第二部 おまけ「狗賓」

二部おまけ『狗賓』




 かつて、私は一人の鬼と戦い、敗れた。誰かの思惑の上での事だったが、それでも私はこの戦いに悔いなどない。この左肘の負傷は、私の三羽鴉としての忠義の証であり、天狗社会への別れの手向け、そう納得している。

 だが、男として、一人の戦士として、見過ごせないものもある。ムラマサと別れ、私は周囲に気を配りながら森の中を進む。あの如月童子に敗北を与えた者の一人、見過ごせるものか。

「天狗の旦那、戦う前に確認しておきたい」

 声のした方に振り向けば、羽が木に身を寄りかけこちらを見ていた。先ほど奪われた帽子は今、彼女の頭にあった。

「あんたは肘のリスクに構わず、私と戦う……で、良いんだよね? 私は気遣う必要なく、全力で旦那と戦う……もう右腕だけとはいえ、三羽鴉にまで上り詰めたその腕を、甘く見るなんてできない」

「賢明だ。……彼は?」

「見失った。投げ過ぎたかな? だから路線変更、手加減抜きのサシでの勝負にしましょうや」

「そうか……」

 私は周囲の木々の配置、風の流れや物の在りかを確認しながら広い所へと移動する。こんな入り組んだ木々の中では、太刀を満足に振るう事はできない。だが本来、天狗とは山の生き物。この山の全てが、私の武器になりえるのだ。

「こちらからもお願いだ、死力を尽くして……なんて言わないから、全力で頼むよ。油断した、なんて終わってから聞きたくないからね」

 そう啖呵を切って、身構える。太刀を肩に担ぎ、左手は腰のベルトを掴んで固定する。怪我をしてから色々と研究してみたが、これが今の私には一番適した構えのようだ。

 羽は鼻を鳴らして木から離れ、私と対峙した。彼女は構えない、柳葉刀も手に引っ提げたままだ。森に入る前の立ち合いで分かった。この女の武器、それは天性のセンスと、それに適うだけの身体能力だ。虚を突く動き故に、先読みして動くのが逆に仇となる。知識と経験が武器であるロートルには、キツイ相手だ。

 羽はこちらを試すように見つめ、体を左右に振っていたが、私が来ないと分かるとすぐに突っ込んできた。

 前と同じか。私は受けて立つような事はせず、後方に跳ぶ。羽は追って跳んで来ず、私の対応に舌打ちして急ブレーキを掛ける。やはり空中では、自由自在な動きという訳にはいかないようだ。

 だが、私はできる。空中で体を回転させ、術で風を生む。そして私は回転しながら、後方から前方へ、進路を急転させて羽へと迫る。

 羽は背を見せて走り出し、小さい木を飛び越えて壁とした。細い木々だ、あれなら斬れる。私は構わず彼女を追い、木を切り刻んで上空へと吹き上げる。それを見た彼女の目が見開く。

 羽は走り続け、山を登っていく。私も回転を止める事なく彼女を追うが、こんな森の中である以上通るルートを選別しなければならない。葉や枯れ枝が多く風に巻かれれば、視界が遮られるからだ。逆に彼女は木々の合間を自在に跳び抜け、一直線に森を駆け抜ける。結果として私達の間はドンドンと開いていった。

 彼我の距離が三十メートルは開いたかと言ったところで、羽は急に立ち止まり、こちらに向き直る。切り立った小さな崖でこちらを見下ろすようにしている羽の顔は、勝負をする者の顔に変わっていた。

 ありがたい、こちらの右腕も痺れてきたところだ。私はさらに加速し、山坂に沿って巻き上がる風のように羽へと迫った。

 私が斬り込む刹那、羽は右足に重心を傾けた。また逃げる気か。私は回転する身を捻り、彼女の右へと太刀筋を定めた。

 咆哮と共に、回転の力を集約した締めの一撃を放つ。しかし、彼女はそれをバネにして自分から見て左側へと跳び退った。

 左右の単純なフェイク。しかし、私は術によって回転していた。つまり、見た一瞬先には背を向け、彼女から目を離すという意味だ。その一瞬を謀れた。

 左巻きに流れる風に私の帽子が宙を舞ったが、彼女は辛くも私の太刀から逃れた。流石、大した足腰だ。普通あの距離なら、風に呑み込まれて太刀筋へと吸い込まれるものなのに。

 羽はふらついた体をすぐさま立て直し、空振りした私の背中へと斬り掛かった。再度回転する余裕はない。私も太刀を構え、それに応える。

 術も使わず正面から斬り合えば、すぐさま地金を晒す事となる。片腕の使えぬ私と、左右どころか上下さえも変幻自在な羽の剣技。それに体格差もある。太刀のリーチも、長い手足を持つ羽には意味をなさなかった。

 地に伏せ私の横薙ぎを躱した羽は、立ち上がると同時に落葉を一掴み、私に投げつけた。反射的に薙いだ太刀を跳ね上げられ、次に見えたのは葉の壁を突き破る彼女の長い脚だった。私は崖から宙へと、蹴り飛ばされてしまった。

「くっ……そ」

 私は術で風を起こし、体勢を安定させて着地する。顔を上げて見れば、崖は遥か遠くだ。どうやら、かなりの距離を飛んでしまったようだ。

 私は地に伏せ、羽を探した。羽の居所は掴めないが、私はある臭いに気づいた。緑を基調とした絵に赤を付けたような、周囲から浮いたこの臭い……火薬の臭いだ。

 メールに書かれていた花火だろうか。ここからそう遠くはない、私は臭いの方へと向かった。あの二人が意味なく山に火を着けるとは思えないが、念の為だ。

 臭いを頼りに花火の保管場所を探したが、思いの他たやすく見つかった。元は木材の仮置き場なのだろう、ムラマサ達が戦っている中腹の広場を一望できる、足場狭き平地に段ボールが四つも積まれていた。火気厳禁の危険物にも関わらず、ビニールシートを上から被せられただけで管理はずさんに見える。

 私はその無頓着さに溜息をついた。いや、彼女ららしいと言えばらしいが。

 水でも掛ければ、火薬も湿気るだろうか。私はその箱に近づく。

「あいや、待ったぁ!」

 と、冗談じみた叫び声と共に羽が降ってきた。彼女は猫のようにしなやかに、積まれた段ボールの脇に着地する。よほど慌ててきたのか、ぜえぜえと息を切らしている。

「人がせっかく旦那の帽子探してやってたってのに、随分な仕打ちじゃあないか」

「ま、な。で、帽子は?」

「ごめん、まだ見つかってない」

「なら、こいつを駄目にしても構わないな」

「わああ! ちょと、ちょと待てぇ!」

 ずいっと迫る私を、羽は手で制した。彼女は思案気に顔を悩ませていたが、すぐに両の手をビシリと突き出す。両手は、一と〇が作られていた。

「……十分! 十分で見つけてくるからここで……」

「構う事ありません、回天坊様」

 羽の提案を皆まで言わさず、厳爺がここへと登ってきた。

「やってしまいましょう」

「げ、厳爺……怒ってる?」

「ほう、厚顔無恥なお前でも分かるか」

 厳爺は顔を下げ、唸り声を響かせる。すると、周囲の木の葉が彼に集まり、周囲をゆっくりと舞い回る。また四方から、メキメキと木が倒れるような音が響いてくる。懐かしい、これは天狗倒しという、天狗の術だ。

「お前は山で、山神たるこの私を怒らせた」

「……っべぇ、やっべーよコレ」

 厳爺の怒り様に羽はたじろぐ。

 選手交代か。私は厳爺に前を譲る。まだ未練はあるが、実力の程は推し量れた。それで今は納得しよう。

「悪因悪果、因果応報……手加減はせんぞ」

「むむ……お、おっとぉ! お座りだぞ厳爺!」

 羽はそう叫び、仰々しくライターを取り出して火を着ける。

「従わなきゃ、これに火ぃ着けるぞ、火ぃ」

「………」

「あんたは我らがジーナ嬢のお気に入りなんだから、本気ではやりづらいんだ。だから今回はパスさせてもらうよ」

 投げ飛ばした癖に、よくも言えたものだ。私は一人、肩をすくめた。

「……家を出た放浪者が、小馬鹿にしてくれるな?」

「だけど、大切には思ってる。あんたを含めてね。家を出たのは、方向性の違いってやつさ。将美の姉さんの守りの生き方を否定しやしないけど、それじゃあつまらない」

「……本当に、困った奴らだ」

「あ、あともう少し離れてくれないかな厳爺? 葉っぱが危ない」

「あの時、長の奴がどれだけ泣いた事か……!」

 だからさぁ! と、羽が言った時、とうとう舞う葉がライターの火を掠め、瞬く間にそれは、厳爺を中心とした燃え散る火の渦と化した。

「うおっ!?」

「あーもう、だから言ったのに!」

 火を巻き上げてしまおうと私が駆け寄ったが、時すでに遅く。段ボールにも火が回った。

「マズった、二人ともここから離れろ!」

「分かってますよ、もう!」

 羽は段ボールを踏み台に跳躍し、火の渦に飛び込む。そして厳爺を渦の外に放り投げてから、自分も下へと駆け下りて行った。

 どうにかならないか。私は火の着いた花火の方を再度見たが、すでにバチバチと火花が散り始めていた。もう駄目だ。

 やってしまった。帽子も失ったし、火も止められそうもない。山に火着けとは、いよいよもって私も天狗の罪人めいてきたものだ。私は舌打ちしながら、それでもすっぱりと見切りをつけて崖から跳び下りた。

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