第二部 一話「座敷わらし」
第一話『座敷わらし』
九月になっても、最近はちっとも涼しくならない。長く生きていると、気候も時代によって移ろうことが肌で分かる。
「ケン君、準備できた?」
自室のドアを勢い良く開け、ステップを踏むような軽快さで同居人の遠山清がリビングに来た。Tシャツとロングスカート。いつものジャージ姿ではない、外行きの格好だ。
「おう、もうできてる……あ、いや……待てよ……」
勢い良く飛び出して大コケするのが化け狸である清の性分なら、スタートラインでオロオロと横歩きするのが刀の九十九神である俺の、ムラマサの性分だ。
俺は肩に担いだバックを床に置き、自室に向かう。たしか書類棚に、いつだったか和尚に貰ったお札があったはずだ。
お札は引き出しの奥に眠っていた。出番を待っていたように、折り目も汚れもなく新品同様だ。俺はそれを無造作に二つに折り、財布に押し入れた。
「お待たせ」
「何忘れてたの? 覚悟?」
「何だそれカッケー。ポケットサイズの秘密兵器を少々……」
「何それカッケー」
そんなやり取りを交わしながら、俺達は戸締りを確認して、家を出た。
「……えっと、また幽霊だっけ?」
「まだまだ夏だってことだろ」
そもそもの始まりは三日前、残暑厳しい夜の、ある電話からだ。
夕食を終え、リビングでゴロゴロしながら新しいバイトを求人案内で探していた時だ。脇に置いたケータイが、ブーブーと忙しなく震えた。
電話だ。反射的に俺はその電話を取った。
「はい」
「よう、元気だったかムラマサ?」
快活なその声に答えず、俺はケータイのモニターを確認する。如月鬼乾坊、モニターにはそう表示されていた。俺の仕事仲間であり、上司でもある古き鬼だ。
またやってしまった。垢舐めの弁太の件も、こんな風にして如月さんに家に上がり込まれたのだった。
今度からはちゃんと、相手が誰だかを確認してから電話に出なくては。
しかし、そうは言っても前回とは違う。弁太の時のよう面倒な仕事がらみの電話ではないはずだ。
何と言っても如月さんは今、この前に俺達に喧嘩をふっかけてきた、革新怪団という海外の組織を壊滅するべくフランスに渡っているのだから。
だからだろうか、俺は安心しきった声で電話に応じ、近況を訪ねた。
「如月さんか、こんな夜中にどうした? ってか、今どこだよ? まだフランス?」
「夜中? ……ああ、時差か、すまん。どこに言えばー……コペンハーゲン、そうコペンハーゲンだよ」
「コペンハーゲン?」
「ああ、デンマークの首都だ。とは言っても、これから船でスウェーデンに渡るけどな」
デンマーク、スウェーデン……北欧だったか。
「あれ? たしか、革新怪団の拠点がフランスにあるって話だったよな?」
「ああ、拠点はオルレアンって街にあったんだけどよ、ボスはサーカス小屋畳んで、北に北にって逃げてるらしいんだよ」
「それで気がつけば北欧って? もう組織壊滅なんて辞めて帰ってこいよもう」
「うんにゃ、ガヤルドを廃車にされた恨みは、まだまだこんなもんじゃ収まらねえぞ。……それに、オルレアンじゃ久々に暴れることができたしな」
現代妖怪の長、如月童子。千年を生きる鬼である彼は、多くの人間からそう認識されている。その為、人妖の間柄を平和に保つ為に働いてはいるものの、その力は大抵制限されている。
だからこそ、連中の目の届かぬ海外で、思うままに力を行使できる。そんな今が楽しいのだろう。恨み、などと言っているが、その実声は楽しげだ。
「何と言うか……ごゆっくり。で? 何かあった?」
「おう、そっちで仕事だ。お前に任せたい」
「は?」
「いや、だから……」
「ちょ、ちょっと待てよ」
思わず寝かせていた体を起こし、ソファーに背筋を伸ばして座る。向こうでテレビを見ていたはずの清も、何事かとこちらを見ている。
「何だよ?」
「如月さんが外国にいるのに、何で仕事が回ってくるんだよ? 誰からの仕事だ、それ?」
俺達の仕事は要約すれば、如月さんが妖怪がらみの事件を見つけて、人間達が問題視する前にこちらの手で解決するというものだ。本人不在で、どうして仕事が出てくる。
「俺がいなくても……いや、俺がいないうちって企む輩がいるだろうからな、手を打っておいたんだよ。川下の奴に、怪奇現象やら何やらの相談に乗れる連中がいるって話を流させたんだよ」
「川下に?」
「ああ、野郎の顔の広さなら、もう充分に話も広回ってるだろ」
川下とは、俺達の仕事仲間の河童、
おそらく川下は、その顔の広さを利用して、新しい妖怪の専門家として俺を売ったのだろう。
「そこで信憑性ありそうなのがあったらしくてな。お前、ちょっと行って見てこい」
「何が起きたって?」
「自宅で、旦那と息子が子供の幽霊を見たと騒いでるんだと」
自分で言うのもアレだが、俺は刀を振るうことしか能がない妖怪だ。刀故に人より頑丈ではあるが、後は至って平々凡々。怪力乱神の力もなければ、当然、除霊等の術もできない。
「そういうのは和尚に任せろよ。この前の幽霊退治で俺、何もできなかっただろ」
「まぁ見てくるだけだって、ヤバかったら奴に任せる。腕の傷も治ってるし、暇なんだろ? バイトなくて」
「前のバイトがクビになったのは誰が原因でしたかねぇ……いや、適任じゃないよ? これは」
「とにかく話だけでも聞きに……」
「いや、だからさぁ……」
「………」
中々首を縦に振らない俺に、如月さんは少し押し黙る。そしてそれから畳みかけるように喋りだした。
「ハハハ、そうだな。じゃあお前はそうやって日がな一日背を床につけてろよ。清が汗水垂らして働いている合間にもな」
「……!」
椅子に座り、湯上りにアイスを食べながらテレビを観ていた清を一瞥する。清は何のことか分からないようで、にへっと曖昧に笑ってこちらに手を振った。
「適任じゃない? 何言ってんだ、このなまくらが。お前、ここ百年人様に誇れるような職に就いたか? ええ? バイトじゃなくて正社員としてだぞ?」
「ちょ……如月さんそれは……!」
「彼女の金で飯を食う甲斐性なしの穀潰し、刀に生まれて今ニート、ヒモの九十九神ここにありと……」
「ごめんさい止めてくださいやりますっ! やるから!」
そんな痛い、とても痛い言葉に堪え切れず、俺はその仕事を承諾してしまったのだった。
依頼人の家は、電車を使って二十分ほどの住宅地にある。到着し、ケータイで時刻を確認する。十一時ジャスト、少し迷ったせいで予定ピッタリになってしまった。
パッと見た感じでは、普通の二階建ての一軒家。強いて何かを挙げるとするならば、緋色の屋根瓦が珍しい。間違っても俺達のようなのと、お近づきになるタイプの家には見えない。しかし、手書きの表札には三宅真、七海、勇太と書かれている。確かにここなのだ。
俺はおっかなびっくりにカメラ付きのインターホンを押す。
「……はい?」
「あ、如月屋の者です」
どうでも良い話だが、如月屋とは何だ、如月屋とは。俺は心の中で、川下が適当に作った俺達の設定に毒づく。あの河童め、適当な名前つけやがって。
「あ、はーい」
返事の後、すぐに玄関が開かれ三十代ほどの女性がおどおどした様子で顔を出す。彼女がきっと、三宅七海さんだろう。
「どうも、如月屋の村正健児と……」
「遠山清です!」
良くできました。と言いたくなるくらいの声をあげ、清は頭を下げる。それに倣う形で、俺も会釈をする。どうもこういうのは苦手だ。
「……七海です。今日はよろしくお願いします」
七海はそう言い、複雑な面持ちで俺達を見つめ。
「えっと、ずいぶんとお若いんですね?」
「えっ? はぁ……そうですか?」
「もっとこう……インパクトある格好をした人が来るとばかり……いや、そっちの方が困るのですけど」
はっきり言って信用できない。しどろもどろな三宅さんの顔には、しっかりとそう書いてあった。
「あー……まぁ、こんなもんですよ。害虫駆除ぐらいの気持ちでいてくれれば助かります」
なるほど。そう言って俺達を玄関へと招く。
「すみません。川下さんから勧められた時は、どうしようかと思ってたんですよ」
そう言って、三宅さんは照れたように手首を揉む。俺が笑って誤魔化していると、清が意外そうに声をあげた。
「あれ? 川下とは知り合いなんですか?」
「ええ。よくあの店で小物なんかを……。とても物知りな方なので、今回のことを相談してみたら、ここが良いって……」
そうか。俺は思わず唸ってしまった。こんな裕福そうな家庭の主婦が、あんなゴミゴミとした店を利用するのか。俺に骨董の知識がないだけで、あの店の品々もそれなりの値打ちがあるのだろうか。
「なるほど。じゃあさっそく見せてもらっても……」
「あ……す、すみません! 玄関なんかで話し込んでしまって!」
「いえいえ。お邪魔します」
「しまーす」
俺達は靴を脱いで、中へと上がり込む。
「それで、その幽霊を見たって場所は……?」
「こちらです」
三宅さんに案内された二階の一室は、ベッドや勉強机に、漫画と図鑑が乱雑に入れられた棚、テレビにゲームのハード……どうやら息子の勇太の部屋のようだ。
「すみません……」
三宅さんは床に散らばる漫画雑誌などを拾い集めながら、申し訳なさそうに言う。
「主人に掃除しておいてって頼んだのですが……」
「いや……俺の部屋もこんな感じですし」
「大差でケン君の部屋の方が汚いね」
俺達はそう笑い飛ばすと、ざっと辺りを見渡す。しかし、別にこれといって妙なところはない。
以前、こういったものの専門家である和尚に教えてもらったことがある。いわゆる曰く付きの場所には、どこか薄ら寒いと思える一点があるそうだ。とは言っても、俺自身が妖刀の九十九神、薄ら寒い妖怪だ。その為にこういった肌感というものが得意ではない。
なら、野生の勘に頼ろう。俺は清に耳打ちする。
「……どうよ?」
「……私の部屋より広いね」
駄目らしい。しかたがない、居心地の悪そうにしていた三宅さんに聞いてみた。
「息子さんと、それから旦那さんが見たと聞いてましたが……貴方はその、見てない?」
とんでもない。といったように三宅さんは首を振った。
「いえ、初めは息子のイタズラか何かかと思ってたんです。ただ主人も先週、見たと騒ぎまして……」
「それも息子さんが言ってたのと同じ……」
「はい。はっきりと着物姿の子供を見たと言っていました。それも、二人ともこの部屋で……それから念の為、息子には別の部屋で寝かせています」
なるほど。と、俺は頷く。子供の見間違い、という訳ではなさそうだ。
俺達がうろうろと辺りを探っていると、三宅さんは何か言いたげに口を押え、俺達を見ていた。
「他に何か?」
「あ、その、関係あるかは分からないのですけど……」
歯切れ悪く三宅さんはそう言い。
「実はずっと前から、その、アレとは別にお菓子がなくなったりしてたんです」
「お菓子?」
「ええ。お饅頭とか、菓子パンなんかが……。あの時は息子が食べていたのだと思っていたのですけど、今思うと気味が悪くて……」
「それはどこでなくなったんですか?」
「リビングと、時々この部屋でも。息子が持ち込んだのが、なくなってたりしたらしくて」
そっか。と呟き、清は腕組みをする。
「……ケン君」
「ああ。俺も多分、同じこと考えてる」
俺は財布に押し込んでいたお札を取り出し、ひらつかせる。清はニヤニヤ笑みを浮かべて、お札を指さした。しかし、そうなると三宅さんが邪魔になる。
「三宅さん、今日は何かご予定はあります?」
「え? あの、何かするのですか?」
ええ。と俺は頷き、お札を頭の高さまで持ち上げてみせた。
「ちょっと、菓子で幽霊を釣れるかなって」
幽霊を罠に掛けるのは良いが、結果としてどう転ぶかは予想がつかない。万が一を考え、俺達は三宅さんを説得し、家の外で待機してもらった。
自宅に今日初めて会った二人を残すことに彼女は最初渋ったが、清の財布と、俺のケータイを人質として預けようかという清の提案に折れてくれた。彼女は近くの喫茶店で待機し、ことが済み次第連絡をいれるという段取りとなった。
俺達はこの家の近辺にあったスーパーでお菓子を買い、試行錯誤の末、おはぎにお札を忍ばせることに成功した。そして他に買い込んだ団子とポテチは、俺達が張り込みがてら美味しく頂くこととした。
おはぎを子供部屋に置き、リビングで団子を主食にポテチをつまむこと一時間。さっそく清は沈黙に飽きだした。
「いやーケン君、どうやって団子にお札を入れる気だったのかな?」
「お? お? ポテチを推した奴が何か言ってるな」
「いやそれは……ほら、偶に脂っこいのが食べたくなる時ってあるじゃん?」
「そらお前の嗜好の問題だろ?」
「誰だってそうじゃん? 皆そうじゃん?」
というか。と、清は呆れたように俺を見る。
「飲み物もなしに、よくそんな食べ方できるよね。団子にポテチとか、絶対に合わないでしょ」
「そうか?」
「出たよ、味覚音痴」
やれやれ、と清は肩を落とした。そう言われても、こればかりはしかたがない。無機物から生まれた俺のような九十九神の多くは、生物的な感覚が鈍い。だからいざ勝負となっても、頼るのは達人染みた直感ではなく、この鈍い五感と経験則だ。清のような野山に生きる者とは、根っこの部分が違う。
「そりゃ感覚鈍いのは自覚してるよ。だけど、これはこれで便利なんだぞ。体は頑丈だし、しかも俺は死なない限り、どんな傷も治る」
お前らより治りは遅いけどな。と俺は語る。あの如月さんでさえ、歯や腕は失えばそれで終わり、生えたりなどしない。もっとも、如月さんの歯をへし折るほどの力で叩かれれば、俺の場合首が吹っ飛ぶだろうが。
そんな話をしていると、ガタン、と二階で何かが落ちるような音がして。
「来た……っ!」
そう低く叫び、清はリビングから飛び出す。それも立ち上がることなく、四足でだ。相変わらずの無鉄砲さ、奇抜さだ。俺も慌てて立ち上がり、階段を駆け上がる。
階段を駆け上がっている途中、清の叫びと同時に、扉を引き開ける音が響く。
「ショータァイムッ! 顔を見せよこの……やえぇ!?」
「えっ? どうした清!?」
ドアの前で凍りつく清に追いつき、間から割り込むように部屋に躍り込むが。
そこで見たものは、口を押えて悶え転がる、和服姿の子供であった。
「うげ……げげっ! うえぇ!」
手で押さえた口元から、何か生々しいものを溢れさせている。どうやら、お札の効果は絶大だったらしい。流石和尚だ。
「げぶぅ……べえぇっぶぇっ!」
「うわっ、酷いな……おい、大丈夫か?」
思わず本音を漏らし、近寄って背中をさすってやる。自分でやっておいて白々しい話だが、ここまで効くとは思わなかったのだ。
「もういい、全部吐いちまえ。清、レジ袋持ってきてくれ」
「あ、うん」
清がスーパーで貰ったレジ袋を取りに、階段を下りていく。俺はその子の背中をさすりながら、懸命に介護する。
「待ってろ? すぐ袋持ってくるから、そこにゲーってしな? な?」
そう言いつつ、俺は生々しくてとても幽霊には見えないこの子を観察する。
見てくれは背の低い、十にも満たない子供だ。しかし、今時こんなおかっぱで、茶色の小袖を着るような子供なんているだろうか。しかし、かと言って幽霊とも思えない。何だこいつは。
「うぇ……うぇ……」
「ちょ……もう少し待て、まだ吐くなよ?」
「………」
その子は前傾姿勢のまま目だけ動かし、こちらを睨む。その血走った目にたじろぎ、俺は弁明の言葉を並べた。
「い、いや、俺もまさかここまで悲惨なことになるとは……」
「お前かぁぁぁっ!」
しかし、弁明の途中で子供が叫ぶ。手負いの獣のような咆哮と共に、俺の股間へと拳を突き上げた。
「ウオッ……プアアァッ!?」
一瞬の、叩かれたことでの皮膚の痛み。そして下腹部から脳天まで、鈍い電流が走った。
一瞬の浮遊感、それに続く寒気に似た痛み。自然と俺の体は縮こまり、膝は折れて地に落ちた。
痛みに意識が支配され、眩暈で世界が歪み、暗転していく。いかん、マジで意識が遠のいてきた。
しかし、ここで易々と倒れる俺ではない。俺は、両腕を広げて勝利を確信し、汚れた口で笑みを浮かべていた子供のイカ腹に、握り拳を叩き込んだ。
「ブッ……おぶぇっ!」
不意を突かれた子供の顔が歪む。俺の肩を掴んで、瀕死のボクサーのように体を預けてきた。そしてそのまま、盛大に胃の中身を放出する。
吐きながらも子供は反撃してきた。立ち膝で無防備だった俺の股間に、何度も蹴りを放つ。目に火花を散らせながら、俺も腹を殴り続けた。
互いの急所のみを狙った、生々しく汚い肉弾戦。その果てに俺達はほぼ同時に体を仰け反らせ、仰向けになるようにして身を引いた。
「ケン君、レジぶく……きゃああああっ!?」
ようやく戻ってきた清は、苦痛一色で床を転がる俺達を見て悲鳴をあげた。
あわや、冗談でなく、本当に、本当に死にかけた。
清は部屋の掃除をしてくれている。激闘の末、瀕死のダメージを負った俺達二人は部屋から邪魔だと摘み出され、風呂場で上着に着いた汚物を落とす。
「これくらい、外におれば乾く」
その子はそう言ってリビングの窓を開け放ち、小さな庭へと出る。俺もそれに倣い、窓際に腰かけ、足を外へ投げ出す。
まだ日は高く、すぐにポカポカと陽気が服を温めていくのが分かる。これならすぐに乾くだろう。これを機に、俺は質問をしてみることにした。
「……で? お前は何なんだよ?」
「それはウチの言葉だ」
子供は備え付きのスリッパでペタペタと歩き回りながら、そう返す。
「お前、大方ウチを祓いに来た祈祷師か何かだろう? ウチはな、この家が建て直される前から居ついていた。ここの一族とはもう四十年ばかりの縁だ。今さら追い出される筋合いはない」
「……四十年?」
どういうことだろうか。予想とは違う回答に、俺は背筋を伸ばす。
四十年、この一家に憑く幽霊。あり得ない話ではないが、そもそもこいつは幽霊なのだろうか。良く考えてみれば、幽霊だと騒いだのは専門家でもないこの家の者達だ。妖怪の存在すらあやふやに見ている者達が偶々目撃し、害のあるなしも分からず騒いだだけだ。
「……なあ、お前、幽霊とかじゃないんだよな?」
「死んだ覚えなどない」
「じゃあ、何だ? あと、名前は?」
「薫」
その子、薫はじっとこちらを見て、そう名乗る。
「この家の、座敷わらしぞ」
なんてこった、俺は顔を手で覆う。つまりこの子は、今まで見守ってきた家族に追い出されようとしているのか。
そして俺の受けた仕事は、薫を守ることではなく。四十年も住み続けたこの家から、追い払うことなのだ。
「……なあ、薫」
「さっきから一々うるさいな。何だ?」
俺は顔を上げ、薫を見つめる。薫もその様子に何かを感じ取ったのか、こちらに向き直る。
「この家の人がな、出てってほしいんだと……」
この家の座敷わらし、薫はキョトンとして首を傾げた。
「何でだ?」
「……分かんねえ」
太陽を背にする薫の顔は、自然と暗い。そんな自然なことも今は辛く見え、とても見ていられずに顔を伏せる。しかし、薫は構わず聞いてくる。
「前に勇太が私を見て、泣いてしまったからか?」
「どうだろう」
「さては、拓真の奴が私を久しぶりに見て、年甲斐もなく慌てふためいて転んでしまったのが、恥ずかしくて恥ずかしくて、仕方がないからか?」
「……かもな」
四十年。
一年という長い月日を四十と重ねて、ようやく四十年だ。
長い時を生きる妖怪だって、目を瞑れば一年が過ぎるという訳ではない。俺と清が出会って、一年と少し。それをあと四十回ほど積み重ねた生活を、薫は奪われようとしている。共に生きたこの家族に、出て行けと言われているのだ。
薫は俯いて肩を抱き、それからは何も言わなかった。もう数少ない蝉の鳴き声が、眩暈がするほどに耳に付く。劇的でもなく唐突に奪われた者の顔、いつも見てきた顔だ。しかし、慣れない。
「同情はするよ」
俺は抑揚の失せた声を、機械のように吐き出す。
「だけど、お前には出て行ってもらう。恨みたいなら恨め、俺達がやることに言い訳はしない」
一仕事終わった。俺は一人頷き、立ち上がる。こうなった者は肯定も否定もしない。しかし背を押せば、抵抗なく従う。こうなったらせめて、俺がトドメを刺してやるべきだ。
しかし、薫は違った。
「……はっ、良いぞ」
そう言うと薫は顔を上げ、挑戦的な笑みを浮かべた。
「そこまで嫌われたのなら……ふん、未練なんてない。言われなくても、大手を振って出て行ってやろう。ただ、追い出されたというのが気に食わん……」
ペタペタとこちらに来ながら語り、薫は俺の前に立つ。そして、にっと笑みを浮かべて、こう言った。
「一つ、勝負をせんか?」
薫は座敷わらしとして、ゲームで全てを決めたいと俺達に申し込んできた。負ければ素直に出てってやる、しかし負ければそれなりに家を滅茶苦茶にしてから出てってやると。
どうしたものか、俺と薫は子供部屋に戻り、事情を清に相談してみたが。
「それくらい良いんじゃない?」
と、清は気楽に承諾した。それで気が済むならと考えているようだ。
「こっちの娘はOKらしいぞ? お前はどうする?」
俺は言葉を詰まらせるが、断る道理もないのも事実だ。暴力に訴えるのも気が引けるし、追い出しても再度戻られても困る。肝心なのは、薫が本心からここへ戻らないと誓ってくれることなのだ。
「……わぁったよ」
ただ、成り行きでことを決めるのに違和感を感じなくもない。主導権を取られている。そんな気がするのだ。
「じゃあ、何で決める」
「おー……」
俺の心配をよそに、二人は話を進めていく。清の言葉に、宙をぼんやりと見るようにして考える薫。
「お手玉はどうだ?」
「タマァ……ッ!?」
「ケン君、ちょい落ち着け。駄目、イメージ的に勝てる気がしない」
股間を押える俺を押しのけ、私が話すと、清は前に出た。
「ちなみに、どれくらいできる?」
「三時間くらいか?」
「私は何回できる? って聞いたつもりだったんだけどな……」
こいつ、やり込んでやがる。と清は恐れるように呟いた。
その後も薫は家にあるゲームを取り上げてきたが、俺達はそれらを悉く断っていった。万が一でも勝てる気がしないのだ。
そんなやりとりを交わしているうちに分かった。この座敷わらしは恐らく、ここの家族以上に、この家について熟知している。薫はこれがいつのものか、どんなことがあったかといったエピソードを、物を引っ張り出しては挿むのだ。四十年暮らした、と言う言葉に、偽りはなさそうだ。
「なら、これならどうだ?」
薫は押入れの奥から、三リットルのペットボトルほどの大きさの長方形の箱を引っ張り出し、ドンと床に立てて見せた。
「何それ……?」
「ジェンガだ。知らんか?」
薫は嬉しそうに箱を開けてひっくり返し、中身を床にぶちまける。中に入っていたのは木製で直方体のブロックで、人差し指ほどのサイズだ。
ジェンガ。名前こそ知らなかったが、このブロックを見て思い出した。たしかタワー状に積まれたブロックを順番に一本ずつ抜き取って、タワーの一番上に載せていく。そして、タワーを崩してしまった奴が負け、というゲームだったはずだ。
なるほど、技術も知識もいらない、単純だからこそ対等。清も薫の説明を受け、納得したように頷いている。
「順番にブロックを抜き、崩した者が敗者」
薫はブロックを縦に積み上げながらそう説明する。しかし、四つ目を積んだところで下を指で軽く弾き、音を立てて崩す。そして、ペロリと唇の端を舐めた。
「もちろん、一発限りの真剣勝負だ。……や、しかし、ルールが少し味気ないと思わんか?」
そう言われて顔を見合わせる俺と清に、薫はニンマリと笑い、開いた両手を俺達に突き出した。小さな手のひらにはそれぞれ、ゲームセンターの物らしきコインと、何の変哲もないサイコロが載せられていた。
「ブロックを抜く腕だけじゃなく、これで運もゲームに入れてみよう。な?」
そう言って、薫は楽しそうに説明を始めた。
ルールはこうだ。基本的なルールは変わらない。ただ、順番が来た者はサイコロを振り、目の数だけのブロックを抜くのだ。さらにコインで、使う手は指定される。
つまり、俺の場合一番の幸運は利き腕である右腕で一個引き抜くだけ、最悪の場合は左で六個も抜くことになる。ツキがなければ、向こうに回る前に負けてしまいそうだ。
あと、片方の手でタワーを支えるのは禁止。また、選んで触れたブロックを手放し、別のブロックを取るのも禁止。それに当然だが、直接の妨害行動も禁止だ。タワーはリビングのテーブルに設置し、順番の者以外はテーブルに近寄ってはならない。
俺達はしばらくの間、ルールに抜け穴がないか考えたが、最後にはこのルールを承諾した。
「あ、だけど当然、ゲームに参加するのは俺達のうち一人だけだぞ」
俺は慌てて確認を取る。薫は肩をすくめ。
「別に二対一でも良いんだぞ?」
「んなもん、負ける可能性が二倍になるだけだろ。二人でやる利点も思いつかねえし……」
そうかな。と薫はクスクスと笑う。何にせよ、作戦会議だ。俺は清の肩に腕を回して部屋の隅に引き込む。
「ちょ、子供が見てます旦那様」
「言ってる場合か。作戦会議だよ、作戦会議」
左様ですか。と呟き、清は目を閉じて一呼吸を置き。
「……その前に、ルールに問題はないよね?」
「ああ、信用して良いと思う」
「ブロックやサイコロ、コインなんかに仕掛けがある可能性は?」
「……ん」
それは考えていなかった。しかし、あんな物に何を仕込めるというのか。
そんなことを清に聞くと、何を言ってるんだ、といった顔をされた。
「……四五六賽とか」
「何を言ってるんだ。あ、その顔やめろ」
しかし、どうだろう。俺はチラリと清の背中越しに薫を見る。薫は勉強机に直接腰かけ、コインを指先で器用に操って遊んでいる。物自体に仕掛けがなくても、あの手先ならイカサマなど簡単にできるのかもしれない。
「……何を疑っておるかは知らんがな」
こちらの視線に気づいたのか。薫はコインを見ながら、独り言のように喋り出す。
「ウチの言った真剣勝負というのは、真っ向勝負という意味だ。道具は決められた物しか使わないし、白けるような真似もしない」
「……あっそ」
疑り深いな。と、薫はわざとらしく頬を膨らませた。
しかし、俺の心はもうほとんどこいつを信用してしまっていた。確証と呼べるものはない。いや、強いて言えばこの顔つきだ。
遊び、勝負事が好きで堪らない。家を失うかもしれないという未来より、楽しい今を優先する。子供染みている、そう言ってしまえばそれまでだが、だからこそ信頼できる。
俺達は結局、コインはこちらのものにしただけで、碌な対策もしないまま始めてしまった。
「さてさて」
リビングに移動するや否や、薫は手早くテーブルにブロックのタワーを建てる。そしてピョンピョンと飛び跳ねながら俺達を交互に見る。
「どっちがやるんだ? 早く決めろ」
「私がやるよ」
清はそう言って前に出る。しかしそんな話は聞いていない、俺は清の肩に手をやって引き戻した。
「待て、お前やんのか?」
「いや、もうケン君、満身創痍じゃん? それに手先器用でもないし、強運って訳でもないし」
痛い所を突いてくる。不服そうな俺の顔を見て、清が右手を挙げた。
「ケン君、じゃーんけーん」
俺、チョキ。清、グー。
「………」
「いえーい」
清はくるりと振り返り、薫と向き合う。もはや何を言っても負け犬の遠吠えになってしまう俺は頭を抱え、その場に跪いた。
例えばコイン一つに、自分の生き死にを託すとする。
表なら生き、裏なら死ぬ。それでもし結果が裏だとしても、果たして俺はそのコインの確立が二分の一だと割り切れるだろうか。
いや、割り切れないだろう。納得出来やしない。逆に表だとしたら、そこに因果や天命を感じることもあるだろう。
そう、誰だって自分のことが絡めば、どんなにありふれた確立にも神を見出せる。
問題は、その神を前にどう反応するかだ。
「うらっ」
順番決めのジャンケンに負け、さらにはコインでは利き腕ではない左手と決まった清は、掛け声と共にサイコロを振るう。
「……うわ」
出た出目は四、つまりブロックを左手で四つ抜く。酷過ぎる出だしに、清の顔は、さあっと青くなる。
「……き、清?」
「黙って! ただ四つ、引き抜けば良いんでしょ!?」
そこで薫は、意地の悪い笑みを浮かべて清を指さし。
「左手でな」
「るっせぇチクショウッ!」
清は叫ぶと、ジッと自分の左手を見つめる。感触を確かめるように指を動かしながらノソノソとテーブルに向かった。
慎重にタワーを見つめ、ブロックを選別している。しかし、俺にはそれが無駄にしか見えない。
「初めはどれ取っても同じだろ」
「馬鹿め」
ポツリと漏らした俺の独り言を、テーブル周りを落ち着きなくうろうろしていた薫は一喝する。
「木が同じ重さであるものか、それに時期ごとに大きさも変わる。馬鹿め」
「に、二回言わなくても……」
そうこう言っているうちに、清はブロックを一つ手に取り、引き抜いて一番上に置く。思ったよりスムーズに二個目、三個目とその作業を続けていく。
事件は、四つ目で起こった。
「……重い」
清はぽつりと呟き、苦悶の表情を浮かべる。
「は? お、重い?」
俺も覗き込んで見てみるが、清の持つブロックは他のものと変わらない。
「引いたな、危険牌」
背中の薫が、愉快そうに笑った。
「まぁ、まだ序盤も序盤。引き抜けない訳じゃあなかろ」
そう言って地べたに座り込み、ニヤニヤとこちらを見上げている。俺は清の方に向き直り、応援をする。
「大丈夫か? 大丈夫だよな?」
「もちのロンっすよ、こんな……もん!」
声を強めたと同時、清はブロックを引き抜いた。僅かにタワーの上部が揺れた肝を冷やしたが、何とか治まってくれる。俺は殺していた息を噴き出した。
「あー……心臓に悪い」
「……やってるこっちは一瞬止まったよ」
清も安堵した声でそう返し、ブロックを上に置く。
「さぁ、そっちの番だよ!」
おう。と薫は応え、手にしていたコインを指で弾いた。
コインは表。そのままそばに置いていたサイコロを薫は転がす。出た出目は、たったの三。どうやら運、勝負の流れとやらは、向こうに傾いているようだ。
「右手で三、か。ふふん……」
薫はそう言いながら立ち上がり、舌なめずりをしながらタワーへと歩み寄る。俺達はどうぞと道を開ける。
「ちょいと、面白いもんを見せてやる」
薫はそう言いながら、テーブルに肩肘を着き、タワーに顔を近づけた。そして右手の人差し指をまるで何かを弾くように丸め、ブロックの一つに狙いを定める。
「お、おい。まさか……」
「静かに……むりゃ!」
掛け声と共に、薫はブロックを弾いた。ブロックはタワーからすっぽ抜け、テーブル上に転がる。
唖然とする俺達を余所に、薫はブロックを拾い上げ、上部に置く。
「こんな風に」
残りの二つは何の迷いもなく抜き取りながら、薫は自慢げに語る。
「ウチは全てのブロックを弾いて落とせる。余裕綽々なんだ」
最後のブロックをのせ、腰に手を当ててふんぞり返る薫。しかし、それを許されるだけのことをこいつはした。
「………」
「……な、何だぁ、今のは……!」
息のない清に代わって、俺は清の言いそうな台詞を代弁する。
「自分の生活を賭けた中で、あんな真似ができるなんて……駄目だ、勝てる訳がねえ……! こんな廃人野郎に、清が……」
「ダウト」
演じているうちに段々楽しくなってきた俺に対して、清は冷静だった。じっとタワーを見つめたまま近づき、うろうろとタワー見回している。
「……うん。分かった」
清は確信を得たようで、ニヤリと笑う。そして手にしたコインを弾き、サイコロを振るう。
結果は右手で、抜くブロック数は三。奇しくも、先ほどの薫と同じだ。
「……ちょいと、面白いもんでも見せましょかね」
清はそう言うと、肩肘をテーブルに着け、身を乗り出す。そして一つのブロックに、狙いをつけた。予想通り、清は薫のようにブロックを弾くつもりだ。
清は息を整え、そして一気にブロックを弾いた。ブロックは薫の時と同じくタワーから飛び出し、テーブル上を滑る。
清はよし、と頷く。本当にやりやがった。俺は思わず握り込んでいた拳を解く。しかし、一体どういうカラクリなのだろうか。
「なあ、清……今のって」
「簡単な話だよ。ただ、噛み合ってない、引き抜きやすいブロックを見つけて弾いただけ……あと、さっきの似てない」
「うっせ」
清は手招きして、俺を呼ぶ。
「ほら、こうして見てみて」
清はそう言って、自分と同じようにしゃがめと促す。それに導かれるまま、俺は清と目線を合わせてみた。
「……あ、こういうことか」
そうしてみると、一目瞭然だった。窓から入る日の光が、ブロックの合間から漏れているものがある。向こう側の日が見えるということは、そこにそれなりの隙間があるということ。逆に隙間のないものは、上下がガッチリと噛み合ったブロックだということだろう。
「それ以外にも、ブロック全体を見て重心がどっち側にあるかとか、考えて選んでるんだけど……」
俺は何も言わずに清の肩を叩いた。流石、というべきか。こういうことに良く気づくものだ。
「……へへん」
くすぐったそうに清は笑うと、残る二つを抜きに掛かった。
「中々楽しい奴だな。啖呵の切り方、返し方を知っておる」
俺がそっと清から離れると、薫が腕組みをしながらそう唸った。
「ビビらせて強引に勝ってやろうかと思ってたが……欲が出てきたな」
「ああ、俺ならさっきので諦めてたよ」
俺はそう言って地べたに座り込む。
「俺が相手じゃなくて残念だったな」
「逆だ」
一個一個引き抜くブロックを見極めていく清の作業は、さっきのものよりずっと長い。薫はニヤニヤと笑みを隠しきれないまま、俺に語る。
「どっちみちウチはこの家から出るんだ。なのにラスボスが三下じゃつまらん。尻すぼみで、終わってたまるか」
「……それが、自分の全てを賭けたものでも?」
「なれば、尚更」
薫は清の動作を凝視しながら、そう呟く。狂ってやがる。俺は肩をすくめた。そうこう言っているうちに、清はこちらに戻ってきた。
そうして、延々と二人はブロックを引き抜き合っていった。真剣そのものの眼差しでブロックを選別し、顔中を強張らせて取り掛かり、引き抜くと生き返ったように息を吐き出す。微かに揺れるタワーに悲鳴をあげ、手番の交代に笑みを浮かべる。そんな二人を尻目に、俺は暇であった。
しかし、そんな二人だけの熱戦も長くはなかった。
「……動かない」
先ほどまで黙々とやっていた清が、ポツリと呟いた。
「……っと、何だって?」
清はまともに取り合わず、これが最後なのに、これが最後なのにと繰り返す。
「終わりだな」
薫は冷静にそう評価した。
「それを掴んでしまってはジェンガはもう終わりだ。それはお前が一番分かってるだろ? 清とやら」
俺は清の手元を見てみた。ブロックを引くと、その上下が一緒になって動く。無理に引き抜けば、上下のも抜けてタワーは崩れてしまうだろう。
かと言って、もうブロックを変えることもできない。選択は、もう下したのだ。
「さてどうする?」
薫は煽るように清に語りかける。
「諦めて負けを認めるか、それとも無理に引いてタワーを崩すか?」
「お前が負けろ」
なに。と薫が眉をひそめる。清は続けてこう言った。
「お前が負けろ。私が勝つから、代わりにお前が負けろ」
薫はきょとんとして、目を丸くしている。俺は清に耳打ちした。
「……おい、策でもあんのか?」
「……逆境は突き返せる。たぶん、これ抜けば勝てる」
俺の言葉に、清は目さえもブロックから外さず答えた。
「だから、ケン君」
「おう、何だ」
「……ケン君」
「お、おう……え? 何?」
「……もし、これを倒しちゃったら、家のアイス、全部ケン君が食べて」
「……どうしたお前?」
口ではそう言ったが、もう分かっていた。清は賭けたのだ。薫と同じように。
「薫ちゃん、私はね、まだ余裕があったんだよ。真剣なのは、失うものがある薫ちゃんだけだった」
くひっ。背後でそんな、息を小さく吐き出したような音がした。薫は、笑っているのだろうか。
「だから賭けたんだよ。失うリスクを背負った……これで五分と五分だ、伊予の化け狸、舐めんな」
清はじっくりとタワーの重みと戦う。ブロックを押し戻したり、先端を指で摘まんで左右に振ったりして、手にした一本のみを引き抜こうとする。それはまるで、神の仕組んだ運命から足掻くかのように見えた。
清の努力は、功を結んだ。ブロックが僅かに、外へとはみ出してきた。しかし、上下のズレに合わせて押し戻し、また元に戻ったりしている。
俺も薫も、何一つ口には出さない。ただじっと、清の手に熱中している。そのうち自分が呼吸をしているのかさえ、分からなくなってきた。
そして数分後。その粘り強い作業は、一つの結果を生んだ。
つまり、清の手元にブロックが。ブロックが、タワーから離れるという結果だ。タワーは中ほどから、上と下で大きくズレている。しかし、倒れていない。倒れていないのだ。
「………!」
清はそれを目で確認すると、曲げていた背筋を伸ばし、ゆっくりと天を仰ぐ。そして、力強く拳を挙げた。
しばしの感動。凝り固まっていた熱の渦からの解放。気がつけば、俺と薫はその姿に拍手を送っていた。平凡な部屋ながら、それはまさに、一枚の絵画のような瞬間であった。
清は拳を掲げたまま、薫を見下ろす。薫もそれに勇み、唇をペロリと舐めた。
「確かに、こんな崩れかけのタワーじゃ、流石のウチも厳しい……」
薫は、燃え尽きてもはや仏のような顔になりつつある清に言った。
「だが、まだだぞ。まだブロックが置かれていない。私の番は、まだだ」
清はゆっくりと頷き。タワーに向き直った。
その時、一つの奇跡。悪夢が起きた。
初めに気づいたのは、薫だった。
「……お? 地震か?」
そう言って薫が天井を見上げたと同時に、それは起こった。
グラッと部屋が小さく揺れ、全員が慌てたと同時、ガシャンと音が響き渡る。
誰もが反射的にテーブルを見る。しかし、そこにはもうタワーなど残されてはいなかった。そこにあるのは、ただの、散乱したブロックの瓦礫だ。
「………」
「………」
「……おい、待て。……おい」
抑揚のない薫の言葉だけが重苦しい部屋に響く。見えるものは、西日に照らされる崩れ去った大量のブロックだけだ。
地震は、関東ではすでにありふれた自然現象だ。しかしこの一連の流れでやられると、何か神懸かり過ぎるように感じる。俺達はしばし呆然と、その光景を見つめていた。
予想外のアクシデントに、何より怒ったのは薫であった。激怒し、終いにはふて腐れてこの勝負を無効とし、さらにはこんな家出ていくと言い出した。それで良いのか、と思わなくもなかったが、清のこともあるし、仕事的には心変わりされて困るのはこっちだ。
そんな訳で、俺と清は三宅さんに問題が解決したことを話し、約束のお金を貰い家路に着こうとしている。
「……そういえば」
玄関の扉に手を掛けた清は、思い出したように三宅さんに聞く。
「正体が何だったか、何も聞かないんですね?」
「え? ええ、まぁ……」
三宅さんは曖昧に笑みを作り、口元に手をやった。
「ここに住んでる訳ですし、聞かない方が良いかなって」
「ああ、なるほど」
清は頷き、先に外へ出た。座敷わらしを追い出しちゃいましたよ。そう伝えようか迷ったが、言ってもしょうがないかと言葉を飲み込む。それに、そうと知ったうえで追い出すと言われれば、俺は仕事として割り切れる自信がなくなる。
俺と三宅さんは、適当な挨拶を織り交ぜながら外に出る。三宅さんは見送ろうと、わざわざ外に出てきてくれた訳だが。
「……ひっ!」
突然悲鳴を漏らし、目を見開く。
彼女の視線の先には、薫がいた。夕焼けを背に、じっと彼女を見つめている。その顔は、逆光で黒ずみ見えない。
「あ、アレってもしかして……」
三宅さんは震えながら、薫を指さす。薫がそんなに恐ろしく見えるのか、清は無言で薫のもとへ向かう。俺はそれを眺めながら。
「薫って言います」
「だ、大丈夫なんですか?」
「はぁ、出てってくれるそうですよ」
でも。と三宅さんは心配げに続ける。
「バケモノの言うことですよ?」
じゃあ人間なら信用するのか。俺は肩をすくめ、二人の方へと数歩歩き、三宅さんと正面から向き合う。
「……どうでしょう、三宅さん。こうして対面してる俺は、果たして本当の人間なんでしょうかね?」
一瞬の間を置いてから、三宅さんの顔が凍りつく。
俺は彼女に一礼してから、踵を返した。
夕暮れ時、子供数人が自転車で勢い良く俺達の横を通り過ぎた。
薫が道路側にいたのだが、ちゃんと子供達には見えていたようだ。しっかりと左に避けていた。
「うん。頃合い、巣立つ時期さ」
ぽつり、ぽつりと、薫は腕を組みながら呟く。
「ウチのいらない家に、いつまでもいてもしょうがない。あそこは遊び尽くした。また別の、遊び相手を求める子のもとへと行こう」
「……今さらだけど」
「ん?」
「座敷わらしが家から出ていくと、その家は不幸に見舞われるんじゃなかったか?」
「心配いらん、迷信だ……的は射ているがな。ようするにな、子の笑顔、安泰が一族の幸福という話だ。ウチにできることは、子供と遊び、見守ることぐらいだ」
「じゃあ……やっぱ頃合いってことか」
「ま、去り際に火を着ける家不幸な輩もおるらしいがな」
「駄目じゃん!」
清のツッコミに俺達は笑い、駅に向かいまっすぐ歩く。
「ああ、久々に笑った。……さて、ウチも行くか」
信号で俺達が止まったのを機に、薫はそう言うとくるりと左に伸びる歩道へと向き。
「んでは、またいつか」
と、そのまま歩いていく。
「おう、じゃあな」
俺はそれだけ言えなかった。いや、多くを語る必要がないだけだろう。あいつには、何も言わなくていい。それくらいには強い。
きっと、すぐに新しい居場所を見つけられるだろう。いつぞやの垢舐めとは違う。薫はある意味では、何も失っていないのだから。
俺と違い、清はもどかしげにつま先立ちをしたり、戻したりしている。そして、信号が青に変わった瞬間、意を決したように清は口を開いた。
「薫ちゃん!」
「ん?」
薫は清に向き直る。清は薫を見つめながら、ゆっくりと言った。
「……もし良かったら、家に来ない?」
「………」
そうだ。俺にやるべきことがなくとも、清にはある。まだ、決着がついていない。まだ、遊び足りない。
良いかな。と、清はこちらを見る。俺はやれやれと頭を掻いた。ここでNOと言うほど甲斐性なしではない。
二人はじっと見つめ合っている。やがて前の信号は点滅し、赤に変わる。
少し時間が経ってしまったが、清の誘いの言葉に、一文字に閉じていた薫の唇が開き。
「やだ」
と、直球でそれを突っぱねた。
夕日が目に染みるぜ。と二人での帰宅の時、清は何度も呟いていた。
九月も今週で終わりだ。しかし、なぜか俺の無職生活は終わらない。生活には困っていないし、このままでも良いかと思えてきたのは堕落した証拠か。
薫を家から追い出してから十日経つが、如月屋の仕事もあれから来ない。一人寂しくゲームに勤しみながら、ふと窓を見ると、ぽつぽつと雨粒が窓を叩いていた。
「って、ヤバい!」
慌ててベランダに飛び出し、乱雑に洗濯物を家の中に放り込んでいく。
「やべー雨じゃん」
「俺、傘持ってねえ!」
学校帰りだろうか、下ではカラフルなランドセルを背負った子供達がワイワイと走っている。
そうだ。薫はもう新しい家を見つけただろうか。雨が降っても、大丈夫だろうか。
そんなことを考えながら、カーテンのレースに洗濯物を引っ掛け直す。そして、そうしているうちにようやく俺は気づいた。薫だ。薫がいつのまにか居間にいて、ゲームをやっている。
「……何でいる?」
「外でブランコ一周に挑戦していたんだが、雨が降ってきたから」
「待ってろ、今一一〇番通報してやっから」
「それよりこいつだ。こいつ魔法じゃないと倒せん気がするぞ、まるで近づけん」
まったく。と頭を抱えながら俺は薫の隣で胡坐をかく。
「お前には聞きたいことが色々あるんだが」
「細かいこと気にしとると、禿るぞ」
「百年近くこの髪型だよ! ってかどうやって入った?」
「あ、こいつアレだな。難しいようでワンパターン」
聞く耳を持っていない。しかも、プレイに迷いがない。初めてのゲームでもここまでやれるのか。コントローラーの指裁きを見ていると、気持ち悪くなるレベルだ。
質問する気も失せ、しばらく薫のプレイを眺めていると、薫の方から口を開いた。
「しばらくは家を転々としたいと思っている。たまに遊びに来るからな」
「いや……別に良いけどさ」
「だけど、別にウチはあの家族に切り捨てられた訳じゃあないぞ? ウチが切り捨てたのだ」
薫は画面から目を離さずそう語る。その顔は、どこか達観した、吹っ切れたような爽快感があった。
「例え神様や仏様が残っても良いと言おうと、ウチは出ていった。出ていきたいから出てったんだ。だから同情されるのはおかしい、というかするな。面倒だ」
「……そう、か」
ひょっとして、俺達にそれを言いにここへ来たのか。
他人の感情に、子供は敏感だと言う。俺は妖怪で、しかも刀だ。子供の時なんてあったかも思い出せないが、それでも遊び心がない訳ではない。俺は黙ってゲームケースを取り出した。対戦でもやるか。サバサバしたこいつと、俺も何かで競ってみたくなった。
「何て言うかさ、サンキュな」
「……何のことやら」
薫はくすくすと笑いながら答える。顔は見なかったが、笑っているのが声でも分かる。
「おい、こいつ変身したぞ!」
「ちょ、そこまで俺いってねえのに!」
空では入道雲が秋風に流され、暑い夏は過ぎ去ろうとしていた。
もうすぐ、秋である。
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