第二部 四話「ヒザマ」

第四話『ヒザマ』




 目を開けると眩しく、私は手で目を覆った。カーテンの隙間から差し込む光が、凝り固まったこの頭を溶かしていく。

 もう朝か。私はベッドから降りる気にもなれず、四つん這いでカーテンへと向かい、開け放った。つい先ほど寝たような気さえするのだが、日は高い。

 何か音がする、たぶん、インターホン。目蓋を揉みほぐすようにしながら、私はベッドから降りた。

 そうだ、今日は清が来るのだった。寝坊してしまったか。私はエントランスホールの扉をボタンで開け、化粧台の上の紐で髪を束ねているうちに玄関のインターホンが鳴った為、玄関へと向かう。

 扉を開けると、ニコニコと笑っていた清の顔が硬直し、目を丸くする。それもそうか、なにせこっちはTシャツ一枚だ。

「ちょ、ぅハッ……ハナ、その格好はまずいですよ」

「ごめんなさい。すぐ着替えるから、ちょっと待ってて」

「寝起きでしたか、承知しましたご馳走様」

 頭を下げながら玄関を閉め、Tシャツを脱いでカゴに放り込む。タンスから手短な下着と、Tシャツ。そしてソファーに脱ぎ捨てていたデニムのパンツを穿いておしまい。鏡を見て、最低限の体裁を守っているかを確認してから、玄関を開けた。

「お待たせ」

「早っ!? もっと掛かるっしょ普通!?」

 確かにそうだが、友人を表に待たせてのんびりと化粧をするほど、図太くはなれない。それに、清は他人のすっぴんを見て不快感を覚えるような娘でもない。

 私はとにかくと、清を家へ招き、椅子へと座らせる。

「っと、今お茶入れるから」

「ありがとう。あ、あとこれ」

 清はそう言って、紙箱を手提げから取り出し、テーブルの中央に鎮座させる。

「ケーキ買ってきた」

「清、愛してるわ」

 こういう気遣いもできるようになったか。男子三日会わざれば、と言うのは少々失礼かもしれないが、一年前まで山で暮らしてきた獣とは思えない清の成長ぶりには、いつも驚かされる。

「やだ、告られちゃいましたよ。……ほら、この前ケン君匿ってくれたらしいし、そのお礼」

「ごめん、やめて。思い出したくない」

 そう、二日前のアレは、本当に大変だった。特にあの悪名高い矛盾コンビ、そして元三羽鴉の回天坊。爆弾を家に招き入れ、一夜を明かしたような気分だった。

「ニュースでも散々やってたよね。でも……」

 清は一旦そこで言葉を切り、私に顔を近づけ。

「お泊りは、許さんぞ」

 清は冗談半分、本気半分と言った感じで私に言う。浮気をされれば男は妻に、女は浮気相手に矛先を向けるという。このケーキも、一服盛っているのだろうか。まあ、死なない物なら甘んじて受け入れよう。押し込まれたとはいえ、それほどの事なのだ。男が、余所の女の家に行ったというのは。

「分かってるわよ。さ、さっそくケーキ、食べよう」

 私は紅茶をテーブルに並べ、ケーキを持ってそのまま食器棚へと向かう。清も手伝うと立ち上がる。

「皿に置くだけだから、大丈夫」

「あー……そっか、了解」

 座り直す清を確認してから、私は食器棚から皿を選ぶ。最近、良い物を買い揃えてたから、選り好みしてしまう。

「それに、今日は昼過ぎから手伝ってもらうのに、悪いし」

「気にしなくて良いよ。でも、何を手伝うの? 長さんからの頼みらしいけど」

「……ま、ちょっと危険な感じなんだけどね」

 私は重ねられたそれらから二枚を抜き取る。ティーカップとセットが普通だろうが、統一されてないのも、中々楽しげで良いのかもしれない。紅茶は……そう、アールグレイが良いだろう。個人的には紅茶らしい香りが強いアッサムが好きなのだが、これからは色々な茶葉を試さねばならない。

 ティーカップやポッドをテーブルに運びながら、私は説明を始める。

「最近、この辺で放火が頻発してたのは知ってる?」

「うん。たしか、ケン君達が起こした山火事と関連付けられてたよね」

 察しが良くて助かる。私は頷き、小皿に乗せたケーキを持ってくる。

 ケーキに歓声をあげる清と対面するように私も座り、紅茶を一口。一息ついてから、私は口を開いた。




 清達の隣人でもある長将美は、前々からこの連続放火事件について調査していたらしい。これから清に話す事も、大体は彼女の調査から得た物だ。

 最初の事件は一か月ほど前、九月の頭だ。住宅地の前にあった資材を燃やし、半日後には付近の家の花壇が焼かれた。それから数日おきに空家、マンション前のごみ置き場、お構いなしに火を放ち続け、被害はもう六件に上る。

 警察の調べでは、犯行は決まって夜中。それも、人通りやカメラのない所を狙っての計画犯らしい。ガソリンなども使わず、ライター等での着火だけでの犯行ときている。

 あまりにせこい犯人の慎重さは、それでもしっかりと実を結んでいて、未だ警察は尻尾を掴めていないようだ。

「んー? そんなの、見つけられっこないじゃん」

 清の言葉に、私は首を振る。

「将美がこの事件に興味を持ったのはね、偶然火事現場を厳爺と通り過ぎたのが切っ掛けなんだって」

「厳爺と?」

「あの狗賓が言ったそうよ、妖怪臭いって」

 将美はその一言が切っ掛けとなり、この事件を調べていた。しかし、思わぬ横槍が入ったのだ。あの山火事騒ぎ。元部下である天と羽の、大失態だ。

 元部下とは言え、今でも将美は二人との繋がりを断っている訳ではない。それに、将美は如月と繋がりの強い、人間と妖怪のグレーゾーンに立つ女だ。その手の界隈で生きる人間にとって、彼女は目の上のたんこぶなのである。放火騒ぎとは手口が違うとはいえ、将美に嫌疑を掛けるのは必然である。

 こうなっては、将美も下手に動けない。難癖つけられてグレーゾーンからどちら側かへと転げ降ろされれば、将美の天下もそれまでだ。

 だから将美は、私に今回の調査の引き継ぎを依頼した。そして私は、清に協力を申し出た。こういう経緯だ。

 ケーキが二人の口に納まった頃、私は清の大体の経緯を説明し終えた。

「でも協力って、私は何をすれば良いの?」

「それはさ、貴方のこれからの頑張り次第……ってところかな。当てはあるし、具体的な打算で付き合ってくれって頼んだ訳じゃないわ」

「えっと……つまり?」

「本来なら如月の仕事だけど、留守だしムラマサも認知してないからね。社会勉強だと思って付いてきなさい、愛しの彼に追いつきたいんでしょ?」

 ムラマサは過保護すぎるからね。私がそう言うと、清の顔が輝きだした。

 この笑顔が見たかった。釣られて私も笑みを浮かべ、紅茶を一口。清からくる甘酸っぱさを、紅茶の芳香で中和した。




 午後、私達は歩いてすぐの駅へと向かった。そして駅周辺をぐるりと回り、お目当ての男がいるか確認する。

「んー、いないわね」

「ハナ、誰を探してるの?」

「この町で一番人を見ている人。いわゆる、情報屋ってやつね」

 ここいらで一番多い駅へと向かいながら、私は清に説明する。

「清、今回の事件は燃料を撒いたりせず、その場にあった物に着火しているって言ったのは覚えてる」

「うん。あと、被害の規模が小さいよね」

「死人を出す気はないのかもね……あ、じゃなくてね、これまでの六件、現場が結構離れてるのよ」

「つまり、電車を使った?」

「駅から近くない現場もあったから、確証なんてないけどね。どっちにせよ、この町で活動している以上、プライベートで電車くらい使うんじゃない?」

 それなら、あの男が何か知っているかもしれない。運が良ければ、似顔絵だって手に入る。

 藤井、下の名は知らないが、妹もこの町で同じように情報を売り買いしている。ネットから情報を得る妹と違い、兄の方は足で稼ぐ昔気質の男だ。放火魔が如何に監視社会の目を掻い潜ろうとしても、手足を持つ目は予測しづらいだろう。

 藤井は昼は似顔絵師として、夜は路上ライブで日銭を稼いでいる。当然、いるのは人の集まる所、普段なら駅前。彼はそこにただいる事で顔を記憶していき、その顔を絵として売っているのだ。

 藤井は、この辺りで一番大きい駅の前にある広場にいた。花壇の段差に腰かけ、野球帽を目深に被って道行く人を眺めている。脇にはギターと看板が立て掛けてあり、看板には、『似顔絵描きます。歌います』と走り書きされている。

「……あの人?」

 胡散臭い。と顔に書いてある清に、私は肩をすくめた。

「残念な事に」

「うっさんくせー……」

 ついには口に出した。私は清に付いてくるよう促すと、藤井へと歩み寄った。

「藤井、儲かってる?」

「……花車さんと……へえ、ムラマサさんの好い人さんじゃねえですか。ええ、まぁ……それなりにね」

 いらっしゃい。と、藤井は軽く頭を下げた。帽子を取りもしないが、礼節をそもそも知らない奴なのだ。一々気に障っていては、会話もできない。

「私の事、知ってるの?」

 清は自分を指し、意外そうな顔で藤井に聞いた。藤井は曖昧に頷き。

「ええ、まぁ……如月さんが前に言ってたんで」

「キュートな姉ちゃんって?」

「……肝っ玉の座った狸娘って」

「おい」

 玉とは何だ、玉とは。清がそう言って詰め寄ろうとしたのを、私は肩で押さえる。

「藤井、それより仕事」

 はいよ。藤井は気だるげにそう言って、脇に転がっていたスケッチブックを手元に引き寄せる。

「で、誰の顔が欲しいんで?」

「ここ最近巷を騒がせている、放火魔の顔」

 藤井は顔を上げ、私達の顔を交互に見つめた。探るな、と私が彼を睨むと、彼はやれやれと視線をスケッチブックへと落とした。

「口止め料は貰いますからね」

「当然払うわ。……で? 知ってるの?」

 はぁ……。などと呟きながら、藤井は手にした鉛筆で野球帽の縁をコツコツと叩く。

「……他に情報はないんで?」

 私はポケットからメモを取り出し、黙って彼に手渡した。書かれているのは、犯行日と、犯人が使った可能性のある駅名。そして、恐らく犯人はヒザマの妖怪であるという事だ。

 犯人はヒザマ。これは私の推測に過ぎないが、根拠も当然ある。

 まずはヒザマについて。ヒザマとは南西諸島にある沖永良部島にのみ生きてきた、家に憑き、火事を起こす妖怪だ。私も長く生きているが、この妖怪には会った事はない。知ったのも、人が語り継ぐ伝承としてだ。

 実在するかすら定かではない者達だが、伝承のそれと、今回の事件が似通っているように私は見える。それこそただの思いつきのようなものだが、何もないよりはマシかもしれない。

「ふむ……ヒザマってのは俺も知らないっすけど」

 藤井はメモに書いた駅名をトントンと指差していきながら、唸るように喋る。

「ここと、ここの駅だったかな。胡散臭いのがいますよ、花車さん」

 あんたよりぃ? という清の煽り文句を無視し、藤井は話を進める。

「火の玉みてえな臭いのする妖怪でね、この町のもんでもない……人目を気にするように歩いてるのを見ましたよ」

「火の玉みたいな?」

 感覚的なもんすよ。と、清の投げ掛けに藤井は答え。

「見かけたのはこの、二件目の日っすね。あと、毎週水曜の四時くらいに、ここかの次の駅……だったな、なんか用があるみたいですよ」

「それ、本当?」

 思わぬ収穫だ。その情報と似顔絵さえあれば、捕まえるのは容易い。

「ええ。……さっきも言いましたけど、胡散臭くて目に止まる奴なんで」

 藤井はそう言って、筆を走らせ始めた。線が幾重にも重なり、像をかたどる。その様子に、清が唸った。

「おおぅ、あっという間だ」

「これで飯食ってるんでね。持って生まれた記憶力と人妖見分ける鼻、そしてこの腕さえありゃ、どこでも生きていけますからね俺」

 ほら、できた。と、藤井はスケッチブックを引っくり返し、私達に見せた。ニット帽を被り眼鏡を掛けた、目つきの鋭い男の横顔が、黒の鉛筆のみで書き出されている。

「正面からは?」

「生憎、横からでしか見てないんで」

 これが決定打になりそうだ。などと考えながら、私は彼からその絵を受け取り。

「いくら?」

「口止め料も兼ねて、六万円」

 支払いを済ませると、彼は頬をポリポリと描きながらこちらを見つめてくる。

「……何よ?」

「……いえ。や、花車さん、こいつ知りません?」

 藤井はそう言ってスケッチブックを開き、私達に似顔絵を見せてきた。

 似顔絵の男は、放火魔と違い正面から描かれていて、不敵な笑みを携えこちらを見下ろすように眺めている。カリスマ、というのだろうか。一度会えば、忘れなさそうな威圧感のある男だ。

「……いえ、会った事ないわね」

「お嬢さんは?」

「知らないなぁ……」

 そうですかい。と、残念そうに藤井はスケッチブックを閉じ、しばらく考え事をするように黙ると、先ほど手に入れた六万のうちの四万を、私に返してきた。

「口止め料はチャラにしますから、さっきの質問は聞かなかったって事で」

「誰なの? さっきの男」

「客ですよ。口止め料も貰ってますし、これ以上は言えません」

 ただ。と、藤井は言葉を区切り、注意深く周りを見回してから続ける。

「そのヤマ、慎重に動いた方が良いですよ。一筋縄じゃいかなさそうだ」

「何それ、警告?」

「決して味方ではない俺から、上客へのね」

 藤井は笑みを浮かべてそう言うと、言えるのはここまでだと言うように帽子を目深に被って目元を隠した。




 一人で酒を口に含み、時間と一緒に噛み潰す。こんな夜を、私は何年続けてきたか。思い出そうと顧みるだけで、記憶の膨大さに押し潰されそうになる。

 ともあれ、藤井から情報を得て二日。明日はいよいよ水曜、捕まえればそれでこの仕事も片づく。そうなれば新しい仕事にも手に着けるだろう。

 しかし、気になるのは藤井だ。嫌に情報が適格なのに加え、あの態度。何かを隠しているのを察してくれと言わんばかりだった。それと、似顔絵の男。藤井は客、と言っていたか。藤井から何の顔を買ったのだろうか。

 本当はあの男について調べたかったが、下手に手を出して火傷するのも馬鹿馬鹿しい。一手一動に紛れた小さな問題をも槍玉にあげようとする今、余計な行動は控えるべきだ。

 次の一手を思索していたら、グラスが空になっていた。ソファーから腰を上げ、冷蔵庫の上にグラスを置く。

 テーブルで一々作るのも面倒だ。グラスにジンジャーエールと赤ワインを注ぎ、クルクルとグラスを揺らしてそれらを混ぜながらソファーへと戻る。

 そうだ、清は結局ムラマサに今回の事を教えたのだろうか。ソファーに体を預けながら、私はこの前のやり取りを思い返す。

「ハナ、この事だけど、ケン君には内緒にしてほしいんだけど……」

「え? どうして?」

 電車での帰り道、清は口をへの字にして、私に答えた。

「絶対に私を置いて動くし。この前だって、私に内緒で天や羽とも戦ってたじゃん。その仕返し」

 あの時は、別に構わないと言ったが……どう転ぶだろうか。そういった判断も含めて社会勉強だと思っていたが、それで死んでは元も子もない。あの男一人いないからと言って私は困らないが、いて利にならないほど弱くもない。

 彼の分も働く、なんて気概は、私らしくない気もするが……。そんな事を考えていたら、不意に携帯電話、それもプライベート用の方が鳴った。

 前に使っていた仕事用のなら無視していたのだが、私は手元にそれを引き寄せる。電話だ。それも、非通知だ。

「もしもし?」

「もうこれ以上、放火事件に関わるな」

 意図的に低くしているが、女の声だ。私はグラスをテーブルに置き、首筋の一点を強めに指圧しながら首を回す。すると、酔いが嘘のように引いていく。長年生きて会得した、酔い止めだ。

「どちら様?」

「もう関わるな」

 女はそれだけ言うと、電話を切ってしまった。私は溜息をつくと、右手に握る物をケータイからグラスへと取り換えた。将美にこの事を連絡したいが、今連絡すれば、それこそ墓穴を掘るのと同じだ。

 将美が自分の手駒を使わない訳だ。しかも、電話の主は私も将美の一派に数えようとしているのか。次動いたら、お前も長将美の仲間と見做すぞ。そんな風に警告しているのか。

 あるいは、私はカクテルを舐めながら考察を進める。あるいは、そのままの意味で受け止めれば良いのだろうか。今回の事件への警告、脅しとして。

 何にせよ、ややこしい事になった。つい先ほどまで明日が待ち遠しかったのに、今では嫌で仕方がない。

 私は明日を寝て待つ気にもなれず、酒で夜を明かした。




 水曜、午後三時。私と清は、似顔絵の男が定期的に現れるという駅へと訪れた。

 駅前での待ち合わせを装い、私達は改札前の一角に佇む。

「正直な話、お味噌汁にレタスはないと思うんだよね。うん」

 似顔絵の男が現れるのは十時頃、当然のように私達は合間を雑談で埋めていく。

「あいつの味覚なんて、全然信用なんないからね」

「九十九神だからってやつ? でもあの味音痴だけは勘弁してほしいよ」

 幸せ者め。私は笑いながら毒づいた。所帯持ちの愚痴は、家庭を持つ幸せ故、というものだ。そうでなければならない。三十路前の将美が聞いたら、発狂するだろう。

「でも、こうして考えると凄いよね、ケン君って」

 清はケータイで時間を確認しながら言う。

「感覚が鈍いって事は、痛みとかも感じにくいって事でしょ? 戦いとかじゃ、そりゃ強い訳だよ」

「……どうでしょうね?」

 私は窓から空を眺めながら応える。今日は風はないが、快晴で陽光が気持ちいい。風がないとは言え乾燥しているから、火には気をつけねばならない。特に私達は。

 電車が来た。間もなく来るというアナウンスを確認すると、私達は頷き合い。

「清、顔は覚えてるわよね?」

「もち。任せて」

 清はそう答え、向こうの西口へと向かった。私はそれを見送ると、自分も東口へと向かう。

 これは追跡の、ちょっとした技術だ。慎重な犯人の事。いずれは如月のような連中に追われる事など、充分承知しているだろう。そんな人間が改札で待ち構えているように対面した二人組を、気にも留めないなどというはずはない。

 では、一人の女と、出入口で通り過ぎただけだったらどうか。斜め横からチラリと顔を見られたとして、待ち構えていたとは思わないだろう。

 それに……。私は駅の東口の手前まで坂を下り、タイミングを計る。一番初めの乗客が降りてくるのに合わせ、私はまた坂を登り出す。それに、ホームから改札、そして出口までの道のりで、足の速さによって人がバラけてくれる。こちらとしては、一人ずつ顔を確認しやすいのだ。

 電車が駅に着き、それからほどなくして西口、東口へと別れた乗客達が現れる。初めの男はサラリーマン、急ぎ足で私の横を通り過ぎたが、似顔絵の男とは似つかない。それを口火に次々と来る人々を、私は素早くチェックする。

 一人、二人、三人四人と顔を見ていくが、どうもパッとしない。やがて私は、改札口の方まで辿り着いてしまう。

 横目で見た感じではホーム側も人気がない。清の方か。私はそのまま横断するように、西口へと向かう。

 清は出入口の手前に置かれた自販機で、ジュースを飲んでいた。アドリブだろうが、及第点と言ったところか。あれでは、相手を見る目線次第では顔を覚えられる。

「待った?」

「うん、ほら」

 清はそう返事をして、顎で一点を示した。見ると……いた。後ろ姿でもはっきりと分かる、あのニット帽の男だ。私達は人の流れに入り、男を追う。

 その背中を見ていると、彼の手強さがひしひしと伝わる。黒いニット帽から、僅かに零れた赤い髪。身長は170センチ未満だが、かなり鍛えているようだ。

 前方の信号が赤となり、私達は手前で立ち止まる。その時、男と目があった。

 眼鏡から覗く目はドロリと濁っているが、瞳は力強くこちらを見据えている。病んでいると言うよりは、歪な凄みがある。こうなるだけの経緯が、この男にはあるのだ。私は清を連れてきた事を後悔した。

 男と目があったのは一瞬だが、感づかれたようだ。信号が青になると、男は何事もなく歩き出したが、気配が違う。私は清に警戒するよう、目で促した。

 男はケータイを片手に、歩き続ける。さて、どうしたものか。こうなると主導権は向こうの物だ。後手に回るのは危険だが、それも良いだろう。この男の背後にある何かが、本当に藤井が警告するほどのものなのか、この目で見極めたい。

 どれほど歩いたか、男は人気のない通りで立ち止まりこちらを見る。こうなると私達も堂々としたもので、悠然と左右に分かれて身構える。

「……霧隠花車、大物だな」

「で、お宅は? 放火魔なのは知ってるけど」

「これから死ぬ奴に、名乗る必要もない」

 男がそう言うと、背後から物音がした。清が素早く、私に背中を預けるようにして立つ。一瞥すると、小道から男が数人姿を現した。しかし、この男の手前、一々構ってられない。しかも、男の方からも二人出てきて、身構える。

「しかし、チープだが……言えるもんだな、こういう台詞は」

 男は小首を傾げて言うが、目は笑っていない。目を見開き、こちらの出方を窺っている。

「そりゃ、貴方がそれだけ成り下がったからじゃない? ……清、そっちの数は」

「三人……如何にも悪役って顔してますぜぇ姉御」

 清が上ずった声で答える。しかし、こんな状況でも手にした缶を捨てないのは流石と言ったところか。

 妙な事になった。放火魔を追っていたら、徒党を組まれ返り討ちに遭おうとしている。こんなのは予想の外、想定外だ。

 しかしこの程度、何の障害にならない。

「清、ビビってんの?」

「ははっ、ナイスジョーク!」

「そう言うなら、本命をよろしく」

 清の返答を待たず、私は行動に移った。清の腰を後ろ手で掴んで固定し、反対の肩で清を押す。グルンと清と立ち位置を入れ替え、そのまま一気に私は三人に駆け込んだ。

「構うな殺せぇっ!」

 放火魔の張りあげた声が聞こえる。三人は私の攻勢に浮足立ったが、その声に戦意を取り戻す。とにかく、時間がない。清が牽制してる間に、迅速に三人を制圧する必要がある。

 まずは一人。先頭の男は、私の突進に対して棒立ちのままナイフを突き出す。私はそれを手で軽く捌き、返す刀で男の顎を下から掌底で軽く突き上げる。男が仰け反るのを確認する間もなく、そのまま側面に入り込み足を絡める。そして男の左肩を掴み、身を捻って男を地面に引き倒す。

 男はグルンと回転しながら、土下座でもするかのようにうつ伏せに倒れる。鼻を地面に打ちつけたのか、小さくも嫌な音が聞こえた。

 パニックに陥ったのか、スピーカーのボリュームを急に上げたような絶叫をあげて、別の男が私に向かってきた。だが、恐怖に突き動かされたそれはギクシャクしていて、遅い。

 突き出された拳を片手で難なくいなし、その手を掴んだ私は、突き出す拳の向きに合わせて体を半回転、男の手をこちらの手元に引きつける。引っ張られた男が前に体勢を崩したところで、手首を捻って極める、小手返しの要領で男を地面に転がした。

 驚きの声をあげて男は転ぶ。私はその男の手を離さず、逆に引く。そして片足を上げ、男の顔を容赦なく踏みつけた。

 次だ。私は最後の一人、肥った男に意識を向ける。男は何をするでもなく、一連の流れを傍観していた。あの巨体の重心を崩すとなると、膝か感覚器官を狙うしかないだろう。なら……気管支。体を折ってえずいてるうちならば、仕留めるのは容易い。

 私は地面を蹴って男に迫り、喉笛目掛けて貫手で突いた。しかし……。

「あっ……!」

 思わず声が漏れ、心臓が跳ね上がる。突いた指先の感触が違和感を訴えた直後、男の体が着いた部分を中心に収縮し、最後にポンと音を立てて小さな狸のぬいぐるみに変わる。

 化かされたか。見失った男を探そうと首を動かそうとしたが、その首を背後から絞められ、壁へと体を打ちつけられた。

 口から息が漏れ出て、目の前が一瞬暗くなる。下を向いた視線を持ち上げるように、男は私を正面から両手で首を絞め、壁にまた体を叩きつけた。

「がっ……っぐ……!」

「ざまぁねえな、このクソ野郎。舐めやがって……!」

 男は引き攣った笑みを浮かべながら、私の首を絞めあげる。意識が遠のきそうだが、私は敢えて男に笑みを返し。

「間抜け」

 絞り出すようにそう言うと、私は、男の腕を抱くように掴んだ。こいつには特別に、火車の力を味あわせてやろう。殺してやる。

 私の意思に呼応し、掴む手からボゥと青い炎が溢れる。生命を焼く、火車の炎が。

「おわっ……!?」

 男は反射的に手を離そうとするが、私はそれを許さず腕を掴んで離さない。炎は男の腕を伝い、全身に燃え広がっていく。

「ひっ……ああああっあぁぁっ!!」

「……ざまぁねえな、この……クソ野郎」

 炎はとうとう男の全身を焼き尽くし、衣服を残しこの世から消し去る。私はその服を脇に捨てると同時、獲物を食い尽くした炎は満足気にのたうってから掻き消えた。

 さて、後は二人と、本丸だけだ。そちらの方を見れば、敵方三人はこちらを唖然として見つめている。片や清はそれに相対し、獣が威嚇するような唸り声をあげている。

 清の周りには手にしていた飲み物の中身や缶、自販機の脇に置かれている缶入れと、その中身が散乱している。中々に奮戦したようだ。私は三人を視野に入れつつ、ゆっくりと清の下へと歩み寄る。

「終わった!?」

「え?」

「終わったの!?」

 あ、うん。と、私は慌てて頷く。清は肩で息をしながら、血走った目でこちらを見る。後ろの三人をやったのはほんの一分足らずだと思うのだが、どうやらこっち以上に危険な目にあったようだ。無論、清の経験不足もあるだろうが。私は清に再度頷き。

「御苦労様、後は任せ……いえ、しっかり見てなさい」

「はぁ…はぁ……へへっ、合点だ」

 清は片手を挙げる。それにタッチし、前に出る。

 さて、改めて私は残る三人を観察する。先ほどの戦いで感じた……いや、確信したと言った方が良いだろうか、あの放火魔はいざ知らず、他の連中は素人だ。突発的な事象に対して脆く、恐怖に弱く、驕りやすい。現に清と戦っていたであろう二人は、すでによろよろと放火魔の後ろにまで逃げてしまっている。

 警戒すべき者、こいつらの大将はやはりこの男、放火魔だ。

「もう駄目だ、降伏するしかねえよ殺されちまう!」

「……あ、ああそうだ金城きんじょう。あんなの殺せる訳ねえ」

 左右の二人の言葉に、放火魔は溜息をつく。金城、それがこの放火魔の名前か。

「命ある物のみを焼く、火車の炎か……」

 放火魔……いや、金城はそう言うと、すっと前に出た。私も合わせて前に出て、笑みを浮かべて見せる。

「ああなるのが嫌だったら、大人しく捕まりなさい。アレは、痛いわよ?」

 とは言ったものの、最終的には死んでもらう事になるだろう。徒党を組んで放火をやるような男だ、生かしておけば妖怪全体の不信に繋がる。

 金城は、私の考えを読んだように皮肉な笑みを浮かべて首を振り。

「……なぁ、お前はどうして俺を捕まえる? お前は人間の犬って訳じゃあない、自由な妖怪と聞いていたが?」

「色々と理由があるのよ。貴方だってそうでしょ?」

「ん?」

「じゃなきゃ、そんな眼には成らないわ。それともその濁った眼は生まれつき?」

 金城は虚を突かれたように眉を吊り上げ、悲しげに顔を歪めた。しかし、すぐに表情を元に戻し。

「……少し話し過ぎたな。さ、始めるか」

 金城はそう言って、ニット帽を剥ぎ取って地面に捨てた。帽子から溢れ出た赤い髪が、嫌でも炎を連想させる。

「火を使う火車と言えど、火に焼かれない訳ではないだろう……!」

 金城は深く息を吸い込み、息を止める。それから右手を口元に寄せて、一筋の炎を吐き出す。炎は右手の掌でクルクルと回り、線は円に、円は球になって火の玉となる。

「火の玉……やっぱり貴方、ヒザマね。通りで放火なんて、みみっちい真似しかしない訳だ」

「……ヒザマは、家を焼く悪魔として生まれた妖怪だ……」

 手の上で完全な球状となったそれを、金城は私達の間に転がっていた缶入れに放る。火の玉は缶入れに当たると膨らむように弾け、爆発した缶入れは空き缶を飛び散らせながら私の脇を転がっていった。

「こう使わずして、一体何になるっ!?」

 金城は叫ぶ。その顔は合間の炎で揺らめいていて、正に悪魔のようだ。

 しかし、面白い。私は金城の気迫を受けて、隠し切れない笑みを零す。こういう妖怪としての業を捨てられない奴は、嫌いではない。

 私は身構え、じりじりと開けた間を狭めていった。対して金城は、再度右手に火の玉を作り出し、いつでも投げつけれるように手前に引いて迎え撃つようにどっしりと構えている。

  しかし、向こうから来ないというのはどうも具合が悪い。あの火の玉を得意気に振り回してくれれば、先ほどのように難なく対処できただろうに。

 ……いや、先ほどの対処がいけなかったのか。あの動きをこの男に見せてしまった、そして金城は、早くも体術対策を模索し始めたのだろう。出した手を掴まれるなら、ギリギリまで出さなければ良い……ありふれた手だ。

 なら、こっちが攻めるまでだ。手を出さないと言うなら、こちらが手を出す。手を出したくても、出せなくなるほどに痛めつけるまでだ。

 私は足元にあった空き缶を金城に蹴りつけ、火の玉を出しにくい彼の左側面に向かう。金城はその空き缶を払う事もせず、側面は取らせぬと動きに付いてくる。空き缶は胸に当たるが、身じろぎ一つしなかった。私は舌打ちをし、掬い上げるように脚を振るう。狙うは弁慶の泣き所、脛だ。

 金城は片足を上げ、跳び下がってそれを躱す。良し、私は内心ほくそ笑んだ。わざわざオーバーな蹴りを使って良かった。金城は避けたつもりでいるのだろうが、実際は罠に片足を突っ込んだのだ。

 金城が上げた片足を降ろすよりも速くと、私は間を詰める。ここが勝負の時だ。金城は顔をしかめ、地に着いた足を軸に回転し、右手をアッパーのように強引に突き出してきた。

 両足、見事に突っ込んでくれた。私はその右腕を入り身で躱し、同時に脇を掠めた右腕を両手で鷲掴みにする。

 相手の凶器は手の内だ。こうなればもう、こちらの思うがままだ。金城の尻に膝蹴りを入れて体勢を崩し、それから四方投げへと技を展開させていくが……。

 背中越しに衝撃、右目の端から熱と光が溢れた。反射的に私は腕を離し、顔を両腕で覆ったのが早いか否か、空気を引き裂くような音に弾き飛ばされるように私は地面に叩きつけられた。

 爆発、あの火の玉の爆発か。胸を打った私は、咳き込みながら腕を動かし、上半身を起こす。あの男、やられるくらいならと任意で爆発させたのか。当の金城も、向こうで呻きながら身を起こしている。

 うなじ辺りが痛い、ヒリヒリとしている。足腰に力を入れて立ち上がり、うなじに手をやる。

「……うっ」

 新たな痛みに声を漏らし、そっと掌を見てみる。掌は血が付着していた。ボタンをブチブチと飛ばしながら上着を強引に脱ぎ、傷口に当てる。金城の方はこちらに向き直るが、まだ立てていない。

「ハナッ! ハナァッ!」

 清の声がするが、聞こえ方がおかしい。平衡感覚も妙だ。私は空いた左手で右耳に触れる。耳元での爆発だ、鼓膜がイカレたのかもしれない。こうなると痛みがないのが、かえって心配になる。

「ハナッ!」

「壁際にいなさい!」

 清がこちらに駆け寄ってくる足音が聞こえ、私は慌てて後ろ手で静止の合図を送った。

「……見ろ、血だ」

 金城は駆け寄ってきた仲間二人に、私を見るように示して言った。

「血を流す以上、あいつは死ぬ……殺せるぞぉ!」

 金城が発破を掛け、闘争心に火を着けられた男達は叫びながら私に向かって駆け出す。

 大した奴だ。私は上着を放り捨てて迫る男達を相手にしつつ、舌を巻いた。あの金城という男、ただの放火魔にしてはできすぎる。

 一人を壁に叩きつけ、最後の一人は顔を火車の炎で軽く焼いてやった。一息つく間もなく火の玉を投げつけられ、私は辛くもそれを避ける。

 なんとか凌ぎ切った。ほとんど無呼吸で二人を倒した私は、大きく深呼吸して息を整える。対して金城は、爆発時のダメージを粗方回復させてしまったようだ。

「……ふん、仲間をダシにして自分は回復に努めるとは恐れ入るわ」

「その代り、俺が確実にお前を仕留める。後ろの小娘もだ」

 そう言って金城は、火の玉を片手にこちらへと近づいてくる。爆発で飛んで行ってしまったのか、眼鏡を掛けていない金城の眼は、どす黒い炎で揺らめいている。私のように右耳の辺りから血を流しているが,お構いなしだ。

「俺達は追う者は、殺さなければな」

「……そうやって世界中を敵に回す気?」

「自分自身の、確かなものの為にな」

「確かなものなんて、この世にはないわ」

 呼吸は整えた。私はふぅと息をつき、手を握ったり開いたりして感触を確かめながら話し続ける。

「あるのは、確かであれと願い信じるものだけよ」

「じゃあ、信じてみるさ」

 それに……。と、金城はニヤリと笑う。

「お前の言う世界と言うのも、案外磐石じゃあないだろうな」

「……どういう意味?」

 意味深な言葉の真意を私が聞き出そうとした、その時だ。

「無理だったんだ!」

 突然の大声。見れば、私が一番初めに倒した男が立ち上がり、潰れた鼻から血を零しながら半狂乱になって叫んでいる。

「騙しやがって、何が抜け駆けだ!? ムラマサだけじゃなかったじゃねえかっ! こんなんじゃ事務所の連中全員呼んだところで、どうにもなるもんか!」

 男は踵を返し、駆け出す。逃走するつもりか。

 私より、清の方が反応が速かった。男の背中を追いかける清は、まるで獣のようであった。

 しかし、男の逃走も、清の行動も、結局は徒労に終わった。それも、全く突拍子なく現れた、第三者によって。

 横道から、男の逃走を阻むように少女が現れた。ハンチング帽から溢れる長いゴールドブロンドの髪、そして彼女の顔にはサイズが大き過ぎるサングラス……私は彼女の正体に気づき、彼女が乱雑にサングラスを取る前に、彼女の眼を見ないように視線を逸らす。

 迫る男に、その少女は真っ向から立ち塞がり、叫んだ。

「跪けっ! 三下っ!!」

 その一言だけで男はびくりと体を震わせ、フラフラと数歩前に進んだ後、嘔吐しながら膝をついて苦しみだす。どこから現れたのか、大男がそれをのそのそと捕縛していく。

 間違いない、さきほどのは瞳術だ。そしてこの少女と大男……話に聞いていた革新怪団の先兵、モニカとアルフレッドか。

「おまっ……のこのこと私の前にっ!?」

 モニカ達の出現に、清が叫ぶ。そうだった、清は彼女に呪いをかけられた事がある。その証拠に、彼女はモニカに対して背中を向けて叫んでいる。あのトイレに篭もらされた夜が、トラウマになっているのだろう。

 モニカはそんな清を一瞥し、それから清の脇を通り過ぎて私の方へと歩み寄ってくる。金城は舌打ちをし、目を忙しなく動かしながら油断なく構える。

 モニカは私の隣に立ち、言った。

「ええっと……なんとか隠れの花車、だよね? こっちは私達がやるから」

「……誰の依頼?」

「あんたの友人」

 将美の奴か、私は溜息をついた。手持ちの駒が使えないからとはいえ、よもやこんな連中を雇うとは……。

「ほら、とにかく向こうに加勢に行った方が良いんじゃない?」

「向こう?」

「あれ?」

 と、モニカは首を傾げ。

「聞いてない? 今向こうの通りにあるこいつらのアジトで……ムラマサだっけ? あのツクダニが一人で戦ってんだけど……」

「ハァアッ!?」

 清が素っ頓狂な声をあげる。私も歯噛みした。あの過保護め、一枚噛んでたのか。なら、こっちは本命ではない。本命がここなら、来るのはモニカ達ではなく、ムラマサだったはずだ。

「あの馬鹿っ!」

 清は憎々しげに叫び、駆け出す。

「あ、ちょっと……!」

 モニカがそう言い清の方を見た瞬間、金城が動いた。火の玉をモニカへと投げつけたのだ。

 私は横に跳んで、モニカの体を抱きかかえて地面に突っ伏す。肩周りの骨がアスファルトに当たり、痛みと爆音が私を動けなくしているなか、焦燥した金城が私達を無視して通り過ぎていった。

「あっ! にゃろう!」

 モニカは慌てて立ち上がり追おうとしたが、金城はすでにアルフレッドの巨体を蹴りつけて突破し、横道へと姿を消していた。

「……やられた。ああもう……!」

 モニカは腹立たしげに地団駄を踏み、唸る。横に人が寝ているのだから、勘弁してほしいのだが。

「はぁ……助けてくれてって……あんた大丈夫なの!? 立てないの!?」

「貴方が重いから、ちょっと怪我しただけよ」

 私はそう茶化し、姿勢を変えて空を見上げる。この通り自体が暗いせいで気づかなかったが、もう日が落ちようとしていた。建物のラインからキラキラと夕日が見える。アスファルトは疲労した私には冷たく、心地良い。瞬きをすると、そのまま暗がりに落ちてしまいそうだ。

「まったく……一体何が起きているのやら」

 私は独り言を言うと、体を蠢かしてジーンズの後ろポケットからケータイを取り出した。

 清を追うのは諦めたが、やれる事はまだある。私は将美とは関わりの薄い友人に連絡を入れた。




 あれから、十日経った。正午、私は見慣れぬ道を、手書きの地図を頼りに歩いている。

 金城と呼ばれていたあのヒザマを逃した後、痛む体を引きずって加勢に馳せ参じるような事もせず、私はその日を終わらせた。

 行こうと思えば行く事もできた、だがしなかった。結局のところ、四百年前から何も変わらない。私はそういう女なのだ。日陰に生き、光遮る霧に隠れる。ずっと前からそうだ。

 それは、今も変わらない。目的の建物に着いたようで、私はその小さなアパートの名前を確認した。……間違いない、ここだ。ここがあの男、金城の住んでいたアパートだ。

 今頃ムラマサ達はあの瞳術の娘、モニカ達の引っ越し……いや、彼女は住所不定だったそうだから、引取りと言うべきか。その手伝いに追われているはず。そのうちに、今回の事件の背景をより深く探るべく、あの男の素性について調べたかった。

 そう、一人で調べたかったのだが。

「……何でいるの?」

「恨むんなら、藤井に口止め料を払わなかった自分を恨みなさい」

 抜け駆けとは良い度胸ね。将美はそう言ってヘラヘラ笑った。

 まあ良い。私は彼女を無視して彼の住んでいた二階の一室へ向かう。

 事前に手に入れておいた鍵を使って玄関を開け、土足で部屋に入る。ある日フッとこの世から消えた男の一室は、主のない部屋にしては生活感があり、気味が悪い。

「そうだ、あんた引っ越しの手伝いは?」

「天と羽に押しつけた」

「……あっそ。それにしても、よく如月にOK貰えたわね。リーダーがまだ子供とは言え、一度はあの鬼の命を狙った連中よ?」

 モニカの引っ越し先は驚くべき事に、あの川下の邸宅だという。代々妖怪と人間の橋渡しを務めてきたあの河童の一族は、如月や和尚との繋がりが強い。恐らく、将美が自分との関係を臭わせないうちにさっさと押しつけたのだろうが、それをよくあの鬼が了承したものだ。

「私だって彼から白星奪ってるじゃない。それに結構あの子らは有能よ。実際気づかなかったでしょ? 調査中に尾行されてるの」

「……なら何で手元に置かなかった?」

「指示に背いて勝手な真似する奴は、あの二人でもう充分」

 将美はきっぱりとそう言って、襖の奥を探り始めた。

 私もそれを見習って、物が散乱した机を調べてみる。机の上は物置に近い状態だが、手前にだけ不自然なスペースがあり、その脇には転がったボールペン。つまり、これは何かを書いた跡だ。日記などの習慣的なものか、一時的に周りを退けて書いたのかは分からないが。

「将美、パソコンあった?」

「そう言えばないわね……入居したのも最近だから、仮住まいだったんでしょうけど」

金城の住居を突き止める際、電子情報のエキスパート、いわゆるギークである藤井の妹にも当たってみたのだが、彼女では金城の一切の情報を引き出す事ができなかった。

 もし金城がアナログな男だったとするならば、ひょっとしたら手記があるかもしれない。私はそんな仮説を元に、机を引っ掻き回した。

 そして見つけた。机の引き出しにしまわれた英字辞書とそのカバーの隙間に押し込むようにして、薄い手帳が隠されていた。私はそれを手に取り、最近のページから開いてみる。……ビンゴだ。要所要所ぼかされている部分があるが、充分に使える代物のようだ。

 手帳はメモや雑記もあるが、ほとんどは日記で占められている。日記は、ある男からスカウトされた所から始まっていた。

 読み進めていくうちに、彼の行動の真意が読み取れてきた。幹部として雇われたものの、連れの恋人は別の班に回される。そしてその別班というのが、今回の放火の本当の実行犯であり、如月への宣戦布告の為の餌。先の計画には足手まといになると判断された、鉄砲玉に過ぎない事を金城は知る。

 彼は女を救う為、奔走した。短命であるカゲロウの妖怪として産まれた女に、何か一つでも生きた証をと参加したのに、こんな終わらせ方はありえない。この女だけでも生かして任を終わらせてみせる。そう日記には書いてあった。実際、放火についてはほとんど彼だけで行っていたらしい。水曜にあの駅で降りていたのは、別班にされた者達との会合の為のようだ。

 しかし、それも上手くはいってなかったようだ。日記の最後の方は、金城の苦悩と苛立ちに満ち満ちていた。

 ただでさえ上の目を盗んでの行動だと言うのに、周りにいるのは使えもしない連中ばかり、それどころか、彼らは金城が手柄を横取りしていると不平を垂れていたらしい。何をやっても首が絞まっていく、日記にはこの言葉が何度も使われていた。

 最後の数ページ。どうやら、放火の真の目的は、ムラマサを誘い出す為にあったらしい。そしてそれは、ムラマサを殺す為ではなく、ムラマサに邪魔な別班を殺させる為に、という話だ。金城はこれを阻止するべく、自らがアジトに襲撃に来る奴らの相手をするべく計画を練って……それで手帳は終わっている。

 そう……。私は日記を閉じた。そして金城は失敗した。私や清を迎え撃っているうちにアジトをムラマサに襲撃され、恋人も、そして遅れてやってきた金城も、彼の白刃によって命を絶たれた。全てこの女、長将美の手の上で踊らされたという訳だ。

「……何よ?」

 将美は、怪訝な顔で私に尋ねた。私は日記をパラパラと振りながら答えた。

「いや、救いようもない話ねって」

「人死にが出てんだから、当たり前でしょ」

 それもそうか。と私は嘆息し、将美に日記を手渡す。彼女は無造作に鞄にそれを放った。

「でも、死人が出るのはこれからね。クーデターなんて、この国でよく起こす気になれるわよね」

「そうね。これから、これからよ」

「……何身震いしてんのよ」

「別に」

 そう、これからだ。如月が築いたこの世界にとっても、ムラマサにとっても……私にとっても。

 話は聞いている。ようやく、ようやく現れたのだ。彼の過去を知る者が、現れた。あの日の真実を知っているかもしれない者が、ようやく現れた。

「怖いの?」

「……少しだけ」

 私はそれだけ言うと、光を求めて窓の方を見た。

 ちょうど、厚い雲が陽光を遮っていく瞬間であった。

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