第一部 エピローグ
エピローグ
これは一年前、雨が降りしきる初夏の話だ。
町の中、一晩のうちに四人一家がまとめて妖怪に食われた。
如月鬼乾坊という、絶対的な力を持つ妖怪のいるこの町で起こったそれは、如月さんが築き上げた社会システムの根本を否定する行為であった。
人間は如月さんに、事をなした妖怪の死を要求し、それで済むならと、如月さんもそれを了承した。
俺達が捜索をしているなか、人食い事件は再度起きた。
二件目の被害者は、男子高校生。部活の帰りだったそうだ。
目撃者はいない。俺もその少年の死体を見た。ただ無残に食い千切られた足だけが雨の中、野晒しにされていた。
いよいよ人間との均衡が危ぶまれたが、俺は現場で決定的な手掛かりを手に入れた。それは被害者が抵抗して引き抜いた、妖怪の体毛。これによって、妖怪が特定できた。
犯人の名は野槌。目も鼻もない、毛むくじゃらの巨大なヒルのような妖怪。妖怪の中には、彼を妖怪の祖と信じるものさえいるほど、長きを生きた大妖怪だ。
そこからは早かった。野槌は事件後も、変わらずに自分の住処である山に棲み続けており、用意に見つけることができたのだ。
雨が降りしきる雑木林で、俺と野槌は対面した。出会い頭に彼は、低く掠れた声でこう言った。
「ほう……まさか、同じ妖怪が来るとはな」
「お前とは違う」
俺は傘と一緒にそう吐き捨て、Tシャツを僅かにまくって腹から刀を引き抜いた。
その瞬間。刀の先がそっぽを向いていた、その一瞬の隙を突かれた。野槌がその巨躯からは想像できないスピードで俺に這い寄る。
俺は刃を前に立てようとするも間に合わず、その巨体を腹に打ちつけられた。弾かれるような衝撃ではなく、体が丸ごと宙へ突き上げられるような、大きな力での蹂躙。野槌は猛牛のように頭を振り上げ、俺を宙へ放り上げた。
しかし、反撃はした。宙に投げ出される瞬間に合わせて、俺は腹から一本、刀を突き出した。
野槌の巨体から零れ落ち、滅茶苦茶な体勢のまま地面に叩きつけられる。頬に大きめの石が直撃し、口いっぱいに血の味が広がった。鋭い痛みは気つけとなり、遠のいた意識が地面の感触を感じた次には両手足に力を入れ、立ち上がる。
見れば、野槌の頭には刀が突き立っていたが、痛がる素振りは見られない。そして野槌はこちらへと振り返り、体を揺すって刀を振り落してしまった。
皮膚が分厚いのだ。俺は歯噛みした。あんな攻撃では皮膚の先、肉を斬ることはできない。俺は刀を持つ手で口元を拭う。もっと深く、強く大きく斬らねば。
俺は先程の突進による痛みに堪えながら、野槌に向かい走る。野槌もそれに合わせて突進を仕掛けてきた。
足がないからこそ、悟られにくい攻撃。だが、もう見切っている。俺は激突の直前に身を翻して横へ飛び、野槌の体に刀を添えた。
駆け抜けの胴切り。刀を握る両手に、強い衝撃と熱い感触が走った。野槌の正面に付いた口から腹へ、刃は野槌の体を水平に裂いていく。
このまま魚の開きにしてやると思ったが、その分厚い肉に刃は止められてしまった。さらに力負けし、俺は後方へと引っ張られるように体が跳ね上がり、再度地面に体を打ちつける。
俺はぐちゃぐちゃな地面を掴み、荒い息と共に顔を上げ、野槌の生死を確認した。
野槌はまだ生きていた。低く、そして強い、地鳴りのような雄叫びをあげている。両断できると思われた先程の斬り込みも、全長の三分の一にも満たない程度。やはり、あの毛むくじゃらの皮膚が固すぎる。刃が通らないのだ。
だが……俺は顔に付いた泥を払い、目を細めた。
見えた。天へと吠える野槌の腹部、普段地面と接するそこは、蛇のように柔らかそうだった。俺は痙攣を起こしている膝に鞭を打ち、立ち上がる。
俺は首に手を当て、刀を引き抜きながら倒れ込むように突っ走る。地面を揺らすような咆哮をあげる野槌の懐へ一気に飛び込み、腹部へ刀を突き入れた。
目論見通り、ここは弱かった。刀身は、一気に半分ほど体内に入った。俺は刃を返し、間髪入れずに横に薙いだ。
殺人的な西日に肌を焦がしながら、家に帰る。
モニカとの戦いの怪我が原因でバイトをクビにされ、さらに主な収入源である如月さんとの仕事が入らない。俺は今や、完全なプータローとなってしまった。
その一方バイトで着々と実績と信頼を重ねていく俺の同居人、清。最近俺に対して余所余所しい感じなのも、気のせいではないだろう。せめて家の中のことはと、俺は買い物を済ませてきた訳なのだが。
「ただいまー……っと、あれ」
人の気配がない。玄関からリビングに入り辺りをきょろきょろと見回していると、テーブルに書き置きがあることに気づく。
それは清の字で、こう書いてあった。
ちょっと自分探しの旅に出ます。
ガサッ、とレジ袋が手から滑り落ちた。
「……うぇ? い……え?」
ちょっと何が何だか分からない。俺は呆けようとする頭を律しながら紙を手に取り、調べる。そしてやはりこれが清の筆跡だと分かると、体は自然にうろうろと部屋内を歩き始めた。
ケータイで連絡を試みる。が、失敗。電源を切っているようだ。
いや、ただ偶然切れているだけなのかもしれない。俺は自分にそう言い聞かせながらも舌打ちし、ケータイを机の上に放った。
どういうことだ。買った物を片っ端から冷凍庫に入れながら俺は現状を把握しようとする。
……駄目だ、何も分からない。焦りでどうにかなりそうな時に、テーブル上のケータイが震えだす。電話だ。俺は飛びつくようにそれを手に取った。
「ハイッ! もしも……」
「ちょっと聞けやぁ……!」
期待に反して野太い声。如月さんだ。
「聞かねぇよ……で、どうした?」
「弁太が岡山から逃げ出しやがった。あのクソ野郎……!」
「は? いや待てよ、今どこにいる?」
モニカとの一件で、如月さんは自分を狙った革新怪団を完全に敵視した。舐められたら終わりだと、ここ何日も革新怪団を壊滅するべく海外遠征の準備をしていたのだ。そして昨日、フランスに向かったはずなのだが。
「空港だよ、これから日本にとんぼ返りだ」
「じゃあ、今から岡山行きか?」
「そうだよ、クソッタレ。あいつもクソだが、あのクソ狸に任せた俺もクソだった。なぁにが、すまんすまん、だよ。自分で探せっての」
「……で、結局誰がクソなんだ?」
「弁太だよ……!」
如月さんは語気を強めて言う。俺は溜息をつき、テーブルの上に直接腰を下ろす。
「あの垢舐め、改心したんじゃなかったのかよ。あれは嘘だった訳か」
「……いや、あの時は本気だったんだろうぜ。あん時はな」
「あん時は?」
「弱いのさ。覚悟も、忍耐も弱い。それでまた、自分が可愛くて仕方がない。だから妥協もできない」
「だから逃げ出したって?」
「それが前にやったことと何も変わらないって気づけない、だから繰り返す。ようするに、アホなのさ」
酷い言われようだ、俺は苦笑した。きっと白か黒か、生きるか死ぬかと、物事を究極的に考える如月さんにとって、ああいった手合はそれこそ、虫酸が走るほどに嫌いなのだろう。
それも仕方ないかと肩をすくめ、清の手紙を何となく手に取ってみる。それにしても、如月さんは気づいているだろうか。そのアホが一番、如月さんを引っ掻き回していることに。俺にとっては、関わりがないうちは向こうの人生、好きにやってくれ、といったところだ。
「ま、逃げた先に、今より楽な道がある訳ねぇって話だ。そんな訳で、予定より長引きそうだわ」
「ん、分かった……お?」
手遊びで見ていた手紙だが、裏に何か書いてあることに俺は気づいた。
探してください。裏にはハート付きでそう書いてある。読み違えかと二度読みしたが、間違いない。
しかし、筆跡は別の者のだ。
「………」
「あれ? ムラマサ? おーい、もしもーし?」
「ごめん、ちょっと用事ができたわ」
「ん? お、おう。じゃあ留守は頼むな」
俺は電話を切ると、すぐさま玄関を出て、隣の長さんの家のインターホンを連打する。
喘ぐように呼吸しながら、自分さえも焼いてしまうような戦いの熱を体から逃していく。この強い雨でも、被った返り血全てを落とせそうになさそうだ。
「まだ……終わりじゃないぞ。我には仲間がいる」
腹を裂かれ、瀕死の野槌はごろりと転がり、腹部を見せる。パックリと開いた腹の、その中身を。
「ないだろう? 一人分しか。考えてもみろ、二日に四人は、少々食い過ぎだ」
「……その仲間はどこにいる?」
「もう声を出すのも億劫だ。一度しか言わぬ」
野槌はそう言って、自分の仲間の居場所を洗いざらい吐いた。
「確かに、ぬしと我は違うようだ。そして奴らも我と同じ、人の世に馴染めぬはみ出し者だ……殺してやってくれ、一思いに」
「………」
「皆口には出さなかったが、分かっていたのだ。人を食いたい、そう思う以上に、もう楽になりたいと。妖怪として死にたいと」
「……勝手なこと、言いやがって」
俺は歯ぎしりしながら、そう吐き捨てた。
「死にたかったのなら、勝手に死ね。なんで人間の子供を食う必要があった? なんでお前達の勝手な都合で……!」
「だから、そこが違うと言っている」
野槌は苦しそうな呼吸を繰り返しながら、皮肉げに言った。
「我は人間に対し、共感めいたものを感じたことなど一度たりともない。人間がこの山に入り、獲った獣の肉を食うように、我もこの山に入った人間を獲って食ってきた。そうやって生きてきた……それが悪いと言われても、理解できん。なぜ如月やぬしらが人間に媚び、共に生きようと考えているのかも、理解できん。……この世は、分からぬことだらけだ……」
野槌の体が、不意にぶるりと震える。その拍子に、腹から見えていた未消化のそれがずるりと体外に零れた。
「だが、それは人間とて同じだ。この人間は我を見て悲鳴をあげたぞ? それにぬしが来なければ、人間共が我を殺しに来たに違いない。ぬしらは良く堪えれるな。奴らに合わせて目まぐるしく生きるのは、さぞかし面倒だろうよ」
そう言い、野槌がブルブルと震えだす。俺達の無様さを嘲ったのか、それとも死に際の痙攣か。どちらにせよ、もう長くはない。俺は静かに野槌に歩み寄った。
「他に言い残すことはないな?」
「なに、すぐだ。すぐにぬしらも堪えきれなくなる。そして野に……いや、人間の住む町を妖怪として這いまわるだろうよ。……それだけだ」
その言葉を機に、俺は無言で刀を振りかぶる。
「………」
しかし、振り下ろせない。いや、振り下ろしたくないのだ。別に憐れんでいる訳ではない、むしろ逆だ。こいつの望むままの形で終わらせるのが、癪だったのだ。
「……介錯する気にさえならない」
俺はそう言って刀を納め、遠くに転がっていた傘を拾いに行く。
傘を拾って、俺は野槌を見下ろした。息も絶え絶えな、妖怪……そう、妖怪だ、こいつこそが。
「その傷だ、助かる見込みもない……存分に野たれ死ね」
それだけ言うと、俺は踵を返して山を下りて行った。
毒島に聞いたところ、長さんは飲みに行ったみたいだ。花車、そしてやはり、清を連れて。まだ夕暮れ時だというのに。いや、あの置手紙のサプライズをする為に、無理をして早めに出て行ったのだろう。
問題はどこへ行ったかだが、これは問題ない。この面子なら、駅前のカラオケバーに決まっている。
誰の企みかは知らないが。あの手紙から察するに、俺に来いと言っているようだ。それもこの蒸し暑い中、歩きで。
駅へ向かい、黙々と歩く。足が重い。長さんのニヤニヤ笑いが目に浮かび、引き返せと俺の経験が警告する。
公園を通り過ぎようとした時、何をするでもなくベンチに腰を掛け休んでいる袈裟掛けの僧がいた。こんな住宅地で行脚をする者などいない、きっと和尚だろう。俺は公園に入り、彼に近づいた。
「……少し休んだら、君の所へ行く予定でした」
編み笠を指でグイと押し上げ、近づく俺に和尚は微笑んだ。相変わらず、この暑さでも顔色一つ変わってない。日本各地を回っているから、この程度の暑さもへっちゃらなのだろう。
「こんにちは、ムラマサ」
「どうも和尚。何か用事ですか?」
「ええ、ちょっとここに寄る機会がありましてね。この機に、例の亡霊のことを話しておこうかと……」
例の亡霊。その単語に、俺の顔に緊張が走る。記憶を失い、俺に感じるものがあったらしい亡霊。俺が拒絶した、誰一人それを知らない、何者か。
「……ああ、あのことですか」
「……気にするな、と言ったでしょう?」
「気にはしますよ。いや、今の今まで忘れていましたけど……」
それで良いのです。和尚は頷き。
「そんな風に振る舞う事ができるのなら、大丈夫でしょう」
「何か分かったんですか?」
「ええ。何とか彼女の遺体を見つけましてね、成仏させましたよ」
そうか、消えたのか。俺は和尚の隣に座った。
「和尚、彼女……彼女は思い出しましたか? 自分のことを」
「いえ。と言うより、我々が見たものは彼女の望む形ではなかったようです。一人部屋で、孤独に死んだ者の霊魂が、外を出歩くうちに本来の目的を忘れた……そんな、私にとってはよく見る、哀れな存在です」
「………」
「やがて彼女は全てを忘れ、人恋しくて辺りを彷徨っていたそれは……怪物となった」
苦しげに口にした和尚の、怪物という言葉。俺はその言葉に、下唇を噛む。
花車と出会うよりずっと前、俺も訳も分からず徳川を憎み、鳥羽伏見を戦い、幕府が滅びた後も北へ北へと人を斬り続けていった。傍から見れば、いや、俺だって認める。あれこそ正真正銘、最悪の怪物だ。
沈黙した空気の中、蝉の声だけが鼓膜に染み入る。
「……孤独は」
そんな空気を崩す事なく、和尚は口を開いた。
「孤独は人を狂わせます。一人では駄目なのです、死後も尚……」
「……何をやっているんだ。馬鹿な真似をするな。そんな一言で、凶行も止められる。気づけぬままじゃあ、一人でいつまでも転がり続けてしまう……」
俺はそう言って、ベンチから立ち上がった。
「昔、俺もそんな一言で我に返ったことがあります」
「そうですか……」
和尚は呟き、後に続いて立ち上がる。
「なら、何も言う必要はありませんね」
「ええ、俺はボッチじゃないんで」
そうですか。和尚は笑い、釣られて俺もにやけて、ボリボリと頭を掻く。
「それはそうと、何か用事があるんでは?」
「あ、そうだった。って、和尚こそ、今晩はどうするんで?」
「川下の所にお邪魔しますよ。預けたい物もありますし」
川下とは如月さんと同様、人間との関係を維持する為に尽力してくれている河童の一族だ。大きな屋敷を持っていて、そこの倉庫は俺達が扱いに困った呪物や曰く品のせいで、魔窟と化している。
「また呪物ですか?」
「ええ、そんなところです。花車にいらないと押しつけられましてね。手に入れたは良いが、趣味じゃなかった、だそうです」
で、これもまた川下の倉庫に納められるのか。空恐ろしい話だ。
女が一人、マンションの入り口で雨宿りをしていた。
彼女は雨が止むのを待っているようで、ぼんやりと荒れた空を眺めていた。それはつまり、彼女はここの住人ではないということだ。その汚れた衣服を見れば、彼女の素性も何となく分かる。
このくらいの歳の女で浮浪者というのも、この時勢珍しいな。そんな事を思ったのを覚えている。
ま、俺には関係ない話だ。そう決めつけ、俺は彼女の脇を通り抜け、階段を上がろうとしたのだが。
「……傘、持ってねぇの?」
「え?」
女は振り返り、階段に片足を掛けた俺を見た。
やってしまった。こんなことをしている場合ではないのに。俺はほんの一瞬前の自分の行動に溜息をついた。一休みしたら、野槌から聞き出せた所へ押し入らねばならない。それなのに何をやっているんだ、俺は。
「傘だよ。持ってないならやるよ」
「あ、いいよ。どうせすぐ止むし」
言葉は標準語だが、イントネーションが若干異なる。どこの出身だろう。家出して行く所もなく、都内からここにあぶれたといった感じか。俺は彼女に近づき、手にしていた傘の柄を女に突き出す。
「どうせこの先も降ったり止んだりだろうし、貰っとけ」
「……ん、じゃあ」
彼女は遠慮がちにそれを受け取り、そのまま固まった。じっと俺の腹の辺りを凝視している。気づかれたか、長さん達に車で回収されてた時にTシャツも変えたし、傷も処置した。しかし唇の端は切れて腫れているし、腹の傷はちょっと動けば血が滲み出すほどに深い。
まさか帰りに襲われるとは思わなかった。それも俺と同じ、刀の妖怪に。あの時長さんらが助けてくれなければ、死んでいたかもしれない。
「ちょっと……ね」
俺は笑って誤魔化し、唇の端を親指で押すように触れる。
しかし、ここに長居しては彼女にも危険が及びかねない。まだあの妖怪が俺を探し回っているはずだ。俺はそっぽを向いて、彼女に言った。
「どういう事情かは知らないけど、ここからは早く立ち去った方が良い。……人の命をどうとも思わない連中も、この辺にはいるし」
「えっと……はい」
拍子の抜けた声で彼女はそう返し、一礼した。
「傘、ありがとうございます」
「いいって。早く行けよ、危ないから」
「へ? ああ、それなら大丈夫ですよー」
彼女は傘を開き、悪戯っ子のように微笑みながら去り際に言った。
「私、人間じゃあないですしー?」
「ちょっと待て」
俺は、外へ軽快に飛び出そうとする彼女の手首を掴んだ。
その後、彼女が野槌の仲間でない事を確かめる為に、俺の限られた休養時間を費やした。
これが、俺と清人との出会いである。
和尚と別れ、電車に乗って目的の駅へと向かう。
しかし面倒な事に、目的地へは一度地下鉄に乗り換える必要がある。それも、地下鉄へは駅を出て数分歩かねばならない。
一緒くたにしてくれれば助かるのに。そんなことを思いながら、すっかり日も暮れた道を歩いていると、また知った顔に出会った。帽子から溢れた金髪、夕日に反射して光る黄色のサングラス。モニカらしき少女が道路の向こうのコンビニの前で立ち食いをしている。
まだこの町にいたのか。そう言えば、如月さんに彼女の処遇について聞かされていなかったか。俺は道路を渡り、小走りでモニカの元へ行く。
モニカは俺に気づくと、手にしていた菓子パンを慌てて口に押し込み、対峙するように腰を落とした。戦う気か。二、三メートルほど前で立ち止まり、俺は両手を軽く上げた。
「ちょ、待て待て……! 別に何かしようって訳じゃあ……」
モニカは腰を落としてジリジリと距離を測りながら、口をモゴモゴさせている。押し込んだ菓子パンのせいで、喋れないらしい。
その為、彼女がパンを飲み込む間は休戦となった。仕切り直しである。
「な、何しに来たのよ?」
緊迫した面持ちで語る、金髪の少女。さっきまで背を向けてパンを飲み込んでいたのが、嘘のようだ。
「いや、別に用って訳じゃあ……」
「まさか、あのマサミって女に頼まれたの!?」
「え、何それ? 初耳なんだけど」
長さんのことを知っているのか。まさか鬼に勝てないからって、鬼殺しの長さんに勝とうと喧嘩でも吹っかけたのか。死にたいのだろうか。
「……良く分からんが、詳しく事情を話せ」
「はぁ? 何であんたに」
「いや、本気でお前の為だ。相手がマズ過ぎるぞ」
有無を言わせぬ真剣な表情に信用したのか、すぐにモニカは堰を切ったように喋りだした。
「いや、私だって分かんないわよ。でもフローラが私達を探してるのがいるとか言い出して、でも資金はないから帰れないし、行く当てもないし。組織はあの鬼に宣戦布告されてから私のこと忘れてるし……金もない家もない、もう訳分かんないわよ」
「ざまーみろ」
思った以上に凄惨な目に合っていた。しかし、同情はない。因果応報である。
モニカは今にも飛び掛かりそうな剣幕になったが、堪えて冷静を装い、髪をかきあげる。
「でも俺は知らないな。長さんも何の目的もなく妖怪を狩ったりする人じゃないんだけど……」
そう。とモニカは呟き、何か思案するようにチラチラとこちらを見ている。嫌な予感がする。
「……あのさ、本当にマサミと関係がないなら、ちょっと匿ってくれない?」
「嫌です」
「アルフ達はスペース取らないから、私とフローラの二人分で良いから……」
「嫌です」
俺はそう言って足早に立ち去ろうとしたが、突然羽交い絞めにされた。モニカではない。背中に押しつけられたものの質量は、後ろのガキのものを遥かに凌駕している。
「あ、ちくしょ、全裸か!」
「だからフローラ! せめて名前で呼んであげなさいよ!」
可哀相でしょ。とモニカが悲痛な叫びをあげる。しかし、二対一。いや、アルフ達が近くにいれば勝ち目はまずない。ここは大人しく様子を見るしかないか。
「わ、分かった。とりあえずここから離れようぜ。騒ぎになる」
「……分かった。フローラ」
モニカの言われるままに、透明人間は俺の腕を組む。そして反対の方を、モニカが手を繋いで動きを封じる。
「ありがたく思いなさい。ハーレムよ」
「ロズウェル事件の宇宙人になった気分です」
しかし向こうも必死だ。離そうとしない。
「しっかし、まさか長さんが動いているとは……何もしてないんだよな?」
「してないし、誰かも知らない」
「……一応、如月さんを負かした唯一の人ってのが、その長将美なんだけど」
「え、ホントに?」
モニカは上ずった声をあげ、俺の手を放した。よし、後は全裸だ。
「これはアレね。きっと同じ鬼と戦った私達を、スカウトする気なのよ」
「……懲りてないんだな」
「次は上手くやるわよ」
シレッと言うモニカ。あれだけ力量の差を突きつけられて、平然とそう言えるのは無知だからだろうか。何にせよ、こんな彼女だからこそ彼女に付いてくる者がいるのだろう。目に見える拳の力で皆を引っ張る如月さんとは違う、これも一種のカリスマか。
しかし、もうすでに地下鉄の入り口を過ぎてしまった。どうにかしなければ。
「あ、そうだ。前も気になってはいたんだけど、お前らって何で革新怪団に入ってたんだ?」
「え?」
「ほら、邪視って、言ってみりゃ割と古い妖怪だろ? 革新怪団の理念からすればむしろ標的にされる方なんじゃないかって……」
「何だ、そんな事?」
モニカはフンと胸を張り、むしろ堂々とこう言ってのけた。
「私は邪視じゃなくて、
「や、説明になってねえよ」
だーかーらー。と、モニカは理解力のない子供に説明するように語りだした。
「私は別に呪いだけに留まらず、エスパーみたいな? そんな何でもできる眼を持ってんの。だから新しいの」
「……ふぅーん」
どうでも良いことだが、眼のところを一々アイと言うところにイラッときた。だがまだ我慢だ。まだ全裸が俺を離していない。
「だから人間か、人間に化けた怪物かの区別くらいできるし、いつかはビームだって撃てるかも」
「ビームは無理だろ。つまり、普通の邪視とは違うって訳か?」
「お父さんは普通に邪眼だったけどね。で、お母さんが日本人……私はあんな風に、邪眼だからって嫌われるなんてゴメンだったのよ。だからあいつらを利用してやった。私達を誰よりも馬鹿にしてた、あいつらをね」
「……ふーん」
イジメられっ子がイジメっ子になったようなものか。
「組織の連中はそんなのばっかよ。やりたいことやる為に、組織の名前を利用してるだけ。ま、ここにいるのは皆、私に付いてきてくれる私の仲間だけどね」
私の、というところを強調して、モニカは鼻を伸ばす。
しかし、それなりに規模のある組織と聞いていたが、そんなものか。いや、多くの者にとっては、組織の理念ななんて自身の目的を達成する為の盾に過ぎないのかもしれない。事実、如月さんのような思想家と行動を共にする俺だって、頭の中は日々の生活のことだけだ。
そんな話をしているうちに、腕を組んでいた感触がスッと離れる。よし、油断したな。それに、僅かだが踏切の警報器の音が聞こえる。では、そろそろお暇させてもらうとしよう。
「それより今後なんだけどね。あんたの家だと彼女さんに悪いから、できれば別の部屋なんかを」
「あ、長さんだ」
俺は不意に前方を指さし、声を上げる。ビクリとモニカは前方の主婦談義を凝視する、全裸もきっと気を取られているだろう。俺はそっと後ろに下がり、回れ右をして駆け出した。
「……え、どいつが……って、ちょ、あんたぁ!?」
馬鹿め、今頃気づいたようだ。俺は素早く地下鉄への階段を下り、改札をカードで抜ける。切符を毎回買う連中に、プリペイドの速度を抜くことはできまい。
ピッタリのタイミングで来た電車に駆け込み、振り返る。モニカはまだ来ない。そのまま電車の扉が閉まる。やったぜ。俺はそっとガッツポーズを取る。
俺の名を叫ぶ声が聞こえた。それも背後から。見ればモニカは、反対のホームにいた。隣に堂々とアルフ戦隊もいる。どうやら土壇場で間違えたらしい。
「覚えてろよぉ、コンチクショーッ!」
悔しげに叫ぶも横へとスライドしていくモニカに、俺はヒラヒラと手を振った。
高速道の橋の下にある、小さな倉庫。それが人食い達の食事場であった。
そして今、その倉庫に十数の亡骸が転がっている。
亡骸は二種類に分類できた。俺が殺した、叩き斬られたものと、如月さんが殺した、叩き潰されたもの。蓋を開けてみれば、何とも呆気ない。一方的な殺しで全てが片付いた。
「これで分かったろ」
入り口のすぐ脇にへたり込んだ清に、言葉を投げかける。
「人と妖怪が入り混じった所じゃ、こういう事が起こりえるんだ」
愛媛の山から出た、この娘には信じられない光景だっただろう。妖怪が人の指図で、同じ妖怪を殺すなど。
「こいつらだってきっと、腹が減ってしかたないから食ったんだ。人間に問題視さえされなければ、見逃すこともできた」
つい先ほどまで俺達の仲間になりたいと言っていた娘は、血の海を前に震えていた。
これが俺達、いや、如月さんに仲間が少ない原因だ。平和の為に仲間を殺す。こんなこと、誰にでもできる訳じゃあない。
「理不尽だろ? だけどこれが人間社会で生きるってことだ」
清は何も言わずに立ち上がった。そうだ、このまま帰ればいい。その方がこの女の為になる。
しかし、清は血の海を歩き、俺の前にずいっと詰め寄ってきた。そしてこれが精一杯、と言った顔で俺に言った。
「それでも、私はここにいたい」
今でも忘れない。真っ直ぐな俺を見据えた瞳、その言葉。
「決まりだな」
言葉を詰まらせた俺の肩に手をやり、奥で連絡を取っていたはずの如月さんは言った。聞いていたのか。
「自分の意思でそう言えるんなら、断る理由はない。歓迎するぜ」
ニヤリと笑い。清に手を差し出した。
「ようこそ、この町へ」
そして俺はというと、舌打ちしてそっぽを向いたのだった。
こうして愛媛の若き化け狸、遠山清はこの町に腰を落ち着けた。
そして色々あって、俺と同棲することになった。向こうから提案してきた気もするが、今となってはどうでも良いことだ。
あれから、一年が過ぎた。
目的のカラオケバーに入る前から、清を確認できた。
「アチャァァァァッ!」
ドア越しにでも聞こえる、清のシャウト。どこで覚えたのか、懐かしの名曲を、呂律の回らぬ声で熱唱している。ここで間違いないようだ。
そっとドアを開け、中に入る。初老のマスターが一人で経営してる小さな店に、お客が三人。ステージで熱唱している清と、泥酔してテーブルに突っ伏した長さん、それを介抱しつつ静かに酒を飲む花車。
マスターに会釈。マスターも事情を察しているのか、苦笑いをしてお冷を出してくれた。
「遅い」
俺に気づいた花車は、それだけ言って酒を舐める。この凄惨な光景を見れば、この一言も分からなくはない。しかし、被害者はどう見ても俺だ。
「誰が計画したんだよ、これ」
「そこで酔いつぶれてる奴」
花車はそう言って、長さんを指さす。
「あー……良く分からんけど、清を連れて帰れば良いんだよな」
「ええ。もう目的も果たしただろうし」
何を言ってるのかさっぱりだ。俺は花車の隣に座り、清が歌い終わるのを待つ。
「……ねぇ、あんた気づいてる?」
「ん?」
酔っているのか、花車はボンヤリした顔つきでグラスの底を眺めながら言った。
「清と付き合いだしてから、随分と変わったって」
「そうか?」
「今もそうだけど、昔はもっと無気力で、変に無関心だったじゃない。維新回天であんな目にあっちゃ、無理もないけど」
「ああ……そうかも」
あの時は、憎んだ徳川は死なず利用されて終わった。しかし、今は違う。俺は俺の守りたいものの為に戦う。あの時よりは小さな世界だが、こっちの方が性に合っている。俺はお冷を一気に飲み干した。
そういえば、花車と会ったのもその頃だったか。最初から俺を知っているかのように話しかけてきたと覚えているが……。
「……そういやお前、あの時何で俺を知ってたんだ? 初め、俺は向こうの間者だと思ってたんだけど……」
「………」
こちらを見ようともしない花車の口元に、笑みが浮かぶ。黙りか、俺は構わず言葉を掛けた。
「何者なんだ、お前は? 幕府じゃなけりゃ……」
「何者でもござらぬ」
俺の言葉を封じ、花車は言った。大声をあげてる訳でもないのに迫力のある、その凛とした声に思わず息を飲む。
「当時名に聞く兵だった貴方からすれば、虫の如き下郎に過ぎません。ただこの虫は何者にも屈せず、何者の為にも働かない。ただただ、己の為にのみ動く」
「………」
「……なんてね」
そう言って花車は、茶化すように笑った。
「ほら、歌い終わったわよ。こっちのは良いから、さっさと持ち帰んなさい」
花車は余裕たっぷりに言う。まったく、どこで差がついたのか。片や鬼の使いっ走りで、片や日本全土の妖怪にコネを持つ情報通だ。問い詰めようとしても、この様である。俺は花車に背を押され、ステージに向かった。
清はポーズを取ったまま固まっていた。完全に酔いが回っているようだ。
「ほら、迎えに来てやったぞ。帰るぞ清……清?」
頭をガシガシと揺すられて、清はようやくこちらを見た。
「なぁに、ケン君?」
ふにゃふにゃした、間の抜けた声。これは明日が大変だ。
「帰るぞ」
「ん、帰る」
意外にも清は素直にそれに従い、マイクを置いてフラフラと鞄を取りに行く。
「んじゃね、ハナ、長さん。あ、あとマスター」
「あいよ」
「……んぅ」
「毎度どうも、気をつけて帰ってね」
清は挨拶を済ますと、さっさと外に出てしまった。俺は慌てて支払いを済ませ、後を追う。
ドアを開けると、足元に清がしゃがみこんでいた。
たしか、弁太の一件の時もこんな風に清をおぶって帰ったか。駅から家まで、それなりに距離があるのに。
「……ま、ま……」
夜風で少しは酔いが覚めたか、清が何か呟いている。
「お、目ぇ覚めたか?」
「マーライオン……ぐっ」
「それだけはやめろっ!」
家まで持つだろうか。いや、電車の中でなくてまだ良かったと考えるべきか。
それに、結局今回のサプライズ、一件は何だったのだろうか。長さんはあんなだったし、花車にははぐらかされた。なら、こいつに聞くしかあるまい。
「なぁ、あの手紙のことなんだけどさ」
「んー? 旅は良いね。自分探しとか、楽しくって割とどうでも良くなる」
「……そうですか」
「それにお迎えが来てくれたよグヘヘヘ……」
「ちょ、首にヨダレ……あ、え? もう出しちゃったのコレ?」
大変だ。でも怖くて確認できない。
「それよりケン君はさ、何してたの?」
「何って……」
お前を探してたんだよ。
そんなこっ恥ずかしいこと、酔っ払いにも言いたくはない。
「何だよぅ、答えろよぉ」
答えない俺に対し、清はへらへら笑いながら体を揺する。しかしダメージは向こうの方が上だ。すぐに呻いて動かなくなる。
今日一日、何をしたか。この女を追っかけているうちに色々な奴に出会ったり、話したりした気がする。
鬼に垢舐め、狗賓に和尚、それと亡霊。邪眼の少女とそれを慕う透明人間や怪人。火車、そして化け狸。
あと俺、刀の九十九神。
「今日は何か……そう、ようかい日和って感じだったかな?」
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