恋『人』

 地方スーパー、まるたに。規模は決して大きくはないものの、きめ細やかなサービスと、従業員の笑顔、そしてうまい惣菜で地域に愛されるお店である。


 そのまるたにが、明石のバイト先であった。


「こんちは~」


「あら、明石ちゃん。今日もイイオトコねえ」


「はは。おばちゃんもいい女だよ」


「もう、あんた。口がうまいんだから!」


 パートのおばちゃんといつもの社交辞令を終え、着替えを済ませると明石はタイムカードを打刻する。


「久しぶり、明石クン」


 店内を歩いていた明石は、背中を強く叩かれた。振り向いて、思わず顔がニヤける。


「あ――玲菜さん」


 日向玲菜。大学を卒業したての二十三歳。長くウェーブした栗色の髪と、雪のように白い肌。そして、男の性欲を刺激すること間違いなしの、魅力的な肢体。


「久しぶりって……昨日会ったばかりじゃないですか」


 玲菜は屈み込むように胸元を寄せ、明石に体を密着させる。バイト中であるにも関わらず、二人の周りを甘ったるい空気が包み込んだ。


「明石クンは解ってないなあ。十五時間と四十ニ分ぶりの再会だよ? お姉さんは、この時をどれだけ待ち焦がれたか……フフ」


 妖しさと愛しさをはらんだ美しい女が、目と鼻の先にいる。


「……俺もです」


 明石は、骨抜きにされた。年上でありながら、時に妹のように甘える玲菜は、おねだりのスキルも非常に高い。


「明石クンに、お願いがあるの」


「何です? 俺、玲菜さんの為だったら、何だって……」


「キスしよ」


 お菓子売り場の死角で、客にも従業員にも見つからない場所で、二人の唇が重なった。


 時間が停止したような、それでいて、音が消え去ったような。すべての事象が唇の感触を優先させ、世界が滅ぼうが、周りの人間がどうなろうが、明石にとって玲菜の体温を感じているこの時だけが、全てだった。


「さってと、お仕事しなきゃね。明石くん、食パンの補充お願い。お姉さんは発注業務に入るから。それが終わったら、飲料を片っ端から出していって」


「え? あ、はい。もうちょっとくらい……」


 玲菜はすぐさま体を離すと、仕事モードに入った。その変化の早さに明石は一瞬面食らう。


「バイトが終わったら……続き、しよっか」


「え?」


「お姉さんが、いっぱい可愛がってあげる」


 去り際に玲菜はそういい残し、静かに去って行った。


 明石は、一瞬気を失いそうになった。その言葉が指し示すところは何か。頭が理解する前に、体が反応を示し、思わず下半身に余計な力が入ったのを感じ、前かがみになる。


「っしゃあ。玲菜さんの為にも、俺は……しゃあ!」


 明石のやる気に火が点く。全ては玲菜の為に。もっと簡潔に言うと、可愛がってもらうために。


 明石は下半身の体勢を整えると、早速作業にとりかかった。


 明石はまるたにの日配部門で品出しのバイトをしている。玲菜は先輩アルバイトで、仕事のデキル女だった。


 優しく、可愛らしく、気の利く年上の女性。明石は一瞬で心を奪われた。それでも、明石は女性に対して奥手で話しかけることすら出来なかったが、玲菜のほうから積極的に声をかけてきたので、会話が絶えることはなかった。


 想いを打ち明けてきたのも、玲菜の方から。


 明石は、信じられない気持ちでいっぱいだった。付き合い始めてまだ一週間。それなのに、肌を重ねる段階まで進もうとしている。


 一体、自分のどこを気に入ったんだろう。疑問は尽きないが、そんなことはすぐにどうでもよくなった。


 甘えてくる玲菜。可愛がってくれる玲菜。優しい玲菜。おいしい肉じゃがを作ってくれる玲菜。


 玲菜。玲菜。玲菜。


 初めて出来た彼女に、明石は虜になった。そして、頭の中は玲菜でいっぱいだった。


「お疲れ様です!」


 明石はタイムカードを打刻し、退勤処理を済ませると思わず駆け出した。そして、入り口近くで待っていた彼女の姿を発見し、思わず笑みがこぼれた。


「明石ク~ン。ここだよ」


「玲菜さん!」


「もう~! お姉さん、待ちくたびれちゃった。いけない子ね」


「すみません。あがる寸前でお客さんに呼び止められちゃって……」


「じゃ、いこっか。お姉さんに、付いてきて」


「は、はい!」


 玲菜に手を引っ張られ、まるで母親に手を引かれ歩くような明石。心の中は、穏やかではなかった。


「緊張、してる?」


「え? いや……」


 薄暗い公園の近くを通った時、玲菜が耳元で囁いた。


「ふふ。ガマン、できないんだ?」


「そんな、こと――」


「お姉さんもだよ。すっごく……興奮してる」


「え?」


 甘い香りが明石の鼻腔をくすぐる。目の前には頬を紅潮させた玲菜の顔があり、息遣いも荒く、とろけるような瞳で明石を見ていた。


「ここで――しちゃおっか?」


 女性特有の、柔らかい二つの膨らみを心臓の真上に押し付けられ、明石は息が詰まりそうになった。


 理性のタガが外れる。一瞬、気を失いそうになる意識。


 男の本能が理性を支配しようとした時、後から野太い声がした。


「お楽しみのとこ悪いんだけどさあ。金くんね? できれば、そっちのねーちゃんの体もほしーんだけど、ひひひ」


「だ、誰だ!?」


 振り返れば、そこにはナイフをチラつかせ、汚い服に身を包んだ中年の男の姿があった。


 明石は一瞬で理解する。目的は金と、彼女の体。


 守らねば。初めて出来た愛する人。この身に変えてでも、彼女は守る。


「玲菜さん、逃げて!」


「明石クン!?」


「うおおおおおお!!」


 明石は突撃した。


 何も怖いモノなどない。冷ややかに光る刃も、玲菜の前ではこんにゃく程度にしか見えない。


 理由はないが、何故だか勝てる気がしたのだ。不思議と力が湧いてくる。


「お、おい。てめえ、ナイフだぞ!? 見えねえのか!?」


「玲菜さんから離れろ!! この野郎!」


 もみ合う明石と男。ナイフは行き場を明石の胸か、男の胸か、どちらの命を奪うのか品定めするように、その切っ先を迷わせていた。


 だが、ナイフの答えはすぐに出る。


「へ、へへ。バカな野郎だ。向ってこなきゃ命ぐらいは助けてやったのに」


 明石の腹にナイフが突き刺さっていた。


「玲菜さんから、離、れろ!」


「ち! うぜえ。うぜえんだよ、てめえ!」


「誰か! 助けて!!」


 玲菜が悲痛な叫び声を上げる。


「ち。しくじちまったか……くそが」


 その叫び声を受けて、男は慌てて逃げ出した。


「明石クン!」


「玲菜、さん。無事、ですか?」


「バカ! どうしてこんな危ないことしたの!? 死んじゃったら、何もかも終わりじゃない!」


「だって、俺。玲菜さんの為なら……何だってできるから……」


 明石は、玲菜の腕の中で意識を失った。その顔は、幸せに満ちていた。




「あ~つまんない! ちょっと、このロボット。クサイセリフばっかしゃべりすぎ! 年下の可愛い男の子って設定、やっぱやめときゃよかったかー」


 薄暗い公園の入り口で、明石の体を抱えたまま玲菜が一人呟いた。


「そういう設定にしろっていったの、姉ちゃんだろ?」


「そうなんだけどさあ」


 玲菜の隣には、無表情な日向がいた。


「やっぱり年上タイプに設定しなおしてよ。顔は、ワイルドタイプで。やっぱさ。男は頼れるほうがいいや。こいつ、ぜんぜん使えなかったし」


 玲菜は立ち上がると、明石の体を蹴り飛ばした。


 その拍子に明石はうつむけになり、首筋に『恋人ロボット』と黒く印字された文字がさらされる。


「姉ちゃん。……いい加減にしろよ。俺だってヒマじゃねーんだよ」


「はあ? あんた、弟でしょ? 姉のいうことくらい、聞きなさいよ。使えないわねえ」


「……チ。やっぱ、ちょっと厳しいけど、時に優しいわがままタイプの姉貴って設定。やめときゃよかった」


 相変らず無表情のまま、日向はつぶやいた。


「は? あんた、何言ってる――」


 日向はテレビのリモコンのような物を取り出すと、停止スイッチを玲菜に向けて押した。


「年下の甘えてくる妹タイプに設定し直すよ。姉貴」


 途端に玲菜は意識を失い、明石の横に崩れ落ちた。首筋には『お姉ちゃんロボット』と黒く印字された文字がある。


「もしもし、オヤジ? お姉ちゃんロボット返品しといて。今度は、妹がいいや。小学生くらいの。うん、うん。勉強なら大丈夫。後輩もいるし……まあ、ロボットだけど。うん。じゃあ、そういうことで、よろしく」


 日向は一つ溜め息をつくと、公園に背を向け歩き出した。


 その首筋には、『息子ロボット』と黒く印字されていた。

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