欲望拡大
熱く迸るような感触。その余韻に浸りながら、陽一は駅を目指していた。
ねっとりとした、えもいえない達成感と征服感が頭にこびりつき、まるで夢を見ているような、そんな気分にさせられる。
「おい、そこのおっさん!」
「わ、わしか? 何じゃいきなり!」
陽一は、目の前を歩く中年の男の尻を思いきり蹴った。
男は憤怒を瞳に宿し、睨みつけて来る。当然の反応だ。
「ズボン脱いで、四つん這いになれ」
「は!? 誰が、そんなこと――」
陽一は携帯の画面を男に見せた。それだけで、男の態度が豹変する。
「わかった。脱ごう」
「そうそう! 御利口さん!」
男は人ごみの中でズボンを脱ぎ、パンツ一枚になると、四つん這いになった。
「はははは! ゆかいゆかい! さーて、次は何しよっかなー。お? あれって、ゆりあセンパイ?」
陽一の視線の先には、またしても自販機からジュースを取り出そうとかがみこむ、ゆりあの後姿があった。
「ゆりあセンパイ」
陽一はゆりあの背中を見つけると、軽い足取りで近付き、肩に手を掛けた。
「きゃ!? なに? あなた……確か、二年生の……」
「崎本でーす! ねえ、センパイ。今ヒマでしょ?」
「そんなワケないでしょう。私、これから予備校なの。受験生なのよ。それより……気安く触らないでくれる? 汚らしい。あなたみたいな品性のカケラもない男はだいっきらいなの!!」
「んだと?」
陽一はキレた。
しかし、すぐに邪悪な笑みを浮かべると携帯を取り出した。
「ゆりあー。何してんの? てか、何そいつ?」
「げ、田島……センパイ」
携帯を取り出してすぐだ。陽一の背後からボクシング部の部長で、インターハイ出場経験もある田島が巨体をゆらしながらやってきた。
「あ、田島! ちょっと聞いてよー。こいつ、いきなり私の体触ってきたの!」
ブチっと何かが切れる音。それは、田島の額から発せられた。
「てめえ!! なに人の女に気安く触ってんだよ!? ああ!! 殺すぞ、ボケ」
「へ、へへ。殺されるのはてめーだよ!」
陽一は携帯を差し出そうとしたが、手が滑ってしまい、その隙に田島の接近を許してしまった。
「おいおい? 殺されるのは俺じゃなかったのか? ああ?」
「う。は、離せよ! こ、この筋肉ダルマ! くそ!! 誰でもいい! 誰かこいつをぶっ殺せ!!」
陽一は携帯を持つ手をブンブン振り回しながら喚き散らした。
「わかりました」
「え?」
そう呟いたのは、近くで信号待ちをしていたおばあさんだった。
おばあさんはゆっくり田島に近付くと、杖で弱々しく殴り始める。
「な、なんだ。このばーさん? おい、やめろよ!」
しかし、まるで壊れたおもちゃのように、何度も何度も、田島の太くてごつい足に杖を叩き付けた。
「だめじゃん。もっと、強いの! もっと、他にいねーのかよ! ああ! もう、誰でもいい! このばーさんに加勢して田島をぶっ殺せ!!」
「わかりました」
「わかりました」
「わかりました」
「わかりました」
「わかりました」
「へ?」
見れば、駅前の人という人が、田島に向って歩いてくる。老若男女関係なく、それぞれ色んな武器を手に持ち、生気の抜けた瞳で田島をまっすぐに目指す。
「な、なんだよ、こいつら……」
田島は瞬く間に囲まれた。そして――。
『わかりました』
一斉に。
『わかりました』
鉄パイプ。野球のバット。大根。ナイフ。欠けたビール瓶。コンパス。
『わかりました』
小学生の男の子から買い物帰りの主婦まで、その場にいた誰もが田島の体に向けて、各々の武器を振りかざした。
『わかりました』
「いやああああああああああああ!! 田島! 田島が死んじゃう!! やめてよ! 田島が何をしたのよ!!」
ゆりあの悲鳴。
「ぎ!? あ! や、やめろ! 俺が、俺が何したってんだよおおおおお!!」
田島の喘ぎ声。
「へ、へへへへ。俺に逆らうから……こうなるんだよ」
そして、陽一の乾いた笑い声が街のBGMとなる。
「や、めて。く、さい。俺、あやまり、ますから。ご、ごめ――」
一際鈍い音がしたかと思うと、人々は動きを止めた。
「あ、あれ? どうしたの? みなさん……まさか。本当に、殺し……ちゃった?」
返事はない。その代わりに、陽一の足元に赤い液体がゆっくりと押し寄せてきた。
「人殺し!!」
静寂の街に響いたのは、ゆりあの声。
「え。いや、俺……だって――」
「返してよ! 田島を返してよ!! あんたなんか死んじゃえ!!」
ゆりあは瞳に涙をいっぱい浮べ、真っ赤な顔のまま陽一につかみかかった。
「う、うるさい! 黙れ! 俺に逆らうな!!」
「はい、わかりました」
しかし、それもすぐに収まる。
ゆりあは泣くのを止めると、黙りこくりその場に人形のように立ち尽くす。
やがて、遠くからサイレンの音が聞こえて来て、陽一は我に返る。
「あ、パト、カー? 俺、捕まる?」
一瞬、翌日の新聞の見出しが脳裏を横切った。
「はは、俺にはこのクーポンがあるじゃないか――」
安堵した途端、携帯の着信が鳴った。慌ててそれを確認すると、一通のメールが着ていた。そこには、『クーポン使用期限終了のお知らせ』と書かれたタイトルがある。
「は? 何だよ。使用期限って……」
陽一は慌てて画面をタップする。
するとそこには、『クーポンの使用期限が切れましたので、ランダムで日本国内のどなたかに本クーポンが転送されます。またあなたに巡ってくるといいですね\(^▽^)/』と、顔文字付きで説明があった。
「な、何だよ、そりゃ……。まあ、いいや。どうせ、俺が直接手を下したワケじゃない……捕まるのは、こいつらだ、へへへへ」
陽一はゆっくりと、逃げるようにその場を去ろうとした。だが、携帯の着信音が聞こえてきて思わず立ち止まる。
陽一は慌てて自分の携帯をチェックした。
もしかして、また俺に巡って来たのか!? はやる心をなんとか抑え、携帯を操作する。
「俺じゃねーのかよ」
クソが。そう毒づいた時。
目の前でゆりあが携帯を見つめて笑った。
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