始まりはメリークリスマスから

西織

始まりはメリークリスマスから

 始まりはメリークリスマス



 駅前の地面を覆うタイルは、積もった雪で薄っすらと白く染まっていた。

 通行人の足跡が、白い地面を塗りつぶすように付けられていく。彼らにならって新しい足跡をつけながら、私は寒さに震え街を歩く。吐く息が白く、寒さで耳や頬がチリチリと痛む。少しでも暖めようと、手袋をはめた手で耳を覆うのだが、それも気休めにしかならなかった。

 もう十時になるというのに、辺りには多くの人影が見える。今日の日付も関係があるのだろう、普段のように帰宅途中の人ではなく、待ち合わせに駅を利用している人の方が多いようだった。時間を気にするように携帯を何度も見ている女性が、待ち人を見つけて駆け寄る姿が見えた。その満面の笑みは、傍目から見ると嫉妬したくなるほど可愛らしい。

 そんなカップルたちの姿を見ながら、私は改札へと向かう。この浮かれた空気から一刻も早く離れたかった。自然と地面へと向かう支線をゆっくりと上げ、電車の時刻を確認するために、電光掲示板を見上げた。


 ――降雪による、運行遅延のお知らせ。


 表示されている言葉の意味を反芻するとともに、心の中であきらめ半分に毒ついた。

 ついていない。

 こんなことなら、無理に残業などせず、早めに退社しておくんだった。

 自然とため息をこぼしながら、近くの柱に背をあずけた。電車の遅れは一時間ほどらしい。雪の状況から、すでに運行を中止している路線も多いらしいから、その電車を待つ以外に帰る方法はない。それまでの時間をどう過ごそう。

 何ともなしに、携帯電話を取り出して画面を見る。表示されている時刻は十時二分。無機質なデジタル表示を眺めていると、嫌でも思い出してしまう。

 コンビニに置き忘れた携帯電話を取りに行ったのは、今朝のことだった。

 悪いことは重なるもので、慣れない電子マネーなんかを使ったものだから、そのまま店内に忘れて帰ってしまったのだ。自宅で携帯が見当たらず、半泣きになったことを思い出して苦い気分になる。幸い、契約時に自身の番号はしっかりと覚えていたので、なんとか連絡がつき、今日取りに行くことが出来た。

 公衆電話なんて何年ぶりに使っただろうか。番号にしても、契約した時に目にした数字が覚えやすい数字だったからよかったものの、覚えてなかったらどうなったことだろう。

「情けないなぁ」

 どたばたとした今朝を思い出し、そして今の自分のついてなさを思い、心底からそう呟いた。

 一ヶ月前から、どうも調子が悪い。原因は分かりきっているからあえて言及する気はないのだけれど、気にしないでいようとすればするほど、空回りしている気がした。我ながら情けないな、と思いつつ、それでもやはり切なくなってくる。

 気がつけば、待ち合わせに成功したカップルたちが楽しげな声で駅から去っていくのを、自然と恨めしそうな目で見ていた。

「アホらし」

 十二月二十四日。

 今年のクリスマスは、ホワイトクリスマスだ。

 世の中の恋人たちにとっては、さぞやロマンチックなクリスマスになったことだろう。

 独り身である私としては、電車が遅れて帰れないから面白くもなんともない。胸から湧き上がってくる感情は、嫉妬とも羨望とも違う。やるせない感情が心の中を埋めつくす。これが分かっていたから、無理に残業をして時間をつぶしたと言うのに。本当についていない。

 唯一気を晴らすものと言えば、私と同じように一人で寂しそうにしている人たちを眺めることくらいか。

 ただ、この時間になるとそういう人も少なく、これからお楽しみに向かおうとする笑顔のカップルばかりが目に付いた。

 寂しさをため息とともに吐き出したい。いっそこの寒さで、無駄な感情を生む心が凍ってしまえばいいのに。

 寒さの中、ぼおっと人の波を眺めていたのだが、さすがに限界だった。身震いをして、辺りを見渡す。どこかお店でも入ろうか。

 と思って壁から背を話した時に、ふと耳に声が入ってきた。

「……マジかよ。なんだって帰れる日に限って」

 ぶつくさとつぶやくその声に、私と同じ空気を感じた。

 視線を向けてみると、くたびれたコートを着た男が、雪まみれで電光掲示板を見ている。

 年齢は私と同じくらいだろう、二十代後半くらいの男性。初めの印象は、なんだか疲れているなぁという感じだった。先ほどまで外にいたのだろうか。コートには微かに雪が降り積もっており、いっそうくたびれた様子を強めていた。

 なんとなしに彼を眺めていると、ふと、どこか見覚えがあるように思った。

 その横顔を見ながら記憶を探っていくと、やがて一つの名前を思い出した。

「あれ、杉本?」

 何も考えずに、脳裏に浮かんだ名前をそのまま口に出す。語りかける形になったが、彼との間に距離があったから、聞えたかどうかは曖昧だった。

 しかし、彼は私の声につられるように、こちらを向いてきた。

「えっと」

 彼の表情に戸惑いが浮かぶ。

 しかし、それはすぐに思案の表情に変わった。彼は少しだけ悩んだように私を見て、それから名前を呼んだ。

「もしかして、瀬古さん?」

「あ、やっぱり杉本だ。久しぶり」

 意識して彼の名前を呼ぶと、少しずつ記憶がよみがえってきた。高校時代のクラスメイト、杉本貴一。どことなく話やすくて、なんだか不思議な奴だった。

 私が近づいていくと、彼は目を丸くして言った。

「びっくりした。まさかこんなところで瀬古さんと会うなんて」

「うん、ホント。何年振りかな。高校以来だから、八年? いや、同窓会の時に会ってるか」

「よくおれのこと覚えてたね。おれなんて、とっさに誰か分からなかったのに」

 ばつが悪そうに言いながら、杉本はコートについた雪を軽く払い落した。払われた雪は、構内のタイルに溶けて新たなシミを作る。

 スーツ姿の私を見て、杉本は苦笑しながら言った。

「もしかして、電車待ち?」

 私はうんざりした気持ちを隠さずに返す。

「うん。上りの方なんだけど、一時間遅れだって。この雪の調子だと、多分もっとかかると思う。そっちも、路線同じ?」

「あー。こっちは下り。そんでもって、もう運行中止」

 そう言って、自嘲気味な表情をしながら、彼は電光掲示板を指した。見てみると、確かに今日は運行を見合わせるという旨の内容が書かれている。なんと。私よりひどい人がいたか。

 悲壮感を背後に漂わせながら、杉本は疲れた笑みと共に言った。

「久しぶりに早めに帰れるって思ったら、こんなことになっちゃってね。嫌な予感はしてたんだけどなー」

「残業だったの?」

「うん。帰れないことも多いから、今日はましな方。まあ、これなら今日も残業してた方がよかったのかも。珍しく先輩が『今日くらいは早く帰ろう』とか言い出したからこうなったんだけど、その気まぐれも無駄になっちゃったな」

「へぇ」

「そういえば、帰る途中も随分にぎやかだったけど。今日ってなんかあるの?」

 と、間が抜けたような声で、そんなことを言い出した。

「……本気で言っているの?」

 さすがに絶句せざるをえない。

 始めは冗談だと思っていたのだが、あまりにも彼が真顔だったから、おそらく素なのだろうと分かった。いや、しかし、それにしても――いくら忙しかったにしても、街の様子を見て、気付かないものだろうか。

 信じられない、と思いながら、私は言った。

「今日、イブだよ。クリスマス」

「え、今日?」

 私の言葉に、彼はすぐに携帯を取り出すと、画面を見た。おそらくそこには今日の日付が表示されているのだろう。間もなく、彼はショックを受けたように硬直する。それから、誰かに弁解するように言葉を絞り出した。

「て、てっきり、まだ十一月かと」

「……普通、月単位で勘違いするなんてないでしょ。えっと。そんなに、忙しかったの?」

 精いっぱい気を使いながら聞いて見る。

「おれの職場、ほとんどの納期が、月単位じゃなくて週単位で動いているから、日付よりも曜日ばかり意識するんだ。なんかもう、目の前の仕事片づけるので精一杯で。……うわ、ショックだ」

 がっくしと、頭を抱えて落ち込む杉本。

 その様子があまりにも可哀そうで、こちらとしても声をかけられなくなった。

 なんというか、想像を絶する。

 普通に生活していれば、十二月になるとどの店もクリスマスムードになるから、おのずとクリスマスのことを意識してしまうものだと思うけれど。それすらできないほど、彼は忙しい毎日を過ごしていたのか。

 脱力して息を吐いている杉本の姿は、どこか頼り無くて、今にも崩れそうだった。そんな、まだ二十六歳の若者が。

 しかし、彼はすぐに立ち直ると、おもむろに尋ねてきた。

「ねえ、瀬古さん電車待ちなら、今暇?」

「まあ、暇と言えば、暇だけど」

 いきなり何を言い出すのだろう。彼は気恥かしそうに表情を緩めて言った。

「おれ、夕食まだなんだけど、一緒にどう?」

 その言葉は、私の虚を突くようにすっと入り込んできた。

 あまりにも自然だったものだから、私にはその感情をどう扱うべきかわからない。

「それは、もしかして、誘ってるの?」

「うん。誘ってる」

 どこまで本気なのか、彼は緩い表情でニヘラと笑った。

「なんか今日のこと考えたら、一人で食べる気が起きないし。ほら、久しぶりだから、いろいろ話せるんじゃないかって思うからさ。駄目かな?」

 どこか抜けたような、その自然な言い方が不思議だった。

 私としても、誰かと一緒にいたいと思うくらいには、今日という日の雰囲気に当てられていたというのもある。

 杉本の方にどこまで下心があるのか分からなかったが、私は自分の感情が気まぐれだと意識しながら、気づけば「いいよ、どこ行く?」と尋ねていた。

 ひとり者同士のクリスマスだ。


※※※


 食べに行く、と言ってどこに行くのかと思いきや、なんてことはない、駅の敷地内にある喫茶店だった。

 セルフ方式のパン屋のような店で、奥にテーブルが置かれている。適当にケーキを選んで、レジでコーヒーを頼んでトレイで運んでいると、先に会計を済ませていた杉本が席を取って待っていた。

 私は彼の対面に座りながら、聞いて見る。

「こんなお店でいいの? 駅を出たら、飲食店いっぱいあるけど」

「あ、もしかして、もう少し別の店にした方がよかった?」

 私に気を使ったのか、彼は今さらのようにそう言う。

 別に、私自身はどこでも構わなかったのだけれど、彼は夕食のつもりなら、もっとそれらしいところに行けばいいのに。

「いいお店じゃなくても、ラーメンとかでも私は構わなかったよ? 夕食なのに、パンなんかで大丈夫なの」

「おれは、お腹にたまるんなら何でもいいし。どうせなら話やすいところの方がいいんじゃないかって思って。それに、ここだと電車が来たら、すぐに分かるでしょ」

 ああ、と彼の言葉に納得する。彼なりに気遣いはしてくれていたようだ。

 落ちついたので、改めて彼の顔を見る。

 八年前、高校生だった頃の記憶からすると、当然だが年を取っている。

 覚えている高校時代の彼の姿は、どこか自然体で、とらえどころのない男だった。

 女子の友達と男子について話す時、彼の評価は『冴えない』だった。別に不細工と言うわけではないのだけれど、あまり印象に残らないようなタイプ。今思うと、彼自身が他のクラスメイトに比べて、いつも一歩身を引いていたからじゃないかと思う。

 あれから八年たった今でも、評価そのものは変わらないようだ。ただ、その冴えなさが、今は疲れからか幸薄さにも見える。

 その幸薄い彼は、今にも消えてしまいそうなくらい儚い笑顔を保ちながら、質問をしてきた。

「瀬古さんは、最近どう? 仕事とか、何やっているの」

「なんでそんな面白くない話から始めるかな……」

 まあ、恋人でもない相手に、甘い会話を期待するのはお門違いということだろう。

 どうせならもっと色気のある話をすればいいのに、と多少の期待外れを感じたが、そう言うところも彼らしいと思った。

「ここからちょっと歩いたところにある会社でOL。顧客の情報のデータ管理とか、クレーム処理とかの事務仕事」

 答えながら、自分の現在のつまらなさを再確認する。かつて、私も子供だった頃には、当たり前のようにOLになるなんてごめんだ、なんて思っていたものだけど、現実と言うのはやはり厳しい。

 今では、就職できただけでも、ありがたいと思うくらいだ。

「そっちは? 一カ月単位で日付を間違えるなんて、よほど忙しい仕事みたいだけど」

「中小のしがないSEだよ。連日終電帰り。この業界はどこも同じだって言われるけど、まさかここまでとは思わなかったなぁ」

 あははー、と笑う端から幸運が逃げている気がする。本当に大丈夫だろうか。顔色の悪さが、寒さの所為だけに見えなくなってくる。

 人は自分よりも不幸な人間を見ると安心すると言うが、杉本の場合は私の想像を絶していて、ひたすら絶句するしかない。なんというか、クリスマスの空気を感じたくないがために進んで残業をしていたことが心苦しくなってくる。

「じゃあ、久しぶりの休みってことなんだ」

「まあ、電車止まってるし、これから会社にとんぼ返りだけどね」

 おどけた風に、杉本は肩をすくめて見せた。

 とらえどころの無いのは昔と変わらないが、そうした要素が全て疲れに見えてしまうのが、社会人の辛いところと言うべきか。

「瀬古さんはさ」

 温めた所為で表面がふにゃふにゃのカレーパンを食べながら、おもむろに杉本は言った。

「クリスマスを一緒に過ごすような、彼氏さんはいないの?」

「聞きにくいことを直球で聞いてくるじゃん」

 あまりにも直球で聞いてくるものだから、呆れを通り越して関心さえもした。

「見ての通り。そもそも、彼氏がいるんなら、こうしてあんたと食事なんてしないって。――一人で寂しいから、わざわざ残業してたくらい。そしたら電車止まりかけてて、もう災難」

「あー、そりゃあ災難だ」

 心底同情するように、杉本は言った。

 不思議なものだ。同情の度合いとしては杉本の境遇の方が酷いはずなのに、彼は自然と、私に同情してくれるのだ。そうしたところが、彼の印象を良くするのだろう。

 同情は人を傷つけると言うが、同情をされた方が、心持ち気分が良くなると言うことも、往々にしてある。

 始めは気まぐれの暇つぶし程度のつもりだったけど、こうして一人者同士傷をなめ合うと言うのは、何気に最高の判断だったのかもしれない。

 クリスマスと言う、麻薬のような空気に酔えない一人身が、酔ったふりをするには最適だ。

「だからまあ、こうして元クラスメイトと話すだけでも、寂しさを紛らせることが出来て、私は嬉しいかな」

「なら良かった。おれも嬉しいよ。瀬古さんと話せて」

 臆面もなくそんなことを言う杉本が相手だからこそ、私は自然体で会話をすることが出来ていた。

 その後、話題は自然と学生時代の話に移って行った。それぞれの交友関係で、誰が何をしているのかを話したり、高校の頃の思い出話に花を咲かせたり。そんな、どこにでもあるような、元クラスメイト同士の話になった。

 同性とでも話しているような、気楽さ。

 相手が男性だと言うことを忘れそうになっていた。そうした中性的な印象が、杉本にはある。それは高校の頃からそうだった気がする。

 考えてみれば、彼に対する高校の頃の女子たちの『冴えない』という評価は、『男として見れない』ということの表れだったのではないだろうか。

 そこまで考えた所で、ふと、思い出した。

 彼の中に『男』を見いだした女子が、一人だけいたこと。

 それを思い出して、話の流れで、自然と口に出していた。

「そう言えば、杉本って明美に告白されてたよね?」

 有名な話――という程ではないが、色恋沙汰は、学校の中では表面化すると、たちまち広まってしまう。

 バレンタインの日に、女子の一人が杉本に告白したと言う話は、すぐにクラス中に知れ渡った。

 しかし、話題になったのはそれこそ一週間くらいで、その後に春休みもはさんだこともあって、自然と話題性は薄れていった。その後、どうなったのかはまったく知らない。

「そう言えば、その顛末って知らないんだけど、あんたたちってどのくらい付き合っていたの――って、どうしたの、杉本」

 なぜか、杉本は頭を抱えていた。

 やっちまったな、とでも言うような、渋い表情で、彼は頭を手で押さえていた。

「あー。名波さんのことね」

 心底言いづらそうな表情でありながら、しかし言わないという選択肢をまったく考慮していないのか、彼は正直に答えた。

「その直後の春休み中に破局を迎えました」

「え? いや、嘘でしょ?」

 そんなそぶり、まったく無かった。

 話題の名波明美という女の子は、女子のグループの中でも特に交友範囲の広い子だった。だからこそ、こそこそと隠れて行った告白もすぐにばれたわけだが、それなら、破局を迎えた場合も同様に、皆の知るところになるはずだ。

「全然知らなかった。だって、そんなそぶり無かったし」

「そりゃね。そもそも、学校で必要以上に付き合っているそぶりも見せてなかったし」

 ばつの悪そうな表情で、杉本は言った。

「はやし立てられてた時は、それらしく振る舞ったけど、それ以外だと淡白だったんだ。それを理由に、振られました。はい」

「でも、あの子そんなことまったく」

「言えなかったんだと思うよ。だって、その後も普通に友達として関係を続けてたから」

 大したことではないとでもいうような口調だった。

 聞いて見ると、音楽の趣味が合ったらしく、別れた後もちょくちょく二人で会っていたりしたらしい。CDの貸し借りをしたり、一緒にコンサートに出かけたり。そうした姿があったからこそ、誰も破局を迎えていたとは思わなかったのだろう。

 っていうか。

「いや、それ全然別れてないじゃん」

 思わず突っ込んでしまった。

 しかし、杉本はきっぱりと言うのだった。

「あの子との間に、恋愛関係は無かったよ」

 どこか諦めが入っているような、さびしい響き。

 納得のいってない私を前に、杉本はコーヒーを一口口に含んで、間を置いた。

「名波さんに振られた時、言われたんだ。僕は名波さんを見ていないって。『付き合っているのに、私を見ないでどうするの』って」

「そりゃあ、また」

 テンプレ通りの面倒くささだ。

 しかし、気持ちはよくわかる。好きな相手には、いつも自分を気にしていて欲しいものだ。例え身勝手であっても、それが恋愛と言うものだろうと、考えてしまう。

「杉本は」

 当然の流れと言うべきか。

 自然と、私は突っ込んだことを聞いていた。

「明美のこと、好きじゃなかったの?」

「嫌いじゃなかった、とだけ言っておくよ」

 さらりと、彼は私の質問を流した。

「ただ、精一杯好きになろうとしたけど、やっぱり女の子として扱えなかった、って感じかな。その代わり、趣味友達としては、すごく仲が良かったと思う」

「共通の趣味を持っているってのは、好きになる理由として十分じゃないの?」

「そういう人もいるだろうね。けど、おれの場合は違った」

 あくまで淡々と、落ちついた口調で、杉本は続ける。

「趣味を通した付き合いってのは、間にフィルターが掛かるんだよ」

「フィルター?」

「女の子じゃなくて、同じものが好きな子、っていう感じかな。おれの場合、その二つは別だった」

 そこで、杉本は少し迷った様子を見せた。

 急に会話が止まったので、私は怪訝な声を出してしまう。

「どうしたの?」

「いや。ここからは、ちょっと自分の恋愛観の話になるし、興味なかったらうざいかなぁ、と思って」

「そんなの、気にする必要無いのに」

 拍子抜けしたように、そんな言葉がこぼれていた。

 何を今さら言ってるのだろう。

 気が置けない仲とまでは言わないが、高校時代の旧友相手に、気を使う必要もないだろう。

「お互いいい歳だし、別に恥ずかしがること無いじゃん? それに、女子は恋愛の話してるだけで楽しいの。いいから、ほら、言っちゃいなって」

「そっか」

 ほっとしたように表情を緩めて、杉本は言った。

「おれは、人を好きになるってのは、その人自体に惹かれる、ってことだと思ってるんだ」

「? それ、普通じゃないの」

「まあ、普通だと思う。けど、おれの場合、ちょっと幅が狭いんだ」

 彼の口調には、やはり諦めの色が混ざっている。

「『趣味が合う女の子』の場合、どうしてもおれは『趣味』の方に目がいってしまう。女の子である前に、趣味が合うっていうのが、まず目につくんだ」

「それが、フィルターってわけか」

「うん。そう」

 音楽の趣味が合っていた、と聞いた。

 なんとなく想像ができた。杉本と明美は、二人でいる時は、音楽の話しかしなかったのだろう。恋人らしいいちゃつき方とは違って、ひたすら互いの音楽観を話題にする。興味の方向性として、相手ではなく趣味がまずある。

 それは、付き合い方としては、確かに『友人』の付き合い方だ。

「『女の子』としての名波さんを好きになればよかったけど、おれが彼女に興味を持つには、まず共通の興味が必要だったんだ。けどそうしたら、趣味の事ばかりが目立ってしまって、『女の子』という印象が、薄くなっていった」

「最初から、女の子として見れなかったってこと?」

「そんな感じかな。全然気にしていなかったところで、突然告白されてびっくりしたし。なんだか好きになるのが当たり前、見たいな空気も、あまり印象は良くなかったかな」

「え? でも、明美ってかなり可愛かったじゃん」

「可愛いからって、好きになるとは限らないよ」

 さらりと、そんなにくいセリフを吐いてくれる。

 癖なのか、杉本は困ったように首を傾けて息を吐く。それから、ニヘラと表情を緩めた。

「そもそも、おれにとっては、『好き』って感情自体が、よくわからなかったしね。人並みに性欲はあるつもりだけど、身近な女子をその対象にするってのが、どうもイメージわかないと言うか」

「さらりと、性欲なんて言葉言ってくれるね」

 自分が女としてまったく意識されていないことの表れだろう。別にそういう期待をしていたわけじゃないのに、自然と憎まれ口を叩いてしまう。

「あ、気を悪くした? ごめんね」

 変に意識した風もなく謝るところが、なお立ちが悪い。

 多分、彼は誰にでもそうなのだろうな、と思った。

 こうしてある程度恋愛話をしていても、私は彼に、『男』である具体的な印象を抱かない。中性的で、穏やかだ。先ほどなんて、わざわざ『性欲』なんて言葉を使ってきたのに、それに特別な意味を感じることすらできない。

 彼自身が、どこにも深入りしないような人間だからこそ、それが他者にも伝わってしまうのかもしれない。

 まるで境界線上に立っているようだと、思った。

「とまあ、高校時代のおれの恋愛は、こんな感じです」

 変に改まったように、杉本は言った。

「他に浮いた話とかは無かったよ。大学も、男ばっかりだったし、今はこんなだしね」

「そっかぁ」

 思わず、『今は彼女欲しい?』とか聞いてしまいそうになったけど、藪蛇になりそうなので止めた。このシチュエーションじゃあ、まるで誘っているようではないか。

 そんなつもりはないのに。

 と、そこで杉本の方から話題を振って来た。

「瀬古さんは?」

「え?」

「だから、瀬古さんは、これまで付き合ったこととか、ないの? おれにこれだけ話させたんだから、ちょっとくらい聞かせてよ」

 無邪気に聞いてくれる。

 答えにくい話だった。尋ねられただけでも、嫌な思い出が蘇り、脳裏に黒いシミのような感情が広がっていく。必死で目をそらす記憶。滲むような苦味を噛み殺して無視する。

 率先して話したいわけではない。

 けど、これだけ杉本にしゃべらせておいて、私が何も話さないと言うのはアンフェアだろう。

 仕方ないな、と思いつつ、私は白状した。

「実は、一ヶ月前まで彼氏がいました」

「お。へぇ」

 感心されてしまった。

「ちょっと何? その反応。そんなに意外?」

「いや。別に意外ってわけじゃないけど」

 慌てたように、言葉を繕う。

「ただ、彼氏がいないって話をした時、長いこと付き合ってないような雰囲気が出てたから、てっきり」

「まあ、そうね。実際、交流という交流が、あまり男女関係らしくなかったというか……」

 あまり人に話すことではないので、出来れば軽く流そうと思っていたのだが。

 なんというか、杉本の雰囲気に乗せられて、『話してもいいかな』という気持ちになってきた。墨汁のように黒い感情が薄まっていく。場の空気に当てられたように、私は口を開いていた。

「ぶっちゃけちゃうと、ヒモだったのよ。彼」

「そりゃまた」

 同情していいのかどうか判断がつかないのか、曖昧な表情の杉本だった。

 気持ちは分かる。私だって、誰かからこんなことを言われたら同じように困るし、自分でもどうかと思う。

 適当に事情を話して、それでこんな暗い話は止めようと思って、とりあえず端的に、内容を話した。

「年下で、彼が学生だったころから付き合ってたんだけど、卒業しても就職しなくてさ。私の家に入り浸って、お金をせびっては外に遊びに行く始末。挙句に私のお金を他の女とのホテル代にしてたもんだから、さすがに頭に来て三下り半突きつけてやったの」

 後半は嘘だ。

 実際は、彼の方から別れを告げられた。財布扱いされて、浮気されて、その上ふられてしまったのだ。

 口が軽くなったのを自覚して、ちょっと見栄を張ってしまった。あまりにも自分が情けないというのもあったが、しかしその小さな見えが、余計に情けなさを加速させた気がする。

 何してるんだろ、私。

 その情けなさが、言葉を続けさせてしまった。

「そもそも、付き合って一年くらいで、すでに冷めてたんだけどね。それでも別れなかったのは、決定的な理由がなかったから、惰性でずるずると関係が続いたって感じ。最後の半年なんて、まともに口もきいてなかった気がするしね。今思うと馬鹿じゃないかって思うよ。あはは」

 口が回る。

 恥ずかしいことを言ってしまうと、それを繕うために余計に恥ずかしいことを重ねてしまうものだ。薄まっていたはずの黒いシミが、いつの間にか真っ黒に染まって脳裏を塗りつぶしている。泥沼にはまってるな、と自覚しながらも、私はしゃべるのを止められなかった。

「だ、だいたい、酷いんだよソイツ」

 言葉が止まらない。あえぐように私は言葉を重ねる。

「さすがに怪しいと思って、彼が外に出たところを尾行したんだけどさ。そこで女と会ってたから、直接文句言ってやったの。そしたら、なんて言ったと思う?」

 思い返せば思い返すほどに、黒い感情があふれてくる。

 この一ヶ月溜めていた感情が。

 誰にも言えなかった。言う気も無かった感情が、ただ昔のクラスメイトってだけの男を前に、自然と吐き出される。

「『つまんねぇんだよ、お前』ってさ」

 つまんない。

 それが、三年間尽くしてきた私への、元彼の評価だった。

 付き合い始めは、うまくいっていたのだ。私は彼が好きだったし、彼も、私の事を好きでいてくれた自信がある。忙しい合間を縫って会う約束を取り付けるたびに、彼は嬉しそうにしてくれた。彼はゲーム作りが趣味だった。彼は自分の夢について熱く語ってくれた。そんな彼を、私は応援したかった。

 彼の就職浪人という決定的なきっかけから、次第に溝が生まれていった。いつの間にか、私は彼にとって都合のいい道具でしか無くなっていた。

 それに気づいていながら――私は、彼と別れようともしないで、彼に求められるままにお金を渡して、住む場所を提供して、食事を用意して――自分で『尽くしていた』なんて評価をしてしまうほどに尽くして、一体彼に、何を求めていたと言うのだろうか?

 言葉に熱がこもる。

 身体が熱くなる。

 黒い波が溢れて止まらない。

 冷めていたはずの感情が、よみがえる。

「つまんないのはどっちだよって話だよ。自分で稼ぎもしないくせに。言い訳ばかりのくせに。自分勝手なくせに。私がどれだけ尽くしたと思ってるの。私がどれだけ頑張ったと……わ、私が、どれだけ好きだったと。それなのに、あいつはそんなこと何も知らないで。ひどいよね。ほんと、ひどい男。ねえ、そうは思わない――?」

 自然と。

 問いかける形になって、ようやく気付いた。

 私は今、杉本と話しているんだった。

 まるで独り言のように愚痴を話しているつもりだったが、当たり前だが杉本に話しているのだった。八年ぶりだか六年ぶりだかにあった、大して交流があったわけでもない、ただの元クラスメイトの男に、私は自分の恥ずかしいことと、元彼への愚痴を盛大にぶちまけていたのだ。

 やってしまったと、思った。

 カアッ、と頭に血が上る。

「あ、……うぅ」

 は、恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしいッ。

 そもそも、その恥ずかしさを取り繕おうとしていたはずなのに、気づけば黒歴史の上塗りだった。

 馬鹿だ。大馬鹿だ。

 穴があったら入りたい。

 杉本は私の姿にさぞ呆れていることだろう。そう思って、恐る恐る彼の顔を盗み見た。

 ポカンとしたような、間抜けな顔がそこにあった。

「えっと」

 なんて言っていいのか迷った表情を見せた後、杉本は私を正面から見てきた。

「瀬古さんさ」

「は、はいぃッ!」

 思わず畏まってしまう。

 杉本の次の言葉が恐怖だった。急に冷静になってしまった分、先ほどまでの自分の乱れっぷりと言うか暴走を思い出してしまって、どんなことを言われるのか、恐怖で冷や汗が出る。背筋がすっと冷えていくのが、心臓に悪かった。

 恐る恐る彼の姿を見返す。

 杉本は私を見ながら、穏やかに言った。

「ずっと、我慢してたんだね」

「え?」

 予想外な言葉に、思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。

 てっきり、引かれると思ったのに。

 熱くなって馬鹿みたいと馬鹿にされたりとか、なんでそんな男と付き合ったんだよと貶されたりとか、そんなのを想像してたのに。

 なんで、そんなに優しい口調で、言ってくるのか。

 そんなんじゃ、まるで、慰められてるみたいで――

「が、まん……」

 自然と呟いていた。

 身体から力が抜けるかと思った。

 すんでの所で耐えられたのは、ここが駅の中の喫茶店という、公衆の面前を意識したからだ。

 多分、人目のないところで二人きりだったら、私は泣きだしていたと思う。

 私は、そんなに我慢していたんだろうか?

「なんで、そんな風に?」

「言えなかったんでしょ、誰にも。確かに愚痴って、面白く思わない人もいるし」

 自然体でそう言って、杉本は続けた。

「だから、言いたいことがあれば幾らでも聞くよ。どうせこの場限りだし、言いたいこと、言っちゃいなよ」

「そ、そんな。言えないよ」

 なんで、優しくしてくれるんだろう。

 愚痴と言うなら、彼の方がよっぽど言いたいだろうに。日付を忘れるほど仕事に追われる日々を送っているのに、愚痴の一つもないと言うことはないだろう。おそらく私よりも、彼の方が日常への不満は多いはずだ。それなのに、どうして――

「い、イブなのに」

 言い訳をするように、私は言っていた。

「そんな、愚痴なんて。聞いても楽しくないのに」

「そもそも、イブだってこと忘れてたし、関係ないよ」

「う、うぅ」

 言葉に詰まる。

 こんなの初めてだ。

 杉本の、全てを受け入れるとでも言うような、寛容な雰囲気に、私は飲まれていた。どうして、彼はこんなに自然でいられるんだろう。どうして、私はこんなに情けないんだろう。

 さすがに、今さら愚痴の続きを続ける気にはならなかった。

 だから、話題をそらすように、言葉を放った。

「す、杉本は、さぁ」

 我ながら不器用なのには目を覆いたくなるが、もう恥は何重にも上塗りしているので、どうでもよかった。

「さっき、明美のこと、女の子として見れなかったって言ったけど、じゃあどういう子なら、女の子として見れると思う?」

「うーん、難しいね」

 さすがに察してくれたのか、自然と会話に乗ってくれた。そういう察しのいいところも、なんというか、憎らしい。器用な彼に対して、不器用な私が、目立ってしまう。

 そんな私の心境を知ってか知らずか、杉本は当たり前のように答えを返した。

「正直、まだ恋愛の好きってのが、よく分かってないから、具体的には分からないなぁ。そりゃあ、綺麗な女の人を見るとドキドキするし、夜とか寂しいと、人恋しくなるけど」

「あー。分かる。別に好きな相手がいるわけじゃないけど、すごく誰かといたい、って時はあるよね」

 特に異性と、無性に一緒に居たいと思う気持ちは、誰だって経験はあるだろう。

 私だってその元彼と付き合う前には経験がある。好きな相手がいるわけじゃないのに、なんとなく誰かと会いたいような、そんな気持ち。

「そういう人恋しい時に思うのが、『恋』なんだろうな、とはちょっと思うよ。だから、そういう気持ちを抱ける相手が、女の子として好きな相手なんだろうな」

 特に何かを意識したわけでもないのだろう。ただ考えを述べると言うように、彼は告げた。

 続けて、軽いお茶目なのだろう。冗談っぽく、彼は言った。

「だから、今なんかはちょっと近いかも。さびしくって辛い時に、瀬古さんと会えたのは、良かったよ」

「そ」

 そんな。

 多分意識はしていないのだろう。

 杉本の様子は、ぼうっとしたような、自然体のままだ。何の含みもない、まるで独り言のような言葉。おそらくは、いつも通りの素の発言になるのだろう。

 しかし、そんな。

 嫌でも意識してしまうようなことを、言われたら。

「ん? 瀬古さん?」

 私は顔を伏せていた。

 軽く顔を下に向け、そして頭痛を堪えるように、額に手を当てて、顔が見えないようにした。

 今の表情を見られたくなかった。

 それと共に、次々と、杉本と出会ってからの事を思い出した。間の抜けたような、彼の雰囲気。過去の恋愛について語る時の、何かを諦めたような口調。そして、私の愚痴を聞いた後の、優しい言葉。

 ――ずっと、我慢してたんだね。

 他愛のない言葉だったけど、その気遣うような、慰めるような、自然な口調に――一体、どれだけすさんだ心が救われたことか。

 今は多分、杉本の顔を直視できない。熱を帯びている顔が、ますます赤くなってしまうではないか。だから私は、少し目をそらすようにしながら、ぶっきらぼうに言った。

「私も」

「うん?」

「私も、寂しさを忘れられて、良かった」

 ああもう馬鹿が。

 もっと可愛らしく言えないのか私は。

 しかし、それが私の限界でもあった。多分今の私は、何を言っても彼に気があるような言葉しか出せないだろう。そして、そんな言葉を吐いた瞬間、今日のこの空気は台無しになる。

 久しぶりに会った同士だからこそ、この空気は、完成されているのだから。

「ん」

 杉本が、不意に頭上を見上げる。

「そろそろみたいだね」

 杉本の呟きで、私は構内アナウンスが流れているのに気がついた。

 どうやら待っていた電車がようやく到着するらしい。この駅での待ち時間は五分ほどで、それまでに乗車するように、という案内だった。

「じゃあ、この辺でお開きにしますか」

「あ、うん」

 トレイを持って立ち上がった彼に従うように、私も後に続いた。

 店を出てから、改札までは一緒に歩いた。

 どうやら見送ってくれるらしい。

 そういうところも、多分下心なんてまるで無い、自然な行動なのだろう。そう思うと、余計に意識してしまう。

 意識したくないけれど、意識してしまう。

 杉本は。

 杉本貴一は、男の人だ。

 まったく考えもしなかった。中性的な雰囲気と、境界線に立っているような印象の所為で、今までまったく『男』を感じなかった。しかし、一度意識してしまうと、その後はずっと、彼の事が気になって仕方がなかった。

 好き。

 とまで言うには、まだ交流が足りない。

 彼の事を何も知らない。深く語ったのは彼の過去の恋愛くらいで、他は何も知らない。そのことが、酷く恨めしかった。もっと彼と語りあう時間が欲しい。彼の事が知りたい。彼に私を知ってもらいたい。その時間が欲しい。

 そして何より――この優しい人に、優しくしてもらいたい。

 根本にあるのは、その感情だ。男だなんだと言うのは、結局のところ後付けの理由だ。私は、久しぶりに優しくされて、舞いあがってるのだ。ちょろい女と思われてもいい。でも、本当に久しぶりだったのだ。

 建前や同情でもなく、ただ自然と、優しくされたのは。

「名残惜しいけど」

 杉本の言葉で、我に返る。

 気づけば、改札の前だった。

 ここから中に入るのは、帰りの電車がある私だけで、彼はこれから会社に戻る。

 接点はこの駅だけ。生活習慣の違う私たちは、おそらく二度と会うことはないだろう。

「何度も言うけど、久しぶりに話せて楽しかった。瀬古さんとはそんなに話したこと無かったのに、不思議だな。同じ駅を使うし、もしかしたらまた会えるかもね」

「うん、そうだね」

 どうしよう。

 これでお別れになっちゃう。

 惨めったらしいことこの上ない。さっき、この空気を壊したくないから、気があるようなことは言いたくないと言ったのは私なのに、今は彼とつながりたくて必死だ。どうしよう。具体的に、会う予定でも今立てるか? いや、そんな時間は無い。電車はあと三分もすれば出てしまう。杉本と違って、私は終電を逃したら会社に戻るようなことはできない。いや、それかいっそ、ここで彼を誘惑して、ホテルにでも行こうか? いやいや。それはなんというか、発想そのものがおかしい。それじゃまるで、行きずりの男と寝るみたいで、痴女見たいではないか。

 考えが空回りする。

 どうしよう――

「それじゃあ」

 ごちゃごちゃ考えているうちに、杉本は持ち前の自然な空気で、別れようとしていた。

 必死だった。

「待って!」

 何の考えもないのに。

 ただ思わずと言った調子で、呼びとめていた。

「うん? どうかした?」

 間の抜けた口調で、杉本が問い返す。

「忘れ物でもある?」

「そ、そうじゃなくて」

 ああもう、どうすればいい。

 焦った挙句、私はとっさに、口を開いていた。

「ぜろ、×、ぜろッ――」

 それは、数字の羅列だった。

「××××――いち、にぃ、にぃ、よんッ」

 勢いに任せたまま、一気に言いきって、私は彼の顔を見た。

 ぽかんと、彼はやはり、間の抜けた顔をしている。

「え、と」

「け、ケータイの、番号。その、私の番号、覚えやすくてっ。えっと、覚えてるかな。担任教師の誕生日と、今日の、日付」

 私たちの高校三年の時の担任はいい人で、また誕生日の日付が分かりやすかったことから、元クラスメイトはだいたい覚えていた。そして、今日の日付に関しては言わずもがなだ。

 携帯の番号を覚えやすかったから、コンビニに忘れてもすぐに電話をかけることが出来た。

 そして、今も役に立った。

「そ、その」

 役に立った、のだけど。

 ケータイの番号だと言うことを説明しても、杉本は、なんというか曖昧な表情だ。

 そこでようやく、私は彼に拒絶される可能性を意識した。今さらである。これまでは空気を悪くすることばかりを意識していたが、考えてみれば、私の気持ちに、彼が答えてくれる義理は無いのだ。

 迷惑だったかもしれない。

 今さらのようにそんなことを思って恐怖にかられ、恐る恐る、彼に言った。

「連絡、したいなって、思って」

「…………」

 沈黙。

 杉本が黙っているのが、怖い。

 どうしよう、とまた思う。どうしよう。どうしよう、どうしよう。またやってしまった。また暴走して、突拍子もないことをしてしまった。どうしよう。嫌われたらどうしよう。今日の楽しい雰囲気が、ぶち壊しだ――

「電車」

 端的に。

 杉本は言った。

 困ったように首を傾けて、小さく息を吐いて。

 おかしそうに苦笑しながら、言った。

「早くしないと、行っちゃうよ?」

 彼の表情には、笑みがある。

 どうしようもないなぁと呆れるような、そんな苦笑。

「乗り損ねたら、困るでしょ?」

「う、うん」

 その言葉に急かされるように、私は慌てて改札へと向かった。

 最後に、彼の方をちらりと振り返ると、ポケットから何かを取り出す彼の姿が見えた。


※※※


 心臓が張り裂けそうなくらいに暴走している。

 ほとんど駆け込み乗車のような勢いで、私は電車に乗り込んでいた。ギリギリだった。これで乗れなかったらどうしたと言うのだろうか。

 もちろん、心臓の高鳴りは、それだけが理由ではない。

 極力その理由からは目をそらそうとした。けれど、やはり思い返すのは、ついさっきまでの、楽しい時間と恐怖の感情だ。さびしく終わるつもりだった今日と言う日を、特別な日に変えてくれた。その雰囲気を壊してしまったと言う気持ちで、私はいっぱいだった。

 座席に座って、ため息をつく。

 本当に私は、情けない。

 泣きそうだったけど、まだ外なので我慢する。

 けれど――

「え……」

 一瞬、震えを感じた。

 胸元の震えはすぐにおさまった。それが何なのか、すぐにわかった。それと共に、我慢したはずの涙がジワリと目じりに浮かぶ。駄目だ、我慢しろと、必死で抑え込んで、浮かんだ涙は乱暴にぬぐった。電車内にいる時間がもどかしかった。いつもならこの通勤の二十分はすぐに過ぎ去るのに、今日はやけに長く感じた。雪のせいだろうか? それだけが理由で無いことは分かっていた。

 呼吸は落ちついたと言うのに、心臓の高鳴りは収まらない。もどかしさに気が狂いそうだった。今だけは、時間が早く過ぎ去ることだけを考えた。この一ヶ月、ずっと苛立ちだけを抱えていたのに、それが吹き飛んでいた。誰に向けることもできなかった感情が、全て洗い流された気がした。ただ早く、と思い続けた。早く、早く駅につけ。早く外に出たい。そして、早く――

 日付が変わった頃に、駅に着いて電車を降りた。

 我慢できずに、駆けだすようにして外に出た。

 ポケットからケータイを取り出して、待ち受け画面を見る。


 不在着信一件


 その表示を見ただけで、ずっと我慢していた涙が、ボロボロと、こぼれて来た。

 震える手で、ケータイを操作する。かじかんだ手がもどかしかった。思うように動けない指に焦った。それでも丁寧に、履歴を呼び出し、相手の名前が表示されない数字だけの番号を呼び出し、そして、発信した。

 コール音は、二回ほどだった。

 電話に出た相手は、優しげな口調で言った。

「メリークリスマス」

 ああ。

 この感情は、言葉にならない。

 私は涙の隠せない声で、それに答えた。

「メリークリスマス!」

 彼との恋愛は、まだ始まるかもわからない。

 それでも私は、今日が最高のクリスマスだと思った。


FIN

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始まりはメリークリスマスから 西織 @nisiori3

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