初めて

 背後から声がした。


 まるで、金縛りにあったように体が動かない。


 そんな情けない僕の体におかまいなく、土をゆっくりと踏む音が聞こえてきた。それと、何かをずるずる引きずる音。


 動け。動けよ、僕。


 ここにいたら……危険だ。塩山は、狂っている。安全な所まで逃げて、警察に連絡をしなきゃ。


 けれど、頭ではわかっていても、体がまるで言う事を聞いてくれない。


 ヒュウ。ヒュウ。と。


 乾いた音がする。何かと思えば、自分の息で……気が付かない間に、汗もありえないほどかいていた。


 僕は気持を落ち着かせるために目をつぶった。


 はははは。バカバカしい。たかが、女1人だろ? 僕が本気で押さえつければ、どうということはない。


 落ち着けよ、佐藤優。お前の優という名前は、どういう意味だ? 他人よりも優れているという意味だ。僕は特別。優秀。エリート。


 他のモブやザコとは違うんだ。恐怖を感じさせるのは、僕の方。そうだ、教えてやれ、優。自分の偉大さを。


 僕は、自分を奮い立たせると、思い切って目を見開いた。


「佐藤くん」


「う、うわ!?」


 すると目の前にいきなり塩山の顔があって、僕をのぞきこんでいた。


「佐藤くん。どうしたの? すごい汗……それに、顔色も悪い」


「お、おま。お前のせいだよ! 近寄るな! この殺人鬼が!」


 一歩後ずさろうと足を引いたら、何かを踏んでしまった。


「何だよ、邪魔だな!」


 苛立たしげに下を見れば、そこにあったのは……。


「き、木村!?」


 変わり果てた木村だった。


 まるで割れたスイカが制服を着たような、不可思議な物体。それが……今の木村だった。


「お、おい? 大丈夫、か?」


 体を揺さぶってみるが反応は無い。


「死んでるよ。そいつね。呼び出したはいいんだけど。なんだか勘違いされちゃって、タイヘンだったの。いきなり抱きつかれて……気持ち悪かった。私の体は佐藤くんの物なのに。こんな奴に汚されたら、もう生きていけない。適当なウソを付いて油断したところを、後から金づちで殴ったの。ほら、見てよ木村の頭。人間の頭の中ってこんな風になってるんだね。空っぽだと思ってたけど、ちゃんと中身詰まってたよ、こいつ。あは」


 塩山が無邪気に木村の潰れた頭部を指差し、笑った。


 そう、まったく悪意や殺意など見せず、ただ無邪気に。あどけない少女の顔で。


 いつだったか……給食でシチューを分けてやった時みたいに、とても愛らしい笑顔で。


「お前、自分のやったことが解ってるのか!?」


「うん」


「真田も、木村も……こんなことになるはずじゃ……」


「だって、佐藤くんが言ったじゃない。木村を殺せって。私はただ、佐藤くんのお願いを聞いただけ。それとも……」


 塩山の笑みが、邪悪なモノに変わる。


 唇が歪み、目付きが鋭くなった。まるで、別人のように。


 そして、制服のポケットから銀色に光り輝くカッターナイフを取り出した。


 業務用でもなんでもない、コンビニとかで売っている、工作用のカッターナイフ。


 それを自分の首に押し当て、小さな声で呟いた。


「私の事、嫌いなの?」


「え」


「佐藤くんに嫌われた私なんて、生きていてもしょうがない。死んだほうがマシだよ。さよなら、佐藤くん」


「ちょ、ちょ、ちょっとまて! 何やってんだ! 塩山!」


 僕は塩山に駆け寄ると、それを止めようとした。が。


 塩山は急に僕に抱きついてきて、今度は僕の首筋にカッターナイフを押し当ててきた。


「ひ」


 首筋に冷たい感触。


 そして、目の前にはそれ以上に冷たい瞳。


「佐藤くんは、私のこと、好きだよね? ねえ? だって、いつも私の事助けてくれたんだもん」


「ぼ、僕は――」


「キスして」


「え」


「してくれないの?」


 悪魔って奴がこの世界に存在するのだとしたら……おそらく、それは塩山のことだろう。


 塩山は邪悪な笑みを浮べ、僕の首筋をカッターナイフでなでた。


「や、やめろよ」


「わかった。キスじゃ物足りないんだ? じゃあ――」


 塩山は僕から離れると、服を脱いだ。セーラー服も、ブラウスも、スカートも。


「来て。佐藤くん」


 薄布一枚を付けた状態で、塩山は両手を広げる。


 5月とはいえ、まだ肌寒い中で、それも屋外で、こいつは何のためらいもなく衣服を脱ぎ捨て下着姿になった。夜の校庭に、白い素肌と淡い緑色のコントラストが映える。


 まるで、幻想的な……周りには死体が転がっているというのに、それも忘れて僕はただ、塩山の体に魅入った。


 初めてだった。


 脅迫と誘惑。少女の白くみずみずしい肌と、冷たい光を放つカッターナイフ。


 その二つが、僕の思考をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。


 目の前にある女の体。


 ホシイ。


 僕の命を脅かす凶器。


 コワイ。


 せめぎあう二つの思考。


 ホシイ。コワイ。ホシイ。コワイ。ホシイ。コワイ。


「好きにしていいんだよ。私は、佐藤くんの物だから」


 意識が遠のきそうになる。本能が体を支配して、一匹のオスとなってしまうのを、無理矢理理性で引きとめた。


 待て。待てよ。


 これは確かに、大人の階段を登るチャンスかもしれない。


 けれど。こいつはきっと、僕の人生を食い荒らす。これを機に何度も関係を迫ってくるかもしれない。


 危険だ。それになにより、こいつは人を2人殺している。


 僕に飽きたら……僕も、こいつに……殺されるかもしれない。


 だったら、僕の選ぶ道はたった一つ。


「来て、佐藤くん」


「わかった……」


 僕は塩山に向ってゆっくりと歩き出した。

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