいに何の疑問も持たずにはいわかりましたなんて二つ返事するなんて思うなよ! こっちは今、あんた に罪人呼ばわりされたんだ! お前の才能も資質も罪人のそれだったんだって言われたんだ!」

「ふむ、そなたは気性がなかなか荒いようだ。精神的には未熟、と言ったところか」

 皇太子は柔和に笑う。ジャクリーヌがヘロの肩に手を添えた。

「ヘロ、やめて。相手は皇太子様なのよ」

 ヘロはジャクリーヌの手を振り払いたい衝動を抑えながら、唇をかみ締めた。

「ふむ、ヘロ=ナファネ。私がなぜこの場に、もはや無関係のはずのヴァルソア嬢を排し、このような機密事項をここでつらつらと垂れ流したと思う?」

 ヘロは皇太子を睨みつけることで応える。皇太子は口の端を吊り上げた。

「【巡礼者】が万一命を落とし、席が空いたならば、我々王族は代わりの巡礼者を立てる権利を有している。巡礼は滞りなく行われるべきだからね。この意味がわかるかな?」

 血の気が引く。

 ヘロはジャクリーヌを振り返った。ジャクリーヌは虚ろな表情をしていた。

 ――こいつ……!

 恨みと憎しみと、色々なものがない交ぜになった感情の渦がヘロの体を駆け巡った。


 ――言うことを聞かないようなら、我々はジゼルを殺すし、そうなったら次の【魔道士】になるのはジャクリーヌなのだよ。


 そう言っている。薄荷色の瞳は、どこまでも穏やかな光を湛えている。


 そんな血塗られた席をジャクリーヌに与えるわけにはいかない。ジゼルを殺させるわけにもいかない。

 ヘロは唇をかみ締めた。体がぶるぶると震えた。口が硬直して、舌はからからに渇いて、言葉をうまく紡ぐこともできない。それでもヘロは声を振り絞った。

「……わかりました。ジゼルを利用し、ウラノスの地図を探し出す。それが俺の、【勇者】としての役目だと言うんですね」

「物分りが良くて嬉しいよ。何、ジゼル=フェルフォーネの魔術の才は最悪だ。端から、あの娘が女神の印を消せるほどの高等魔法を使えるなどとは思っていないのさ。だからむしろ、それしか、そなたらのできる【巡礼こと】はないのだよ」

 皇太子は柔らかく微笑んだ。不意に、上から白い光の筋が伸びて、皇太子の頬を十字形に色づけた。

 その光は、壁に穿たれた細い十字型の隙間スリットを潜り抜けてきた、太陽の光だった。かつての独立戦争の際に、城の中に身を隠し、敵を弓矢で迎撃するために使われた穴なのだとどこかで聞いたことがある。戒めのために未だ塞がれることなく開いた、傷跡のような十字。

 ――でも、まるでこれじゃあ、これからも争いを繰り返すつもりでいつでも使えるように残されているみたいだ。

 ヘロはぼんやりとして、その白い光の筋を見つめていた。皇太子は一層目を細めた。その眼差しはまるで、矢の切っ先のような鋭さだった。そして、その矢を向けられているのはヘロ自身なのだった。おそらくは、ジゼルにも。

 いつだって殺せるのだと。お前達が気付かないうちにそれができるのだと言われているようで。ヘロはシクルを握り、力を緩めて、また握った。シクルは何も言わなかったけれど、それが正解だとヘロは思った。ヘロは視線を落とした。

 自分の腕にも、同じ十字の光の筋が伸びていた。けれどその光が、まるで祈りのように、勇気の証のようにさえみえた。同じ形の穴から射した、同じ太陽の光なのに。

 なんてくそくらえな世界だ。

 皇太子と俺と、何がそんなに違うって言うんだろう?

 皇族と、庶民だから? いつか皇帝になる人と、ただのお飾りの【勇者】だから? 【正義】そのものと、【罪人】だから? 同じ十字の光を浴びているくせ に、皇太子と言うだけで【審判者】なんだろうか。俺は、あのぼろぼろに擦り切れ酷使された、話すことさえできない鏡に選ばれたと言うだけで、自由がないっ てことなんだろうか。今までだって息苦しかったのに。シクルの翼を持っていたって、飛べたって、その空は偽物だ。紛い物なのだ。あのアポロの家の天井のよ うに。透明な硝子の半球が空を騙って広がっているだけ。

 ジャクリーヌを守るためにジゼルを見殺しにしろって? ジゼルを裏切って、世界のために生きろって? あんなに否定を受け止めている女の子を、これ以上まだ裏切れと言うんだろうか。六芒星のペルフィアペンダントを持っている、それだけで? たとえ、土から生まれた、人ではない子供だとして、他の子供とどう違うっていうんだ。その印がきっと肉親の形見なのだと信じ て、必死に縋って生きている普通の女の子なのに。引きつった笑みばかり浮かべて、六芒星を握りしめることしかできないような、可哀相な子供なのに。

 ジゼルをもし裏切ったら、俺は――

「それでは、ヘロ=ナファネ。そなたとジゼル=フェルフォーネには今後も私と共に行動してもらおう。何、これは監視ではない。そなたらの旅をより効率よ く、そして意義あるものにするためだよ。皇族が共に旅をするのだ。心強かろう? 何、このような国家機密を【偶然】知ってしまったヴァルソア嬢の身は、皇 家が保証しよう」

 皇太子は穏やかな声を紡いだ。ヘロは、その氷のように美しい笑みを無表情に見つめた。

「それで、もし仮に、ウラノスの地図が見つかったら?」

「仮、とは随分な言いようだな。無論、その暁にはそなたは英雄となる。罪を償い、歴史に名を残す。歴代の【勇者】の中でも最高の功績となろう」

「あっそ、悪くねえ話だ」

 ヘロは歯を見せて笑った。ジャクリーヌがヘロを諭すようにちらりと見たのが、目の端で捉えられた。

「うむ。物わかりがよい。さすがは【神器】が選んだ勇者だ。先刻の『気性が荒い』という発言は正さねばならない。さて、ではジゼル=フェルフォーネ嬢を迎えにあがるとしよう。そなたはここで待っているがよい」

 皇太子は満足そうにそう言って、首を傾けた。ヘロは笑ったままだった。

「荷物、置いてきてんだけど。そんないきなり旅立ちとか聞いてない。大体、ジゼルは置いてきたんだから戻ってくるもんと思うだろ? 普通さあ。説明不足にもほどがあんじゃないの」

 ヘロは努めて不遜に声を吐き出した。震えてはいけない。悟られてはいけない。皇太子はどこか警戒するように目を細めた。

「ふむ。ならば私がそなたの荷物を取って来よう」

「へえ。別にいいけど。あのゲルダがあんたを入れるとは思えないよ」

「口のほどを弁えろ」

 皇太子の傍に控えていた白装束――恐らくは、惑星プルートの名高い研究員の一人が、見かねたように低い声で唸った。ジャクリーヌもまた、諌めるようにヘロの服の袖を掴む。けれどヘロは、笑ったまま皇太子から目を逸らさなかった。

「ふむ」

 皇太子は表情を消して、目を細めた。

「なるほど、一理あるだろう。あの者に【皇族】という名乗りは通用せぬ。よく知っているよ。ではついてくるがよい」

「だから、俺は荷物を取りに行くだけだっつの」

 ヘロは笑った。

 掌に、汗が滲んでいる。




     *




 アポロは案の定、深い笑みを浮かべるだけで、決して家の中に皇太子や研究員たちを入れようとはしなかった。あの皇太子を言いくるめるその舌には、ヘロも唖然とした。

「アポロだって名乗ればいいのに。そしたらあいつらもあんなに食い下がらないだろ」

「はあ、そんなこと言って信じる人間がいると思うかい? 馬鹿じゃあるまいしね」

「俺のことを大馬鹿だとでも言いたいわけ」

「大馬鹿とは思っていないさ。馬鹿だとは思っているけれどね」

 ヘロがむっとすると、アポロは楽しそうに笑った。

「君は私の話を信じるような気がしたのさ。だって君には、そのシクルが心を開いているみたいだからね。なんならプルートの鏡ともお話できたかい?」

『ふん、やはりばれていたか』

 シクルがヘロの顔の傍を漂いながら、面白くなさそうに呟いた。

「これでも英雄様だからねえ」

『ふん』

 二人のやり取りを見ながら、ヘロは首を振った。

「いや……プルートの鏡は傷だらけで、もう話すことはできなかったんだ。もし話せたとしても俺なんかに話をしてくれたかどうかは分からないけれど」

「そうかい。でもプルートの鏡はシクルそのものだからね。君のそのシクルが君には話かけたがるくらいだ。きっとプルートの鏡だって君には心を開いただろう さ。神器にも抗いようのない相性というものはあるからね。あの鏡は元々人懐っこい子なんだよ。そうだな、むしろ、プルートの方が気難しかった。丁度君のシ クルのようにね」

『ふん』

「ほんっと、あなたは仮にも【英雄】様にさっきから『ふん』しか言ってないな……」

「ちょっと、仮にもって言った? 仮にもって? まったく、不遜な勇者と相棒だよ」

 アポロはやれやれと肩をすくめる。

「それにしても、よかったよ」

 思いの外柔らかい声にヘロが顔をあげると、アポロはまるで少年のように無邪気に笑っていた。

「何が……」

「いや、もう君はここに来ないまま、ジゼルだけが連れて行かれるんじゃないかという可能性も考えてはいたんだ」

「……置いて行くわけねえだろ。そこまで薄情でもねえよ」

 ヘロは目を伏せる。アポロは足を止めた。

「それで? 皇族は何て言ったんだい?」

 アポロは艶めいた笑みを浮かべていた。ヘロはそれをぼんやりと見つめたまま、口を開いた。

「皇太子が……俺達は、神器に選ばれるような俺達は、かつての女神に最も近しい存在なんだって言った。俺達は、生まれながらに罪人なんだって。だから罪を 償うために巡礼をするのが務めってさ。でも、ジゼルは落ちこぼれでまともな【巡礼】さえできないだろうから、せめて、あの六芒星を……禁忌の印を使って、 【ウラノスの地図】を見つけて来いって。それが俺達の仕事だって」

 ウラノスの地図、という言葉を聞いた途端、アポロは目をすっと細めた。それはあまりにも鋭利で冷たい眼差しで、ヘロは背筋がぞくりとするのを感じた。

 この【英雄】を、本当に頼っていいんだろうか。この人は、本当に信用できる人なんだろうか? 俺だって昨日、あれだけジゼルに大口叩いたじゃないか。あんたの養母は信用できない、だなんて。

「俺があなたに聞きたいのは……」

 ヘロは震える声を振り絞った。

「俺はあなたを信用してもいいのかと言うことだよ。それだけ」

 アポロは酷薄な笑みを浮かべた。

「信用? しない方がいいに決まってるだろ。馬鹿だなあ。そのシクルが私に対してそれだけ喧々しているのが見えないの? 君が信用できるとすれば、後にも 先にもそのシクルだけさ。それとも、全ての真実を知った時、君はシクルよりも我々を取るかな? それもまた一興。君がこの星に住まう人間達と同じでありた いなら皇太子を信じればいい。シクルを信じたいのなら我々の言葉は信用してはならない。そして、もしも、」

 アポロは右の口角を釣り上げた。不自然に。

「ジゼルを守ってやってもいいか、と今だけでも思えるのなら、今だけは私のことを信じるがいいさ。だが次に会う時は、私もまた君にとっての信用ならない存在の一つに含まれているかもしれないからね。覚悟しておいてね」

「ねえ、ウラノスの地図って何なんだよ」

 ヘロはアポロを睨みつけながら言った。アポロはにやりと両方の口角を釣り上げた。

「何って、神器だよ。決まってるだろう」

「そうじゃない。それがあなた達にとって、どんな意味を持つのかを知りたいだけだ」

「そんなもの、あの皇太子に聞いたんじゃないのかい?」

「俺は……あなたにとっての意味を聞いている」

 しばらくヘロとアポロは、睨み合ったまま口を閉ざしていた。やがてアポロはへらりとしまりなく笑った。その笑みが驚くほどにジゼルのそれとよく似ていて、ヘロは目をわずかに見開いたのだった。

「私にとっての意味だって? そんなの、ただの『紙切れ』だよ。私にとってはね。他の者にとってはそうではないかもしれないがね。私はただ、ウラノスの地 図だなんて仰々しい名を与えられたただの紙切れが、それが良かれ悪しかれ、この無意味な世界にどんな奇跡をもたらすのかを見たいだけだ。それが見られない なら、これ以上生きている意味もない。ああ、そんな、憐れむような顔で見るのはやめておくれよ」

「そんな顔、してないよ」

 ヘロは苦しい心地で唇を引き結んだ。

「そうかい? でもねえ、君はなんだかとてもね、ウラノスととてもよく似た顔をして見せるのさ。そうか、無意識か。まるで私は、責められているような心地になるんだよ」

「ウラノスの……ことを知らないのに、そんな顔できるわけないだろ。被害妄想なんじゃねえの」

「ははは、そうかもしれないねえ」

 アポロはどこか悲しげに呟いて笑った。

「あなたは……、この世界を無意味だと思っているの?」

 再び歩き出した広い背中に、ヘロは言葉をぶつける。

「あなた達八英雄が、この世界に自由を勝ち取ったのに」

「そうだね、この世界は自由だよ。でも、私達は……少なくとも私は、自由を永遠に失ったのさ」

 アポロはどこか擦れた声でそう呟いた。どんどん遠ざかっていく背中を追いかけるように、ヘロもまた足を踏み出した。



     *



「あ、おかえりなさい……」

 ジゼルが飴色の椅子から勢いよく立ち上がる。抱えたヘルメスの杖の足が椅子の足に引っかかって、椅子をひっくり返した。ヘロは苦笑した。シクルはヘロの頭の上にぽすりと落ちた。

「ジゼル、もう少し腕の筋力つけた方がいいんじゃねえの? それじゃ杖持ってるのも一苦労だろ」

「そうね……うん」

 ジゼルは困ったように笑った。

 ヘロは右の手を差し出した。ジゼルは目を瞬かせて、不思議そうに眉根を寄せる。

「握手」

 少し投げやりな言い方だったかもしれない。

 ジゼルはその手とヘロを交互に見つめて、そして、恐る恐る自分の右手を挙げると、ヘロの手に触れた。ヘロはにっと笑った。胸の奥は、小さな棘でたくさん引っ掻かれた後のような心地だった。

「よろしくな、魔道士様」

 ジゼルは顎を引いて眉根を寄せた。

「……やめて、その言い方。こちらこそ、役に立たないかもしれないけれど……頑張るので、よろしくね………勇者様」

 ジゼルはそう吐き出して、そのまま目をうろうろと泳がせた。思いの外恥ずかしかったのかもしれない。ヘロは繋いだままの手を下ろした。ジゼルが手を放そうと指を動かしたけれど、ヘロはジゼルの手を離さなかった。

 ふう、と深く息を吐く。目蓋を閉じる。

 目蓋の裏側に、サタンの天秤を思い浮かべた。右の皿にはジャクリーヌへの想いが零れそうなほどに溢れている。今になって、自分がジャクリーヌをどれだけ 想っていたのか、痛いほどに自覚していた。左の皿には夕焼け色の指輪が乗っている。ヘロの指にはあって、ジャクリーヌの指にははめられていない。はめられ ることは一生無い。たとえもしもジゼルが魔道士で無くなる日が来たとしても、その指輪はジャクリーヌには与えられない。これはヘロのものだった。そして、 ジゼルのものだった。

 深く息を吸う。どっちをとるだなんて、どっちをとるべきかだなんて、考えずともわかることだった。例えそれで英雄に失望されたとしても、一人の大切な女の子を守ることはできる。誰もヘロを責めることはないだろう。だってそうすることが、当然のことなんだから。

 ふと気づくと、右の皿のジャクリーヌへの想いは、赤い靴へと姿を変えていた。赤い靴。赤い指輪――ジャクリーヌは赤は嫌いだと言った。似合わない、だか ら嫌いだ――そりゃそうだ。似合うわけがない。また、似合う必要もない。最初から決まっていたのだ。ジャクリーヌには赤い指輪は似合わない。

 ヘロは右の手を伸ばして、赤い靴をそっと横に払った。靴は床にこつん、と落ちて、硝子のように破片になった。目蓋を開く。視界に飛び込んできたのは、ジゼルの手を握り続ける自分の手だった。右の手だった。

 この手で俺は、あなたを諦めよう。ヘロはもう一度深く細く息を吐いた。

 俺はあなたとの幸せよりも、もう一人の俺を守ることを望むよ。俺の代わりは他にもいる。だけど、俺の代わりは誰もできない。

 ヘロはジゼルに笑いかけ、ぱっと手を放した。ジゼルは戸惑ったようにヘロの顔を見上げていたけれど、不意に気づいて顔を真っ赤に染め上げた。右の手を ばっと背中に隠す仕草が、なんだか可笑しかった。誰かと手なんて、繋ぎなれていないのかもしれないな、とヘロは思った。そりゃあ、そうか。俺だって、ジャ クリーヌと手を繋いだこと、数えるほどにしかないや。

「ゲルダ」

 ヘロは吹っ切れたような顔でアポロを振り返った。

「なんだい」

 アポロは静かな眼差しでヘロとジゼルを見つめている。

 ヘロはもう一度、ふう、と息を吐いた。

 そうしてアポロに笑いかけると、シクルを指でくるくると撫でた。シクルから放射状に光が伸びる。水色の、パーカトパーカトの画面が空気に揺れた。それはトゥーレと三日前まで一緒にやっていたパーカトパーカトだった。たった三日前のことだ……それなのに、もうずっと遠い昔みたいだ。ヘロはトゥーレへの言葉メッセージを自分のデデラアバターの吹き出しにゆっくりと打ち込んだ。

【ジャクリーヌを、頼んだ】

 その言葉メッセージを送信した後、ヘロはしばらく、画面を静かに見つめていた。ヘロは目を閉じて、もう一度開け、シクルの表面を人差し指で押した。光の勇者達が闇の魔王を倒す――そんな平凡でありきたりで、そして幸せなパーカトパーカト記録データを消去した。もう、こんな子供っぽいことはできない。俺は勇者だから。しかもどうやら、光の勇者にはなれないらしい。なんだか、笑えてくる。

 狡い勇者だ。こんなことしかできない。自己満足でしかなかった。

「ゲルダ、俺達を、どこかへ逃がして。あいつらの……世界の、手の届かないところへ」

 ヘロは目を伏せた。シクルはくるくるとヘロの周りを飛び回って、そっと肩に落ちた。まるで、どこまでもついて行くと言ってくれるみたいに。



 アポロは、長く赤い睫毛を震わせて、自分の髪を――四つ編みに結わえた髪の房を、じゃきり、と鋏で切り落とした。ヘロはもう一度ジゼルの手をとって、そっと握りしめた。




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