第二部 五話「口無し女」

五話『口無し女』




 相変わらず天気は良いが、今日は少し肌寒い。寒さに弱い刀には、厳しい季節だ。俺は縁側に腰掛け、これからの来る冬の寒さに溜息をついた。

 そう、寒さと同時にこれも覚悟しなければならない。俺は空から手にした用紙に視線を落とした。不本意でも、避けられない事もある。

「……で、どうする? どうすんだぁムラマサ?」

 俺の背後でさっきからそう聞き続けるのは、アンティークショップ河童堂の店主であり、この古い屋敷に一人住む河童。そしてあの閑古鳥が鳴くサイト、如月屋の創設者、川下童家だ。その声は、明らかに苛立っている。

「どうするって……こうなりゃ、やるしかないだろ」

「くそっ、何で俺達があの女の言いなりにならなきゃなんねえんだ」

 川下はそう呟き、机を拳で軽く叩く。俺は振り向き、川下に言った。

「まあ怒んなよ。如月さんのいない俺達じゃあ、今回の事件に気づきもしなかったんだ。下調べは長さんがやってくれた、後はこっちの仕事ってだけだろ」

「……俺は、あいつの手の上で踊らされるのが嫌なんだよ」

「とは言え、こうなったのも俺とあの馬鹿共が山燃やしたのが原因だ。嫌なら俺一人でやる」

「そういう訳にはいかねえだろ……準備してくる」

 川下はそう言って、再度机を叩く。まったく、お人好しなのは親父の代から変わらない。俺は肩をすくめた。

 そして、俺はまた用紙に目を通す。用紙は長さんからの電子メールをプリントアウトしたもので、その内容は長さんがまとめた連続放火事件の推察と、事の経緯。そして清が手に入れた情報と追記された、その放火魔の明日の日程と容疑者の顔の特徴だった。

 そうだ、分かっている。清がこの一件に絡んでいた事について不満はあるが、もう彼女をこれ以上危険な目に合わせる訳にはいかない。ケリを着けるのは、この俺が適任だ。俺は縁側から腰をあげた。

 急ごう、もう正午だ。メモに書かれた明日、水曜日まで、今日しか猶予がない。できる限りの情報を得て、そして明日は、二人に先んじて行動する。それだけだ。




 天と羽、二人と戦った際に起きた山火事が、もう五日も前の話だ。あれから俺は、表立った行動を自粛し、あの火事が忘れ去られるのを待った。

 その山火事より前から、長さんは一つの事件を追い続けていたらしい。それが連続放火事件。長さんはその犯人が妖怪の手によるものだと感づき、ずっと前から調査していたのだという。そういう俺なんかは、山火事の容疑がその犯人に掛けられているというニュースで、その放火事件を知ったというのにだ。

 しかし、五日前の山火事で調査がやり辛くなった。報じられた現場の状況を知る人が見れば、すぐ分かる。あの火事には俺と、矛盾コンビが絡んでいる事を。そして矛盾コンビが絡んでるとなれば、その背後に長将美を想像する者もいるはずだ。その中には当然、長さんの存在自体快く思わない者もいる。そういう連中のせいで、長さんは下手に行動を起こせないのだ。

 だから長さんは花車を利用する事とした。そこに清が加わる事は予想外だったらしいが、とにかく二人は放火魔について調べ、そしてこれだけの情報を手に入れた。

 長さんはその情報と経緯をまとめたものを、如月屋のメールアドレスに送った。俺達も働けと言っているのだ。こんな急な話、やる気を出せと言うのが無理な話だが、流石に放火魔となれば無視はできない。知ってしまった以上、やる事はやらなきゃならない。

「だが、あの女に主導権握らせたままってのはムカつく」

 俺の隣、軽トラの運転をしながら、反骨精神丸出しの笑みを浮かべて川下は言った。

「一矢報いる為にも、まずはあいつも持っていない情報が欲しい」

「あわよくば、それでまどろっこしい事せずに放火魔捕まえられれば、俺も言う事なしだよ」

 そういう感じで、俺達は長さんの手にしていない情報を求め、情報屋の自宅へ向かった。

 情報屋、と聞こえは良いが、これから会う藤井は言ってしまえばギークと言う名の情報オタクだ。ネットから情報を多く仕入れ、それを売っている。また兄も情報屋をやっており、藤井兄は足で、藤井妹はネットを使ってそれぞれ自立して稼いでいる。しかし、聞くに稼ぎ自体は妹の方があるそうだ。

 俺達はアパート一室のインターホンを押した。

「……出ないな。留守か?」

 川下は言うが、ありえないと俺は首を振る。

「いやでも、やっぱ急でもアポ取った方が良かったかな。飯でも食いに行ってるのかも」

「足が着くのもアレだろ」

 そうして俺達は、彼女が帰ってくるまでの数分間、玄関の前で立ち尽くしていたのだった。

「何してんですか? ムラマサさん」

 見れば、藤井がコンビニのレジ袋を手に立っていた。肩口で切り揃えた短めの髪に、長袖のTシャツにピンクのジャージ。そしてゴム製のスリッパ……これぞ引き篭もりの真の姿といった出で立ちだ。

「……待ってたんだよ」

「お仕事で?」

「おう、頼むな藤井妹」

 川下の言葉に、藤井は露骨に嫌そうな顔をし、レジ袋を持ち上げて見せた。

「ご飯、食べてからで良いっすか?」

「いや、ちょい時間ないから、悪いけど食べながらでも良いから頼む。俺らも腹減ったし」

「んー……しゃあないですかね。って、私の食べる気ですか? あげませんよ?」

「鮭オニギリくれ」

「だからあげませんって!」

 藤井はそう言って、玄関の鍵を開けた。

 俺達は部屋に招かれ、俺達は床に直に座る。藤井はこの狭い部屋に不釣り合いな、高そうなデザインの椅子に腰かけ、おにぎり片手にデカいパソコンを起動させた。

「で、どんな情報が欲しいんで?」

「ここ最近、ここいらで起きてる放火事件は知ってるか?」

「知らないっすねぇ……」

「なら鮭くれ」

「川下さんは喋んないでくださいねー」

 藤井はそう言いながらも、パソコンを操作し。

「……あ、これですか。うへ、この辺でも起きてるじゃないですか。やだなぁ」

「その放火魔を追ってる。何か分からないか?」

 ちょっと待ってくださいね。と言いながら、藤井はパソコンを操作する。後ろから見るに、ネットではなくパソコンのファイルを検索で探しているようだ。

「……駄目ですね。こいつの記憶領域にはなさそうです」

「へぇー、こうやって情報を整理してんのな」

「ちょっ、何見てんですか!?」

 川下が身を乗り出しパソコンの画面を覗き込むと、藤井は慌てて画面を体で隠した。

「企業秘密ですから、見ないでくださいよ! もうっ!」

「お、おう、悪かった」

 川下は謝り、腰を下ろした。

 まったく……。などと呟き、藤井は改めてパソコンに向かう。

「やっぱ……うん、やっぱ今の私じゃ力になれそうにないです。何なら調査、依頼します?」

「いや……時間ねぇから今回はいい」

 川下はそう言うと俺に目配せし、立ち上がる。俺もそれに倣った。

「んじゃ、悪いな。こんな時間に」

「いえ、別に」

 俺は玄関に向かおうとしたが、念の為釘を刺しておく事とした。

「あと、今回の件は……」

「他言無用ですよね。心得てますってか、私自身がリアルで手に入れた情報は売らないんですよ」

 足が着くんで。藤井は片手を挙げながら、そう言った。

「それと料金も良いですから。兄貴と違って、私は儲けてんで」

「……そっか」

 断る理由もなし。俺は会釈して玄関に向かおうとするが。

「……あっ、ム、ムラマサさん、ちょっと待ってください!」

 俺達が振り返ると、藤井は少しだけ考えるように額に手を当てて目を瞑り、それからレジ袋からお握りを取り出し、川下に放った。

「んだよ……って、おおう、鮭じゃねえか」

「それあげる。あ、でも玄関で食べてね」

「……良く分からんが、そうしてやる」

 川下はいそいそと玄関に向かった。俺は扉を閉めて、藤井と対面する。

「……で、何か俺に?」

「ええ、ちょっと……ちょっと思い出して」

 藤井は歯切れの悪そうにそう言い、パソコンを操作した。

「ほら、ここ見てください」

 藤井が画面を見せるよう、脇に退く。覗き込んだ画面には、一枚の写真が表示されていた。

 それは全体的に暗い写真で、雨降る森の中、写真の中央に石がポツンと立っているだけのものだ。

「……どこでこれを?」

「どこでって言うか……最近私が目を通す場所にアップされてるんですよ、一カ月くらい前から……そう、放火事件が起きた日に毎回……」

「……これだけが?」

「はい……放火事件が妖怪がやっているのなら、ひょっとしてこれ、如月さんやムラマサさんへメッセージなんじゃあ……」

「……そう、だな」

 確かに、これは俺への当てつけだろう。石は見たことないが、俺はこの森……いや、この雨の景色を知っている。

 俺は財布を取り出し、一万円札を二枚を藤井に渡した。

「良く思い出してくれた。サンキュな」

「あ、いえ……あの、これって」

「口止め料。あと、お前も気をつけた方が良いぞ」

 俺は答える代りに藤井の肩を叩き、川下と一緒に藤井の家から退出した。

 俺達は帰り際に手渡されたお握りを食べつつ、帰路に着く。

「何だかんだ貰えたな、鮭」

 ハンドルを握る為に、口へと無理に突っ込んだお握りを頬張りながら、川下は上機嫌そうに言った。

「餌付けされてんだよ、餌付け」

「かもなあ……で、何だって?」

「……あ、ここで降ろしてくれ」

「ん? おう」

 川下は路肩へと駐車し、俺は車を降りた。

「何か当てでもあんのか?」

「ああ、さっき藤井が教えてくれてさ……お前は先に帰っててくれ」

「……何か、込み入った事情があるっぽいな。まぁ詮索はしないが、大丈夫なのか?」

「ああ、聞いてくるだけだしな」

 俺の嘘に、そうか、と川下は頷くと、発進させて行ってしまった。俺はそれを見送り、タクシーを拾うべく大通りへと足を向けた。写真の地へ行くには、徒歩では遠すぎる。

 あの写真に写った森……いや、あの山は一年前の六月、野槌という妖怪を殺した山だ。あの日も写真のように、雨の降っていた一日で……そうか、あの石は、墓石だ。

 俺はこれから、あの妖怪と縁のある者と会うのか。そう思うと俺の気分は、あの雨の日のように沈んだものとなっていった。




 俺は、人妖霊神、分け隔てなく多くの者を殺した。

 誰かを殺せば当然、禍根が残る。どれだけ注意しようが、言い繕うが、こればかりは完全に消せない。仕事だから、そんな言葉では納まらぬところに、復讐者の心はあるからだ。

 だから、そう、ひょっとしたら今回の一件は仕事ですらないのかもしれない。俺は山道を歩きながら、そんな事を考えた。俺への逆恨みを、俺がどうこうしようと勝手だ。如月さんの出る幕はない。

 一年前、この森で野槌という妖怪を殺した。殺した理由は、人を食ったから。人に害成す妖怪が現れたら、それが妖怪全体の悪意と見られぬ前に対処する。あの状況では、彼を殺すしかなかった。そして、その仲間達も……たった一人を取り逃がしたが、他は皆殺しにした。

 そう、ここまでは仕事だった。俺は記憶を頼りに、画像の場所へと辿り着いた。日が雲に隠されているからか、はたまた生い茂った背の高い木々のせいなのか、森の中は薄暗い。

 そんな中に、まるで忘れられたように野槌の墓石はポツンと置かれていた。そしてそれを忘れまいとするように、墓前に男が一人、胡坐をかいて座り込んでいた。まるで亡霊だ。俺は呼吸を整えた。やはり、まんまと誘い込まれてしまったようだ。

 じゃあ、こっからは俺の私事だ。如月さんが追う事なく、わざわざ逃がしてやった生き残りが、俺をここへと誘い込んだのだから。

「……一人で来たようだな」

「ああ、一年前と同じようにな。その方が都合が良かったんだろ? なぁ、助広? あの時の再現だ」

 男……足切助広あしきりすけひろは顔をあげ、俺を見据える。そして、ゆっくりと立ち上がった。

 ボサボサの鼠色の髪、その底で光る冷たい瞳。痩せた体に長身、一年前と変わらぬ半袖のシャツはボロボロで、落ち武者のようだ。どうみても社会的な格好とは言えない。まぁ、事実そうなのだろう。だからこそ、一年前のような事件を彼らは起こしたのだ。人を食って何が悪いと叫び、人を殺していったのだ。

 その生き残りがこの男、最上大業物、ソボロ助広が一振り、足切助広。そう、この男も俺と同じ、刀の九十九神なのだ。

 一年前には俺が野槌を殺した直後に現れ、俺の腹を斬った。長さん達の助太刀で俺は助かり、彼はどこかへと逃げ去ったのだが……今はここに、こうして俺の前に立っている。殺意に満ちた目で、俺を見据えている。

「答えろ。放火の目的は俺への復讐か? それだけにまた、お前は人に……」

 助広は答えず、黙ってシャツをまくって刀を抜いた。この光量でも充分に光るその刀身は、九十センチは超えているだろう。

「……っは、もう我慢できないってか?」

 上等だ。俺はそう呟きながら、同じように刀を抜いた。

 俺達は互いに構える。独学の中段構えを取った俺に対し、助広は芯が一本、背中に通ったような上段構え。奇しくも、一年前と同じ立ち上がりとなった。

 さて、同じ立ち上がりで結果も同じになれば、俺は腹を裂かれる。今度は助けもなく、八つ裂きになるだろう。

 問題はそう、あの長刀だ。俺のより二十センチは長い。リーチの差は、それだけで勝敗を分かつ要因に成りえる。その差が二十センチともなれば、決定打とさえ言えるアドバンテージだ。

 しかし、とにもかくにも、やる事は一つだ。ここで殺す。それでケリを着けよう。俺は一歩、間合いを詰めた。

 助広が動いた。天を突いていた切っ先が、ガクンと右肩の方へと落ちる。俺は思わず反応してしまい、刃を引いて身構えてしまった。

 しかしそれは、フェイントだった。助広の刃先は弧を描いて右肩から左へと移り、俺の足へと滑り込んできた。

 足切り。名に偽りのない斬り込みだが、剣技としては想定の外だ。俺は草を刈る鎌のようなその一撃を、咄嗟に片足を浮かせる事で躱した。

 何とか踏み堪え、俺は助広に意識を向ける。低い姿勢でいる助広の頭を割ろうと考えたが、その時には助広は刃を俺の喉元に突きつけるようにして構え、ズッと間を狭めていた。

「おわっ……」

 慌ててその刃先を打ち払おうとしたが、刀身はするりとそれを下に避け、一気に胴へと突き込んできた。俺は体を横にずらし、辛くもそれを躱した。

「なろっ!」

 俺は助広に斬り掛かり、同時に助広も前に出た。刃と刃が噛み合い、鍔迫り合いの状態になるが、俺が力を入れると助広は身を翻し、押し込みが空転した俺は助広の背後へと飛び出た。

 背後を取られた。俺は振り返りつつ、刃を振りかぶった。目に映ったのは、俺のへ逆袈裟の形で伸びてくる、助広の刀の煌めきか。

 考えるより先に体が動いた。俺は助広の得物目掛けて、刀を振り下ろした。刀身が打ち合わさる甲高い音がし、俺の腕は下へと振り抜けた。

 折った。助広が舌打ちをし、後ろへと下がる。間髪入れず俺は追いすがり、刀をだらりと下げた助広に斬り掛かるが、助広は後ろに退きつつも的確に躱していく。

 三度目の斬り込みの瞬間、助広は唐突に前に出た。真っ向から振り下ろした俺の刀を、体捌きと刀で捌きつつ懐に飛び込み、体当たりをかましてきた。肘鉄がみぞおちに刺さり、ぐっと呼吸が止まった。鈍い痛みと吐き気を感じながら、俺はよろよろと後ずさる。

 改めて見れば、やはり助広の刀は中ほどで折れていた。抜群の切れ味を持つ日本刀も、横からの衝撃に弱いという弱点を持つ。打ち落とそうとしたものが、思わぬチャンスを生んだ訳だが、結局無駄になってしまった。

 そんな後悔を朦朧としているうちに、助広は手にしていた刀を捨て、新たに体から刀を抜く。そして早足に俺へと迫り、くの字で喘いでいた俺の顔面を突いてきた。

 俺はそれを刀で捌いたが、その突きは妙に軽かった。

 助広の刀の刃先はくるりと身を返し、今度は袈裟切りに斬ってきた。それを弾けばまたくるり、またくるりと鬱陶しく付け狙ってくる。見れば助広は両腕を伸ばし、刀を手首と僅かな挙動、そして踏み込みだけで操っていたのだった。

 小手先の技だが、遊んでいる訳ではない。刀身のリーチを活かし、間を空けず斬りつけているのだ。俺はそれを弾いて前に出ようと考えたが、体が動かない。そこで俺は、自分が呼吸していない事に気がついた。しかし、息を吸おうにも目先の刃に集中してしまって、そちらに気を回す余裕がない。

 どんどん体が強張り、喉の奥から何かが込み上げる。苦しい。助広は冷徹な目を細めた、笑ったのだろうか。

「……うっ……ぁぁあああがっ!!」

 最後の息を絞り出し、俺は強く前へと踏み出して刀を弾いた。すると助広はぱっと退き、俺との斬り合いを嫌った。

 間が開いたのを確認し、俺は膝に手を当てて頭を垂らす。気が抜けると、体が呼吸の仕方を思い出したように呼吸を再開した。

 しかし、どうだ。このままの調子で勝てるだろうか。俺は息を整えながら考えた。息切れしてる俺に対し、向こうは涼しげだ。それにどう考えても、腕は向こうが一枚上手だ。千載一遇のチャンスも逃したばかりか、返す刀でこの様だ。

 助広は折れた刀を一瞥し、構え直した。上段の構え、前と同じだ。息が整え切れていないが、俺も中段に構える。しかし。

「おいおい、殺しちゃマズいって分かってるか、足切ぃ?」

 横合いから響く、ドスのきいた声。声の方を見れば、木に身を預けた大柄の男が不敵な笑みを浮かべ、こちらを見下ろしていた。

 例の放火魔の特徴にも当てはまらない、、まだ仲間がいたか。俺は二人が視界に入るよう、後ろに退く。男は悠々と歩き、俺達の間に割って入った。

 その風貌は、如月さんに近い印象を俺に与えた。言うならば、隠す気のない強者の風格だ。黒いフライトジャケットに身を包んだ屈強な肉体、独特の迫力がある目つき。後ろに撫でつけた黒髪と、もみあげへと繋がった髭はまるでライオンのようだ。

 助広が露骨な舌打ちをするが、男は取り合おうともしない。俺をじっと見て、それからニヤリと笑った。

「……間違いない。よぅ、久しぶりだな」

 ドクン。と、心臓が跳ね上がった。何を言っている。俺は、俺の記憶の限りでは、こんな男は知らない。忘れるような風貌でもない。なのに、こいつは何と言った。

「話は聞いている、記憶をなくしたんだって? 顔つきも昔とは違うな」

 俺が黙っていると、男はジャケットの袖を捲くった。男の二の腕には、刀傷らしきものが一筋、くっきりと残っていた。記憶にないが、俺の右腕が僅かにそれに反応した。

「何年経っても、この傷だけは消えなかった。思い出さねえか? 俺はあの頃のお前と、決着を着けたいんだが」

 男は笑いながら、腰を落として脇腹に手をやった。そして勢い良く引き抜いたのは、身の丈はあろうというような大太刀であった。それも、回天坊のものより遥かに長く、分厚い。並みの人間が扱える代物には見えない、おそらく使い手を選ぶ一品ものだろう。

 そしてこいつも、俺や助広と同じか。しかし、そんな事はどうでも良い。とにかく止めてほしい。男の言葉に血の気が引いていくが、同時にどす黒いものが腹の底から湧いてくる。それ以上語るな。今の俺の前から消えろ。自分でも不思議なくらいの拒絶反応と殺意が、視界さえも霞ませていた。

「……へっ、何の因果か、まーたお前と対峙するとはなぁ。あの……」

 俺は駆け出した。もう、一言だって喋らせるか。獣のように飛び出せば、視界は一気にクリアなものとなった。引いた血が逆流したかのようにカァッと体が熱くなり、刀の先にまで血管が通っているような感覚がした。俺は唸り声をあげながら、男の脳天目がけて刀を振り下ろした。

 男は大太刀を肩に担ぎながら、事もなげにそれを避ける。上半身が前倒れになるほどの空振りをした俺は、それでも男に牙を剥く。手当たり次第、がむしゃらに刀を振るうが、男は体捌きだけで軽々避けていった。

「そう、その顔だ! やればできるじゃねえか! だが……」

 男は大太刀を肩から降ろし、払うように振った。受け止めはしたもののバランスを崩し、俺は膝を着いて転んだ。男は俺を見下ろし、叫んだ。

「それで精一杯か……!」

 俺は立ち上がりながら叫んだ。理由も分からぬ衝動と、殺せない苛立ちに叫んだ。横薙ぎに刀を振り抜いたと同時、俺は左手を突き出し、下がろうとしていた男の胸ぐらを掴んだ。男の双眸が驚きで開く。

 交差法で俺は突きを放つ。男はそれを大太刀で軌道を逸らせ、顔の脇へと持って行ってしまった。男は笑みを浮かべ、囁いた。

「惜しい」

「……ぐっ!」

 俺は腹から何本もの刀を噴き出させた。しかし、その直前に男は大太刀を持った右腕を俺の顔面へと伸ばしてきた。

 横に捻るような、顎への衝撃。気がつけば俺は、腹に刀を出したまま男の足元に転がっていた。

「……それでも、手は離さない、か」

 男の呟き声と同時に、左手に痛みが走る。ボトリと落ちた左手を見ながら、俺は目の前の事象に考えを巡らす。

 グラついた視界の中、俺は立ち上がった。男は両手を広げながら、後ろに下がっていく。立ち上がって刀を握り直すも、腹の刀が邪魔だ。俺はするすると刀身を戻していった。

 顔を動かすと、ミチミチと首回りの筋肉が悲鳴をあげる。構うものか。俺は刀を上段に構え、飛び出した。男は大太刀を八相に構え、それを迎え撃つ。

 飛び掛かる俺に、男は刀を横薙ぎに振るった。同時に俺も刀を振るう。

 刃と刃が噛み合う感触はなかった。ただ、屈んだ俺の頭上で電車でも通ったかのような風圧を感じただけだ。届いた。そう確信したのに、手応えがない。手にした刀を見れば、それは握った手の少し上の辺りから真っ二つに斬り飛ばされていた。

 負けた。そう感じた瞬間には、こめかみに裏拳を叩き込まれていた。意識が一瞬遠のいたが、首の致命的な痛みがそれを留めた。しかし、ふらついた足腰を何とか踏み止まったものの、体が痺れて指一本動かせない。

「ぐっ……あぁ……!」

 俺は男を睨みつける。対して男は、そんな俺を見定めるようにじっと眺めていたが。

「……ふん、まぁ聞けよ」

 そう言って、男は俺を軽く突き飛ばした。それだけで俺は、容易く尻餅を着いてしまう。

 俺の前に助広が立つ。その眼は、憎しみに満ちている。

「おい、待てよ足切。俺の指示に従ってもらわなきゃ困る。そいつはまだ必要なんだ」

「アジトの連中は、話に聞く川下とやらにでもやらせれば良い……それにお前を雇ったのは私だ、邪魔をするなムメイ」

「金城が動いちまってんだ、河童如きにあいつは殺せねえ。それに、俺が如月をやる代わりにこいつは譲る、それも契約のうちだったろ」

「………」

「それとも何だ、お前だけで事を成せるのか? 如月童子を殺れんのか?」

 助広は俺に背を向け、男の方を見る。男は肩をすくめ、刀を体内に戻した。

 その様子に溜息をつき、助広も刀を納めた。

 何を言っているのだ、この男達は。如月さんを殺す、そう言ったのか。

 刀を納めた助広は、チラリとこちらを一瞥し、口を開いた。

「……あの鬼にも伝えろ。貴様らは一年前、野槌を罪人として殺し、その主義も異端のものとして処理した。だが……知っているだろう? 妖怪の多くは、人間に媚び売る事しかできぬ今の弱腰の体制に飽き飽きしている。それを貴様らは、ただ力で抑えつけていただけに過ぎない」

 それも良いだろう。助広はそう語ると、こちらに振り返り叫んだ。

「勝てば官軍っ! 歴史は勝者が創るのなら、次に勝つのは我々だっ! その為に私は、一日千秋の思いでこの一年を準備に費やしてきたっ!」

 怒りに満ちた目で俺を睨み、激情に拳を握りしめ助広は語る。

「今に見ているがいい。この千年続く体制を叩き壊し、これからの歴史は我々が創る……! そして貴様らは、人の犬に成り下がった反逆者として歴史に刻んでやる……!」

 助広は踵を返し、去っていった。それと入れ替えに、男がこちらに歩み寄る。叩き斬ってやりたいが、尻餅を着いたこの体は、そのままピクリとも動かない。

「そういうこった。で、俺はアドバイザーとして雇われたって訳だが……あいつの言う体制だの歴史だのには興味はない。刀は使われてなんぼだ、相手はその時々の時流が決める」

 そう言いつつ、彼は俺のポケットに何かを押し込んだ。

「脳震盪が回復したら、ポケットを見てみろ。お前にはまだ、働いてもらわなきゃならないからな」

 そして俺の顔を掴み、自分の顔へと向けさせる。

「この顔を良く見て、次に会う時には思い出しとけよ。名はムメイ、銘も印さされてない刀だが……はっ、それはお前も同じか」

 じゃ、お休み。そう言って笑い、ムメイは俺の額にデコピンをした。

 その衝撃で、俺の上半身は後ろへと倒れる。背への衝撃で、俺の意識は曖昧なものとなっていく。

 掠れていく意識の中で、俺は忘れまいと反芻した。ムメイ、あの男だけは殺さなければならない。

 あの男は、俺の失くした過去を、忌避していた過去を知っている。




 冷たい肢体が、硬い石の感触を掴んだ。手を動かし、土になろうとしている落葉を握る。

 まだ生きている、こんなにも体は冷たいのに。何の為に生きている。

 ……そうだ。ムメイ、あの男。それに足切助広。俺は身を起こし、辺りを見渡す。周囲は暗くなっており、足元さえ良くは見えない。

 頭が痛い。二日酔いのような鈍痛が、除夜の鐘のような間隔で頭に響く。俺はそれに呻きながら、ポケットをまさぐった。ガムくらいの大きさの硬い何かがある、俺はそれを引っ張り出し、ゴロンと横になってそれを見た。

 薄闇と、西から差す夕日の光に掲げたそれは、USBメモリのように見える。つまり、ここでは何も分からない訳だ。しかし俺は、立ち上がる事もなくそれを頭上で弄んだ。頭が痺れているせいか、立ち上がる気もしない。休み明けの寝起きに似ている。立ち上がろうとする意識がどこかに行ってしまったような、最初の一歩を踏み出せない感覚だ。俺は目を閉じた。

 しばらくそうやって暗闇に身を沈めていると、触覚と聴覚ばかりが意識を支配する。足音がした。静かに慎重に落葉を踏む、僅かな音。これが獣の感覚なのだろうか、それとも山そのものの感覚か。五感の鈍い俺でさえ、音の主が俺を意識しており、だんだんと近づいてきているのが手に取るように分かる。

 すぐ傍まで、それは来た。目を開けると、空に伸びる枝木しか目には映らない。だが、それは確実にいる。俺は口を開いた。

「……よう、全裸」

 コツンと、頭を軽く小突かれた。

 それから、どたどたと川下がやってきて、俺は山から救助された。

 麓に停車された軽トラックの助手席に座らせ、川下は簡単に手当てをしてくれる。俺は手当てを受けながら、清にメールをした。今夜は川下の家に泊まると。

 送信後、すぐに返信が帰ってきた。冷凍庫のアイスは全部食ってやるだそうだ。

 俺はそれを川下に伝えて笑うと、川下は顔をしかめた。

「良いのか、言わなくて?」

 良いんだよ。俺は即答し、ケータイをポケットにしまった。

 隣にいる透明人間が、また頭を小突いてきた。




 熱い。体が熱い。

 血を流しているのか、左足に液体が伝う感触がある。

「待っていろ、家康っ……!」

 声が聞こえる、俺の声だ。ここは、どこだ。

 自然由来とは思えない鉛色の空。血煙と鉛の臭い。ここは戦場か。

 俺は右手に刀を、左に何か重い物を持ち、左足を引きずって平野を進む。四肢の感触は当に消え、体が重い。さっさと地に体を落としてしまいたいが、その時はあの男も道連れだ。

 背後に聞こえる、戦場の轟き。それを余所に、俺は一心不乱にある地を目指している……どこへ行く気だ。

 この戦いは、俺達の負けだ……やめろ。

 あの男は、死んでしまった……聞きたくない。

 あいつも、ここにはいない……黙れ。

 後は、俺だけだ……思い出したくないんだ。

 もう、全てを終わらせよう……思い出して、今さら何になる!




 熱い。体が熱い。

 目を開ければ、白い板が一面に広がる。水滴が滴るそれは……天井だ。そうだ、ここは川下の風呂場か。

 どうやら、入っているうちに寝てしまったらしい。いや、気絶と言った方が良いのか。川下宅に戻ってすぐ、まずは泥と血を落とせと川下に言われて入ったが、湯船まで張っているのでつい入ってしまった。我ながら馬鹿な事をしたもんだ。

 俺は湯船から立ち上がり、そして気づいた。左足に、覚えのない傷跡がある。

 俺はそれをじっと見つめ、撫でつける。太ももの、膝の少しばかり上に刻まれたそれは抉ったような痕跡があって、何の傷かは判別し難い。

 何だこれは。さっきの夢を彷彿させるそれに、昇っていた血も引いていく。何の……いや、いつの傷だ。

 俺はしばらくそれを観察していたが、意を決してそれから目を背ける。放っておこう。今の俺には、もう関係のないものだ。戦場で刀を振るってきたんだ、覚えのない傷だってあるだろう。

 そう、俺は刀だ。刀の九十九神だ。俺自身の考えがどうであれ、誰かを殺す事こそが本能であり、それが業、俺のカルマなのだろう。

 俺は人生は記憶にある限り、そして忘れてしまった過去もおそらく、殺しの人生だ。思い出して、一体何になる。




 すっかり日も暮れて、家のより熱い風呂から上がった俺を待っていたのは、氷漬けと飯だ。

「……で、こいつは何なんだよ」

 頭に巻きつけた氷を煩わしく思いながら、俺は飯をかっ込む。そうしてその米粒を茶で飲み込んで一息ついてから、俺は言った。

 こいつ、とは隣にいる女透明人間……フローラの事である。今は姿を現し、川下のものと思わしき浴衣を着ていた。彼女は喋らず、時折おかずを摘まんでいるだけだ。

「軽トラの荷台に潜んでいたんだよ。ひっ捕まえたら、長さんに雇われた監視役だってゲロった」

 台所からさらに食い物を持ってきた川下は、ちゃぶ台にそれらを配膳しながら説明する。親子丼を食い終えた俺は、次々にそれらを食う。とにかく栄養が足りない。体力を回復させるにも刀を抜くにも、血が必要だ。

「ひっ捕らえたって……良く見つけたな」

「これでも、和尚様に師事を受ける身だからな」

「ブレーキを掛けられた時、頭をぶつけた……」

 自慢げに言った川下と、ポツリと呟くフローラ。白けた目で川下を見ると、彼は咳払いを一つし。

「話を聞くに、仲間ともども結構前からあいつに世話されてて、今回、花車の方も監視していたらしい」

 なるほど。長さんなら納得だ。モニカと言いこいつと言い、放って置くにはもったいない逸材と長さんは見たのだろう。

「で、聞き出していたら電話が入ってな。言われたとおり、お前の所へ二人で行って……」

「待て、電話?」

「言ってなかったか?」

 川下は肩をすくめる。

「お前をぶちのめした奴からだよ。お前のケータイ使って、俺に回収しろって伝えてきたんだ」

 馬鹿にしてるよな。川下はそう言って茶を一気に飲み干す。

「……どんな奴だった?」

「男だ。こっちを馬鹿にしたような口振りだったぜ」

 ムメイだ。自然と顔が強張る。俺はそれを隠すよう、顔を伏せた。

「しかし、あんたが負けるなんて……一体どんな奴だ? ってか、あそこで何があったんだ?」

「………」

 話すべきか。いや、話すしかないだろう。俺は二人に、あそこで起きた事を全て喋った。話し終わる頃には、ちゃぶ台の飯も粗方食い終わっていた。

「……革命、ねぇ」

 実感が湧かないとでも言うように、川下は呟いた。

「で?」

「でって、何が?」

「これからどうする?」

 どうする、か。しかし選択枝なんて、まだあるのだろうか。少なくともそれを決めるのは、俺達ではないだろう。長さんか奴らか、誰の思惑かはもう分からないが、そいつの手の上で踊るしかない。

「どうするって、やる事は変わらないさ。明日、予定通り放火魔を捕まえる。それも手早く、清達に面倒事が回らないようにな」

「いや、もう放火とか言ってる場合じゃない気がすんだけど」

「だとしても、あの二人を追うには放火魔から聞き出す他ない。如月さんがいない以上、俺が何とかするさ」

 俺はそう言って、頭に巻いていた氷をちゃぶ台に置き、立ち上がった。

「川下はこの事を如月さんと和尚に伝えてくれ。それと、あれ? 俺のポケットに入ってたのは?」

「あのUSBメモリか? そのムメイって奴の置き土産の」

「そう、あれの中身を見てくれ。ウィルスとか、注意しろよ」

「お、おう。良いのか? 俺が見て」

「良いって別に」

 そして俺は、フローラの方に目をやる。

「お前は今すぐ長さんにこの事を伝えてくれ。正直な話、あの人の力なしにはどうしようもない気がする」

 フローラはこくりと頷くと、部屋を出た。了承してくれたようだ。俺は頷き。

「で、俺は寝る。客間借りるぞ川下、時間になったら起こしてくれ」

「寝るんかい」

 いそいそと立ち去ろうとする俺に、川下がツッコミを入れる。

「明日忙しいんだ。少しでも体力を回復させたい」

「……そうだな」

 俺の体調を察したようで、川下も頷く。

 聞き分けが良い若者に育ったようで助かる。俺は手をひらつかせ、重い体を引きずって客間へと向かった。




「戦うな。私が死んでも、西郷とは戦うなよムラマサ」

 これは夢、いや、過去だ。

 こうして床に伏し、朦朧とした意識の中で尚俺に戦うなと諭すこの男は、とうに死んでいる。この見舞いから、十日と経たず死んでいる。

 男の名は木戸孝允。そうだ。幕末、俺を拾ったのは西郷だったが、薩長同盟の密約を結んでから、西郷は押しつけるように俺を長州へと預けた。

 木戸さんや、他の長州志士の何人かはそんな俺を煙たがる事なく、討幕を目指す同士として受け入れてくれた。一方西郷は、俺を裏切った。江戸城を無血開城させ、将軍を処刑もせず……今度は新政府に弓引く、反逆者と成り下がっている。

 九州で西郷が乱を起こしている最中、木戸さんは病でひっそりとその命を終えようとしていた。俺の手を握る、剣の達人であった彼の手は、今は握り返すのを躊躇うほどに細い。

「君の徳川への復讐は戊辰、そして江戸城の開城によって果たされた。それでも君は、維新回天の為に刀を振り続けてくれたが……」

 木戸さんは俺を見上げる。頬に一筋、涙を伝わらせながら。

「もう、良いんだ。もう……憎しみや他人の意思、世情に翻弄されるな。妖だろうと刀だろうと、君はもう……君自身のものだ」

 彼の頬を伝う涙が、日の光でキラキラと輝く。そう、彼はいつでも強かった。死の淵にいても意思は強く、人を気遣う優しさが彼にはあった。

「復讐を終えた今、その刀の柄を、人に握らせる必要はない。新しく生き甲斐を見つけ、友と、愛しい者との生活に生きろ……ささやかに」

 その後、結局俺は西郷に加勢する事も、討伐に赴く事もなかった。それからの俺は、人の時代に干渉しない生き方を選んで生きてきた。

 また木戸さんと別れて四か月後、あの英傑、西郷隆盛も戦死した。

 俺はその時、確実に独りとなった。




 目蓋の向こうが明るい。俺は体を起こした。

 カーテンの切れ目から覗く光は柔らかく意識を刺激する。俺は布団の上で胡坐をかき、さきほどの夢に思いを巡らす。随分と、懐かしい話だった。

 しかし思えば、あの言葉が今の俺の出発点だったかもしれない。あの言葉なしに、今の俺はありえない。ありがとう。俺は心の中で、木戸さんに感謝の言葉を述べた。あれから随分経ったけど、今の俺は幸せだと。もう、独りではなくなったと。

 そして、その今の幸せは、忘却していたはずの過去に脅かされている。眠っていた体の底から、静かに力が湧きあがる。阻止せねば。誰かの手の上だろうが、俺は俺の意思で戦う。今の幸せを、あんな連中の野望にくれてやるものか。


 俺は立ち上がった。


 用意されていた着替えを着て、俺は川下を探した。時計を見れば、もう二時を過ぎていた。

 縁側を沿って歩けば、部屋の奥に並んだ額縁が見える。この部屋は額縁がずらりと飾られた部屋で、額縁にはそれぞれ、歴代の当主が遺した言葉が書かれている。

 俺はその端、初代当主の言葉を見てみた。恩義。その一言だけ書かれた古紙が、額縁に飾れていた。妖怪と人間の仲を取り持つべく尽力してきた一族、それが川下家だ。

 川下家は代々、自分の子が当主になるに相応しいと判断すると、この額縁の末端に自分の言葉を飾り、この館から妻と共に出て行く。それは当主の意見に親としての横槍を入れさせない為でもあり、長年背負ってきた川下家という荷を下ろす為でもあるらしい。

 今の当主、川下童家は当主になってからまだ数年。彼の父親の童善からは、彼の事を頼むと任されている。死なせる訳にはいかない。

「お、ここにいたか」

 額縁を眺めていると、川下がやってきた。

「ああ、広すぎんだよこの家。河童一人見つけるにも苦労する」

「まぁな、初代がくすねた金塊の幾らか使って建てたもんだからな」

「金塊? 初耳なんだけど」

 聞くと、川下も良くは知らないと腕を組み、首を捻る。

「あー……川下家も元は東北の……なんつったっけな? どっかのお侍に仕えてた一族だったんだと。んでそいつが朝廷に滅ぼされたんだけど、一族再興の為に隠した資金を管理を任されて……」

「それを盗んだってのか」

「ほんの少しだけどな。それが結局、如月さんの資金源にもなったんだぜ?」

 川下はそう言って並んだ額縁に目を通し、目を細める。彼にとっても脈々と受け継がれてきたその連なりは、誇りなのだろう。

「……っと、こんな事してる場合じゃねえや」

「ところで、ヴェロニカは?」

「お前が寝た後、すぐに出てったぞ。それから帰ってこねえし、長の方からも連絡はない」

 そうか。と、俺は頷いた。連絡を寄越さないのなら、合意と見て良いだろう。意見があるなら、ヴェロニカなりモニカなり寄越してくるはずだ。

「あと、例のUSBメモリな。放火魔がアジトにしている場所と、そこに待機してる連中の数が書いてあった」

 俺は川下の顔を見た。川下は神妙な顔つきで頷く。

「放火の主犯は永(えい)花(か)って女らしい。カゲロウの妖怪で、口がない。普段はマスクでそれを隠しているらしいが……。アジトの場所も、長の言っていた駅のすぐ近くの、雑居ビルの一室だ」

「……罠にしちゃ露骨だな。どういう腹積もりだ?」

「完全な当てずっぽうだが、捨て駒の処理を押しつけたんだろ」

 川下は縁側に腰掛けながら、そう言った。

「この放火が宣戦布告を目的としたものなら、もう用は済んだ訳だ。足を引っ張るくらいなら……」

「足切りにしてしまおうって? きっとそれだな」

「ふざけてやがる」

 川下は、気に入らぬと言わんばかりに吐き捨てた。

「何なら、そいつらをこっちに引き込むのもありだな。おい、そろそろ行こうぜ」

「それなんだけど、そこへは俺一人で行く」

 俺がそう言うと、川下は目を丸くした。それから、絞り出すように言った。

「……マジで言ってんのか?」

「罠かもしれないんだ。奴らの目的が如月さんが作った体制の崩壊なら、お前も標的の一つなんだぞ」

「だからって俺に!」

 川下は立ち上がり、叫んだ。

「ボロボロのダチ一人、戦いに行かせるのを良しとしろって言うのかっ!」

 お人好しめ。俺は彼の肩に手を置き、言った。

「お前は十年前の、十五のガキじゃないんだ。お前は川下家の当主だ、聞き分けろ」

 川下はぐっと言葉を詰まらせたが。

「なら約束しろ。絶対に、絶対に死ぬなよ」

「死ぬ気なんて端っからないさ。こんなところで死んで堪るか」

「……くそっ、せめてアカハラが起きてりゃな」

 俺の手を払い、川下は庭の井戸を見た。井戸は使われておらず、側面や蓋にはベタベタとお札が貼られている。あそこには、アカハラという妖怪が封印されているのだが。

「何だ、あいつもう冬眠したのか?」

「今年は冷え込むからって、ちょっと前にな。何なら今からでも起こすか」

「いや、どうせ和尚なしじゃ外出られないだろうし」

「……なら、せめてそこまで運転させろ」

 よっぽど俺が頼りなく見えるのか、川下は言った。

「戦わなきゃ、別に構わねえだろ?」

「ん、まぁ……そうだな、よろしく頼む」

 頼まれたぞ。そう言って、川下はさっさと車の準備をしに行った。

 慌ただしい奴だ。俺は柱を背に座り込み、静かに息を整えた。

 緊張や恐怖はない、しかし体の心配はある。昨日あれだけボコボコにされたのだ、体力がどこまで保つか俺にも分からない。

 それでも、俺はやはり川下の助力はいらないと思っている。ああいうお人好しがいると、はっきり言って邪魔なのだ。殺しの働きには。




「……さて、敵は十一人。この時間なら、ここを曲がった所にある雑居ビルの四階にいるそうだ」

 車を脇に駐車させてから、川下は説明する。

「いや、それも敵方からの情報を信じればの話だ……気をつけろよ」

「ああ。お前もここからさっさと離れろよ? んで、連絡入れるまでは動くな」

「わぁってるよ。こっちの心配はするな」

 そう言って川下は手を伸ばした。俺はその手に、ポケットに入れていたケータイなどの荷物を渡す。もうすでにケータイを使われたが、同じ轍を踏むのは癪に障ると川下が策を講じたのだ。手元に残したのは、運賃や連絡に使う為の一万円札を一枚だけ。俺はそれを、ポケットの奥へと強く押し込んだ。

「んじゃ、行ってくる」

 俺はそう言って、車から降りる。川下は口を開いたが、何も言わずに喉を鳴らし。

「……くそ、無理すんなよ。清の為にもな」

 そう言って、手早く走り去ってしまった。そんな事、言われるまでもない。俺はボリボリと頭を掻きながら敵地へと向かった。

 ポケットに手を突っ込み、目に力が入る。こういう時は、姿勢まで不思議と斜に構えてしまうから不思議だ。俺みたいな奴が泥棒をしようものなら、犯行前に挙動不審で声を掛けられてしまうだろう。

 ……馬鹿馬鹿しい、これから殺しをしようって輩が、泥棒だと。俺は一人笑みを浮かべながら階段を上る。四階の部屋は一室だけだった。分かりやすくて助かる。

 薄っぺらな銀色のドアの前に立ち、俺は刀を抜いた。さて、ゴチャゴチャ考えるのはそろそろやめだ。多人数戦で一々考えを巡らせては、とても間に合わない。目につく者は全て敵、それだけ理解してれば充分なのだ。

 さぁ、勝負だ。意を決して呼吸を止め、ドアを開け放ち、俺は部屋を一望した。

 いや、正確にはその瞬間に一人斬った。ドアの隅から低い姿勢で飛び出した者を、咄嗟に刀ですくい上げるように突き上げたのだ。生死を分けるのは一瞬、そこで判断をする必要もなく攻撃に移れるのは、単騎の特権と言える。

 片手での突き上げは男の顔を削ったようで、彼はもんどりうって倒れた。俺はその喉笛を斬りつけ、改めて部屋内を見渡した。

 殺風景な部屋にあるのは折り畳みの椅子と長机、そして目標の面々。前の五人は、遮蔽物のつもりか、積まれた長机や椅子を挿んでおり、話に聞いていたマスクを付けた女、永花もそこにいる。左の男は大方、挟み撃ちで行う奇襲に怖気づいたのだろう。口を戦慄かせながら、後ろに後ずさっている。

「つ、遂に来やがったな、この野郎っ!」

 左の男が、手にした大型のハンマーを軽く振って叫ぶ。

「こっちゃ六人だ! この数相手に勝てると思ってんのかよ!?」

 もう五人だろ。そう心の中でツッコみつつ刀に着いた血を払い落し、後ろ手で扉を閉めた。

 前から二人、遮蔽物の向こうからにじり寄ってきた。とりあえず、まずは三人か。右からナイフ、鉈、そしてハンマー。他はともかく、あのハンマーだけは一発でアウトだ。俺は中段に構え、出方を窺う。しかし、どういう事だ。川下の言っていた数より、敵の数が大分少ない。

「……金城の野郎、やっぱりやられたのか?」

 奥の一人がポツリと呟いた。ガクガクと後退し、窓に背をぶつける。

「駄目だよ、勝てる訳ねぇ……ああ、くそっ! やっぱり今日にしとけば良かったんだ!」

 恐怖を誤魔化すように、男は永花に詰め寄った。

「お前達のせいだ! さっさと川下邸を燃やしとけば、こんな事にはならなかったんだ! お前達のミスだぞ!? どうしてくれるんだ!」

「おい! 今そんな事言ってる場合か!」

「お前のせいだろ! 何とかしろ!」

 手前の一人が叫ぶが、奥の男は聞く耳を持たず永花を責め立てる。早くも仲間割れか。俺は奥の男に声を投げ掛けた。

「仮に川下の所に火を着けてたら、こんなもんじゃなかったぞ?」

「………」

「その時は楽には殺さない。こうして手早く死ねるのがどれだけ幸せか、嫌と言うほど教えてやる」

「……意気がるな、人間の犬が」

 男は永花から手を離し、震え声でそう言い。

「逆にお前の体に教えてやるぞ。一人で来た事を、死ぬほど後悔させてやる」

 にやり、と男は笑い。それから、こう付け加えた。

「川下邸を燃やすのは、それからだ。今日お前を八つ裂きにして、明日は河童の丸焼きだ。お前の家も調べ上げて、一緒に燃やしてやる……!」

「……明日?」

 俺の注意が、奥の男へと向けられる。最優先はあのマスクの女と、隣の男と決まった。そうすると手前の三人が、ただの遮蔽物にしか見えなくなってくる。邪魔だ。

「てめえに明日なんざ、ねぇよ」

 俺は飛び出し、手前のうちの一人に斬り掛かった。何の抵抗もなく斬り倒された男が倒れるのを口火に、戦いが始まった。

 俺は次に迫った。男は鉈を盾のように突き出してきたが、何の弊害にもならない。俺はそれを払い、続けて袈裟斬りで二つにする。

 背から雄叫び。待ち伏せに失敗したあの男が背後に回り込み、ハンマーを横に振り被った。

 俺は振り向きざまに首筋から刀を抜き、ハンマーのスイングに合わせて男の手首を打った。抜き打ちは男の右手首を切断し、さらにはその奥の左手首まで斬り抜いた。支えを失ったハンマーは俺の顔を掠め、壁へと突っ込んだ。俺はそれに構わず、両手を失った男に体当たりをするように右手の刀を突き入れる。

 さぁ、お前の番だ。俺は右手の刀ごと男を脇へと払い捨て、奥の連中へと突っ込む。左の刀を右に持ち替え、間にある長机に足を掛けて跳躍。一気に連中の……いや、先ほど息巻いていた男の下へ飛び掛かる。

 男の頭目掛けて、俺は刀を振り下ろした。男は悲鳴をあげながら大振りのナイフでそれを受けたが、一瞬後には男ごと真っ二つになって血飛沫にのまれた。

 あと、二人。隣にいた永花はパッと俺の傍から離れたが、積んだ椅子に足が引っ掛かり転んだ。俺はそれに、無慈悲に刀を振り上げたが。

「うわああああっ!」

 残るもう一人の女が俺に飛びつき、首を絞めてきた。俺は頭を後ろのガラスに打ちつけ、ガラスが割れる音が女の絶叫を掻き消す。

 パニック状態の女は、ただひたすら俺の首を締め上げる。血が頭に上り、目が破裂しそうに圧迫される。俺は口を開き、掠れた声で言った。

「阿呆……っ!」

 俺は腹から刀を噴出し、女の心臓を突き刺した。

 女の体が強張り、余計に首が絞まる。予想外の事に、息が漏れた。しかしその力みもやがて弱まり、女は力なく膝を折った。刀を体内に戻し、女を床に転がした。

 最後と永花を探したが、すでに部屋に彼女の姿はない。答えを求めるようにドアを見れば、やはり開け放たれていた。

 しまった。俺はドアへと駆け寄る。踊り場へと飛び出ると、一瞬彼女の背中が見えた。どうやら、さらに上階へと逃げたようだ。

「さっきの子で最後かな?」

 永花を追おうとしたところを下への階段の方から呼び止められ、俺は刀をそちらへと構えたが。

「……って、あんたか」

「お互い大変だねぇ、刀のお兄さん」

 階段を上がり、最強の片割れ、羽は苦笑する。

「下に逃げようとしてたみたいだけど、私を見たら戻ってったよ」

「そんな事より、何でここにいる? 謹慎食らってたろ」

「……ま、だから姿を見られる訳にはいかなかったんだけどね」

 じゃあなんで。と突っかかった俺を、羽は手で制す。その瞬間、非常ベルが建物全体に鳴り響いた。羽は考え事をするように目を泳がせ、口を開いた。

「いいかい兄さん? 今から五分後、このビルは火事になる」

「……何がしたいんだよ?」

「そっちの為にもなる事さ、だから彼女を追うのはやめて逃げな。下の階の人は皆逃がしたから」

「………」

 主に逆らっての忠告、痛み入る。俺は適当にそう言って、上へと続く階段を登っていった。羽が背後で叫んだ。

「いい? 五分だよお兄さん!」




 このビルは四階建て、上は屋上しかない。待ち伏せを警戒しながら踊り場へと上がり、俺は屋上への戸を開けた。

 屋上へと足を踏み入れると、夕日が目の奥へと飛び込んできた。思わず手で目を覆い、そして見えた。四方を鉄柵に覆われた屋上の奥へ、夕日に溶け込むように走る女の背中を。

「止まれ永花ぁっ!」

 俺の呼び掛けに、ビクリと永花は振り返ってこちらを見た。その顔は夕日を背にしている為、影となり見えない。しかし、後退して奥の金網に手を掛けたところを見ると、その感情は明白だ。しかし力が入らないのか、はたまた網の目が細かいのか、上手く登れずにいる。

「……これが末路、お前達がやってきた行動の結果だ」

 俺は彼女に近づきながら、言った。彼女はこちらへと振り向き、慌ただしく辺りを見回す。まだ逃げるつもりか。俺の声が、僅かに荒くなる。

「最期はせめてそれらしく、戦って死ね……!」

 俺は刀を構えると同時、呼びかけたのだ。かかって来いと。しかし、来ない。それどころか、永花は俺から背を向けている。

 いい加減にしろ。俺の口から、そんな一方的な言葉が飛び出ようとした時、永花はマスクを乱暴に剥ぎ取って金網を叩き。

「うわああああああああああああああっ!!」

 体を震わせ、彼女は叫んだ。上に広がる空に、光り輝く夕日に、下に広がる町に、そこに生きる者達に、世界に己の声を響かせる。

 俺には、彼女が何を思って叫んだのかは分からない。しかし、口のない彼女の声は、確かに世界に響いていた。

 息が続かなくなって、彼女の体がくの字に折れる。だが彼女はがばっと顔をあげ、それでもと叫び続ける。

「……そうか」

 それがお前の最期の抵抗か。俺は彼女の叫びに意味を見出す。これが彼女の、世界との戦い方か。俺は刀を構え直し、永花へと駆けだす。もう、勝負は始まっていたのだ。しかし、こっちも一杯一杯だ。早急にケリを着けさせてもらう。

 何の抵抗もなく、永花の背中に刀の切っ先が沈む。そして呆気もなく、心臓を貫いた。

 永花の喉はぐっと詰まり、膝を折って地に着ける。叫び声は未だ周囲に反響しており、掴んだ金網も手放してはいない。それもやがて聞こえなくなり、彼女の生命は完全に途絶える。永花、彼女は金網に手を掛けたまま、絶命した。

 終わった。俺は刀から手を離して、のろのろと後ずさった。見ればちょうど、夕日が西の彼方へと落ちたところだった。




 日が落ち、辺りがようやく暗闇へと包まれていく。

 終わった。何はともあれ、終わったのだ。俺は肩を落とし、一息つく。しかし、ぼやぼやしてられない。羽の言葉を信じるなら、ここを早急に脱出すべきだ。俺は永花に背を向け、出入口へと小走りで向かう。

 しかし、永花から離れ、戸まであと数歩と言ったところで、階段を駆け上がって屋上へと男が飛び込んできた。新手か。俺は二、三歩下がって距離を置きつつ身構える。

 男は燃えるような赤毛の男で、息を切らして俺を一瞥した。淀んだ眼の男……そういえば、長さんからの情報にあった放火魔の特徴、あれに似た奴はここにいなかった。眼鏡もニット帽も被ってはいないが、まさか、こいつか。

 身構える俺に対し、男は目を見開いてこちらを見つめている。呆然とした男の口から言葉が漏れたが、小さすぎて聞き取れなかった。

 男はどうやら、俺の肩越しに見える永花を見ているようだ。知り合いか。目の前の俺にさえ気づかぬと言ったその顔に、こちらの戦意も緩む。

「……お前が」

 男は顔に喪失感を張り付けたまま、心ここにあらずと言った調子で聞いてきた。

「お前が、殺したのか?」

「………」

「下の連中も、あいつも……お前が」

「………」

 一瞬、くだらない言い訳が頭をよぎった。しかし、どう言い繕ったところで殺した事は事実だ。弁護の余地など、俺には許されない。いや、許してはならない。だからこそ……。

「ああ、俺が殺した」

 と、俺は肯定の言葉だけを口にした。

 意外だったのか、男は虚を突かれたように俺を見て、そしてゆっくりとうな垂れる。呆然とした体に現実が追いついてきたのだろう。男は体を強張らせ、小さな呻き声を漏らした。

「……殺してやる」

 絶望の果て、男は最後に残った呪怨の塊を吐き出した。来るか。俺は右手を首に添え、腰を落とす。

 何だろう。妙に暑い。いや、あいつだ。この男が熱くなっているのか。注意して見れば、男の周囲が陽炎のように揺らいでいる。

「お前も、この町も全て……!」

 俺はここにしてようやく、男が下にいたような雑魚ではない事に気がついた。この男は、ムメイが残した殺してほしい雑魚ではない。

「焼き尽くしてやるっ!!」

 そう叫ぶと同時、男の体から炎が溢れる。俺が火に怯んでいるうちに、男は炎の尾を引きながら飛び掛かってきた。

 速い。俺は横に跳び、男の突撃を寸でのところで避けた。しかし男が俺の脇を通過してすぐに起きた爆発に弾き飛ばされ、地面をバウンドしながら転がって、金網に体を叩きつけた。

 遠のきかけた意識をどうにか持ち堪えさせ、歯噛みしながら身を起こしていく。しかし、踏ん張る膝が笑っている。それに見下ろす地面にも、ボタボタと赤い血が滴り落ちている。後頭部に手を当てれば、人差し指と中指にぬめっとした感触が感じ取れた。そろそろ限界みたいだ。

 男は永花から刀を抜いていた。刀を手にし、男はこちらを睨む。憤怒の形相をしたその顔は炎で爛々と照らされ、背から伸びる炎は鳥の尾羽のように天に伸びている。

 俺は金網を掴んでどうにか立ち上がり、屋上の中央の方へと移動する。轟音と共に地面が揺れる。俺は振り返り、出入口を見た。もう、五分は立っただろう。これが羽の言っていた事か。

 ……だが、まだ駄目だ。男も下の事には一切興味がないようで、息も荒く俺を睨んでいた。男は右手の刀を天高く掲げ、左手には奇妙な炎の玉を携え、それを右脇へと引き込む。あれは、迎え撃つ構えだ。しかし、俺は目を細めた。薄闇に燃えるその炎は、まるで……。

「……沈んだら、昇ってくるんじゃねぇよ」

 俺もそう呟き、今や血に塗れたTシャツを捲って刀を引き抜く。

 どうしてこんな事に、他にやりようはあったのでは……そう、思わなくはない。だが、こうなった以上、俺のささやかな生活を守る為、この男には、死んでもらう。

 俺はしばし、呼吸を整える。怠い体に意識を巡らせ、リズムを整えていく。そして最後に息を強く吸い込んで、男へと駆けだした。

 男は左腕を振って、火球をこちらへと投げてきた。俺は刀の腹を使って、走りながらそれを横へと打ち流した。火球が弾け、地面へと叩きつけられる。俺は蓄えていた酸素を吠え声と共に吐きあげながら、がばっと姿勢を起こす。

 目の前には、炎を纏いながら刀を振りあげる男の姿があった。俺は立ち膝から立ち上がる勢いをで、振り下ろされるその右腕を斬り上げた。刀は右腕を難なく斬り飛ばし、男のこめかみを裂いた。

 刀と右腕を失った男は、それでも戦意を失いはしなかった。男は声をあげながら、左拳で俺のがら空きになった脇腹を殴りつけた。肺に残っていた酸素が、吐き気と一緒に外に出てしまい、激痛が全身を痺れさせる。持ち堪えようとしたものの足がよたつき、俺は地面に大の字に倒れた。

 俺は倒れながらも、男を睨んだ。男は俺を見下ろしながら左手を口元に寄せ、口から火の筋を吹く。その火は手の上で円を描き、あっという間にそれは火球となる。

 こちらの意識はハッキリしている。いや、さっきのブローで逆に目が覚めた思いだ。右手の指に力を入れれば、刀の感触がはっきりと伝わってくる。まだ戦える。

 男が一歩踏み込み、左手を振り上げるのと、俺が上半身を起こすのはほぼ同時だった。

 俺へと振り下ろされる火球。俺はそれを、刀で突いた。刀は火球を男の左手に縫い留め、さらに男の胸を突き刺した。

「……っ! ォラアッ!」

 咄嗟の機転で俺は刀から手を離し、掛け声と共に刀の柄頭を蹴り上げた。体を宙に浮かせての、無理な姿勢から繰り出した蹴りだったが思惑通り、男の体は体勢を崩してくるりと向きを変えた。そしてその瞬間、火球が爆発した。

 爆発で、縫い留められていたはずの左腕が横に弾かれ、纏っていた炎も四散。男は背から地面へと倒れた。

 間違いなく、致命傷だった。俺は痛む体を立ち上がらせ、男を見下ろした。もう、立ち上がってくれるなと祈りながら。

 しかし、男はまだ生きていた。右腕を失くし、刀で貫かれた胸を黒く焦がせながらも、男は怨嗟の目で俺を見上げていた。

「……お前」

 その眼を俺は知っていた。いや見たのではない、ああなっていたのは俺の方だ。恨んで呪って、憎み切った、かつての俺だ。結局、俺とこの男には、何の違いもないのだ。

 男の目が段々と虚ろになっていき、怒りのままに死に行くのを俺はずっと見ていた。これがきっと、もう思い出せない俺の末路だったのだろう。そんな風に考えながら。

 疲れた。俺は目を閉じ、荒い息を繰り返した。少し、休もう。

 そうして暗がりに意識を溶かしていく俺を呼ぶ、どこか懐かしい声が、背に聞こえた気がした。




 ふうっと、夜風が頬を撫でた。それがまた冷たく、火照った体に心地よい。俺の口元に、笑みが零れる。

「お、ケン君。起きた?」

「……ん、清か?」

 目を開けると清が顔を一杯に近づけ、こちらを覗き込んでいた。

「さっき川下に連絡したから、もうすぐだからね」

「何でここに?」

「何でって……え、覚えてないの?」

「んー?」

 そういえば、ここはどこだ。目頭を押さえて頭を振り、ゆっくりと目を開ける。周りは屋上でもなく、雑居ビルの一室でもない。ここは、公園だった。俺はベンチに腰かけており、遠くからサイレンが聞こえる。そうだ、俺は清に連れられ、ここまで逃げてきたのだ。

 ……思い出してきた。俺はあの炎の妖怪を殺してから、ビルから脱出しようとした。でも火と煙が酷く、正直なところもう駄目かと思った時だ、清が下から駆け上がって来て、煙で意識も曖昧になった俺をここまで連れてきたのだった。

「やーでも、危機一髪だったね」

「ああ……助かったよマジで」

 俺は安堵の溜息をつき、清を見上げる。そして、ドヤ顔の清の奥に見えるそれを、俺は見つけた。透明な何かが数人、俺達を囲んでいる。

 そして四方で狂ったように泣き喚く、鴉の鳴き声。

「……清」

「うぃ?」

「逃げろ」

 俺の異変に気づき、清が慌てて周りを見渡したが。

「いや、そのままで良い」

 どこからともなく聞こえたその言葉を口火に、俺達を囲んだ数人は次々とその透明な何かを脱ぎ捨てた。いや、俺は知っている。これは回天坊の使っていた隠れ蓑だ。こいつらは、天狗だ。

「のっ! ぉおおおうっ!?」

 突然現れた、武装した山伏姿の男達に清は驚きの声をあげ、後ろに後退してベンチに足を引っ掛け、俺に勢い良くもたれ掛かる。その衝撃に出鼻を挫かれ、俺は立ち上がる事もできなくなった。しかし、これで重いと言ったら怒るのだろう。

 身動きできない俺の膝の上から、清はそっと離れる。気まずい雰囲気の中、俺はざっと男達を見回した。数は六人。全員山伏姿で、うち一人の槍持ちが首領に見える。俺は咳き込みながら切り出した。

「……で、何だよあんたら?」

「宗主の御命を承っている」

 槍を持った青年は、槍の柄の末端の石突きで地面を軽く叩き、そう答えた。

 青年は一人だけ腰に巻いた毛皮が虎柄で、手足の方にも虎をかたどった意匠が凝らしてある。それに衣服も、他の者より質が高そうだ。しかしそれを吹き飛ばすような、野性の風格と若さが男にはあった。背は高く、フサフサと跳ね上がった髪は短い。ずんぐりとした肩は、剛腕の持ち主である事を教えてくれる。

「問う、お前達が一連の放火事件の犯人だな。妖刀ムラマサ?」

「……この機に乗じて、いちゃもんつけに来たのか?」

「この放火にはお前と、人間の長将美が関わっていると聞いている。山にて話しを聞きたい、同行してもらうぞ」

「………ははっ」

 笑わせやがる。俺はそう鼻で笑った。どの口が言うんだ。

「普段は山に籠っている癖に、如月さんがいない時はお巡り気分か?」

「……これは宗主、崇徳坊様の御命である。嫌と言おうが連れて行くぞ」

「従う義理はないな。天狗のトップの名なんて脅しにもならねえよ。連れて行きたきゃ、自分の手で引っ張りな」

 俺がそう言って手を突き出すと、青年は殺気立って唸った。他五人の天狗達も、それぞれ武器を構える。下手をすれば、今ここで殺されるかも。そんな予感が頭をよぎるほどに、天狗達は怒っていた。しかし、黙って付いて行っても、碌な事にはならないだろう。

「お、やるか? やんのかコラ」

 清は息巻いて立ち上がったが、彼女も分かっているはずだ。ここでこいつらに勝てるはずもない。俺達の生殺与奪の権利は今、彼らが持っている。

 これまでか、俺は顔をしかめた。天狗らの真意は掴めないが、連れて行かれたが最後、命の保証はない。せめて、清でも助かる方法を見つけねば。

「……誰か来ます」

 天狗の一人の言葉に、青年は舌打ちして指された方向を見る。俺も次いでそちらを見た。

 向こうからずんずんと、女がこちらに歩み寄ってきている。……人違い、という訳ではないだろう。女は手に刀袋を持っているし、今それを解いて、袋を脇に捨てた。一般人であるはずがない。

 まさか……。俺の血の気が音を立てて引いた。いや、間違いない。髪は昔より短いが、冷たい目線や高圧的な雰囲気、そしてこちらに与えるピリリとした緊迫感は……。

「竹上……?」

「何だと……!?」

 天狗達の間にも、緊張が走った。俺達から背を向け、青年を除いた皆が竹上の方に武器を突きつける。天狗達の反応は正しい、兎にも角にも危険な奴だ。

「その二人は、こちらが対処する」

 天狗達と対面した竹上は、開口一番にそう言った。

「お前達はそのまま来た道を戻れ、天狗」

 竹上蓮たけがみれん。人間だが、そこいらの妖怪よりよっぽど恐ろしい女だ。曰く妖怪退治の鬼才、曰く剣の天才、曰く狂犬。今は三十を過ぎた辺りか、ここ最近は落ち着いているが、全盛期の十年前までは回天坊や他の仲間と共に、手広く活躍しており。特に彼女の雷名は俺の耳にも届くほどであり、実際に剣を交えた事もある。

 だからこそ、分かる。自治の問題では如月さんにさえ食って掛かる奴だ。三羽鴉の称号など気にも留めないだろう。

「それは同意しかねるな、人間」

 青年は竹上の言葉に異議を唱える。その口ぶりに先ほどの高慢さはなく、目に見えて慎重だ。

「これは我々天狗と、鬼の先兵であるこいつらの問題だ」

「……そうか?」

 竹上は首を傾げ。

「私には妖怪共が揃って、火事場から逃げ出そうとしているように見えるのだが」

「こいつらと一緒にするな、我々は……」

「一緒だ。お前達は全員、人間に仇なす妖怪だ」

 青年の言葉を封じ、竹上が語る。

「貴様……!」

 天狗の一人が食って掛かろうとした瞬間、竹上はその男を睨み、刀の鯉口を見せつけるようにして切った。その途端、ゾクリと背筋が凍りつき、嫌な汗が首筋を伝う。天狗は、ビクリと体を硬直させ、脚を止めた。

 その光景、まともに使われているのを、俺は初めてみた。これが竹上が身に着けている特殊な剣技。竹上六道流たけがみろくどうりゅうの本領だ。

 居合の一種と彼女に説明された、冗談じゃない。そもそも剣術の域に納まっているかさえ微妙だ。竹上六道流は刀を手にするだけ、つまり、居合うだけで魑魅魍魎を祓う、言ってしまえば儀式の為に刀を使っているに過ぎない。

 刃先を突きつけられた者は、その刃先の威圧から逃げようとする。いつでも抜ける状態にある刀においてもそれは同じ、という理屈らしい。それを極めた竹上六道の者は刀を持つだけで威圧感を発し、柄に手をかけるだけで魑魅魍魎を祓うらしい。

 しかも竹上は、その六道流に留まっていない。祓い屋の剣術を継ぐ娘として産まれながら、何より純粋な剣の才能があったのだ。

 竹の花、彼女は人間の間ではそう呼ばれているらしい。千年に一度の逸材、日を見る事のなかった竹上六道流に咲いた花だと。

「……こいつらを討ち取るのは私だ、お前達妖怪を討ち取るのは人間だ」

 食って掛かった天狗の動きを止め、竹上は言った。

「人間を前に、妖怪同士でぐだぐだ言い争っている場合?」

 そう語る竹上の気迫に、天狗が後ずさる。

 ただ、青年は退きはしなかった。彼は石突きで地面を強く叩いて部下のざわめきを黙らせ、すぐさま左手も槍に添えて竹上へと振るった。

 横から鋭く、首へと伸びる槍の穂先を竹上は後ろに仰け反って躱した。そして首のあった所でピタリと止まった槍を上から右手で押さえ、竹上は青年へと一歩近づく。

 竹上は青年を下から上まで見た後、僅かに端を吊り上げた口を開き。

「虎柄の衣装にその槍……太郎坊の走狗になっている、三羽鴉の漸進坊ぜんしんぼうだな」

「……回天坊から聞いているようだな」

 漸進坊と呼ばれた青年は竹上に睨みを利かせ、ニヤリと笑った。

「仲間が犠牲にならぬのなら、ここでお前とやっても構わんのだが……」

 運が良かったな。漸進坊はそう言うと、槍を勢い良く引いた。竹上も穂先に掌が斬られぬよう、手を素早く引く。二人の体は、一歩、また一歩と離れて行った。

「はっ、まさか人間と手を組んでいるとはな」

 俺達から背を向け、立ち去りつつ漸進坊は吐き捨てた。

「妖怪を殺し人間に付くとは、天下の如月童子も堕ちたな」

「……履き違えんな」

 聞き捨てならない。と、清は身を起こし、漸進坊に言った。遠吠えに近い俺の言葉に、漸進坊は立ち止まり、こちらを睨む。清は続けた。

「如月さんは端っから妖怪側だ。妖怪全体を思うからこそ人間と手を結び、その関係を維持しようと尽力してきたんでしょ。その仕事を押しつけた本人である天狗はそんな事も忘れ、如月さんを裏切り者呼ばわりしているの?」

「………」

「そんなの、勝手だ」

 漸進坊は何も言わなかった。踵を返し、後に続く部下と共に公園から出て行ってしまった。

 それを見送り、そして自然と竹上の目が合い。

「探したぞ」

「いや、助かったけど……どうしてここにいる?」

「花車に頼まれた」

「ハナに?」

 清の言葉に、竹上は頷き。

「だけど正確な居場所は分からないって言うもんだから、辺りをほっつき歩いてた訳……天狗が相手とは思わなかったけど」

 俺だって訳が分からねえよ。などと返していると、川下の車が来た。

「迎え?」

「おう、助かったぜ竹上」

「別にどうって事はない。支払いはちゃんと花車に請求するから」

 じゃあ。と、竹上は一礼してから背を向け、刀袋を取りに行った。

「げぇっ! 竹上!!」

「童家、元気だった?」

 などと、すれ違い様の二人のやり取りを聞き流しながら、俺は天を仰いだ。長かった数日が、ようやく終わる。

「……ねえ、ケン君」

 そんな俺の隣で、清が蚊の鳴くような声で言った。

「んー?」

「何で、その……」

 またそれか、俺は溜息をつき、顔を清の方に向けた。

「あ……」

 気まずいのか、清は顔を逸らした。その素振りが似合わなくて、俺は思わず噴き出した。

「前にも言ったろ? 俺はただ、やりたい事をやってるだけさ」

 俺はそう言って、清の額をデコピンした。

 しかし、どうだろう。俺は清を抱き締めながらも、この不安は拭い去れなかった。これはきっと、嵐の前触れだ。そして後に来る嵐から、この女を守れるのだろうかと。

 その為には、戦わねばならないだろう。このささやかな生活を守る為に、ムメイと足切、あの男達を俺の刃で……それが例え、誰かの掌での事でもだ。

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