第二部 三話「ぬらりひょん」

第三話『ぬらりひょん』




 日夜関係なく酒と食事で賑わうニューハウンも、夜明け前は流石に静かだ。

 俺は係船柱に腰かけながら、沿岸沿いに並べられた船を眺めている。いくら待てど、どんなに耳を澄ましても、ここには波の音しかない。する事もないので、また俺は煙草に火を着ける。

 これで何本目だったか、ここの煙草は最近の日本と比べても倍くらい高いので参る。もう何日もこの時間はこうしているが、未だM・S・Vは現れない。

 サマータイムを考慮して、現在、午前六時半。ここコペンハーゲンでは、この時間でもまだ、明け方にも届かずと言ったところだ。寒く、そして日も遅く昇って早々と沈む。季節ごとに日照時間が変動するこの土地に、人間はどうしてこんな大都市を築いたのだろうか、ここに来る度に思う。

 日本を発って二カ月近く、金で雇った情報屋との連絡以外に碌な会話をしていない。他には精々、ムラマサや和尚クソ坊主達との電話くらいか。会話をしないと普段気にもしない事に注意が向き、感傷的になる。頭だけで事象を完結してしまいがちだ。ひょっとすると、これが冬鬱と言うやつかもしれない。……どうやら、鬼であるこの俺も、精神的な面ではまだまだ貧弱なようだ。

 さて、どうしてここまで時間が掛かっているか。語るならばそれは、革新怪団かくしんかいだんの不透明さが原因だろう。調べど聞き出せど、確証ある情報が手に入らないのだ。

 革新怪団を名乗る組織は確かにある。事実、オルレアンで俺はモニカを派遣した連中を叩き潰した。しかし革新怪団全体の大元締め、リーダーの情報は噂という不鮮明な形でしか手に入らないのだ。聞き出した構成員は全員、リーダーの顔さえ知らないと言う。俺を襲ったのも、ただ自分より格上の仲間に命令されたからだとか、リーダーからのメールでだとか、そんなものばかりだ。

 MSV、構成員はリーダーの事をそう呼んでいる。何を意味した名前だか知らないが、彼らはこのリーダーを強大な存在として見ているらしく、正体を隠す事にも意味があると思っているらしい。

 オルレアンで下部組織を潰し、呼び名だけしか分からぬまま俺はそのリーダーを追った。北欧に逃げたらしい、とオルレアンで連中から聞きだし、北欧へ。コペンハーゲンに向かった、と道中俺を襲った男から聞きだし、この都市へと来た。夜明け前夜にここニューハウンに現れ、親密な仲間に指示を出していると噂を聞き、こうして煙草を吸う毎日だ。

 そして、今日も空振りだ。ここいらにそれらしい気配はない。俺は日が昇る前に見切りをつけ、煙草を携帯灰皿に入れて踵を返した。

 数歩歩き、そして気づいた。向こうから男が一人、こちらへと歩いてくる。それも、こちらを見て、まっすぐに向かってきているのだ。

 見た目は、二十そこそこの若者。、殺気立ってはいないが、緊張しているのか、その顔は固い。強盗の類か、俺は携帯灰皿をポケットに滑らせた。

「こんばんは」

 敵意のない事を示すように両手を軽く挙げ、男は言った。日本語だ。

「あんた、如月童子だろ? 日本の、鬼の」

 イントネーションこそおかしいものの、話せるのはありがたい。これで情報屋に通訳させる事なく、情報を聞き出せる。俺は右手を握り込んだ。

「あ、待て」

 俺の気配を察したか、男は両手をさらに高く挙げ、それから周りをキョロキョロと窺い。

「如月童子なんだな?」

 俺は、おう、と頷いた。妙な男だ。情報屋が他人を使った事はないし、MSVにしては風格の欠片もない。俺を知っているのなら、赤の他人という訳でもないはずだが。

 よし。と、男は頷いて両手を下げ。

 次の瞬間、その手は拳となって俺の顎へと伸びてきた。

 不意打ちに加え、中々の踏み込みと速度。思わず俺は突き上げてくる拳を仰け反って避け、払うように冬のバルト海へと突き飛ばしてしまった。

「……いけね、やっちまった」

 盛大な水しぶきを聞いて、自分がやった失態に気がついた。殺してしまってM・S・Vの事はおろか、この男が何者かも聞き出せない。この寒さだ、下手したら今ので死んだかもしれない。

「ブファッ!! ファッ……フアァァァァッ!?」

「お、生きてたか」

 男はすぐに海面から顔を出したが、相当寒いらしく、満足に手足を動かせずにいる。あの様子では、本当に死んでしまうかもしれない。俺は近くにあったパラソルを使い、男を引っ張り上げる事にした。




 男の口が聞けるようになったのは、海から救い出して、一時間ほど経ってからであった。

「鬼は怪力と聞いてる。俺を投げる腕力、俺を躊躇いなく海に投げ入れる非情さ……なるほど、あんた本当に鬼だ」

 俺の部屋のシャワーを使い、俺が使うはずだったバスローブに身を包んで椅子に座り込み、ハイネケンを瓶で半分ほど飲んでから、ようやく男は口を開いた。

「そうかよ。で、おめえは誰だよ? 日本語上手いな?」

「ジム・サップだ。……あんたと同じだよ。MSVを消す為に、組織に入っている。……あ、大学は日本語専攻だった」

「ほう。俺と接触した理由は?」

「接触? ……あ、ああ、あんたに伝えなきゃと思って」

「何を?」

 俯いていたジムは顔を上げ、ハイネケンをテーブルに置いた。そして、俺を真っ直ぐ見据えて答えた。

「MSVの正体だ」

「……面白いな」

 俺は自分の分のハイネケンを冷蔵庫から取り出し、栓を抜いた。

「じゃあ、聞かせてもらおうじゃねえか。その、正体ってのをよ」

 そう言って、窓のカーテンを開け放ち、白んできた街を見下ろす。三階から見下ろす街の景色は薄暗く、顔を出して横を向けば遠くに宮殿が見える。そうだ、俺は毎回あれを見る度に、宮殿の名前を調べようとして失念しているのだったっけか。

「……あれは、あんたが思っているようなものとは違う。あれは概念であって……どこにいるとか、そういうのじゃあないんだ」

「どういう意味だ? もう少し、詳しく頼む」

「ミーム、という言葉を知っているか」

 いや。と、俺はジムの方へと振り返り、首を横に振った。日本語で説明するのが難しいのか、ジムはたどたどしく説明を始める。

「遺伝子ってあるでしょ? 情報は遺伝子に似ていて、その場や時間が経つと変わる……って、感じ」

 待て。と俺はジムを手で制した。ジムは驚いたようで、辺りをキョロキョロと見回した。俺はその様子に吹き出し。

「いや、違う。こいつで見た方が早ぇだろ?」

 そう言って、俺はケータイを見せる。ネット社会には疎いが、こういう時はやはり便利だ。俺はジムの言っていた、なんとやらを調べてみた。

「っと……ミーン?」

 彼は首を振り。

「違う、ミーム」

「ミーム?」

 彼はこくこくと頷き。

「ミーム」

「ミーム」

 そんなやり取りをして、俺は彼の言うミームを、ネットで調べてみる。こういう小難しい話は本人に聞くより、日本の簡潔にまとめられたサイトの方が理解だけなら早いだろう。

 しばらくして、なるほど、と俺は頷き、ケータイをベッドに放る。ようするにミームとは、情報が流行りと伝言ゲームで変容し、まるで生き物のように環境に適した形になる事を指摘した概念、という訳か。

「とりあえず理解はしたが、おい。遺伝子じゃなくミームって事は……」

 ジムは頷いた。

「生き物じゃない、存在しないんだ。MSVは、ありもしない革新怪団という組織の、いもしないボスという設定で都合良く解釈されたり、利用されたりする言葉そのものだ」

「待て、革新怪団も? 全て騙りか?」

「グループは実在するけど、別に全てのグループが誰かに統率されてる訳じゃない。大きな組織に入ってるって騙されてる奴と、MSVの名前を上手く利用している奴……それがありもしない組織の、実在する構成員の正体」

「……ぬらりひょんみたいなものか」

 俺は窓辺に背を預け、呟いた。恐らく実在する自称革新怪団の下部組織は、虎の威を借る狐。しかしその虎は実在しないときた。オルレアンで叩き潰したあのリーダーは、MSVの指示を受けていると偽り、邪視の小娘のような強者を体良く利用していたのだろう。

「俺は、あそこにMSVがいるって噂を聞いた。真実を知らない奴からすれば、如月、あんたがMSVに見えたんじゃないかな?」

「……あの野郎、もう一発くらい殴っとくべきだったな」

「ところで、ぬらりひょんって何だ?」

「人間の間で語られる妖怪だ。頭のデケぇ、着流しを着たジジイなんだってよ……俺は会ったことねえけどな」

 肩をすくめて、俺は語った。いや、騙った、が正しいのだろうか。捉えどころのないその妖怪は、MSVのように意味ありげな名前を持って人の心に生きる。それも一つの、妖怪らしい生き方なのかもしれない。

「……今、MSVの正体はあんた、如月童子って噂が広まりつつある。オルレアンのところのような、指示に従わない勝手な連中を潰して回っているって」

「ハッ、俺もミームに組み込まれたってか?」

 そうだな。と、ジムも苦笑する。

「……実は、俺もMSVの名前を借りて組織を作ったんだ。俺がMSVになれば、革新怪団全体を壊すこともできるんじゃないかって」

 ジムはハイネケンを取り、一気に飲み干してから立ち上がる。

「だから……」

「だから俺を殺して偽物に仕立て上げ、本物として組織を支配したいって?」

 ジムははっと俺を見る。俺は構わず続けた。

「悪い事は言わない、ホテルの外で待機してる奴を退かせな。数じゃ俺は殺せないぞ」

「……いつ気づいた」

「長いこと会話してねぇと、変に神経質になんだよ」

 俺はそう嘯き、カーテンを後ろ手で閉めた。

「いつってか、段々と気づいていったんだけどな。そもそも、お前が俺に会う理由が見つかんねえんだよ」

 俺はハイネケン片手にジムを指さす。しかし、人の思惑を暴く、探偵とはこうも楽しいものなのか。

「俺に伝えなきゃならないと思って? MSVを消す為? 何だそりゃ? 俺がこんな遠くまで来たのは、革新怪団を潰そうとするような好き者がそもそもいなかったからだぞ? 誰もが連中を野放しにしてたから、事前情報も少なかったんだ」

 ジムは黙って俺を見つめている。まるで、俺を見極めようとしているかのようだ。ひょっとしたら、的外れな推理をしているのかもしれない。そう思ったが、見極めようとしているのなら最後まで話してやるのが良いだろう。

「なのに、お前はMSVの正体まで知っていた。この街の情報屋でさえ知る者がいないのなら、知っているのは身内だけだろ。それに、お前はその情報を普段は公開してはいないはず。なのにベラベラと喋るじゃねえか」

 そういう時は、俺を殺すか、てめえが死ぬかってのがお約束なんだ。俺はそう言って、言葉を切った。

 ジムはハイネケンを机に置き、頭を下げた。

「頼む、頼む助けてくれ! このままじゃあいつらに殺される!」

「……大方、部下にお前がMSVじゃないって勘ぐられたんだろ? 外の連中の目的は俺じゃなく、港で醜態晒したお前だ。初めの一撃で、上手くいきゃ良かったのにな」

「実際に会ったのも、今日が初めてなんだ。普段はメールで指示してて……助けてくれ」

 哀れだな。と思わず呟いてしまった。しかし、閃いた。MSVと言う、姿なき敵を殺す方法を。

「なら俺の指示に従え。従わなきゃ……」

 俺はジムの空瓶の口の部分を指で弾いた。瓶自体は倒れず、口の部分だけが飛散する。ジムは小さく悲鳴をあげた。

「……な? お前を、本物のMSVにしてやる」

 ジムはガクガクと頷いた。




 俺がやったのは、たった三つの事だ。

 一つは外にいたジムの部下を追い払う事。あんな若造に騙されるような連中だ、赤子の手を捻るようなものだった。

 二つ目は、その時そいつらを殺さず、俺の言葉を聞かせる事。ジムを殺してやったと。この二つで、ジムの安全は確保されただろう。

 三つ目。この三つ目と二つ目が、俺の本命となる。それはジムやモニカ、それと情報屋にある噂を流させる事だった。MSVは、コペンハーゲンのホテルの一室で殺された。それを証明するのは、ジムの元部下だ。

 この噂が広まれば、直にMSVは死んだ存在として認知されるだろう。そうなれば、MSVを利用した組織は立ちいかなくなる。

「そんな悠長な事で良いの?」

 長に事の顛末を電話で話すと、彼女は呆れたように言った。

「そこがお前と、俺達の違いだ」

「違い? 甘さじゃなくて?」

「事件の解決以上に、俺は妖怪の味方なんだよ」

 俺はそう言うと、電話を切った。ケータイの画面を見れば、MSVについて、情報屋のメールが届いていた。

 噂によると、革新怪団のリーダーであるMSVことジム・サップは、日本の鬼に殺されたようだ。俺はそのメールに満足して頷き、彼の調査の打ち切りを知らせた。後で支払いを済ませねばならない。

 さて、これで一仕事片付いた。時計を確認する。そろそろ日本行きの便が出る時間だ。

 ようやく日本に帰れる。俺はケータイをポケットに入れて立ち上がり、鞄を肩に担いだ。

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